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いずれ嫌いになる(第5回)

 十五年前の五月十日もまた月曜日だった。その日の朝、ミドリカワユウジの父親の糖尿病による入院生活は腎不全によって終わりを迎えた。最終日に土日を加えた大型連休が終わり、会社員も学生も自らを必死で奮い立たせようとしていたにもかかわらず、窓の外では薄暗い雲がどしゃぶりの雨を惜しげもなく降らせていた。それはまさに死んでしまいたくなるような憂鬱な朝だった。
 どしゃぶりの雨の日には、父親が死んだ日のことをユウジはときどき思い出す。まだ夜が明けきらない薄暗い部屋の中、母親の太い腕がユウジを力まかせに揺り起こした。姉はもうすでに仕度を済ませていた。テーブルの前に座って、カップの中のティーバッグをスプーンを駆使して器用に絞り切っている。テレビでは朝のワイドショーが芸能ニュースを伝えていた。カーテンが閉まっていたせいか、いつもの軽薄なアナウンサーの振る舞いがさらに明るく際立っていた。ユウジはまだ眠りたかった。急かされるままに歯を磨き、顔を洗い、食パンを齧ったが、それらはすべて別の人間がしている行為に思えてならなかった。途中でその日は学校に行かなくていいことに気づいたが、それもまた誰かが見ている夢の中のような気がした。母親は狭い部屋の中をどたばたと駈け回っていた。押し入れから荷物を引っ張り出したり、なぜか洗いかごの中の皿やコップを食器棚にしまったりしていた。そしてようやく三人の仕度が済んだとき、誰もタクシーを呼んでいなかったことに気づいた。どしゃぶりの雨の中、ほとんどのタクシーはあちこちに出払ってしまっていた。ミドリカワ楽器店の三人はタクシーが到着するまでの四十分間、カーテンを閉めたままテレビのワイドショーを黙って眺めることになった。
 ユウジにギターを教えたのは父親だった。まだ小学校にも上がらない息子の肩にエレキギターを掛けて、大きな音でリズムの激しい音楽を聴かせた。父親が好きだったのはロカビリーだった。ポマードで髪を固め、オープンカラーのシャツを着て、軽快なステップを踏みながらギターを演奏する。誰もが彼に持っている印象はその姿だった。まだ独身だった若い頃、父親はバンドを組んで全国のライブハウスを回っていたことがあった。プロとして活動していたわけでなく、工事現場や港での貨物の積み下ろしの日雇いをして、金が貯まるとメンバーと古いライトバンを運転して見知らぬ町に旅立った。人工透析を終えたベッドの上で、父親はそのときの思い出話をユウジによく聞かせた。坂道でガス欠になってみんなで必死に車を押し上げたことや、大雨の野外イベントで機材がまったく駄目になったので素っ裸になってはしゃぎ回ったことや、食うものがなくて田舎のスーパーマーケットで手当たり次第に万引きしたことなんかを、痩せこけた顔で懐かしそうに語っていた。
「そんなええ加減な生活のせいで糖尿になったんや」
 母親は冷水を浴びせた。「そんな生活がいつまでも長く続くはずがないがな」
 母親の言うとおり、結局それぞれのメンバーが結婚し、家庭を持つようになって、バンドは宿命的に解散せざるをえなくなった。メンバーは家業の焼肉屋を継いだり、トラックの運転手になったり、倉庫で搬入や発送をしたりして日々を費やすことになった。かろうじて音楽に関係のある仕事に就いたのは、ドサ回りの伝手を使い、多額の借金をしながらもなんとか楽器店を立ち上げたユウジの父親ぐらいだった。
 ユウジの姉は物心がついたときから優秀な子供だった。決して裕福ではない家庭のせいで塾に行けないかわりに、図書館の閉館時間まで毎日一人で勉強していた。やがて学区内で最も優秀な公立高校に入ってトップの成績をとり、大阪大学の法学部にすんなり合格できたことは、ギターに埃が積もっているミドリカワ楽器店にとって唯一の誇りになった。父親は何度も娘の頭を撫でてやった。だが娘の方は父親という人間、あるいは父親のしてきたことに一切興味を持てずにいた。一階のスタジオで父親がユウジにギターを教え始めると、床を伝って聞こえてくる不規則で安っぽい雑音に関わりを持ちたくなくて、図書館へと自転車を走らせた。父親とどこかへ遊びに行ったりした記憶は彼女にはほとんどなかったし、父親が入院してからはほとんど言葉を交わさなかった。彼女は父親のせいで苦労している母親の姿を小さい頃からずっと見てきた。そしてそれは不当な関係だと思っていた。自分だけはそんな生活を免れようと毎晩懸命に机にかじりついた。
 早朝の病院で父親の亡骸を囲んでいるときも、葬儀場で線香の火を夜通し絶やさないでいるときも、父親の死をうまく受け止めきれないユウジはとりあえず自分の外側に注意を払うしかなかった。いったい何が起ころうとしているのか、次はどこの場所へ行けばいいのか、周囲の大人たちの言動を窺っていた。母親と姉は黒いスーツを着た係の人に指示されたことや決められたことを右から左へ淡々とこなしていた。二人とも特に悲しんでいるようにはユウジには見えなかった。多くの人に頭を下げたり、小さな声で混みいったことを話したり、あるいはふと時間が空けば壁の向こう側を見つめるように放心状態でいるだけだった。
 それから二日後の夜、ユウジは泣く場所にトイレを選んだ。母親も姉も寝静まっている中で、父親の不在が突然ユウジの胸に大きな空洞として現れたのだ。彼はその空洞をどう扱っていいかわからなかった。ただ母親と姉には見つかってはいけないような気がして、トイレの扉を静かに開けると両手を口に押し当てて、わき出てくる嗚咽を必死にとどめていた。
 小さい頃から他人との関わりをうまく持てない息子のことを、ドレッドヘアの母親はいつも気にかけていた。中学生のときは人よりギターを上手に弾けるということで数人の友達はいたみたいだが、別々の高校に進学してからは互いに連絡が途絶えてしまった。高校からはよく電話がかかってきた。
「欠席の連絡がないんですけど、風邪でも引きましたか?」
 ユウジは家を出ると学校には向かわずに途中の駅で降りて、空席だらけの映画館に入ったり、ゲームセンターで一つのゲームをクリアするまで百円玉を投入し続けたり、本屋で分厚い本を立ち読みで読破したり、目的もなく街を徘徊したりしていた。家では自分の部屋にこもってアンプにヘッドフォンを繋げて、ずっと一人でギターを弾いているだけだった。母親が何度も口うるさく注意すると真面目に学校に行くようになったが、しばらくするとまた学校から電話がかかってくるというパターンだった。
 店の定休日である水曜日になると、母親はいつもスーパーに行って一週間分の食料を買いこむようにしていた。二人の子供を見送った後、戸締まりをして自転車を走らせた。彼女はその頃、頭痛に襲われていた。仕事中は気が張っているせいか痛みはあまり感じないのだが、ふとした瞬間に額の少し上あたりがぎゅっと固くなるような痛みに襲われた。どうせそのうち治まるだろうと思っていたし、わざわざ病院に行くような暇もなかった。だが痛みのサイクルは少しずつ短い間隔で訪れるようになった。買い物の前に一度病院で診てもらおう、彼女はそう思いついて途中まできた道を引き返し、保険証を取りに家まで戻った。だがやはりこのとき戻らない方がよかったと彼女は後悔した。戻ったとしても、二階から聞こえてくる小さな物音なんかに気づくべきではなかった。物音に気づいたならば確認しなければならない。もしかしたら子供が戻ってきているのかもしれない。だが階段の下から声をかける考えはなぜか思い浮かばなかった。直感がそうさせたのかもしれない。いずれにせよそんな頭痛のひどい日に、襖のすき間から姉の下着を手にしながらオナニーをしている息子の後ろ姿など彼女は目にしたくなかった。
 高校を卒業して息子は予備校に通うことになった。そしてそこで一年間適当に受験勉強をすれば入れる大学に進学した。だが卒業しても何の仕事もしようとしない。店の手伝いはしているが、本気で継ぐ気があるのかどうかわからない。自分の体力が確実に落ちてきているのを母親は感じていた。血圧が高く、やはり血糖値が高いことを医者に注意されていた。自分がまともに働けなくなる前に息子の進む道がはっきりと決まってほしかった。だが娘が横浜へ嫁に行って、息子と二人だけの暮らしになると、彼女は息子に何と話しかけていいのかわからなくなった。すでに自分とは別の、襖の向こう側の世界で生きているように思われて仕方がなかった。

 ユウジの目の前には鏡が立て掛けられていた。細長い姿鏡で、子供の頃から身支度をするときにいつも覗いているものだ。彼は畳の上で横たわりながら、鏡の中の自分をぼんやり見ていた。伸ばした左腕の上に乗せられた頭が、鏡のフレームによって首を切り落とされたみたい映っている。自分でも空ろな表情だと思う。エアコンの冷風のせいで畳がやけに冷たかった。
 一階のスタジオからギターレッスンの音色が微かに響いている。ガットギターの拙い演奏だ。たぶんこの前自分が受け持った男の子だろうとユウジは思った。きっともうレッスンには来なくなるだろうと予想していたが、ワタルは毎週いつもと同じように通ってきていた。ユウジは鏡の中を見つめながら、ワタルとのやりとりを思い出そうとした。あの子の目は確かに変だった。一見人懐っこそうな大きい目をしているが、その奥にはどこか子供らしくない光が潜んでいるようにユウジには感じられた。静かで、落ち着きはらった、冷たい光が奥の方で瞬いているように思えた。目の前のものを見ながら、本当はどこか別のものを見ているような感じだ。あのとき自分に見せた一瞬の敵意もユウジは見逃さなかった。
 たぶんあの子はろくでもない人間になる。あらゆる他人を憎み、一人でいることに強く執着するようになる。確かに自分も同じようなものだ。でも自分の子供の頃の方がまだましだった。少なくとも自分には誰かと友達になろうとしていた時期があった。
 自分の部屋でユウジがすることはテレビを見るか、ギターを弾くか、オナニーをするかの三つだった。彼は鏡の中の自分の顔を見ながら、ベルトを外し、ズボンを脱いで、トランクスを下ろした。二十五歳を過ぎたあたりから自然に勃起することがずいぶん少なくなっていた。勃起したいときは自分の手で勃起させなければならなかった。
「あんた、昔のお父さんに似てきたわ」
 ある夜、風呂上がりに冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルトップを開けたとき、母親がふとそう呟いた。確かにそうかもしれない。痩せて、定職にも就かないで、毎日あてもなくギターばかり弾いている。それに顔も似てきている。でも決定的に違うことが一つあるとユウジはペニスに手をやりながら思った。父親はセックスができた。たとえそれが鯨みたいに太ってしまった母親の裸だとしてもや。女の乳を掴み、自分のちんぽを女のあそこに挿入することができたんや。
 ユウジはほとんど何も考えずに勃起したペニスをいじっていた。最近ではビデオも雑誌も使うことはない。ただ手の刺激だけで勃起させて、その後は学生のときに一緒だったクラスの女の子を思い浮かべるだけだった。特定の誰かを選ぶわけではない。ただ射精するために誰かのイメージが必要だった。一言も言葉を交わしたことのない女の子たち。だがユウジの頭の中には彼女たちの目鼻立ちや、髪形や、ふくらはぎの形や、尻の大きさがはっきりと残っていた。
 射精する直前、すばやく抜き取ったティッシュペーパーで亀頭を包みこむ。その中に精液を出してしまうと、さらに何枚ものティッシュペーパーで包んでテニスボールほどの大きさにまで丸める。そして寝転んだまま、ごみ箱に投げ入れる。それで終わりだった。二分足らずの性行為。
 まさに精気の抜けた表情を浮かべている鏡の中の顔を、萎びたペニスを放り出したままユウジは眺めていた。まるで死体だと思う。射精後はいつも部屋の外の世界と切り離されてしまったような気がする。たとえば『冷血』の中に登場する冷酷な殺人犯が自分自身のことのように思えてくるようにだ。冷たい畳に直接耳をつけてみた。水中にいるようにギターの音がくぐもって聞こえてくる。ふと今すぐレスポールを手にして、下の二人をめちゃくちゃに殴ってしまいたくなる衝動に駆られる。でもそれが小説を読んだせいかもしれないと思うと結局馬鹿らしい気分になる。
 自分にはギターの才能もないのだろうとユウジは思っていた。もし才能があるなら、この歳になって昼間から自室でオナニーなどしたりしない。でも、もし自分に才能があったら? やはりそれでも自分は自室にこもっているやろうなと思った。確かサリンジャーは自宅のまわりを高い塀で囲んで、その中でずっと暮らしているらしい。彼が今そこで何をしているのか誰も知らない。自分にも才能があって金を稼げるなら、そんな家を建ててみたかった。そうすれば誰とも接触せずに生きていける。誰にも知られない自分を守ることができる。
 ユウジは同じ体勢のままずっと鏡の前で横たわっていた。エアコンの送風口はかたかたと単調な動きを繰り返し、彼のペニスは烏賊の刺し身みたいに冷たくなっていた。何度もまぶたを開いたり閉じたりしながら、眠ろうとしているのか眠らずにいようとしているのか、しばらく曖昧な状態が続いた。
 だがある瞬間、まぶたをゆっくり開けたとき、ふと奇妙なことに気づいた。はじめは寝ぼけているだけだと思った。だがいくらまばたきを素早く繰り返しても、それはそこにあった。鏡の中に、さっきまでなかったはずのものがそこにあった。畳の上に頬をつけている自分の頭。そのすぐ後ろに何か黒いものが見え隠れしている。影ではなく、立体的な物体だ。それはユウジの頭の後ろから少しだけ姿を見せて、まるでこちら側を覗きこんでいるように見える。
 ユウジは力の抜けた体をゆっくりと起こす。そして自分の背後にあるそれを見下ろしてみる。大きさは自分の頭とほぼ同じぐらい。くすんだ黒色の球体。硬質で、指で軽く押せば、そのまま転がっていきそうなぐらい完全な球面を描いている。よく観察してみると、見覚えのある穴が空いていた。小さな穴が二つ並んで空き、少し離れたところにやはり同じ大きさの穴が一つ、二等辺三角形の頂点に位置するように空いている。
 ユウジは中指と薬指、そして親指を三つの穴に添わせてみた。その寸法とバランスで彼は確信する。誰が何と言おうと、そこにあるのは正真正銘のボウリングの玉だった。

(6へ続く)

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