いずれ嫌いになる(第1回)
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誰にも話しかけられずにすむならいいのに。もし誰にも話しかけられないなら、自分の好きなものに話しかけることができる。自分の好きなことができるし、好きな場所にも行くことができる。それに好きなようにものを考えることができる。
ワタルの向かっている場所はギターのレッスン教室だった。学校から帰ると、週に一度自転車に乗って近鉄電車の高架下を走り、シャッターが閉じられた商店街を通り抜け、阿倍野筋の端にしがみつくように建つミドリカワ楽器店をめざす。背中で揺れているのは、黒いナイロンケースに包まれた古いガットギターだ。ワタルは坂道でペダルを思いきり踏みこむ。その瞬間、ギターの音色を想像したり、弦のすばやい爪弾き方を考えたりしている。そして風にかき消されるぐらいの小さな声で独り言を呟いたりしている。
ミドリカワ楽器店の店長は、季節に関係なく3Lの派手なアロハシャツをいつも着ている。そしていつもドレッドヘアだ。自動ドアが開いてワタルの顔を見ると「おっす」と女とは思えない野太い声を出す。楽器店とはいうものの、店内に並べられているのはほとんどギターだった。エレクトリック、アコースティック、ウクレレ、アンプ、エフェクター……。あるいはエレクトリック、アコースティック、ウクレレ、アンプ、エフェクター……。
そもそもギタリストだった彼女の夫が立ち上げた店だが、長年の不摂生が招いた糖尿病でこの世を去ってからは、彼女が店長となってやりくりしていた。二人の子供を育て上げた後も、店を続ける以外に生活していく術は他にないようだった。
「えらい早いやん、今日は」
店長が近づいてくる。レッスンが始まるまでのあいだ、ワタルは壁に掛けられた売り物のギターを順番に眺めることにしていた。彼の小遣いではとても手の届かない額の値札がテレキャスターのボディをいっそう輝かせていた。
「あそっか、今日は終業式やな。暑さでぼうっとしてたわ。はは」店長は一人で笑いながらワタルの横にしゃがんだ。平日の昼間に客が来ることはほとんどない。夫が経営していた頃から売り上げは伸び悩んでいたが、彼女のアイデアで始めたギターのレッスン教室でなんとか店を畳まずにすんでいた。
「ええな、夏休み。うちの店は一年中夏休みみたいなもんやけどな。はは。でもまあ、これからしばらくは一日中弾いてられるし、しっかり練習しいや」
ワタルはギターを見上げたまま、こくりと頷く。
「あんたはセンスあるよ。指も長くて細いし、しゅっとしたスタイルやし、顔もなんかギタリストっぽいわ。いつかプロになってウチのギター買ってもらわな。頼むで。ははは」
ワタルは不思議そうな目で店長の頭を見ていた。熱帯雨林に棲む巨大な幼虫が何匹もしがみついているような複雑に編まれたヘアスタイル。たとえばレッスンの途中でそれが目の前に近づいてくると、ワタルはつい触ってみたくなる。そのざらざらとした太い一本を握って、引っぱったり、ねじったり、くるくる回してみたくなる。「ほら、さわりいな」と店長もふざけて頭頂部を突きだしてくる。もはや人の毛とは思えない何万本もの黒いうねりをワタルはじっと見つめる。でも触らない。いつのまにかもう触りたくなくなっている。
「また喧嘩してきたんやな」
ワタルの肘に血が滲んでいるのに店長が気づいた。「ええ加減にしとかな、いつかでっかい怪我するで」
そう言われてワタルも自分の肘を確認する。
「今日は何人やった?」
ワタルは自分を取り囲んでいた姿を一人ずつ思い出した。「六人」
「そのうち何人しばいたん?」
「二人」
「相手もしつこいけど、あんたも相当しつこいな。絶対引けへんし」店長は呆れたように口の端を曲げた。「根性はええねんけど、でもいつまで続くんやろな。あんたのその言葉使いさえ普通になれば、もうちょっと平和になると思うねんけど」
店長は心配そうに頬杖をついていたが、ワタルはやはり壁に掛かったギターをひたすら見上げていた。夏の夕空のようなグラデーションで塗装されたボディが彼の視線を引きつけている。
「でもそうするわけにもいかへんねんやろ」店長は含んだような横目でワタルを見た。「でも指だけは折らんように気いつけや。ギター弾かれへんようになってまうで」
ワタルが同級生から目をつけられてから半年ほど経っていた。
彼に目をつけた学校の連中は、いつもまわりに人がいない隙を狙って近づいてきた。放課後の教室、校舎の裏、体育倉庫の薄暗い隅、夕方の川の土手。五年生から六年生に上がるときにクラス替えがあったのだが、それでも連中は協定でも結んだように彼への攻撃を止めなかった。
ワタルと連中の明らかな違いは、言葉だった。自分たちと同じ言葉を一切使おうとしなくなったワタルのことが連中は気にくわなかった。
(あいつ、大阪弁喋られへんようになったんか)(テレビの俳優みたいな喋り方しやがって)(なんかいきってるな)(鼻につくわ)(絶対大阪を馬鹿にしてんねんで)これが連中の大体の意見だった。
連中はワタルを取り囲むと、まず柄の悪い大阪弁でまくしたてた。それからワタルの肩や腹を殴ったり、地面に倒して足蹴にしたりした。ランドセルの中身をぶちまけ、靴を無理やり脱がして遠くへ放り投げた。だが連中はそれだけで終わろうとしない。ワタルがいつまでも地面に這いつくばっているようなタイプではないことをすでに知っている。
何度打ち倒されても、ワタルは立ち上がって連中に向かっていった。そして大きく透き通った目でその中の誰か一人を見定めると、その胸元をつかんで力まかせに殴りつけた。他の連中がワタルを強引に引き離して再び殴り倒しても、やはりすぐに立ち上がって、さきほど見定めた一人のもとへ何度も向かっていった。そのやりとりが何度も繰り返された。やがて見定められた一人が完全にノックダウンすると、ワタルは標的を切り替えて、次の新しい一人に対して局所的な攻撃を再開する。服は土砂にまみれ、腕や膝が赤く切れている。しかしワタルは何もこたえていないかのように立ち上がり続けた。たとえ相手の中にわんぱく相撲優勝者が混じっていようと、そんなことは関係なく彼は立ち向かっていった。
結局は疲れきった連中の方が諦めてその場を去っていくのだが、その数日後には前回とまったく同じ光景が繰り返された。いつものようにワタルを取り囲み、そのうちの何人かが彼に打ちのめされて、ぞろぞろと引き上げていく。どれだけ痛めつけても大阪弁を使おうとしないワタルのことを、やはり連中は変わらず痛め続けるしかなかった。背筋をくすぐるような彼の話し方を聞くと、連中の眉間には歪んだ皺が何本も寄ってしまうのだった。
孤立したワタルに話しかけてくる同級生は次第に少なくなった。そもそも大阪弁を使っていた頃から彼はおとなしく、大勢の仲間と騒いだり遊びにいったりするタイプではなかったが、大阪弁を使わなくなってからはさらに一人でいる時間が多くなった。だからといって彼は暗く沈んだりはしなかった。何も気にしていないような涼しい表情で授業を受け、給食を食べ、窓の外を眺めていた。そんな彼の姿を見て、クラスメイトの女の子たちが休み時間に話しかけてくることがあった。どんなテレビ見てるの? 歌手では誰が好き? 今日一緒に帰ろか? 彼女たちはワタルの容姿もさることながら、連中の攻撃に決して屈服しない彼の強く静かな態度に惹きつけられていた。少しでも彼の気を惹こうと机の中に手紙を入れたり、家に電話をかけたり、彼の誕生日にはひそかにプレゼントをあげたりした。そしてそんな光景を横目で見て、連中はまた拳を握りしめ、その日の放課後に彼を痛めつけることを考え始めるのだった。
ワタルは彼女たちと適当に話を合わせながらも、誰かと特別に仲良くなろうとはしなかった。もちろん自分に好意を持ってくれることに悪い気はしないが、彼自身がそのときいちばん仲良くなろうとしていたのはギターだった。自分の太股の上でなめらかな曲線のボディを抱きしめ、左手のすべての指を細かく動かしながら、右手の指で爪弾くナイロン弦の柔らかな音に耳を澄ます。するといつのまにか誰の声も聞こえなくなり、誰の顔も思い出さなくなってくる。誰かを殴り、誰かに殴られたことさえも消え去っている。スタジオの防音壁に囲まれて、誰も知らない自分だけの世界に足を踏み入れていくような快感がワタルにとって何より新しかった。
「いつもそこ、もたつくな」
ミドリカワ楽器店の店長がワタルの指使いを注意する。「そこは薬指じゃなくて小指の方がええよ。まだ手が小さいからちょっと押さえにくいかもしれんけど、小指の方が次の十二フレにスライドしやすいから。今のうちに慣れといた方がええわ」
ワタルは何度か小指で試してみる。だが弦を強く押さえられず、歪んだ音しか出ない。
「だめだよ。届かない」
「手だけやから届かへんねん。手だけで届かへんときは腕を動かす。それでも届かへんかったら肩を動かす。もっと全身を使って弾かな」
ワタルは顔を上げ、店長の全身を見回した。「ミドリカワさんが全身を使ったら、きっと爆音が出るね」
「やかましわ」店長はワタルの額をぺしっと叩いた。
ミドリカワ楽器店の奥にある部屋は小さなスタジオルームになっている。練習用のレンタルスタジオとしても使用するため、アンプやドラムセットや録音システムも一通り揃っていた。だが店を立ち上げたときに店長の夫が買ったものだから、どれも一昔前のタイプのもので使い勝手が悪かった。
「じゃあ最後に『アルハンブラの思い出』やってみて」
椅子に座り、膝の上で頬杖をついてじっと見つめる店長の真剣な視線を受けながら、ワタルは指を動かしはじめた。『アルハンブラの思い出』はワタルの気に入っている曲の一つだった。トレモロ奏法を習うときの初心者向けの曲だが、最初に店長が手本として弾いたとき、ワタルは心を奪われたようにじっと彼女の演奏に聴き入ってしまった。演奏そのものは難しい技術を必要としないシンプルな構成だった。しかし店長が爪弾く旋律の奥底には、テクニックという表面的なものとは関係のない何か深い響きがあるのを感じとった。その響きに共鳴して、胸の中が無性にざわめきだす。『アルハンブラの思い出』を弾くとき、ワタルはいつもそのときのことを思い出した。そして自分で爪弾く旋律の底に同じ響きを感じとろうする。呼吸のスピードを落とし、耳と指先に意識を集中する。
「うん、けっこう良くなった」
ワタルの演奏が終わると、店長は背中をぐっと伸ばして微笑んだ。「ちゃんと練習してるな。指もスムーズに動いてるし、テンポもまあまあ保ってる。あとはもっとこの曲を聴きこむことやわ」
「僕は」ワタルは言った。「あのときの僕の方がもう少しうまく弾けていたように思う」
「あのとき?」
ワタルは壁に掛かったカレンダーを見上げた。「先週の、七月十二日の僕」
「なんやそれ」店長はつっこみを入れた。「十二日のあんたと今日のあんたは違う人みたいな言い方やな」
「違うよ」ワタルは真面目に答えた。「よく似てるけど、ほんとは違う」
「ウチには同じように見えるけど」
「でも違うんだ」
「どう違う?」
「双子みたいなもんだね」
「はは。じゃあ明日のあんたも、またよう似てる違う人になるわけか」
「うん。そう」
「それはええな」店長はアンプの角を掴みながら立ち上がり、痛めている腰をほぐすようにゆっくりねじった。「ウチも明日になったら全然違う人になっていたいわ。ほんまに。ははは。腰痛のない人にな」
スタジオを出ると、いつものように長髪の痩せた男がレジの横の椅子に座って文庫本を読んでいた。店長がレッスンをしているときは、ときどき彼女の息子が店の番をすることになっている。ワタルが彼の前を通り、レッスン代を払っているときも、彼は活字から目を上げようとしない。
「あ、そうや」店長は言った。「夏休みのあいだは、何回かウチの代わりにこの子が教えることもあるからね。しっかり練習しときや」
ワタルがはじめてギターを手にしたのは、四月の夜のことだった。
東住吉区の片隅にある木造の長屋。ハーモニカの吹き口のように整然と各戸が並んでいる。もう五十年以上も前に建てられたもので、戸はまともに開かず、洗濯機から排出された汚水が玄関前の溝から溢れかえり、路地では抽象画のような曖昧な毛色の野良猫がいつもあたりを睨んでいた。
その一戸にある二間続きの部屋で、ワタルが母親と一緒にJリーグのテレビ中継を見ていたとき、酔った父親が帰ってきた。勢いよく玄関の戸を開け、ふらふらの足どりで部屋に上がりこむと、サッカーの試合が映されていることに腹を立て、なぜか作業着のズボンのポケットに入っていた小銭やレシートを畳の上に投げつけた。
「あほか。何こんなしょうもないもん見とんねん」
父親はリモコンを手に取って、次々とチャンネルを変えた。そしてプロ野球の試合が映し出されると、片腕を枕にして骨張った体をごろりと横たわらせた。阪神対ヤクルトで、十二回の延長戦だった。
「いつまでだらだらやっとんねん、プロのくせに。はよ決着つけたらんかい」
「なんだよ。せっかくワタルと一緒に見てたのに」母親が口を尖らせる。
「サッカーなんかどこがおもろいねん。あんな息も間もないもん。ポンポン蹴り合ってるだけやないか」
「それがいいんじゃない。なんかスピーディでさ。かっこいい選手もいっぱい出てるよ」
「あんなぁ」父親は面倒くさそうに振りむく。「顔で球を蹴るんやないねんぞ」
「それでもいいのよ。下手でもかっこよけりゃいいの。そういうもんなのよ」母親は爪を切るために広げていた新聞紙を折りたたんで、父親の尻をぽんと叩いた。「ワタル、こんなおやじ放っといてさ、一緒に洗い物しよ」
ワタルの父親はとなりの平野区にあるメッキ工場に勤めていた。毎朝八時に家を出るときは寝癖のついた髪の毛で、ほとんど一言も口にしないまま、自転車に乗って仕事場までぶらぶら向かう。そして夜遅く帰ってきたときは、いつも顔を赤くして近所にも聞こえるぐらいの大声を出す。父親が仕事帰りに必ずどこかで酒を飲んで帰ってくることに、ワタルも母親も慣れきっていた。以前は祭りの出店などで針金細工の販売をしたり日雇いの大工をしたりして、いろいろな仕事に手を出していた。だがどれも長くは続かず、低収入による危機的な生活が続くときがあった。そのときと比べれば今の方がましだと母親は思っていた。だが手先の器用さが買われたんやと得意がっている夫を見ると、自分はまだまだコンビニの店員を続けなくてはいけないと思った。
「フライパンは私が洗うからさ、ワタルはごみをまとめてきて」
台所にあるプラスチックのごみ箱を手にして、ワタルは家の中のごみを集め始めた。テレビの前を通るとき、寝ころんだ父親がふざけてワタルの尻を蹴ろうとした。だがそうされることをすでに予想していたワタルは、父親の力のない蹴りをひょいっと寸前でよけた。
「やるやん」にやりと笑う父親。まだ酒は残っているようだった。「おい、そうや、今日は土産があるんやぞ」
何も聞こえなかったようにごみを集め続けているワタルに父親はしばらく目をやっていた。だがやがて意を決したように立ち上がり、玄関へ行って、がたがたと音を立てた。戻ってくると、狩りで獲物を捕まえてきたみたいに裸のギターを手にしていた。
「これ、ええやろ」父親はぶらぶらとギターを空中で揺らす。「ワタル、これ持っといたらええわ」
「ちょっとなんなの、それ」母親がすぐさま顔を出す。
「おまえ、ギターも知らんのか。まぁ、こんな洒落たもんウチにないからな」
「そういうことじゃないわよ」母親の手に握りしめられている布巾から水滴が落ちた。「そんなのどこで拾ってきたの」
「くれたんや、心優しい青年が」
「そんなことあるわけないでしょ」
「ほんまにくれたんじゃ」
「どこの青年が」
「そんなんおまえに関係ないやろ」
「どうせごみ捨て場で拾ってきたんでしょ」
「なんでやねん」父親はギターを支えにして腰を下ろし、あぐらをかいた。「あんな、公園の中を通って帰っとったらな、そこらじゅうで花見してたんや。その中にギター弾いて、帽子を逆さにしておヒネリもらってる男が座っとってん。えらい静かな、辛気臭い曲を弾いとったわ。でも誰も聴いとらへん。一人でうつむいて弾いてるだけや。仕方ないからチャリンコを停めて耳を傾けとったんや。そしたらな『おじさんええ人やな、僕みたいなやつの演奏を聴いてくれるのはおじさんだけやわ』とか言ってえらい感動してもうてん。それでちょっと涙ぐみながら『お礼にこのギターをどうぞ受け取ってください』って。最初は断ってんけど、どうしてもっていうから」
「なにそれ」母親は布巾で食卓の上を力強く拭きはじめた。「そんな鶴の恩返しみたいなの、あるわけないじゃん」
「ほんまやっちゅうねん」父親はギターを畳の上に寝かせて、ワタルの方へ押し出した。「やっぱりいいことをしたら、気持ちがええもんやな。酒もうまなるわ」
「ほんとはその人にケチつけて、いつもみたいに喧嘩してきたんじゃないの」
「るっさいわ。こっちは疲れとんねん」父親は再び寝転がって、野球中継に目を向けた。「いらんかったら、廃品回収のおっさんにでもやれ」
いつもならあてのない二人の交戦に嫌気がさしてくるのだが、その夜は父親が持って帰ってきた土産物にワタルは心を惹かれていた。まるで新品の電化製品みたいに、自分たちの住む色褪せたボロ家とは正反対の輝きを放っている。ワタルはギターのネックをつかみ、そっと持ち上げて脇に抱えてみた。見ための大きさと反して意外に軽い。いちばん太い弦をはじいてみる。柔らかくまっすぐな音が耳に届く。だが両親は何も聞こえなかったかのようにまだ乱暴な言葉を交わし続けている。ワタルの家にある楽器といえば音楽の授業で使うクリーム色のソプラノリコーダーぐらいだったが、そんなものとはまったく違う世界に属しているもののように思えた。テレビ番組で歌手が弾いているものとは形が少し違うものの、それと同じ種類のものが自分の家にあることにどこか不思議な感じを受けた。適当にフレットを押さえていくつかの音を出してみたが、やはりそれはいつも彼の頭上で飛び交っている言葉とはまるで違う響きだった。
その頃にはもう、ワタルが大阪弁を使わないことに父親は何も文句を言わなくなっていた。
交戦の果て、ついに父親が大声で罵倒しながら、母親の体を繰り返し蹴ったり殴ったりすることが何度かあった。机はひっくり返され、カーペットはめくれ上がり、投げ合った物がそこらじゅうに散乱した。ときおり生まれる沈黙のあいだだけ掛け時計の秒針が大きく響いた。そんな夜、畳の上で丸まった母親を見下ろしている父親の姿を、ワタルは泣くこともなくじっと眺めていた。彼にできることといえば、父親の怒鳴り声にただ耳をふさぐことだけだった。父親の発する言葉は、普段自分の使っているのと同じ言葉には聞こえなかった。それはすっかり姿を変えて、獰猛なスズメバチの大群みたいに母親の背中を次々と激しく傷つけている。飼い馴らしていたはずの動物が鎖を引きちぎって、怒りのままに暴れ回っている。動物にとり憑かれた父親は夜遅くになっても吠えることを止められないでいた。
翌朝、母親は腫れぼったい目で食パンにマーガリンを塗っていた。「ほんとはゆうべ、顔隠しながら舌出してたんだ」と冗談めかすのを聞くと、いつもワタルはひどく申し訳ない気持ちになった。母親と二人で過ごす静かな朝は居心地の悪いものだった。母親を傷つけたのは自分でもあるかもしれないとさえ思った。そう自分が思うのは、きっと耳の奥に残っている怒りに満ちた罵倒の響きのせいだと思った。父親と同じ言葉を自分も使っている。だが自分は怒った父親みたいにそんなものにとり憑かれたくはなかった。そんなものは切り離したかった。自分で使う言葉なのだから自分で選べるはずだ、ワタルはそう思いながら、自分とそっくりの痩せ方をしている母親の背中をじっと見つめていた。
きっと大阪弁を使わずに暮らしていくこともできる。そう思い始めてからというもの、ワタルはそれまでのように大阪弁を自然に聞き流すことができなくなった。近所のおばさんたちが話していても、クラスメイトが話していても、あるいはテレビタレントが話していても、大阪弁の持つどこか芝居じみた不自然な響きが耳に引っ掛かった。大阪弁を話す誰もが何か暗黙のルールに乗っ取った会話を進めているように思われた。それはたとえばこういうことだ。
彼ら・彼女らは大阪弁でしゃべりたおすような大阪人であろうとしている。
もう大阪弁を使わないと決めたワタルには、まわりの人間がそんなふうに思えた。まわりの人間はワタルの方こそ芝居じみていると笑った。だがワタルは、大阪弁でしゃべりたおすような大阪人にだけはなりたくはなかった。たとえ同級生たちに嫌な顔をされたり、攻撃を加えられたりしても、そのような大阪人にだけはなりたくなかった。酔っぱらった父親が怒鳴り散らすような嘘と虚勢。それは彼が嫌いになろうとしているものの一つだった。
母親と同じ横浜の言葉を息子が話しているのを聞いたとき、父親はしつこく文句を言った。「なんやそれ、おまえ」「もっとまともな言葉しゃべられへんのか」「大阪におったら大阪弁話すやろ、普通」。だが父親が何を言おうと、ワタルは違う人間になってしまったみたいに一切大阪弁を使わなくなった。母親と同じ言葉を使うことで、自分との距離を父親が感じていることはワタルもわかっていた。だがそれは彼の感じていることとほんの少し違っていた。彼が距離を置こうとしたのは父親のような大阪人とだった。
午前中の比較的涼しい時間帯のうちに、近所の土手まで行くのがワタルの夏休みの日課になった。雲一つない空の下、ギターケースを背負い、耳が隠れるぐらいに伸びた髪の毛を揺らしながらペダルを漕いでいく。連中もさすがに夏休みは休戦していた。一年に一度の自由な四十日間をわざわざ潰してまで、ワタルを取り囲もうとはしなかった。
七月二十二日の朝、土手にあるベンチの上でワタルはギターの練習を始めようとした。そこはクラシックギターの練習をするような詩情ある風景とは決してよべなかった。近くの養鶏場や化学工場からは常に糞や油の臭いが漂っていたし、橋の下では組み立てられた段ボールの中で浮浪者が眠っていた。だがとなりの住人の欠伸までも聞こえてくる壁の薄さではとても家では練習できなかったし、何より父親が嫌がった。「辛気臭いからやめとけ」父親は一蹴した。「あなたが持って帰ってきたんじゃない。ワタルへのお土産でしょ」母親は反論したが、ワタルはもう家で弾こうとはしなかった。ギターの響きを父親の言葉でかき消されてしまいたくなかった。
「いつもここで練習してるの?」
ちょうど『アルハンブラの思い出』の最初の一弦を弾こうとしたとき、背後から声が聞こえた。振り返ると、どこかで見覚えのあった顔がにこりと微笑んでいた。
「暑くない?」女の子はわざと高くした声で別の質問をした。
「もちろん暑いけど、ここしかないからね」ワタルは答えた。
女の子は微笑みを保ったまま、ワタルの横に腰を下ろした。やや離れ気味の小さな両目に、角張った輪郭。笑ったときにピンク色の歯茎が目立つ。髪の毛は軽くカールしていて、身長はワタルと同じぐらいだ。確かとなりのクラスにいる子だと彼は思い出した。だが話したことは一度もない。
「ワタルくんの家に電話したの」女の子は揃えた膝の上に両手を重ねて言った。「そしたらお母さんが出られて、たぶんこのあたりにいるだろうって。昨日かけたときは誰も出なかったんだけど」
ワタルは左手で弦を軽く押さえてミュートしながら、右指を動かし続けていた。ワタルくん? そんなふうに呼ばれたのは初めてだった。
「僕の家は母親も働いてるから」ワタルは目の前の川を見ながら答えた。
「へえ、そうなんだ」女の子はわざとらしく何回もうなずいた。「ギター弾けるなんて素敵よね。私はピアノを習ってるんだけど、ギターの方がなんとなく情熱的な感じがするわ。私のお兄ちゃんもよく家でギターを弾いてるの。ワタルくんはビートルズって知ってる?」
「知らない」
「私もよく知らないの。昔のバンドで、変な髪形をして同じ服を着てた人たちみたいなんだけど、毎日お兄ちゃんがすごい音を立てて、その人たちの曲ばっかり弾いてるの。ねえ、ワタルくんはどんな曲を弾いてるの?」
ワタルの指は六本の弦のほんの少し上の空間を絶え間なく移動していた。女の子の話を耳にしながらも、頭の中では架空の弦がメロディを響かせていた。一週間前からそのパッセージだけを何度も繰り返し練習していたのだ。
「辛気臭い曲だよ」ワタルは呟くように言った。「たぶんクラシックっていわれているものだと思う」
「へえ、私もピアノでクラシックを弾いてるの」女の子は小さな目を無理に見開いた。「ねえ、何か弾いてくれる?」
ワタルは指の動きを止めることなく答えた。「ごめん。まだ人に聴かせるほどじゃないんだ」
「ほんと? 結構上手そうに見えるけど」
「まだ始めから終わりまで通して弾いたことがないんだよ。それに人に聴かせるために練習してるわけじゃないから」
「ふうん」女の子は興味深そうに顔をギターに近づけた。「始めてまだそんなに経ってないんだ」
「まだ三ヵ月と五日」
「私が転校してきたのと同じぐらいね」女の子はベンチの上にあったU字型の小さな鉄の棒をつまみ上げた。「これは何?」
「音叉だよ」
「おんさ」
「これで弦の音程を調整するんだ」
ワタルは女の子から音叉を受けとると、U字の部分をベンチに軽くぶつけて、柄の先についた球体を女の子の耳に近づけた。女の子の首の後ろには親指ぐらいの大きなほくろがあって、髪の毛で見えないように隠されていた。ワタルはほくろを見つけたことを気づかれないように、彼女の耳からゆっくり音叉を離した。
「なんだか宇宙人と交信してるみたいな音ね」女の子は閉じていた目をゆっくり開けて言った。「頭の中が冷たくなるような音」
「でも蝉の声がうるさいな」ワタルは音叉をビニールの入れ物にしまった。「君は転校してきたの?」
女の子はしばらくワタルの顔を見つめて「そっか」と微笑んだ。「やっぱり知らなかったんだ。でも知らないだろうなと思ってた。私のことなんて」
「四組だろう」
女の子は前髪をいじって、座っている位置を少しずらした。「前は東京に住んでたの。世田谷っていうところ。知ってる?」
「知らない」
「お父さんの仕事がいろいろ忙しくて、こっちに移ることになったの。家族はみんな反対してたんだけど、でも結局そうするしか仕方なかったの」
「本当は世田谷っていうところにいたかったんだね」
女の子は自分に膝の上に視線を移して頷いた。「だってね、私が何か話すと、今のクラスの子たちはみんな変な顔をするのよ。なんか必死に笑いを堪えているような感じ。それで私がいなくなると、小声になってくすくす笑いはじめるのよ。もちろんできるだけみんなに溶けこむようにはしてるけど、それでもやっぱり私だけ外れてるって感じることがあるの」
「外れてる」
「そう。結局みんなは大阪弁を話していて、私は大阪弁じゃないのよ」
ワタルは弦の上を移動する自分の指を見つめていた。ミドリカワ楽器店の店長から注意されていたフレーズを早く練習したかった。
「ワタルくんも、どっかから引っ越してきたの?」
「いや。ずっと大阪」
「大阪? ほんとに?」女の子は驚いて訊き返した。ワタルは何も答えずにギターのネックを見つめていた。「私てっきり、ワタルくんも東京の方から引っ越してきたんだと思ってた。だから私のこともちょっとはわかってくれるかなって。大阪弁を使わないのは何かわけがあるの?」
ワタルは視線を落としたままだった。
「大阪弁が嫌いとか?」
「いや、わからないけど」
「じゃあどうして?」女の子は自分の手をワタルの腕の上に置いた。
「あのね」ワタルは言った。「こんなふうにすると、すごくよく鼻が匂うようになるのって知ってる?」
まるでらくだのように鼻の下を思いきり伸ばした顔をワタルは女の子に向けた。「油の臭いとかが二倍ぐらいになって匂ってくるんだ。やってみなよ」
女の子はしばらく身動きをせず、ワタルのおかしな顔を眺めていた。強い日差しが小さな鼻の穴に降り注いでいる。女の子はベンチから立ち上がり、スカートをぱんぱんとはたいた。女の子は怒っていなかった。ワタルの顔を見つめながら、最初に現れたときのような微笑みを浮かべていた。
「おんさ」女の子はそう言って、小さなバッグの中からハンドタオルを取り出し、額や首筋の汗を拭った。「ワタルくんさ、もしよかったら、それ私にくれない?」
ワタルは表情を戻し、ベンチの上の音叉には目をやらずに言った。「ごめん。だめなんだ。これは必要なものだから」
女の子はハンドタオルで汗を拭い続けていた。もう汗は残っていなかった。だがそれでもハンドタオルを動かしながら、長細い背中を丸めてギターを抱えているワタルの体を見つめていた。
「じゃあ、自分で買うわ」しばらくして女の子は言った。「だってやっぱり宇宙人と交信したいもの」
土手を踏ん張りながら上っていく女の子の後ろ姿を、ワタルはときどき振り返った。そして完全に見えなくなると、何もなかったように『アルハンブラの思い出』を弾き始めた。しばらくして犬を散歩させている老人が話しかけてきたが、今度は顔を上げずに指を動かし続けた。
ワタルと女の子が話していたちょうどそのとき、橋の上からその様子を眺めていた人物に彼は気づいていなかった。ミドリカワ楽器店の息子が自転車にまたがったまま橋の欄干にもたれて、ワタルたちのことを見ていた。そのことをワタルが知ったのは、翌週の七月二十六日だった。
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