夢と魔法とみどりのおっさん 第五話
■でもあなたってモールス信号習ってそうですよ
妻がいなくなってから、僕はずっと一人でいる。他の女に惹かれたこともないし、他の女を抱いたこともない。別に妻に対して申し訳なさを感じているわけではなく、ただなんとなくそういう気が起こらないだけである。妻がいなくなってからしばらくのあいだは、緑色の部屋で過ごしていると妻がまだ生きているような気がしたものだった。台所のあたりとかすぐそばにいて、何か用事を言いつけてくるような空気がふとした場所に漂っていた。
新聞縛らなきゃ、そろそろ洗車に行かなきゃね。
彼女はただベランダからふっと消えてしまっただけなのだ、僕は最初そう思っていた。だって彼女の声はいまでも耳たぶのすぐ後ろから小さく聞こえてくる。だが時間が経つにつれて、彼女が存在していたことを匂わす空気の揺れは宿命的に薄れていった。同時に部屋全体が緑色であることの意味も宿命的に薄れていった。なぜその部屋が緑色で統一されているのかをふと考えてしまわなければいけないこともあった。部屋の中に長くいると、いつのまにか自分が緑色の人間になってしまったんじゃないかと思えてくることさえあった。
ただそれでも妻の記憶は僕の中から消えてしまうことはなかった。僕は妻が残した記憶を忘れたくなかった。そして妻の記憶も僕の中にいつまでもとどまることを望んでいるようだった。だがそれでもやはり記憶は確実に失われていく。
緑色の壁にむかって、ときどき独り言を口にする。
「なぜあんなに眠かったんだろう」
妻が指をさしながら見ているときに、僕も一緒にベランダに出て見ていれば落下を防げたのは間違いない。どれだけ眠くてもどれだけ疲れていても、僕は体を起こして、妻が身を引き寄せられているものを一緒に見るべきだったのだ。
日曜の午後の路上。みどりのおっさん。四つんばい。
それにしても、と僕は思う。
「それにしてもいったい何だ、それは」
その夜リビングで缶ビールを何本か空にしたが、いっこうに眠ることができなかった。二週間ぐらい前からうまく眠ることができない。睡眠欲そのものは体の中でうごめいているのだが、それを体外へ排出するような別の機能が自分の知らないところで働いているみたいだった。ベッドに入ってからもすぐに寝つけずに、寝つけたとしても早朝に目覚めてしまう。眠気は依然として残っている。まるでずっと仮眠状態のまま日々をなんとなく過ごしているようだった。
携帯電話のディスプレイは三時過ぎを示していた。もしかしたら烏帽子田さんからまた電話がかかってくるかもしれない気がしていたが、かかってこなかった。何かが起こりそうで結局何も起こらない夜というのは往々にしてある。そのまま何も起こらないまま朝になり、何も起こらないまま太陽がぐるりと空を通過して、再び何も起こらない夜が訪れる。
だがその夜に限っては何かが起こった。
かんかんとぶつかるような音がベランダから聞こえてきた。最初は風で物干し竿が揺れているだけだろうと思ったが、その音はいつまでも止まなかった。僕はカーテンを開け、窓を開けた。風など吹いておらず、物干し竿も揺れてはいなかった。そのかわり上の部屋のベランダからプラスチック製の箒がぶら下がっていた。そして盲人の杖のように僕の部屋のベランダの柵を不器用に叩いている。
「気づくの遅いです」
組子さんの溜め息が頭の上から聞こえてくる。
「そんなこと言われても。別にモールス信号とか習ってたわけじゃないから」僕はベランダの柵から頭を出し、組子さんを見上げながら言った。
「でもあなたってモールス信号習ってそうですよ」組子さんは箒を手にしたまま、バケツの中の魚を観察するように僕を見下ろしている。
「僕に対するイメージだね。ありがとう」とりあえず礼を言った。「いったいどうしたの」
「黒い男が部屋に」
「黒い男?」僕は組子さんを見上げて繰り返した。
「目を覚ましたら、部屋の隅の方でなんか黒い塊が見えたんです。ものすごくびっくりして、でもぬいぐるみが床に落ちただけかなと思って――ていっても親が勝手に買ったぬいぐるみよ、もちろん。それでよく見てみたら、黒いスーツ姿の男が背中を向けて、体を丸くしてたんです」
「何だそれ。とりあえず警察に通報した方がいい。いますぐ」
組子さんは何も言わない。空中でぶらぶらさせている箒がときどきベランダの柵にかつんとあたる。「でもね」と彼女は慎重な声で言う。「そういう感じでもないんです。強盗とか強姦とかっていう今にも襲ってきそうな危険な感じじゃないんです。もちろん叫ぼうとしたけど、なぜか声がうまく出なくて。逃げ出そうとも思ったけど、ドアをふさぐように坐りこんでるし。それでよく見てみると、その男、部屋の隅に向かって何か熱心に作業してるんです」
「いま組子さんがベランダに出てることは気づいてないの?」
「たぶん。でもわかりません。そもそもわたしのことなんかそれほど興味がないみたい」
「それじゃあ今から僕が上に行って、君の両親を起こしてあげるから、そのまま待ってて」
「ちょっと待って」
組子さんの顔が引っこんだ瞬間、箒が目の前をするりと落ちていった。僕は下を覗きこんだ。箒は植えこみに落ちたみたいで、ぱさっと乾いた音がした。
「どうしたの!」組子さんがいるあたりにむかって僕は叫んだ。返事はない。一瞬、妻が落下したときのことを思い出した。「今から行くから!」
「動いてるんです」組子さんの声が聞こえる。
「動いてる?」
「すごく変な動き。腰を落としたまま、規則的に部屋じゅうを動いてる。なんか田植えしてる人みたい」
「田植えってどういうこと?」僕は焦っていた。「やっぱり危ない奴なんじゃないか」
「違うわ。田植えじゃない」
「そりゃそうだろ」
「コロコロしてます!」
そのとき僕らの声は深夜にもかかわらずかなり大きくなっていた。でもまわりの住人たちはぐっすりと熟睡しているようで、誰一人として文句を言ってくる者はいなかった。まるで僕と組子さんの二人で見ている夢の中で起こっていることみたいだった。それにしてもコロコロとは?
「あの男、わたしの部屋のカーペットをコロコロしてるわ」
「コロコロって、あの粘着テープで掃除するやつかい?」
「それ以外のコロコロって何があるんですか! ほんと、何あれ。どうして見ず知らずの男が真夜中にわたしの部屋で熱心にコロコロしてるんですか。しかもすごい神経質みたい。ベッドの下の奥の方まで手を伸ばしてる」
「その男、黒いスーツを着てるんだね」
「ええ、シャツまで黒です。コロコロするには全然似つかわしくないですけど」
「たぶんそれは王国の人間だよ。僕のことを調べにきたんだ」
「王国って、あの王国」
「そう。烏帽子田さんが王国の人間につけ狙われてるんだよ。僕の取材を受けたばっかりにね。それで烏帽子田さんが鼠の中に入ってたことを知ってる僕のことも狙ってるみたいなんだよ。でもそうすると組子さんも狙われるってわけで」
「狙われるってどういうこと……」
「具体的に何をしてくるかはよくわからない。でもかなりやばい立場に追いつめられるらしい」
そのときふと編集部のオフィスの光景が思い浮かんだ。なぜあそこはあんなにもじめじめしているんだろう。あんな場所に毎日通っている自分がなんだか信じられなくなった。しかしそんなことを考えているようなときではなかった。上から組子さんの呻き声が聞こえてきたのだ。
「どうした!」
「……男がこっちを見ました。それで、ベランダの鍵を閉めて、わたしを外に閉め出しちゃいました。やっぱりわたしが目的じゃないみたい……」そこまで言って、彼女は咳きこんだ。「またコロコロを始めてます」
「なんでコロコロばっかり」
「わからないわ」組子さんの苦しそうな声が聞こえた。「全然わからないけど、なんだかすごく、気持ち悪くなってきました……」
「気持ち悪いって」
僕はベランダから身を乗り出した。妻のときもそうだった。僕の見ていないものを妻は見ていた。そしてそのままいなくなってしまった。組子さんが見ている男がいったいどんな姿をしているのか、僕にはやはり想像もできない。組子さんもこのままいなくなるのだろうか。
「やっぱりそっちに行くよ!」
返事がないかわりに、呻き声が聞こえてくる。まるで静かな夜のカーテンをびりびり破いていくみたいに彼女の呻き声は響いていた。おそらく言葉も出ないのだろう。小さな子供にとって嘔吐というものはとても苦しいものなのだ。
やがて組子さんの嗚咽は頂点に達した。
僕が見上げた先には見事な満月が輝いていた。そして目の前を組子さんの吐き出したとろろ蕎麦がどろどろと流れ落ちていった。
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