ユニコーンたちの団欒(前篇)
ビニール傘を通して見上げる空は滝乃瀬牧人だけのものだった。八角形に切り取られた空がいつもついてまわる。交差点で朝の人波に紛れるとき、古びた校舎を歩道橋の上から眺めるとき、アルバイトを終えて誰もいない市営野球場を横切るとき、彼は思い出したように顔を上げて、自分だけの空を確かめる。
ピッチャーマウンドに上がり、白いプレートをスニーカーの先で踏んでいるときだった。突然ビニール地を強く叩き始めた雨粒の音で、牧人は何かを思い出しそうになった。暗がりの中で細やかなものが落ち続ける音たち。遠い土の中に埋められた記憶がむくむくと姿を現そうとしている。そのはっきりとした輪郭をつかめないまま、彼は夜の雨の連弾をしばらく見上げていた。
「ひどい雨です」
振り向くと、その人物は牧人の背後に立っていた。牧人が手にするビニール傘の内側へ、いつのまにか影のように身を寄せている。低く安定している声に、牧人は少しだけ体を仰け反らせた。
「底がごっそり抜けたみたいですね」その人物は続けた。「でもこの雨も今日で終わりでしょう。明日からは洗い流されたような青空が広がりますよ。夏の始まりです」
夜空に向けた視線を牧人に戻すと、その人物は儀礼的な微笑を浮かべた。黒く艶やかなシャツのボタンを首元まで留めている。同じく皺一つない黒い上着はどこも濡れているように見えなかった。ただ熱帯雨林に潜む甲虫のように鮮やかで大きな瞳と、牧人は少しのあいだ見つめ合っていた。
「誰」牧人は雨音にかき消されそうな声で訊ねた。
「申し遅れました」その人物はゆっくりと瞬きをした。「そうですね、私にとっては今さらという感覚なのですが、牧人さん、あなたにとっては得体の知れぬ不審者が何の気配もなく、すっと傘の中に忍びこんできたという印象でしょう。当然のことです。それにしてはずいぶん落ち着いていらっしゃいますね。それもまた牧人さんらしい」
話しているあいだ、その人物は決して牧人から目を離さなかった。夜の野球場を取り囲む電灯の光を逃がさないみたいに、二つの瞳はぎらぎらと反射していた。
「私は家族家を務める者です」
「何」
「か、ぞ、く、か、です。ご存じないのも仕方ない。最近はもうめっきり見かけなくなりましたから。たとえば画家、音楽家、小説家、書道家、武道家、世の中にはいろんな生業(なりわい)があります。国家だってある意味そうだと言えるでしょう。きわめてシンプルに分類をすれば、そのうちの一つが家族家です。か、ぞ、く、か」
その紳士的な口調が告げたように、雨脚が弱まり始めた。土砂を打つ雨粒が細かくなっている。それでも牧人はビニール傘を収めたり、後ずさったりはしなかった。ピッチャーマウンドの上で、家族家と名乗る者と息が重なり合うほどの距離で対峙していた。その者を見ていると、雨を見上げながら思い出そうとしていた記憶が徐々に湧き起こってきた。
「どこかで会ったことが」牧人は訊ねた。
「ないでしょう」家族家は即答した。「少なくとも牧人さんが私を目にしたことはありません。ただし私はあなたのことをずっと認識していましたよ、もちろん。高校の授業が終わった後、週四回のトレーニングジムでのアルバイトの帰りには、いつもこの野球場をわざわざ横切っていることも存じ上げております。野球部でもないのに」
「ただのストーカーか」
「確かに」家族家は短く苦笑した。「あながち否定はできません。牧人さんの立場からでは、そう見えるのも理解できます。でも私は牧人さんをつけ狙っているわけではありません。ただいつもそこにいる者として、あなたを認識していました。つけ狙うと認識、それはただの言葉の違いで、行動は同じではないかという意見もあるでしょう。その判断はお任せします。実際、家族家という立場を説明するのはなかなか骨が折れるんですよ。例えば自分の書いた小説を売るのが小説家というものでしょうが、私たち家族家はそんな単純なものではありません。それはそうと、今日は牧人さんの十八歳の誕生日ですね。おめでとうございます」
一本のビニール傘で頭上を覆いながら、家族家はコンパクトに左肘を折り曲げて、胸の高さから手をすっと差し出した。やはり黒い手袋が嵌められている。牧人は握手などする気になれなかった。彼は雨水が点々と溜まっているピッチャーマウンドから下り、ビニール傘を閉じた。細かい糸が舞うようなほどの小雨におさまっている。家族家は左手を差し出したまま立ち尽くし、しばらく牧人への微笑みを崩さずにいた。雨に濡れることを気にしている様子はなかった。家族家の背後に広がる大きな金網の上を、赤い光が一瞬よぎった。すぐにパトカーのサイレンが遠くから聞こえてきた。家族家は左手を戻したが、友好を築こうとする微笑みは浮かべたままだった。
「つい回りくどくなるのが私の悪い癖だわ」突然、家族家の声が甲高くなった。「ストーカーだって言われたら、すぐに否定すればいいのにね。危害を加えるつもりで現れたんじゃないって。私がここに出てきた通路はそのビニール傘の内側から──それも最初から説明すべきだった」
手に持つビニール傘に牧人は視線を落とした。どこで買ったのかも憶えていない、ただの透明なビニールと金属の合成品だ。
「大丈夫よ」やはり高い声のまま家族家は言った。「たとえ傘が閉じられても、帰りの通路はどこにでもあるから」
「わけがわからないな」牧人はビニール傘を強く握りしめた。
「これはこれは、ごめんなさい」家族家は穏やかな声で牧人をなだめた。「前置きが長すぎました。本題に入りましょう。先ほど申し上げたとおり、私はあなたの家族の家族家です。今日はあなたに助言を伝えにきました」
輝きが止まない瞳で牧人を見据えたまま、家族家は近づいてきた。
「助言」牧人は繰り返した。「何のために」
「あなたの家族のためです」家族家の声は最初と同じく低い響きに戻った。「先日、牧人さんの祖母である夢子さんが他界されました。享年八十二歳。大腸癌に体を蝕まれるまで、戦後の市井をたくましく生き抜いてきた立派なお方でした。夫を早くに亡くしてから、一人息子であり、あなたの父でもある七平さんを女手一つで育ててこられた。十二年前、七平さんが不慮の事故で命を落としたときは、何日も食事が喉を通らなかったようですが、今頃は久しぶりにあの世で親子の再会を果たしていることでしょう」
家族家は牧人の目前まで迫ってきた。落ち着いた話し方にこれといった悪意は感じられない。だが助言を伝えると言ったわりには好意的な雰囲気も漂ってこなかった。どこからか、天井裏を久しぶりに覗いたときのような黴臭さが湿った風に混じっていた。
「やっぱり親戚か」牧人は身動きをせずに訊ねた。
「親戚ではありません。私は家族家です」牧人の質問を家族家は手短に片づけた。「本題はここからです。今回の夢子さんの死をきっかけにして、滝乃瀬家で何かが起ころうとしています。何か不吉な予兆を私は感じているのです。それが一体何なのか、はっきりしたことはまだわかりません。しかしその不吉な何かを運んでくる者については、大体見当がついています」
牧人は家族家の瞳をずっと見ていた。古い用水路に流された工業油のように虹色の反射がずっと繰り返されている。まるで反射そのものが生きているみたいだった。
「ごく近いうちに滝乃瀬家で、二つの件について話が交わされることになります。一つは、あなたの母である冬音さんが再婚をするという件。二つめは、あなたの姉である冴さんが結婚するという件です。それぞれの相手方、男性二名のどちらかが滝乃瀬家に不吉な流れ、換言すれば禍を呼びこもうとしています。それがどちらの男性なのか、残念ながら今の私には判断しかねます。あるいはもしかしたら、二人ともそうだという可能性だって考えられます」
雨が止んだ。牧人はズボンのポケットに片手を入れながら、ビニール傘の先端を何度も地面に突き刺していた。ときどき右肩に提げた鞄の位置を調整した。確かに冬音が好意をもって一緒に出かけたり食事をしたりする男の存在は、牧人も知っていた。祖母の夢子の前でその男の話が出ることはなかったが、どうやら趣味の自由律俳句サークルで出会った人だということは日々の話でうかがえた。冴の恋人についても、同じ芸大で彫刻を専攻している男というぐらいは耳にしていた。
「知らないな、結婚なんて話は」牧人は声を固くした。
「それは牧人さんがまだ聞かされていないからです」
「向こうの……男の方の知り合いか」
「違います。私が家族家だから知り得ることです」
「嘘かもしれない」
「本当だと、もうすぐわかります」家族家の表情から微笑みが消えていた。「家族家は占い師ではありませんし、未来を予言できるわけではありません。ですがこれまでの長い長い繋がりを踏まえて、ほんの先のことぐらいは見通すことができます。雲行きを観察したり空気の湿度を感じたりして、天気を予測するのと同じようにです。いずれにせよ牧人さん、あなたは禍をもたらそうとする今回の結婚を止めなければいけないでしょう。相手の男性たちと直接会い、あなた自身の目で判断して、なんとか縁組を解(ほど)くことが滝乃瀬家にとって必要なのです」
腕時計の針は十時を指そうとしていた。上空の強い風に流されて、灰色の雲に裂け目ができていた。牧人の頭にふと男たちの姿が浮かんだ。トレーニングジムで黙々と自らの筋肉に負荷を与え続ける会員たちだ。
「そうしなければ、滝乃瀬家はやがてこの世から消失していくことでしょう」家族家は神妙な面持ちを浮かべた。「他の大きな家族家と比べると、滝乃瀬家は今やきわめて貧弱な流れになってしまいました」
「結婚するのはあの二人だろう。だったら自分たちで決めればいい」
「違うのよ、牧人さん」家族家は再び高い声に変わった。「これは家族の問題なの。滝乃瀬家の問題なのよ。一つの家族と一つの家族が繋がり合う、それは長い旅をしてきた川と川が合流することに似ているの。合流すべきじゃない家族同士が合流してしまったら、とても悪い流れを生み出すことがある。それはなんとしても阻止しなければいけない」
なぜ瞳が虹色に反射したり、声色が変わったり、いつのまにか傘の中に入ってきたりする者が親戚かもしれないとよぎったのか、牧人は今さらながら自分でも疑問に思った。その挙動の奇妙さはすぐにでも警察に通報すべき度合いだった。だが同時に、どこか既視感を覚えていた。その者のそばに立っていると、祖母のまわりにいつも漂っていた匂いが伝わってきた。
「基本的なことを聞いてなかった」牧人はズボンのポケットから手を出した。「名前は」
「あれ、もうとっくに気づいていると思ってた」
家族家は一歩後ずさった。そして両足を揃え、両腕を体の横にぴたりとくっつけて、深々と頭を下げた。「あらためて、私は家族家のタキノセと申します」
「滝乃瀬」牧人はその意味を反芻した。
「そう、タキノセという姓だけ。名はないの。家族家というのはそういうものだから」
牧人はゆっくりと瞬きを繰り返した。タキノセに名がないということと、自分で理解しようとしたことを、瞼の裏で結びつけようとした。
「牧人さん」タキノセは微笑んだ。「今日私が伝えた件は、解決するために長い時間が必要になると思うの。だからこれから私は度々あなたの前に現れることになるわ。普段は家族家ってめったに姿を現さないものなんだけど、今回ばかりは火急の案件。そのことは牧人さんに了承しておいてもらいたいの。もちろん時と場所を選んでお話をさせていただきます。それではひとまず今夜はここで。晩御飯、まだなんでしょう」
まだなんでしょう──最後の言葉に牧人はやはり夢子の声に似た響きを感じた。
タキノセは頭を軽く下げた。そして足元の小さな水たまりに片足のつま先を突っこんだ。バレリーナがこれから舞踊を始めるときのような足首の角度だった。しかしもちろん踊り始めたりはしなかった。タキノセの片足は水たまりにするすると何の抵抗もなく飲みこまれていった。足場を失い、ぐらりと傾いたタキノセの体は水たまりのサイズに合わせて、柔らかい粘土のように変形した。あっというまにタキノセそのものは水たまりの奥底へと姿を消してしまった。牧人が用心深く覗きこんでも、水面には自分の顔が映っているだけだった。波紋一つ立っていない。
牧人は雨上がりの空を仰いだ。巨大な闇に向けてビニール傘を開き、母と姉が待つ自宅へ帰ることにした。ときどき八角形の空を見上げては、そこからタキノセが巨大なゴムの塊のように落ちてくるところを想像した。そうだ、と牧人は思い出す。あのビニール傘を叩きつける雨の音は、川に飛びこむときの音だった。遠い昔、父の七平と二人で遊びにいった川。そこで聞いた音にとても似ている。
思い出した途端、その音が自分の胸から聞こえてきた。自らの鼓動と一つに重なり合う水音を感じながら、牧人は誰もいない野球場を後にした。
タキノセの言葉のとおり、翌日から夏の激しい日射しが照りつけた。
教室のエアコンは調子が悪く、クラスメイトのほとんどは改装されたばかりの新しい食堂で昼食を取っていた。人混みを避けたがる者だけが数人、がらんとした教室で弁当を食べている。牧人は窓際の席で頬杖をつき、蝉の鳴き声に視線を向けていた。採点された期末テストの答案用紙が返却されるだけの一週間も終わろうとしていた。隣の教室から来た中島が前の席に腰をかけても、牧人はぼんやりと空を眺めていた。
「昨夜は遅かった?」中島は牧人の顔を覗きこんだ。
「いや、いつもどおり定時で終わった」牧人は無表情に答えた。
「最近あのジム、会員が増えているみたいだからね。残業かなって思った」
中島が指先で眼鏡の位置を整えると、メタル素材のつるが小さく反射した。半袖のシャツから伸びた腕の白さは、トレーニングを怠らない筋肉の威圧感を抑制していた。遠くから見ると図書部員のように華奢な中島の体は、体重制限のあるボクサーみたいに無駄なく鍛えられていることを牧人は知っていた。
「昨夜はジムに来なかったんだ?」牧人は上半身を起こした。
「自転車がパンクしてさ。雨だったし」
「じゃあ今日はどうやって?」
「歩き」
「くそ暑いのに」
「あのさ、やっぱり今朝、みんな牧人のこと噂してたよ」中島は声をひそめた。「なんでこんな暑いのに、貴婦人みたいに傘なんか差してんだって」
牧人は鼻をならした。朝の歩道橋の上で、すれ違う人々が横目で見ながら迷惑そうに端に寄るのを思い出した。
「昨日のバイトの帰り、変な奴に会った」牧人は爪をいじりながら話題を変えた。
「どんな」
「同じ名前のやつ」
「滝乃瀬って、あんまりない苗字だよね」
「男か女かもわかんない」
中島は首をかしげた。考えを巡らすように組んだ脚を両手で抱えた。「それは、見た目がってこと?」
「まあ、そうかな」牧人はタキノセの容姿を伝えようとしたが、あたりが薄暗かったせいか、うまく思い浮かべることができなかった。「俺が思うに、たぶん野球場のお化け」
「夏だから? つまんないよ」中島は清潔に整った歯並びを見せた。
トレーニングジムで牧人が初めて中島を見かけたのは一年前の夏休みだった。
駅のまわりで、新規開店のために配られていたオープニングスタッフ募集のチラシを牧人は手に取った。それまでシフトを入れていたファストフード店の調理場では人間関係が面倒くさくなったところだった。今のバイトより時給は高いし、自宅からも近くなる。少しだが家計の足しになるだろう。牧人は履歴書を書き、面接を受けることにした。
牧人の担当は受付カウンターに立つことと、トレーニングマシンのメンテナンスだった。高校生のアルバイトだからといって、社員たちは彼らを甘く扱うことはしなかった。レジシステムの操作方法やマシンの入念な清掃手順や臨機応変な接客態度を、オープン前にしっかり教わることで、牧人は客が訪れてからでも決められた役割をスムーズにこなすことができた。
オープンして一ヵ月ほど経った夜、牧人は閉館間際の人(ひと)気(け)のないフロアを回って、マシンの汚れをタオルで拭き取っていた。ふと、隅の方で背筋を鍛えるラットプルダウンに腰を下ろしている人影が目に入った。彼は顎を引いて胸を張り、白いTシャツを揺らしながら、両手で握ったバーを首の後ろまで何度も引き下ろしていた。前髪が降りかかる細いフレームの眼鏡、その奥で苦しみをまっすぐ引き受けるように瞼を強く閉じている。彼の横顔は同じ高校で見たことがあると、牧人はしばらくタオルを掴む手を止めた。
それから牧人は彼を何度か見かけた。彼はいつも夜にジムを訪れ、閉館時間までトレーニングで汗を流していた。白く細身な体にもかかわらず、ハードプレーヤーが使用するほどのウエイトをマシンに設定していた。一通りのセットメニューを終えて、ベンチで呼吸を整えている彼に牧人は声をかけた。
「背中が大きくなった。前と比べて」
彼は顔を上げ、しばらく牧人を見つめた。微笑みながらベンチの端に寄り、牧人に座るよう促した。
「いちおう仕事中だから」牧人は返した。
「誰も見てやしないよ」
彼の言うとおりフロアには誰もいなかったが、牧人はモップの柄を手にしたまま、手を上げて断った。
「いくら追いこんでも、これ以上は無理なんだよな」彼は右手で拳を作り、何度か左の手のひらを軽く打った。「いくら負荷を掛けても、これ以上はどうしても筋肉がつかない」
「マシンを変えてみたら。もしくはメニューを変えてみるとか」
「いろんなパターンは試してみたんだ。でも同じだった。食事もタンパク質を中心にしてみたけど、効果はなかった。何日かトレーニングを止めると、すぐに筋肉が落ちて体が細くなる。だから続けるしかないんだ。たぶん僕の体質だろうね。生まれついての体の成り立ち」
空調でコントロールされた冷気の中を微かな湯気が立ち上っている。彼の体から発せられる熱が冷却されていた。前傾姿勢のまま床を見つめている彼の姿は、たんにメニューをこなした後の疲労をやり過ごしているだけには見えなかった。どこか遠くにあるものを静かに待ち続けているように牧人には感じられた。
「同じ高校だよね」彼は思い出したように顔を上げた。
それは牧人が用意していた台詞だった。「ああ、確かに」牧人は少し気後れして答えた。
「だよね。だと思った」彼は口を大きく開けた。何の条件も束縛もない無防備な笑顔だった。「いつもビニール傘を差している人。一度、歩道橋の上ですれ違ったことがあるよ。すごく天気のいい日にね」
「俺も見かけたことがあるよ」牧人は返した。「駐輪場で自転車を思いっきり蹴って、将棋倒しにしてた」
「え、嘘だよ」彼は目を見開いた。
「嘘さ」
彼は笑った。「滝乃瀬、っていうんだね」彼は牧人の首にぶら下げられた名札を指差した。「僕は中島」
それから二人はジムや学校で顔を合わせるようになった。話すのは勉強や進路のことよりも、映画や音楽やトレーニングのことなんかだった。だから今回の期末テストがいつもどおりの散々な結果でも、牧人は中島に話したりしなかった。五時間目に返却された物理の答案用紙はズボンのポケットに突っこんだままにしていた。
まだ日が照りつけている校門を出て、牧人はビニール傘を広げた。追い越していく学生たちがちらちらと牧人を振り返る。後ろの人波から中島が話しかけてきた。
「今日もバイト?」中島はビニール傘の外側に並んだ。
「もう帰るよ」牧人は足を止めずに答えた。「今日は晩飯担当だから、スーパーに行く」
「えらいね。お母さんとお姉さんの三人分だろ」
「こないだまでは婆ちゃんの分も作ってた。ガキのときからやってきたからな。もう慣れたよ」
「僕には無理だな」
「中島は国立の一流大学に入るのがいちばん大事なことだろ。ピーラーでじゃがいもの皮を剥いている暇があったら、三角関数の問題でも解いてなきゃな」
牧人が茶化すと、中島は何も言わずに前を向いて小さく頷いた。中島の両親は二人とも大学の教授で、一人息子の将来に大きな期待を寄せていることを牧人は聞いていた。そして常に学年で上位の成績を収めることで、中島が彼らの期待に応えていることも知っていた。
「テストはできたのか」牧人は訊ねた。
「まあ、いつもどおりかな」
「順調だ」
「順調なのかな」中島は首を傾げた。「僕、こっちだから」
中島は歩道橋の階段に足を掛けている牧人を見上げ、手を振った。「じゃあ、野球場のお化けに気をつけるように」
脇道へ進もうとする中島に、牧人も手を上げた。「おまえも勉強のやりすぎでお化けに会わないように」
一日の授業が終わった帰り道、歩道橋の上からの景色を牧人は一人で眺めることがあった。片側二車線の国道をトラックや社用車がいつも埋め尽くしている。両側には牧人が生まれる前から営んでいるであろう文具店や中華料理店や倉庫会社が、身を寄せ合うように建ち並んでいた。くすんだコンクリートの校舎も町並みに溶けこんでいる。歩道には学生や新聞配達の自転車や荷車を押している老人が行き交っていた。いつも不機嫌そうな排気ガスがあらゆる隙間に漂っている町。たぶん何十年も前から変わっていない景色なんだろうと牧人は思った。数え切れない人たちが見てきた同じ景色。好きな景色ではなかった。灰色掛かった人や車に自分も流されてしまいそうだった。季節が秋から冬に移るほんの数日間、ちょうど国道の果ての消失点に夕日が沈むときは、その光から目をそらした。中島はあの夕日を見たことがあるのだろうか、そう思いながら牧人は歩き出そうとした。
「あれが中島さんですね」
やはり気づかないうちに、タキノセはビニール傘の中に入っていた。遠くの歩道を歩いている中島の背中を指差している。「最近はさらにスリムになられましたね」
「そこの交番に行くか」牧人はタキノセの腕を素早く抱えこんだ。
タキノセはもう片方の手で口元を隠し、低い声で笑った。「そんなことをしても無駄なことは牧人さんも察しているはずです。昨夜の私の振る舞いをご覧になって、こいつはお化けや妖怪の類だろうって馬鹿にされているんでしょう。お化けや妖怪に手錠をかけたことがある警官なんて、全国のどこにもいやしませんよ」
牧人とタキノセの横を窮屈そうに避(よ)けながら、何人かの高校生たちが通り過ぎていく。彼らは怪訝な目つきで一瞥したり、あるいは何も関わりたくないというように足早に去っていった。牧人はタキノセの腕を離すことにした。
「冬音さんにも冴さんにも、昨夜の話はまだしていないようですね」タキノセの大きな瞳が夏の光を受けて、一瞬真っ白に反射した。
「昨夜の話」牧人は目を細めた。「あんたに会ったことは二人に言ってない。言いようがない」
「違いますよ、牧人さん」タキノセは声を小さくした。「私のことじゃなくて、不吉な結婚の話です」
見過ごしてしまうほどの微笑を、タキノセは浮かべていた。あるいはそれがタキノセにとっての真顔なのかもしれなかった。母と姉の結婚よりも目の前の人物の方がよほど不吉な存在に思えた。
「昨夜は二人とも部屋に閉じこもって、顔を合わせなかった。今朝もみんな忙しくて、ろくに話をしていない。そして俺は今から晩飯の材料を買いに行かなくちゃいけない」
「それはそれは見上げたものです。人は食ってなんぼの生き物ですからね。そのためにみんな日々を過ごしているといってもいい。とにかく何かを食わないと、家族の営みも続けていけませんから。私も牧人さんの貴重な時間をいたずらに奪っているわけにはいきませんね」
「それじゃあ」牧人は足を踏み出した。
「あ、牧人さん、一つだけ。おそらく今夜、冬音さんからいくつかの話をされるでしょう。その中で爪のことが出てくるはずです。それに対して、あなたはとにかく肯定してください。はいとか、わかったとか、何でもいい。とにかく反論したり嫌がったりしないように。これからの滝乃瀬家のためにも」
タキノセは礼儀正しく手足を揃えて、牧人に一礼をした。そして後ろを振り返り、歩道橋の欄干に黒の手袋を嵌めた両手をついた。ひょいと反動をつけると、欄干を飛び越えて、エンジン音が行き交う車の流れへ軽々と身を投げた。あっというまの行動だった。牧人はとっさに歩道橋から身を乗り出した。やはり昨夜の水たまりと同じように変わったところはない。右折待ちの車が何台も列を作っている。牧人は車と車の隙間にタキノセが転がっていないかを確かめた。だが、遠くの歩道からこちらを不思議そうに見上げている誰かと目が合っただけだった。
牧人が十三歳のとき、重度の肺炎を引き起こす新型のウイルスが世の中に蔓延した。感染力が強く、死に至る確率も高いため、他人と二メートル以上の距離を空けて感染予防を図るようにとテレビのニュースは毎日アナウンスをしていた。ある報道番組で「大体二メートルというのは二人の人がそれぞれ傘を広げて、骨の先端が触れ合うぐらいの距離なんです。これからは感染予防にいつも傘を差しておくというのも一つの手かもしれませんね」とキャスターは笑いながら次の話題に移った。
翌朝から牧人は、自宅の傘立てで放ったらかしにされていた透明のビニール傘を差して、学校へ行くことにした。ちょうど五月の連休が明けた頃で、涼しく乾いた青空が広がっていた。傘を差している者などどこにも見あたらない。校舎が近づくにつれて、登校している同じ中学校の生徒がひそひそと笑う声が聞こえた。牧人は構わなかった。自分はすべきことをしているだけなのだと腹も立てなかった。まもなくして彼は日常的な行為として傘を差すことに慣れていった。彼と傘とのあいだには次第に自然な調和が結ばれるようになった。たとえ雨が降っていなくても、新型ウイルスの脅威が収まったとしても、自らの頭上に一本の傘を広げることで、彼は何かにそっと守られているような気がした。そのわずかな空間に自分のためだけの何かを確保することができた。そして同性を性的に求め始めている自分の心もビニール傘の中でひっそりと自覚し、ときにはそんな自分自身と距離を保つこともできた。それから五年の歳月によってウイルスの毒性が弱まり、二メートルの必要性など誰も口にしなくなってからでも、牧人はいつも一人で透明のビニール傘を差していた。
毎日ビニール傘を手にして登校することに、母の冬音も次第にうるさく言わなくなった。世間体を気にして「お巡りさんに呼び止められても知らないよ」と当初は眉根を寄せていたが、牧人が自分の身の回りのことを一人でこなすようになると、結局そういうことは息子自身のことなんだというふうに口を出さなくなった。
その日の夕方、牧人が台所でカレーライスの準備をしているときでも、仕事から帰ってきた冬音は期末テストの結果について一切触れなかった。
「牧、あんたこんな時間から飲んでんの」
洗面所から戻ってきた冬音はタオルで手を拭きながら、疲労を溜めこんだ抑揚のない声で言った。彼女の視線の先には、プルトップが開けられた缶ビールが食卓テーブルの上に置かれている。
「違うよ、カレーの隠し味だよ」牧人は鍋の底をゆっくりかき混ぜた。
「何それ、今までビールなんか入れてたの?」冬音は缶ビールを手に取り、商品名を見回しながら椅子に腰を下ろした。
「今日が初めて。ネットで調べた」面倒くさそうに牧人は答えた。
「へえ。苦味がコクになってくれるのかな。たださ、選挙権は十八歳から持てるけど、お酒は今でも二十歳を超えてからでしょ」
「じゃなくて、粕汁と同じだよ」牧人は小皿で味見をした。「粕汁で酔っ払ってる子どもなんか見たことないだろ」
「あそう」冬音は粕汁の話に興味がなさそうに窓の方に目をやった。そして手にした缶ビールに口をつけた後、肩の力を抜くように息を吐いた。
「ねえ、牧」冬音は咳払いをした。「今度の土曜は空いてる?」
牧人は振り返らず、煮詰まってきたカレーの鍋をじっと見ていた。「土曜の午前中はずっと寝てる。午後なら、なんとか体を振り絞って立ち上がれるかもしれない」
「土曜の夕方、横浜で会ってほしい人がいるの」
「俳句の人?」
「そう。実は冴にはもう話していて、冴も同席してくれることになってる。実はさ、再婚を考えてるんだ」
「誰と」
「やだから俳句の人と」
「やだから名前を聞いてんの」
「贄一さん」冬音は間を空けて答えた。「にえはじめ。生贄のにえって書いて、横一本のはじめ」
生贄の贄なんて十八年間で一度も書いたことがないと返そうとしたが、包丁やまな板の後片づけへと先に手が動いていた。蛇口から水を流して、調理用具の汚れを洗い落としながら、八月のアルバイト代が振り込まれたら、やっと自動食洗機を買えるだろうと貯金額の計算をした。
「夢子おばあちゃんがいなくなってさ」冬音は缶ビールを片手に続けた。「私もまた自分一人の人生に戻ったような感じがする。あんたがまだ小学校に入る前に七平さんが亡くなってから、私たち三人、夢子おばあちゃんとずっと一緒に暮らしてきたでしょ。だからこの家のどこかに七平さんもまだふっと佇んでいるような雰囲気がずっとしてたの。実際この家は、夢子おばあちゃんとあの人が何十年も前から暮らしてきた場所だからね。私、この家は結構好きだった。昔ながらの日本家屋の雰囲気が残ってて。でも夢子おばあちゃんに癌が判明して、それからみるみる小さく弱々しくなって、ぽつんと死んじゃうと、私自身これからの残りのことをどうしても考えちゃうのよ。牧も冴も大きくなったしね」
流水の音に紛れる冬音の声を、牧人はなんとなく聞いていた。錆が目立つ古い型のキッチンに最新の自動食洗機を設置することができるのかを調べた方がいいと案じていた。
「この家を出ていくってこと?」牧人は蛇口を締めて、タオルで手を拭いた。
「まだわかんない。まだちゃんとした話は贄さんとしてないから。でもここを出る可能性は高いかも」
「あなたがそうしたいなら、そうすればいい。別に俺や冴にわざわざ会わせて、了解なんて取らなくたっていいのに」
「そういうわけにはいかないよ」冬音は首を横に振った。「あんたたちのママチチになるかもしれない人だよ」
「ややこしいよ、ママ、チチって」
「継父ね。け、い、ふ。それにこの家をどうやりくりしていくかってこともあるでしょ。私も今の社労士事務所で仕事を続けるのかどうかも考えなきゃいけない。牧、あんたやっぱり大学には行かないの?」
「興味ないな」牧人は冬音の方に向き直り、流し台にもたれかかった。「別に金のことが理由じゃない。本当は中学を卒業した後、すぐにでも働きたかった。でも学歴がどうだの条件がどうだのってうるさいから高校に進んだだけのことだよ。それこそ金の無駄遣い。今のバイト先のジム、がんばって続けたら社員登用に繋がる制度もあるらしい」
「そのわりに、全然筋肉ついてないじゃない」
「マシンのメンテが好きなタイプなんだよ」
「へえ」冬音は話を終えるように立ち上がり、慎重に腰を伸ばした。「それじゃあ悪いけど、土曜の夕方五時、横浜駅で待ち合わせね。私は俳句サークルが終わってから贄さんと向かうから」
「あ」牧人は無意識に声を出した。言うはずのなかったことが口をついた。「タキノセっていう人と会った。昨日と今日。かなり気持ち悪かった。知ってる?」
「さあねえ」冬音は斜め上を見上げた。「滝乃瀬って、これまで生きてきた中で私たちしか知らないわ。滝乃瀬七平って初めて目にしたとき、なんか名俳優みたいな名前だなって、ときめいたのは憶えてるけどね」
昔を思い出すように微笑みながら、冬音は台所を出ていった。
七時を過ぎた頃に冴が帰ってきた。少し熱っぽくて、画塾でのアルバイトを早めに切り上げてきたと冴は力のない声で言った。「今日はカレーだけど」と階段を上がる冴に牧人が声を掛けた。「ああ、食べるよ、ありがとう。わたしはいつも食べて治す派だから」と冴は自室へと姿を消した。
食卓テーブルで牧人と冬音が夕飯を食べていると、長袖のTシャツに着替えた冴が顔を出した。冴がそばを通ると、いつも油絵の具の重たい匂いが牧人の鼻をつく。一瞬、口にしていたカレーが泥に変わった気がした。
「大丈夫なの? 体調」大して心配していなさそうに冬音が訊ねた。
「おそらく。生理前だから」疲れた様子で冴は皿に白米とルウをよそい、椅子に座った。最初に麦茶で喉を鳴らしてから、少なめに盛ったカレーを口にした。
「今日、何か入れた?」一口めの咀嚼を終えた後、冴はスプーンを止めた。
「ビール」牧人は自分のカレーを見つめながら答えた。
「すばらしい。まだ一日目でこれほどのコク。ほろ苦(にが)ビールカレーはもうレギュラーメニュー確定だ。牧、あんた料理人として生きていけるんじゃないの」
「カレー、隠し味、で検索するとすぐ出てくるよ。誰でもやってる」
「冴」冬音が口を出した。「よくその体調で細かい味がわかったわね」
「生理前はむしろ舌が敏感になるの」
「土曜までには良くなるかしら」
「おそらく、大丈夫。熱も明日には治まるでしょう」
「あ、牧にも話しといたから、土曜のこと。二人で一緒に来る?」
「あたしはその日、午前中から出かけるから。みんなそれぞれ横浜駅で待ち合わせだよ」
その夜はそれ以上、贄の話は出なかった。画塾に通う小学生の男の子からデートに誘われたことや、いまだにウイルスの感染予防でマスクを外せない子どもたちがいることや、大学の卒業制作に向けての絵の着想が浮かばないことを冴が話し、冬音がよそ見をしたり笑ったりしながら相槌を打っていた。二人の会話を聞き流しながら牧人はカレーを平らげると、皿を流し台に運び、玄関の横にある和室に足を踏み入れた。
そこは夢子の部屋だった。積み重なった過去をじっくりと煮込んだような風合いの戸棚や文机がそのままにされている。夢子のまわりに漂っていた乾いた空気もまだその部屋には留まっている。壁際の小さな仏壇では、七平の遺影の隣に夢子の遺影が加えられていた。その前で牧人は正座をした。そして火を灯した線香を立てると、鈴を鳴らして手を合わせた。
牧人にとって夢子は、父親のような祖母だった。おそらく彼が幼少の頃に死んだ七平の代わりに、父親の役を務めようとしていたのだろうと牧人は思っていた。無口だからということで同級生たちから蹴り飛ばされ、土まみれで帰ってきた牧人の姿を見て「今からやり返してこい。じゃなきゃこの家に入れない」と夢子は牧人の尻を叩いた。何を差し置いても男は甲斐性だと身に染みこませるため、家計簿を広げながら滝乃瀬家の毎月の収支を牧人に詳しく解説した。NHKの集金人を住居侵入罪だとして口撃し、NHKが映らないテレビに改造するための金を逆に脅し取ろうとした。それでもやがて自分に死期が近づいていることを察すると、夢子は何も言わずに牧人の手をそっと握ってくることがあった。
ゆっくりと瞼を開け、合わせた手を下ろしたとき、襖が開いた。
「牧、一つ言い忘れた」冬音が顔を覗かせている。「贄さんって人の体の仕組みに詳しい人なの。医者じゃないんだけど、そういった勉強を長くしていてね。あんたと会うときにも体の話をすると思うけど、そのきっかけとしてたぶん、爪を見せてほしいって言ってくるわ」
牧人は昼間の歩道橋の風景を思い出した。しばらく冬音を見上げた。「ちゃんと爪を切ってこいってこと?」
「ううん、そういうことじゃない。ただ怪しがらないで、爪を見せてあげてねってこと。わかった?」冬音は諭すように言った。
「ああ」牧人は短く答え、再び仏壇に顔を向けた。一瞬、二つの遺影が両方ともタキノセの笑顔にすり替わっていたことを牧人は見逃さなかった。
五七五の韻律に縛られず、季語を組みこむ必要もない。定型にとらわれない自由律俳句というものになぜ冬音が夢中になったのか、牧人にはよく理解できなかった。それまで読むものといえば新聞に挟まっている薄っぺらな生活情報冊子、あるいは分厚い通販カタログぐらいだったのに、あるときから冬音は本屋で買ってきたポケットサイズの歳時記を開き、ノートパソコンに向かって俳句を練り始めた。そして横浜で月に一度開かれる句会の場へ自分の作品を発表しに行くようになった。ちょうど牧人が中学生の頃だ。「そろそろ、わたしも自分の楽しみを大切にしなきゃ。これでも小学生のときに読書感想文で賞をもらったことがあるんだから」と姿見に向かって外出前の洋服を整えながら、冬音は得意げに笑顔をつくった。それにしても、と牧人は思った。それにしてもなぜ自由律俳句なのか。そもそも五七五のリズムでもなく季語もなければ、それを俳句と呼ぶ必然性はすでに失われている。
その男も一見、俳句を嗜んでいる人物には思えなかった。髪は短く刈りこまれ、ウイスキーのように肌が浅黒く、皺一つないグレーのスーツを着てネクタイを締めていた。土曜日の横浜駅では多くの人々が縦横無尽に行き交っていた。息苦しいほど湿度が高い中、首元までシャツのボタンを止めている男は物静かな修行僧のように牧人には見えた。汗一つかかず、涼しそうに口元を緩ませている。
「初めまして、牧人さん。私、贄と申します」
隣に立つ冬音から紹介された贄は右手を差し出した。牧人も反射的に右手を差し出し、握手を交わした。
「冬音さんからお話はうかがっております」贄は握手の力を強めた。「いつも家の手伝いをしながら、アルバイトで家計も助けていらっしゃる。もう立派な一人前の十八歳なんだと、私も身が引き締まります」
「あなたと冴のことは、ことあるごとに贄さんに話してるのよ」冬音が付け加えた。
牧人は贄の瞳を覗いた。虹色ではなかった。横浜駅に向かう電車の中で、牧人は吊り革を握りながら、これから会う男の風貌を想像した。冬音から外見的特徴を聞いていなかったので、具体的な像を結ぶことができなかった。もしかしたら全身を黒い服で包んだ虹色の目をした人物が待っているんじゃないかと訝しんでいた。
「句会はどうでしたか」牧人は思いついたことを口にした。
「今日もすばらしかったですよ」贄は微笑みながら、冬音の反応を確かめた。「冬音さんの作品は毎回評価が高いんですが、今日のは特に私のお気に入りでした。今日のはね──髪かきあげた遠くの竜巻──他のみなさんも全員この句を取られていましたよ」
「どういう意味」牧人は冬音に訊ねた。
「やだ、別に大した意味なんてないよ」冬音は照れくさそうに後ろ髪をいじった。
「牧人さん」贄が注意を向けるように声を落とした。「今日の天気予報、雨に変わっていましたか?」
牧人は手にしている自分のビニール傘に視線を落とした。天気の話題と同じように、これまで何十回も誰かと繰り返してきたやりとりだった。牧人は自動的に答えた。
「確認はしていませんが、念のためにいつも持ち歩くようにしてるんです。慎重な性格のもので」
「なるほど。確かにこの時期、突然の夕立ってこともありますからね」
そう頷いた贄のシャツの襟元はやはり清潔に乾いていた。
冴がやってきたのは、腕時計の長針が約束の時間にぴたりと合わさったときだった。大きめの黒縁眼鏡をかけ、薄い水色のシャツとベージュ色のパンツ姿で小走りに近づいてきた。絵を描くときのいつもの格好だ。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって」冴は頭を下げた。
「いえいえ」笑いながら贄も頭を下げた。「芸術というものは通俗的な時間から解き放たれるためにありますから」
互いの紹介が済むと、贄が先頭に立って歩き出した。「私にとって横浜といえば、洋食か中華なんです。どちらがいいかなと迷いましたが、これから夏本番に向けて辛いもので汗をかくのも体のためかなと思いました。こぢんまりとした店ですが、ここから歩いて五分ほどの場所です」
贄と冬音が並んで歩き、冴と牧人が後をついていった。もう何年も目的不明の工事を続けている横浜駅のエスカレーターを上り下りしながら外へ出ると、四人は人波を避けながら道路沿いの歩道を進んだ。誰かと晴れの日に歩くとき、牧人は基本的に傘を差さないことにしていた。
「母さんより二、三歳上かな」冴が身を寄せてきた。
「五十代半ばにしては若く見えるな」牧人は前を向きながら答えた。
「ずばり、ゴルフのレッスントレーナー」
「全然違う。画商だよ」
「まじで」冴の足が一瞬止まった。
「嘘だよ。仕事の話はしていない」
「なんだ」冴は肩を落とした。「私の絵、買ってくれるかもって期待したのに」
信号をいくつか通り越して、贄が指差した建物は七階建てのショッピングビルだった。その最上階に中華料理店の看板が掲げられている。エレベーターで七階に上がると、赤いカーペットが敷かれた先にタキシードを着た店員が上品そうに佇んでいた。贄が会釈をすると、名前を確認されることなく四人は店内に通された。夏の路上で溢れ出た汗がぴたりと止まるほど完璧な空調だった。どこからも雑音が聞こえてこない静かな廊下を進み、四人はいちばん奥の円卓に案内された。すでにコース料理が注文されているようで、ドリンクメニューがそれぞれに手渡された。「牧人さんも、せっかくですからノンアルコールのビールでもどうですか」とくだけた口調で正面に座る贄が勧めてきた。
父親ならこういうことを言うものなのだろうか──「せっかくなので本格的なウーロン茶にしておきます」と牧人はメニューを閉じた。
まもなく飲み物が運ばれ、四つのグラスを遠慮深い音で重ね合わせた後、冬音が切り出した。
「贄さんは絵画を扱うお仕事をされているの。普段はご自分のギャラリーにいらっしゃるんだけど、作品を仕入れるために日本全国を飛び回ることもあるのよ」
牧人と冴は眉を上げ、目を合わせた。贄は場を和らげるように白い歯を見せた。
「詳しくいうと、絵画だけではなくて骨董品や工芸品、彫刻なんかも扱っています。今はいろんなものを扱わないと、絵だけで食べていくのは画家も画商も厳しい時代になりましたから。自由が丘に自分の画廊があるんですが、都心から離れたゆったりとしたスペースなので、いろんなタイプの作品を展示することができます。まあ雑然としたところですが、今度ぜひみなさんでお越しになってください」
「私の友達で、画廊に就職が決まっている子がいますよ」冴が反応した。「芸大生の就職先ってとても数が少ないんですが、その子はタイミングよく銀座の画廊に採用されたようです」
「そうですか。うまくいくといいですね」贄は視線を落として、ノンアルコールビールに口をつけた。「私も若い頃は絵を描いていました。その延長みたいに軽い気持ちでこの仕事を始めてみたんです。でも描くことと売ることは全然違いますね。あたりまえのことですが」
「贄さんは自分で画廊を始められたんですか」冴が訊ねた。
「今から思うと無謀でしたが、そのとおりです」贄は頬を緩ませた。「祖父が繊維業で手広く商売をしていて、父もその後を継ぎました。ですが私の代になると、繊維ビジネスは海外に取って代わられる時代になりました。それでもある程度の資産は残っていたものですから、それらを整理し、自由が丘にスペースを借りて、学生時代の伝手を頼りながら、なんとかこれまでやってこられました。きっと運が良かったんでしょう。そういえば、冴さんはどんな絵を描かれているんですか?」
冴は眼鏡の位置を整えた。「私は人を描くのが好きです。といっても肖像画のようなバストアップじゃなく、全身を描くのが好きなんです。頭の上から足の先まで。なんでかわからないけど子どもの頃からそうでした。全身の方が、存在そのものを描けそうっていうか……。でも絵で生活していきたいなんて考えていないし、しょせん学生の絵ですから」
「ぜひ一度拝見させてください。興味があります。全身というものにこだわった絵に」
「スマホに写真は入っていないの?」冬音が冴のバッグを指差した。
「ないの。写真には残さない派なのよ」
前菜の盛り合わせが並べられて、四人は膝の上にナフキンを広げた。一品ずつ感想を言い合っていると、フカヒレの姿煮が現れた。前夜まで煮詰まったビールカレーで舌を飼い慣らしていた牧人は、味覚が正常に開放されるまで何度もスプーンを口に運ばなければならなかった。だがスーパーで買う食材と自宅の台所では決して作れない料理だということはすぐに理解した。まもなく頭が付いた伊勢海老の炒め物が目の前に置かれると、彼の目は少し眩んだ。
「牧人さん、食は進んでいますか」口数が少なくなっていた牧人に贄が声をかけた。
「とても美味しいです。ありがとうございます」牧人は軽く手を上げた。「ただ、どうやって食べればいいのかを考えてしまう料理は始めてだから」
「この子ったら」冬音は苦笑した。「料理を作るのはとっても得意なのにね」
「あ、牧人さん、そのまま」贄は声を高くした。「その手をそのままにして、爪をこちらに見せてもらえますか」
牧人は思い出し、冬音に目をやった。冬音は牧人の手に視線を固定しながら頷く。気が向かなかったが、牧人はゆっくり手首を回して、手の甲を贄の方に向けた。贄は両肘をテーブルに突き、顔の前で手を組んで、牧人の五つの爪を一つずつ順番に検分している。そのあいだ身動きもせず、瞬きもしなかった。牧人も手を動かさないようにしながら、相手の仕事のことを考えた。この男は画商として名もない芸術作品の市場的価値を吟味するときも、こんなふうに一瞬で張りつめた表情に変わるのだろうか。
「突然申し訳ありません」贄は手を下げるよう牧人に促した。「変な意味ではないんです。ほら、爪を見るとその人の体調がわかるってよく言うでしょう。それと似ています。牧人さんの爪は形もいいし、線も入っていない。ただちょっと白っぽいのが気になりますが、おそらく年齢的なものですね」
「どこかで勉強されたんですか」伊勢海老の身を一つ箸でつかんで、牧人は訊ねた。
「勉強というほど本格的なものじゃありません」贄も箸を手にした。「若い頃、モデルを前にしてデッサンをしていたときに考えたんです。人の肉体を描くのであれば、人体の知識を持っておいた方がいいんじゃないかと。骨格とか筋肉の付き方だとか。そんなことを調べていくと、だんだん内臓の働きとか代謝の仕組みとか血液やリンパの流れに興味が向いちゃって、絵はそっちのけになってしまいました」
「確かにありますよね、そういうこと」冴が同意した。「なんか身に付けてる服がうまく描けなくて、その素材がどういう特性なのかを詳しく調べちゃったり」
「そういえば爪ばかり描いている画家がいましたよ。キャンバスいっぱいに写実的に描かれた巨大な爪。私が爪に興味を持ったきっかけにもなりましたね」
「白い爪はどこが悪いんですか」牧人は訊ねた。
「どこが悪いというわけではないですよ」贄はナフキンで口を拭いた。「ただ赤血球がちょっと少ないのかなという感じです。でもそのときの体調に左右されるものですから。そうですね、牧人さんの爪は白っぽいというより、どちらかというと透明に近いですよね。いや、もう見せなくてもいいですよ」
それから北京ダックや和牛の唐辛子炒めや海鮮物の岩塩炒めや四川麻婆豆腐などが次々と運ばれた。そのたびに冬音と冴は声を上げたり拍手をしたりして、贄は素材の産地などを店員に訊ねたりした。牧人はあいかわず使用言語が異なる相手と根気よく話し合うみたいにじっくりと料理を味わった。最後に杏仁豆腐が出てきたときにようやく肩の力が抜けた。
「家族集まって、こういうところで食事を楽しむのはもう何年もなかったね」冴は姿勢を正してあらたまった。
「そうだね。夢子おばあちゃんも、もうちょっと長生きできていればね」冬音は視線を落とした。
「数年前、新型ウイルスの感染者が増加していましたよね」
贄は円卓の中央を見つめながら、唐突に話し始めた。「あのとき人と集まったり、距離を近くすることが極端なほど避けられました。こうやってみんなで食事することすら非難されたりして。仕方ありません。世界中が戦争みたいに大騒ぎしていましたし、生命に関わることですからね。私もしばらくは毎日一人で仕事をし、一人で食事を作っていました。一人で映画を観て、一人で本を読んでいました。昔から孤独は嫌いじゃなかったですから、結構心地よく過ごせていたのも事実です。正直、このまま一人で過ごすのも全然悪くないなと考えていました。図書館で過ごすみたいに静かな生活を送るのもいいかもしれないと。ただ同時に、だからこそ一体誰と一緒であれば同じ場所で過ごせるのだろうか、とも考えました。たとえ致死性の高いウイルスに感染する可能性があるとしても、それでも同じ空間を過ごしたい誰かが果たして自分にはいるだろうか──それまで一人で生きてきて、五十歳を迎えた私にとっては切実な問題でした」
贄はそこで口をつぐんだ。そしてテーブルの上で手を組みながら冴の顔に目をやり、牧人の顔に目をやった。最後に冬音の表情を確認すると、再び円卓の中央に視線を戻した。まるで同じ問題をみんなにも考えてほしいというような仕草だなと牧人は思った。テーブルの下で遊ばせていた革靴をこっそりと履き直した。
「まずは仕事とは違う何かを始めてみました」贄は再び話し出した。「言葉を扱うことは好きなのですが、長い文章は苦手なもので、短く小難しくないものとして見つけたのが自由律俳句です。そしてそこで冬音さんと出会うことができました。もう五年近くになるでしょうか。冬音さんと少しずついろんな話を重ねていくうちに、もしこの先、再び毒性の高いウイルスが世界に蔓延したとしても、私は冬音さんと同じ場所で毎日を過ごしたいと思うようになりました。この人の家族として、自分の残りの人生を共有したいと望むようになりました。長くなりましたが、今日私がお二人にお伝えしたかったことです」
ちょうど贄が話し終えたタイミングで、空になったジャスミン茶の急須を店員が取り替えにきた。冬音と冴は店員の手元を凝視していた。
おそらく冴も自分と同じ意見だろうと牧人は思った。冬音と贄、当人同士が望んでいるのであれば何の文句もない。自分たち三人はできるだけ同じ条件で生活をしてきた。それぞれ可能なかぎり手にした収入の一部を共同生活の支払いに充て、家事も平等に分担した。そのぶんそれぞれの自由を認め合った。冴の学費は奨学金制度を利用し、牧人の学費は夢子の預金から充てていた。母とか子とか学生という役割や立場を補完し合いながら、三人とも三人を束縛しないように生きてきた。冬音が望むなら画商と結婚して自由が丘に移り住めばいいし、もし冴が望むなら贄の画廊に就職すればいい。自分はそういうものと関係のない場所へ行けばいいだけの話だ。
円卓を覆うテーブルクロスの白さに、牧人はふと目を細めた。それでは、なぜ自分たちは三人で暮らしてきたのだろうか。長い時間をわざわざ同じ場所で暮らしてきた理由というものが果たしてどこかにあるのだろうか。
「贄さんの俳句ってどんなものですか」牧人は訊ねてみた。
贄は目を見開いた。そして苦笑して腕を組んだ。「俳句については、どうもいまいちですね。何年経ってもちっとも上達しません。句会でも赤をどんどん入れられます。生まれつきセンスがないんでしょう。ここで披露するのはちょっと恥ずかしいですよ」
「そんなことないよ」冬音が贄の肩にそっと触れた。「キャリアの長い人が多いし、一さんの感覚とちょっと合わないだけよ」
「そうかな。僕としてはかなり古典的な方法論で構成しているつもりだけど」
「ちょっと古典的すぎるのかもしれないね。句会のみなさんも定型俳句じゃなく、あくまで自由律俳句を選択しているわけだから。だってあの松下さんだって……」
そう冬音が話しかけたところで、牧人は席を立ちトイレに向かった。
牧人たちの他にはあまり客が入っていないらしく、遠くの客間で人影がちらつくほどだった。男性用トイレには個室が一つと小便器が二つあるだけで、上質な雰囲気のわりに手狭な空間だった。八時を過ぎていた。用を済ませた牧人は手を洗いながら、翌日のアルバイトの予定を頭の中で確かめた。夏休みの時間を使って、牧人はできるだけシフトを入れていた。朝から夕方までの時給であれば、自動食洗機の費用を除いてもいくぶんかの余裕が残る。ハンカチで手を拭いていると、爪が目に止まった。自分の爪はそれほど透明なのだろうか、牧人は右の人差し指を見つめた。そう言われると確かに透明のように思えたが、よく見ると爪の中に微小な黒い点を発見した。顕微鏡で拡大された細菌みたいにも思えた。点はくねくね動きながら、爪の先まで移動していた。まもなく爪の先から真っ黒な姿を現すと、練り飴のように細く緩やかに伸びてトイレの床に接地した。牧人の爪から伸びた細長い軟体は、それから空気を注がれたように膨らみ始めた。やがて肉が付き、四本の手足が形作られ、二つの眼窩がこちらに向けられると、それは家族家のタキノセとして牧人の目の前に立ち現れた。
「私の言ったとおり、やはり爪の話が出たでしょう」
あいかわらずタキノセの目は虹色に輝いていた。声は最初から女のように高かった。「これで私の話を信じてもらえるかしら。そもそも私が存在していることも疑っていたんでしょう」
「高い声は出さない方がいいよ」牧人は鏡に向かって言った。タキノセの姿は左右に反転して映っている。「外に誰かいたら誤解される」
「誰もいないよ、大丈夫。言ったでしょ、時と場所を選ぶって」
「時と場所を選んだ結果、人の爪から出てきたのか」
「気を利かせたのよ。別にその蛇口を通路にしてもよかったんだけど、ちょうど爪の話が出た後だったからね」
「もしそっちの便器の方から出てきたら、蓋を閉めて流してたよ」牧人は個室を指差した。
「あのね、あくまで私はあなたの家族家よ。さすがに大便扱いはどうかと思うけどな。確かに最近は冷たくあしらわれることが多くなっちゃったけどね……。まあいいや、どうだった、贄さん」
「どうと訊かれても」牧人は鏡越しに答えた。「別に悪い感じとか嫌な感じはしなかった。仕事に対しても真面目そうだし。お似合いの二人なんじゃないか」
「牧人さん」タキノセも鏡越しに言った。低く落ち着いた声に変わっていた。「私も話を聞いていて、そのような印象を持ちました。牧人さんや冴さんから話を聞きながら、自身の紹介も折り挟む。この先は冬音さんと共に生きていきたいという言葉には、実直な気持ちが伝わってきました。経済力にも不足していないみたいですから、冬音さんも安泰した老後を過ごせることでしょう」
「じゃあ問題ない。話は終わりだよ」牧人はトイレから出て行こうとした。
「ただそれは表層的な事象です」タキノセは声を固くした。「いくら人が良さそうでも、甲斐性が充分にあったとしても、だから禍をもたらさないということにはなりません。それらは目に見える場所の事象です。家族家という者は目に見えない場所に住んでおり、私もその場所から毎回訪れています。そこでは道理と混沌が同質であり、光と闇は混ざり合っています。仮に贄さん自身に問題や意図がなくても、贄さんが通路の役割となって悪い流れが滝乃瀬家に運ばれてくる可能性だって考えられます。牧人さん、あなたは先ほど問題はないと言った。でもそれは正しい言い方じゃない。あなたは興味がないんです。この件に関して、どうでもいいと思っている」
タキノセはそう言い切った後、首を傾けて微笑んだ。牧人は一瞬、苛立ちを覚えた。海底を一切合切さらっていく地曳き網に自分も巻きこまれていくような強引さを感じた。ビニール傘を手にしていないことを思い出した。もし今ここにあれば、金属の先端で虹色の目を突き刺すかもしれないと手に力を入れた。
「どうでもいいことだろう。どうしようもないことなんだから」牧人は乾いた声を出した。
「私は牧人さんに言いました。その牧人さんの二つの目でしっかり見てもらいたいと。見ることの真の目的は見えないものを見ることです。細部から全体まで入念に見渡して、そこにないものを見ることです。光に反射しないものを見ることです。もしそれが見えたなら、どうしようもないことだってどうにかすることができるのです」
「あんたの目的は滝乃瀬家を消失させないことだろ。だったらあんたの目で見て判断すればいいじゃないか」
「私もできる限りのことはやらせてもらいます。これからすぐに先方の家族家であるニエ様に会うことになっています。どんなことになるかはわかりませんが、コミュニケーションを精一杯図るつもりでいます。それが私の仕事ですからね。ただし、この現実の世界で現実的な力を持っているのは牧人さん、あなたです。今回の件に関しては、私ではなくあなた自身の力で現実を変えていく必要があるのです。そしてあなたは」
ドアの向こうから微かな足音が聞こえた。牧人が鏡に視線を戻すと、すでにタキノセは映っていなかった。横を向いても、白い壁紙が蛍光灯に反射しているだけだ。タキノセの言葉はまだ余韻を残していたが、牧人はドアを開けた。廊下の先から姿を現したのは贄だった。
「調子、崩しちゃった?」贄は微笑みながら近づいてきた。
「いえ、ちょっとスマホをチェックしていただけです」
「なら良かった。あの麻婆豆腐、山椒が効き過ぎてたかなと心配になって」
贄がトイレに入ろうとするすれ違いざま、牧人は振り返った。その瞬間、贄もこちらを見ていた。本当にスマホを確認していたのだろうかと訝しんでいる目つきに牧人には見えた。背後でドアを閉まる音が聞こえ、そのまま廊下を進んだ。もしかしたらトイレにまだタキノセがいるかもしれないと牧人の気は引きずられた。
円卓の席に戻り、しばらく三人で話していると、贄が戻ってきた。すでに会計を済ませてきたようだった。
「じゃあ、私たちは来月の句会の打ち合わせがあるから」冬音は立ち上がり、服を整えた。「あなたたち、悪いけど先に帰っておいてくれる」
「また今度、ゆっくりお話ししましょう」贄は申し訳なさそうに牧人と冴に向かって目尻を下げた。
ビルを出て同じ道を戻り、横浜駅の改札で二人と分かれると、牧人と冴は電車に乗りこんだ。何かのイベントが催されていたらしく、同じ原色でデザインされた袋を持つ人々で車内は混み合っていた。みんな互いのグッズを見せ合ったり、感想を言い合って笑ったりしている。牧人と冴は車両の端で吊り革を握った。
「酒は飲んだの?」窓の外を眺めながら牧人は訊ねた。
「全然。一滴も飲んでない」
「めずらしいね」
「飲む気になれなかった。なんでかな」疲れた表情で冴は小さく息を吐いた。
「贄さん、優しそうな人だった」牧人は試しに言ってみた。
「うん、優しそう」冴は窓ガラスに向かって無表情に答えた。「話し方も上手で穏やかだったし、北京ダックの皮も律儀に四人ぶん分けてくれたしね。牧と贄さんが席を外しているとき、母さんに訊いたよ。句会ってああいう人が多いの? って。いや、ほとんどは暇を持て余しているおじいさんだらけだって」
「相対的に贄さんの存在感は増すわけだ」
「今度、自由が丘の画廊に行こうって。きっとあんたも気にいるからって母さん言ってた。なんだか久しぶりに父さんのことを思い出しちゃった。いなくなったのは十年以上前だけど、わたしの中ではまだ面影が残っているんだ。なんかごつごつした人だった。でも重たい人じゃなかった。痩せた体にランニングシャツを着てて、毎日工場から帰ってくると缶ビールを飲みながらプラモデルを作ってた。小学生のわたしは父さんの横にぴたっとくっついて、接着剤の匂いを嗅いでたの。それが父さんの匂い。それで今日贄さんに会ってみて、あ、父さんとは違う人なんだって、馬鹿みたいにあたりまえのことを思った。それでなんとなく、お酒なんて飲みたくなくなっちゃった」
電車は大きな川に架かる鉄橋を渡り終えた。「反対なの?」牧人は訊ねた。
「ううん、反対じゃない」冴は牧人の方に振り向いて微笑んだ。「母さんがこの人だって決めたのであれば、それ以上何も言うことはない。ただそのこととは別に、私の中にいる父さんがひょっこり顔を出してきた、それだけの話よ」
電車は乗り換え駅に到着した。大勢の人々が降りた後、大勢の人が乗りこんできた。牧人にとって父は川だった。川のような存在というわけではない。あの何もかもを焦げ尽くすように暑かった日、七平はランニングシャツを脱いで川に入り、気持ちよさそうに肩まで水に浸かっていた。そして牧人に向かって、怖がらずに来てごらんというふうに手招きをしていた。川と父──牧人はいつもそこで目を閉じる。
「牧」呼び起こすように冴が言った。「わたしさ、大学を卒業したら家を出ると思うんだ。今付き合っている人と一緒に住むことになると思う。母さんにはまだ言ってない」
窓ガラスの夜景に冴が映りこんでいた。映りこんだ冴が一体どこを見ているのか、牧人は視線の先を探った。
「結婚するの?」
「どちらとも言えない」
「もし結婚したら、なんて名前になるの」
「それがさ、おかしいの」冴は短く笑った。「贄冴」
「え」吊り革を握る牧人の力が強くなった。
「贄孝太郎。それが彼の名前だから」冴は眼鏡の奥に指を入れて目をこすった。「恐ろしいほどの偶然ってあるんだね」
一瞬、真っ暗な窓ガラスにタキノセが映りこんだような気がした。
夏休みに入ると、中島がジムを訪れる時間帯は夕方に変わった。朝から予備校で夏期講習を受けた後、中島はそのまま自転車をジムへ走らせた。そして大体七時か八時まで汗を流した。血管を浮かせてバーベルを持ち上げたり、ランニングマシンで息を切らせたりする姿は、予備校の教室で費やした時間を必死で取り戻そうとしているみたいだった。
トレーニング中、牧人は中島に話しかけようとしなかった。知識を積んだ社員のトレーナーがときどき中島にアドバイスを与え、中島も質問を投げていた。だがトレーナーからどんなに実践的な鍛え方を教えてもらっても、あるいはどれほど激しい負荷を掛けて筋繊維の破壊と再生を繰り返しても、やはり中島の体はある程度以上には大きくならなかった。彼が向き合っているのは、今の筋肉量をなんとかキープをしていくためだけのたんなる労働といってもおかしくなかった。
「今日で五日連続だな」
ベンチに座り、スポーツドリンクを手にしていた中島に牧人は声をかけた。中島は顔を上げ、首にかけたタオルで額の汗を拭った。
「ちょっとやりすぎかな」
「やりすぎじゃないけど、毎日同じ時間に来て、同じことを繰り返して、同じ時間に帰っていくからさ、役所勤めの公務員みたいだ」
「時間は同じだけど、やってることは同じじゃないよ」中島は息を吐いた。「ウエイトは増やしてるし、ランニングのスピードも徐々に上げてる。そしてそれをこなせるようになると、さらに負荷を強くしている」
「じゃあそのぶんの筋肉はどこに行ったんだ」
「さあ」中島は首を傾げた。「生まれた瞬間に消えてるのかな」
「使い捨ての筋肉か。別にそれでもいいのかもしれない」
「牧人はなんでトレーニングしないの?」
「なんでって、ただ興味がないだけだよ。自分が鍛えることには」
「他人の筋肉には興味があるんだ。ちら見ばっかりして」
中島は声をひそめて、くすくす笑った。そんな中島の笑顔を見て、牧人ははにかんだ。
一年前の夏休みに初めて言葉を交わしてから、それほど長い時間を必要とせずにそれが始まったことを牧人は憶えていた。二人は確かめ合ったわけではなかった。秘密を交わしたわけでもなかった。ただ、初めから互いを求め合っていることは言葉にしなくても感じ合うことができた。むしろ言葉にしない方が、より互いを理解できた。たとえばビニール傘の骨に区切られた自分だけの空。一人で歩いていると、そこに中島が浮かんでくるように牧人には思えた。
牧人はシャワールームを清掃する準備に取り掛かった。客はほとんどいなかった。いくつものブースが整然と並んでいたが、中島が使用しているあたりからしか水音が聞こえてこなかった。牧人が床にモップを掛けながら、水音の方へ近づいていくと、気配を察したかのようにシャワーの蛇口が閉じられた。牧人はモップを握ったまま規則的な動きで移動していく。床が磨き上げられる清潔な音だけが響いていた。やがてその音を中断させるように、一ヵ所だけ閉じられていたブースの防水カーテンが勢いよく開かれた。
「どこに、行くの」
下半身にバスタオルだけをまとった中島が訊ねる。詰問するような口調だったが、表情は怯えていた。
「どこにも行きやしないよ」牧人は立ち止まる。
それ以上言葉を交わすことはなかった。牧人はモップを壁に立てかけ、中島の立つブースに近づく。ほんの少しの短い抱擁だった。牧人は水滴にまみれた中島の肉体をそっと抱き寄せた。中島は牧人が制服としてまとっているポロシャツを構わずに濡らした。相手の肉体の弾力を自分の肉体で確かめ合いながら、自動的に唇を重ね、舌を絡ませた。歯をぶつけ合い、相手の髪を掴んで、四本の脚を巻きつかせた。そこまで近づくと、牧人はいつも体を離した。壁際に戻り、モップを手にして、ブースに立ち尽くす中島を見た。中島はバスタオルが張りついた太腿を無防備に開き、腕をだらりと下げ、不安そうな視線を床の隅の排水溝に落としている。中島がさらに求めていることを牧人は知っていた。抱き合っている途中、中島は硬くなった性器を牧人の下腹部に押しつけていた。
だが牧人はそれ以上近づくことができなかった。このシャワールームでいつ誰に見つかるかわからないという危険。それ以外にも、奥の方で自分を押し留めているものの存在を牧人は感じていた。自分でもあり、自分以外のものが押し留めていた。よくはわからない。だがもしトレーニングジムのシャワールームで男子高校生同士が抱き合っている姿を見られたら、非常に面倒な状況に追いこまれる、それだけを考えるようにした。特に両親から有意義な将来を渇望されている中島が、そんな状況に立たされることは避けるべきだと思った。
中島はじっと牧人を見ていた。その顔には行き場のない微笑みが浮かべられていた。やがて二人だけの空間を終わらせるように防水カーテンがゆっくり閉められる。そしてシャワーの水音が再び聞こえてくる。牧人も何もなかったように規則的にモップで床を磨きながら、少しずつ中島のブースから離れていった。
中島は何も言わずにジムから退館していた。牧人もアルバイトを終えて、ジムを出た。彼は駅前の書店に立ち寄ることにした。まだ空は日中の青さを残していたが、ときおり熱の失われた風が吹き抜けた。そんな夕刻の空をビニール傘越しに見上げていると、仕事帰りの人々は邪魔くさそうに湾曲しながら牧人を追い抜いていった。
全国チェーンの大型書店に入ると、牧人は目的の本を探し当てるためにフロアを移動した。棚の分類名を見上げては首をひねったり、本の背表紙を一冊ずつ目で追ったりした。文芸でもないだろうし、自然科学でもないだろう。専門書の一角を見渡すと、美術書や歴史書の次に学術書という棚があった。ろくに勉強をしていない牧人にとってはおそらく死ぬまで手に取らない退屈そうな書籍が並んでいた。『幻獣事典』というタイトルを見つけると、牧人は手を伸ばした。目次には、東洋で伝えられている龍や麒麟や八岐大蛇から、ギリシャ神話に登場するケンタウロスやキマイラやセイレーンなど、古今東西の幻獣の名が連ねられている。本文ではイラスト入りの詳しい解説が書かれていたが、あくまで学術書の体裁なので字は小さく、小難しい熟語がコンピューターの基盤のように精細に印刷されていた。牧人は小さくため息をついて本を閉じた。そこには知りたい情報よりも、知らなくてもいい情報ばかりが溢れていた。『幻獣事典』を棚に戻して、やはりスマホで調べようかと視線を上げたとき、離れた棚に英単語ブックほどの一冊が目に入った。毎朝電車の吊り革を握りながらでも読める判型だったが、そのタイトルは朝の車内に決して似つかわしくないように思えた。牧人が手にした本の表紙には『絶望のユニコーン事典』と印刷されていた。
ユニコーンについて不意に中島が話したのは数日前のことだった。数年前に流行した致死的なウイルスは人工的に操作されたものだろうという中島の意見から、ユニコーンの話題へと派生した。
「ウイルスっていうのは古代から人類と共生してきたんだよ」中島はジムのベンチに腰を下ろし、壁に頭をもたれさせていた。「ウイルスは人類の体温を上げ、咳で飛沫を飛ばせて、増殖してきた。自らの種の力だけでは増殖できないから、他の生命に取り憑くしかない。だから基本的に人類や他の生物を急に死に追いやってしまうと、自分たちも生き延びることができないんだ」
「つまり致死的なウイルスが突然発生して、世界に爆発的に広がったのは不自然だったってこと?」中島の隣に座っていた牧人は訊ねた。
「うん。僕はそう思うな。危険なウイルスが蔓延する度、人類は対抗策を講じてきた。ちなみにその一つとして言い伝えられてきたのがユニコーンの角なんだ。刀ぐらいの長さで、くるくると螺旋状に切削されたみたいにまっすぐ伸びている。とても美しい形だよ。ユニコーンの角には解毒作用があったといわれていて、解熱効果や天然痘の特効薬としても重宝されてきた。ヨーロッパでペストが流行したときは、すごく高価だったにもかかわらず、買い求める人たちが薬局に殺到したらしいよ。実際はユニコーンじゃなくイッカククジラの角だったんだけどね」
「なんだよ、突然ユニコーンって」牧人は中島の横顔を見た。
「ときどき夢に出てくるんだよ。それで気になって、本を読んだりして調べてみたんだ。ユニコーンの角にはあらゆる毒を中和する力があるとされて、古代の人々はユニコーンを捕らえようとした。だけどユニコーンは気性が荒く、きわめて獰猛で、足は馬より速く、鋭く尖っている角はどんな硬い岩でも突き通すことができる。ユニコーンを殺すことができても、生け捕りにすることはできないと言われたほどなんだ。ユニコーンの方も捕らえられて生きるぐらいなら、死を選ぶぐらい誇り高い生き物らしい。ユニコーンを生きたまま捕える唯一の方法は、若い処女にユニコーンを誘惑させること。ユニコーンの住む森で処女を一人にさせておくと、処女の匂いを嗅ぎつけたユニコーンが近づいてくる。そのときには獰猛さはすっかり影を潜め、木漏れ日に白い毛並みを照らして、処女の太ももの上に頭を乗せて眠りこんでしまう。おとなしくなったところを一気に捕えるっていう方法さ」
「ユニコーンはかなりの女好きなんだ」
「そう。でも処女に限る。もし処女が偽物だとわかったら、発狂してその女を角で刺し殺すんだ」
「大学受験に出される問題としては生々しいな」
「出されないよ」中島は笑った。「でもね、ユニコーンの話を読んだとき、たんなる動物というよりかは人間みたいだなって思った」
「昔の話っていうのは動物を擬人化したものが多いだろ。特に想像上の動物は」
「擬人化っていうよりも」中島は牧人の方を振り向いた。「なんだか僕について書かれているみたいだなって」
レジで支払いを済ませ、牧人は『絶望のユニコーン事典』を鞄に入れた。外に出ると、日はビルの合間へと傾いていた。なんだか自分の手にしているものはユニコーンの角みたいだな、ビニール傘を広げながら牧人は少し可笑しくなった。
信号待ちをしているとき、すでにタキノセは牧人の背後に立っていた。
「まず順序として、私から報告すべきことを報告します」牧人の首のすぐ後ろでタキノセは低い声を出した。「ニエ様と話を致しました。先方の家族家はえらく冬音さんのことを気に入っておられました。ぜひとも贄家の流れに取りこみたい様子で、今回の縁組を有り難がっていました」
信号が青に変わり、牧人は歩を進めた。タキノセも同じ歩幅でビニール傘の中をついてくる。
「あのさ、せめて傘から出てくれないか。まわりの視線が煩わしいんだ」
「これはこれは。失礼しました」
タキノセは頭を下げて、牧人の背後からふっと姿を消した。牧人は一瞬立ち止まり、あたりを見回した。タキノセはすでに別の場所に移動していた。顔を上げたビニール傘の内側、スチール製の骨に区切られた二等辺三角形のスペースにタキノセの顔が貼りついていた。
「私は助言しましたよね、牧人さん」タキノセはいつもの微笑みを浮かべた。「見ることの真の目的は見えないものを見ることだって」
「この状況にはかなり違和感があるぞ」
「仕方ありません。そもそも牧人さん、あなた自身に違和感があるんですから」
「どういうこと」牧人は前方を見ながら、声を小さくした。
「その前にニエ様の話です。私の見立てによると、贄家のこれまでの流れには何か不安定なものがあると感じられます。突然弱くなったり強くなったりして、突発的な勢いでそこに内在するものを揺るがせたり、傷つけたり、損なったりする場合が考えられます。もちろん、あの贄一さん自身に問題があると言っているわけではないです。これは決して個の問題ではありません。ですがこのまま冬音さんと贄一さんが結婚をすると、滝乃瀬家の誰かが毒される可能性は残念ながら否定できません」
「毒される?」
「あくまで抽象的な意味です。牧人さんと中島さんが使っていた言葉を私も使ってみただけです」
「滝乃瀬家の誰かって三人しかいないだろ」
「はい。これまでは夢子さんの存在が滝乃瀬家を強く守ってきました。だからおかしな流れも近づいてこられなかった。でももう夢子さんはいない。これからはあなたがた三人でなんとかしていかないといけません。横浜での会食からしばらく経ちますが、冬音さんからは何か言われましたか」
「何も」牧人はいつものように野球場の方に足を向けた。「俺も冴も何も言わないし、母さんは変わらずに相手と会っているみたい。また四人で会う予定は今のところない。だから俺にはどうしようもない。悪いけどな」
ビニール地の中からタキノセは黙って牧人を見下ろしていた。じっくりと思案しているように渦巻く虹色の瞳を牧人は無視した。こいつはたんなるメタファーなんだと牧人は見限っていた。たぶん十八歳の若者が将来に対して抱えている漠とした不安がメタファーの形をとって現れたものだ。あるいは心の隅に巣食っている影のメタファー。そんな安っぽい文学的解釈でこいつの存在はたやすく説明できる。偏差値の低い大学の受験問題だ。幻獣として古来言い伝えられてきたユニコーンほど上等な代物でもない。俺はずっと俺と会話をしているだけなんだ。そんな奴の話に付き合うわけにはいかない。
「中島さんとのお付き合いは続けていくつもりなの?」
野球場の半分まで横断して、ちょうどピッチャーマウンドの投球プレートに足を掛けたとき、やっとタキノセが声を出した。高い声に変わっていた。牧人は視線を上げた。親しげな表情はなかった。彫刻刀で荒く削り出したような鋭い目は真っ赤に染まり、牧人を激しく睨みつけていた。牧人はビニール傘を閉じた。だが金属の先端を地面に突き刺した瞬間、タキノセはすでに牧人の目の前に真っ黒な全身を現していた。
「ねえ」タキノセは続けた。「中島っていう奴とは手を切らないの」
「おまえに何の関係がある」
「大いに関係あるよ。もちろん牧人さんは中島と結婚できない。だからこそ問題なのよ。わかってるだろうけど、冬音さんや冴さんだけの問題じゃない。牧人さん、あなたがこのまま結婚しないと滝乃瀬家は消失する。いくら頭が悪くても知ってるよね。この国の法律じゃ同性同士の入籍は認められないって」
「滝乃瀬家が消えたら、おまえも消えるんだろ。じゃあさっさと消えろ。俺には関係にない」
「牧人、しょせんあんたはただのちっぽけな個でしょ。でも私は滝乃瀬家の家族家として、このまま何も言わずに消えるわけにはいかない。歴史的に繋ぎ渡らせてきた流れを止めるわけにはいかないのよ。いいか、もうこれ以上中島とは付き合うな。縁を切れ。中島こそ滝乃瀬家に不吉な流れをもたらす者なんだ」
「ただのちっぽけなメタファーのくせに偉そうだな」
「メタファー?」タキノセは不思議そうに赤い目を大きく見開くと、甲高い笑い声を上げた。「私が何のメタファーだっていうの? え、もしかしたらあんたのひん曲がった精神のメタファーだっていうのかしら。何それ。すっごく退屈でつまらない発想。まあ、あのテストの点数だから仕方ないか。あんたは子どものときから退屈でつまらなかった。何かが起こっても、指一本動かさないタイプだったわね。確か七平が目の前の川に流されていくときも、指をくわえて見ていたガキだった」
油を注いだ火のように赤黒く燃え始めたタキノセの瞳に、牧人は目を細めていた。タキノセの言うことは正しいかもしれないと思った。確かにこいつは俺のメタファーなんかじゃない。俺はこいつとは別の場所にいる。こいつは俺以外の誰かのメタファーだ。あるいは何かのメタファーだ。いや、そんなことはどうでもいい。メタファーじゃなくていい。何だっていい。牧人は絞め殺すようにビニール傘の柄を握りしめた。そして腰を落とし、素早く腕を後ろに引き寄せ、力の限りに金属の先端をタキノセの腹部に突き刺した。
泥が蠢く手ごたえが伝わってきた。耳元で低く囁く声がする。
「おまえは滝乃瀬じゃない。偽物だ」
顔を上げると、金属の先端はタキノセの背中から飛び出していた。その後ろでは、夕焼けの朱が空から消え去ろうとしていた。トレーニングを終えて、ベンチで静かに休んでいるように牧人の肩は上下に揺れていた。
その日の夕食は冷麺だった。台所のテーブルで滝乃瀬家の三人は麺をすすっていた。冴が茹でた麺はいつも硬すぎるか柔らかすぎた。茹で卵も硬すぎるか柔らかすぎた。その日は硬い麺と硬い茹で卵が口の中で決して混ざり合わず、牧人は何度も麦茶を口にしなければならなかった。
川の流れが止まってしまったみたいに、タキノセは牧人の前に姿を現さなかった。トレーニングジムで中島と指を絡み合わせて濃密な口づけを交わしても、ビニール傘を広げながら野球場を横断しても、タキノセの虹色の目はどこにも反射しなかった。冴がテーブルに肘をつきながら、贄孝太郎について話し始めたとき、牧人は思い出した。そういえば冴の相手についてもあいつは文句を言っていたな。
「牧、あんた白髪あるね」
箸の先で牧人の頭頂部を指しながら冴が言った。牧人は髪をかきあげた。毎朝の洗顔時に鏡を見ていても、彼は気づいていなかった。
「そういえば一さんに言われてたよね」冬音が言った。「爪の色が薄いって」
「薄いじゃなくて、透明っぽいって言われたんだよ。赤血球が少ないって」牧人は訂正した。
「若白髪に透明の爪。あんた大丈夫なの。ちゃんと食べてる? このまま消えちゃうんじゃない」冴が笑った。
「麺が硬すぎて、ちゃんと消化吸収されないんだよ」
「ところで牧」冴は牧人の言葉を無視した。「今度、孝太郎の作品が展示されるんだ」
「孝太郎って、例の」
「そう、例の孝太郎。展示っていっても学生が自分たちで企画して、自分たちで作品を集めた学生展だけどね。もちろん私は行くんだけど、母さんたちも観に行きたいって言ってくれてるんだ」
「一さんも若い才能を楽しみにしてるって」
冬音と冴はそれぞれの相手を下の名で呼ぶようになっていた。贄という姓が大量に飛び交う混乱を防ぐためだ。贄一と贄孝太郎は血縁関係にあたらないだろうと、二人は本人に確かめていた。もしかしたら遥か遠い縁で繋がっているかもしれないが、そこまでは家系図を引っ張り出さないと誰にもわからないということだった。
「会ったことはあるの」牧人は冬音に向かって訊ねてみた。
「実はある」冬音が答える前に、冴は申し訳なさそうに顔の前で手を立てた。「あんたがお盆休みでもバイトに夢中になってるから、母さんも一さんも一度うちの大学のアトリエに来て、孝太郎に会ってもらったことがあるんだ」
「そうなんだ。別にいいんだけど」
ふと中島の顔が思い浮かんだ。中島はいつも利用者が少ない時間帯を選んで、ジムを訪れていた。黙々と草を食む草食動物たちのような器具に囲まれてトレーニングを続ける中島を、牧人は遠目から眺めていた。そういえば『絶望のユニコーン事典』を買った話はまだしていなかった。二人だけの静かなフロアでユニコーンの話をするのも悪くないと思った。
「友だち、連れて行っていい?」牧人は残った麦茶を飲み干した。
「友だち? 別にいいけど」冴は首をかしげた。「めずらしいわね。牧が誰かを連れてくるなんて」
「美術に興味がある奴がいるんだ」
「へえ、何かと縁があるわね」
「いつ?」
「次の次の日曜日」
牧人は食器を下げると、階段を上がって自分の部屋に入った。わずかな広さでありながら子どもの頃から割り与えられた彼の部屋は、畳の縁が見えないほど物が散乱していた。座卓テーブルの上に置かれたゲーム機専用のモニターにぶつからないように注意し、床に放り置かれた学校の鞄を本棚の方へ足で押しやると、窮屈そうに押しこめられているベッドに身を投げ出した。牧人はスマホを手にした。次の次の日曜は夏休みの最後の日だった。その日は自動食洗機を選びにいこうと思っていたが、家電量販店なんていつでも開いている。それよりも中島の夏期講習はいつまで続くのだろうか。牧人の透明な爪は中島へのメッセージを打ち始めた。
[夏休みの最後の日は空いてる?]
送信を押して、天井に向かって目を閉じた。その瞬間すぐに手元が震えて、中島から返信が届いた。
[空いてるよ]
牧人は天井に向かってメッセージを打ち返す。
[息抜きに美術展でも行かないか。姉さんの知り合いが作品を出すんだって]
[行く。たぶん夏休みを満喫できるのは最後の一日だけだよ]
[俺の家族も来るんだけど、いいか?]
少し間がある。[牧人はいいの? 僕が来ても]
[だめなら呼ばないさ。今どこ?]
[ジム。ちょうど休んでるとこ]
[こないだユニコーンの本を買った。別に中島みたいだとは思わなかったけどな]
[ユニコーンに興味持ったんだ! なんか意外]
[タイトルに惹かれたんだよ。絶望のユニコーン事典]
[あ、ごめん、ちょっと人が来たから別のところに移動する]
それからしばらくすると、再び中島からメッセージが届いた。まわりにはもう誰もいなくなったという内容だった。牧人は待ち合わせ場所を送信した。
男は深めの黒いバケットハットを被っていた。首の後ろから背中まで伸びたウェイブ気味の長髪は手入れされている様子はなく乾燥していた。対照的に黒いTシャツと黒いジャケットと黒いスラックスは皺一つなく、高級な生地が使われているようで滑らかな光を放っていた。背が高くて手足も長く、目深に被った帽子のせいで目元がよく見えないぶん威圧的な印象だった。無精髭を伸ばした口元が、必要最低限の動きしかしないようにわずかに変形する。
「贄……孝太郎です」
自作の作品を背にして、贄孝太郎は簡潔に自己紹介をした。そして牧人と中島のあいだにぼんやりと視線を合わせた。
中島とは地下鉄の改札口で待ち合わせた。襟のあるシャツの長袖を肘まで捲りあげている中島は「えらくラフだね」と牧人を見回した。牧人は白いTシャツとジーンズに、アウトドア用のサンダルを履いていた。「芸術って格式張るものじゃないだろ」と牧人が返すと「白Tジーパンはすでに一つのスタイルだよ」と中島は笑った。地上に出ると、厚い雲が午後の空を覆い、湿った風が弱々しく漂っていた。牧人はビニール傘を開かずに中島と肩を並べた。横断歩道を渡ったり、オフィスビル沿いを歩いたりした先に小学校が見えた。冴から手渡されたパンフレットによると、都心部の少子化が進んで廃校になった校舎を展示会場にしたとのことだった。その年の三月に廃校になってから公園化への工事が始まるまでの一年間、自治体は校舎を使用希望者に貸し出すことを許可していた。牧人と中島は校門を抜けて運動場を横切り、受付を済ませて校舎の中に入った。廃校にされたばかりで、窓ガラスや消化器やロッカーはまだ色褪せておらず、廊下の壁には指でこすると消えそうな落書きがまだ残されていた。階段を上がって窓を覗いてみると、予想以上に多くの人たちが運動場に点在していた。牧人と中島はあらかじめ冴から教えられていた三―一の教室を探した。
「うちの大学が窓口になってくれたから、スムーズに借りられたんだ。ホームページに載せて告知もしてくれたし」
椅子や机や教卓が取り払われた教室を見回しながら冴は説明した。「別に展示のテーマは決めてないの。でもここを借りることは前から決まっていたから、なんとなくみんな廃校ってことをイメージして制作したかもしれない。そんな感じは共通してあるわね」
冴は同意を求めるように横に立つ贄孝太郎を見上げた。彼はあいかわらず手持ち無沙汰のように黒板あたりをぼんやりと見ていた。頭の上から足の先まで黒で統一された贄孝太郎の服装に、牧人はタキノセを思い浮かべずにはいられなかった。腹部にビニール傘が突き刺さり、仄かな夕日に照れされているタキノセの微笑。牧人は贄孝太郎から視線を外した。
「牧、孝太郎のはこれだよ」背後にそびえる作品に向かって、冴は親指を立てた。
三―一の教室に入った瞬間から、牧人はその奇妙な物体に目を奪われていた。まず巨木の幹のように太く白いものが教室の床から伸びていた。天井に到達するぐらいの高さに達すると、白いものは噴水のように何本かに分散して床へと落ち始める。そして床に接するほどの位置でそれらは再び分散し、それぞれ方向を変えて天井や壁に向かっている。そんなふうにして、白い分散が何百回も繰り返されていた。全体の形状としては、限定的な空間に閉じこめられた細かい網目状の巨大なブロックと形容できた。白い一本が他の何かに接近すると、いくつかに分散して接触を避け、次の分散に向けてそれぞれが少し肥大する、そんな原則が作品を統一させていることは牧人にも理解できた。作品自体は精緻に制作されているが、それを支配する原則はシンプルだ。だがその流れを目で追えば追うほど、どこかずれのようなものを牧人は感じた。教室の半分を占めるほどの大きさにもかかわらず、重量というものが感じられなかった。牧人は目を凝らして作品の材質を確かめようとした。しかしどの表面ものっぺりとした乾いた白をしていた。しかも細かく複雑に何重にも交差しているので、内部に広がる奥行きの感覚を見失うことがあった。
「材料はティッシュペーパー」
身を乗り出して観察している牧人に向かって、贄孝太郎が声を掛けた。
「ふうん」牧人は小さく反応した。
「まずティッシュペーパー一枚一枚を特殊な糊で層のように重ね合わせて、大きな直方体を作る。さっき冴ちゃんが言ったようにこの廃校の教室での展示が前提だったから、ぴったりと納まる直方体まで重ねていくのにやたらと時間がかかったよ」
「直方体」白く伸びるものを牧人は見つめていた。「あとから削った?」
「そう。建築現場で使われている特殊な糊だから、ティッシュペーパーでもぐいぐい押しつけていくと発泡スチロールぐらいに固まる。途中からはこの教室に運んでからの作業になったけど」
「この白いものを繋ぎ合わせたんじゃなくて、直方体から削り出した」牧人は贄孝太郎の方を向いて確かめた。
「ああ、そうだけど」贄孝太郎は少しバケットハットを上げて、不思議そうに微笑んだ。「鑑賞者にとってはどっちでもいいと思うよ。繋ぎ合わせようが削り出そうが、制作の過程なんて。でも僕にとっては削り出すことに意味がある。削り出す過程、制作している作業と時間にこそ意味があって、完成したものからはすでに意味は失われているんだ」
「意味はないんですね」
「意味は与えられるものじゃなくて、発見するものだろう。鑑賞者も制作者も。実際この作品もまだ作り続けられる。さらに細かく削ろうとすれば削ることができる。この教室っていう空間に閉じこめられていても、原理的には無限に細分化していくことができる。でも僕はこの段階で意味を使い果たしてしまった。こうやって制作者と鑑賞者は常にすれ違っている」
贄孝太郎は話しているあいだ牧人を見ていなかった。筆で描いたような細い目は庇の奥から牧人に向けられながら、そこにはない別の何かを見ていた。
「すごく興味深いのは」中島が話に加わった。「どうやってこんな複雑に入り組んだ構造を削り出すことができたのか。素人だから単純にそこに関心がありますね」
贄孝太郎は何度か頷き、中島の質問を吟味した。「一般的には前後左右上下の六面に完成図の線を引いて、それに沿って彫刻刀やナイフで削っていく。でもやっぱりそんなやり方は僕にとって意味がなかった。削り出す作業と時間が生み出していく然るべき形を一つ一つ目にしていくしかない」
「これは重いんですか」中島は続けて訊ねた。
「見た感じよりは重い。いくらティッシュペーパーでも十年分以上は使ってるし、糊も大量に混ざってるから」
話が途切れると、贄孝太郎はしばらく二人を観察した。まず中島の全身を顔から靴の先までなぞるように眺めると、次は牧人の全身に視線を移してきた。途中、右手に握られているビニール傘で彼の目は止まったが、特に気に掛けることでもないというふうに贄孝太郎は牧人の顔に視線をゆっくりと戻した。冷静で安定した目つきだった。自分という削り出されたものが本当に然るべきものなのかどうかを判断されている、そんなふうに牧人には思えた。
「何、がん見してんの」冴が肘で贄孝太郎を突いた。
「あ、ごめん」贄孝太郎は初めて大きな声を出した。「つい、いつもの癖が出た」
「なんだ、ここにいたの」
冬音が教室に入ってきた。後ろには贄一が立っている。
「言ってたでしょ。三―一に集合ねって」冴が口を尖らせた。
「あ、そうか……みんな三年一組ってことだね」冬音はごまかすように冗談めかした。
「ああ、これだね」贄一は足を進めると、腕を組んで贄孝太郎の作品と対峙した。細かく角度を変えながら作品に見入っているあいだ、中島は冬音と挨拶を交わした。
「スポーツをされているの」中島の胸板を見ながら冬音が訊ねた。
「いえ、ジムに通っているだけです」
「ジムって、牧がバイトしてるところ?」
「はい、そうです」
「なんだ、そうだったのね。この子、何にも言わないから」
「言ったよ。二回」牧人は言い返した。
「嘘だよ。言ってない。私だってまだしっかりしてるんだから。何でもかんでも忘れないよ」
冬音が大げさに拗ねた態度で牧人を睨むと、中島がくすくす笑った。
「いい腕してるね」贄一が満足げに頷きながら、贄孝太郎に言った。「私ら画商はまず技術を見るんです。芸術の価値ってどうしても抽象的なことに重きを置きがちです。もちろんそれは重要な要素ですが、手のひらに乗せられる具体的な価値としては、いろんなお客さんに提示しづらい。だからまず筆の運びや塗りのタッチ、彫刻であれば精緻で正確な彫り具合などで判断します。孝太郎くん、これだけ高いレベルの技術をお持ちなら、まず職人として雇ってくれる工芸会社はいくらでもあるでしょう」
贄孝太郎はバケットハットの位置を調整しながら軽く頭を下げた。「ありがとうございます。そういう視点で意見を言ってもらえることはないので、新鮮で参考になります」
「前にも言ったけど、自分から作品に意味はないって言っちゃ絶対に駄目ですよ。作品はただの抜け殻なんて言っちゃいけない。その瞬間、買い手はそっぽを向いて興味を失いますから。もし芸術で飯を食っていきたいなら、もっと勿体つけて、観る方が納得できる意味を与えてあげないといけませんよ」
忠告を受ける贄孝太郎の横顔を牧人は見ていた。バケットハットの陰になって無精髭の角度からしか判断できなかったが、やはりその視線はどこか別の場所に向けられているように思えた。
「この作品のタイトルは?」贄一はあたりを見回しながら訊ねた。「どこにも作品情報がないね」
贄孝太郎はふと顎を上げて「タイトルですか……」と思い出したように呟いた。
「家族の団欒、です」
冴が床に置いていたリュックを背負った。「じゃあ私たち、これから他を観てまわるから。みなさんもどうぞご自由にご鑑賞くださいね」
冴と贄孝太郎が教室から出ていくと、まもなく冬音と贄一も出ていった。牧人と中島は二組と違う方向に進んで校内を回ることにした。一つの教室に大体二点から三点の作品が展示されていた。多くは絵画や彫刻だったが、なかには実写とCGを織り交ぜた映像作品も映写されていた。いくつもの教室を出入りしたが、どの作品に対しても牧人が興味を持てずにいると「早いよ」と中島が後ろから追いかけてきた。三階の端にある六―四が最後の教室だった。そこには三枚の絵が展示され、ある一枚の横に滝乃瀬冴と印字されたパネルが掲げられていた。絵のタイトルは『廃子』だった。
「この子は誰だろう。親戚?」中島が絵を観ながら不思議そうに訊ねた。
油絵の具で描かれていたのは、立ち尽くしている子どもだった。一〇〇号キャンバスの真ん中あたりまでの背丈しかない。耳を隠す髪は肩あたりまで伸び、やはり黒い格好していた。詰襟のついた学生服を着て、黒い革靴を履き、黒いランドセルを背負っている。正面を向いて顎を引き、指先はまっすぐ伸ばされ、両足は行儀良く揃えられていた。
「もしかして小さい頃の牧人かな」中島が言った。
「違うだろ。こんな学生服は着てなかったよ。タイトルからして、たぶんこの学校に通っていた子のイメージだろうな」
子どもの頭上に大きな空間があった。牧人が気を取られたのは、その空間が丸く虹色に彩られていることだった。赤や黄や青などの七色が混ざり合いながら、二つの渦を巻いている。それに対して子どもの目は真っ黒に塗り潰されている。絵を観ていると、それは冴が描いたものではなく、自分が作りだした妄想のように牧人には思えた。
「行こうか、中島」牧人は踵を返した。
「うん」中島は呟いた。「じゃあね、廃子ちゃん」
一階まで降りて、ガラスドアの先に運動場が広がったとき、牧人はふと「廃子ちゃん」と口にした。
「ん?」
「そうか、女の子なのか」
「どうだろうね」中島は首をひねった。「僕はそう思ったけど。僕の小学校では女の子でも黒いランドセルを背負ってたから」
誰もいなくなった運動場を灰色の雲が覆っていた。そういえば帰りのことは何も言っていなかったと思い出したとき、冬音からのメッセージがスマホに届いた。
[一さんが、みんなで夕食でもどうって言ってくれてるんだけど?]
牧人は返信をせずに、ディスプレイに視線を落としていた。冬音のメッセージは一つの絵を想像させようとした。しかし水量が多すぎた水彩絵の具のように、輪郭線は曖昧に滲んでいる。贄孝太郎の作品を覆っていたずれと似ていた。そこに明白に存在しながら、その明白さは同時に不在を示唆している。牧人が想像した絵には、今日集まった六人が同じ円卓の席に着いている。だが重量が抜かれたように、不確かで不安定な円が描かれていた。そこは自分のいるべき場所なのだろうか、牧人はスマホをポケットに入れた。
「帰ろう、中島」
雨が降りだしそうな空に向かって、牧人はビニール傘を広げた。微小な水滴が一つ、頭上に落ちた。すでに雨は降っているのかもしれなかった。ビニール傘の片側に牧人が身を寄せると、中島が肩を並べてきた。牧人と中島は一本のビニール傘に包まれながら、開放されている校門へ向かった。
「上の窓から見られてるかもしれないよ」中島は言った。
「木の影から捕まえるタイミングを窺ってんだ」
「折られた角は他人の薬にされる」
「絶望のユニコーン」
「あのタイトルはひどいよ。ユニコーンはただ森に帰るだけ。絶望してるかなんて誰にもわからない。家族との団欒はあとにするけどね」
中島はそう言うと、ビニール傘を握る牧人の手に指を絡ませた。その指はひどく冷たかったが、牧人は何も言わなかった。
夢子は気づいていたのかもしれなかった。
休みの日に家事をこなしている途中、牧人はときどき彼女の姿を思い浮かべることがあった。夢子からはっきり確かめられたことはない。だが気づいていたからこそ、自分のことを滝乃瀬家の長男として、自立した一人前の大黒柱に育てようとしていたのかもしれない。夢子はいつも明瞭な言葉で自分の考えを述べたし、他人の言動もはっきり理解できるまできちんと確認した。すべてを言葉で吐き出すと、それ以上言外に匂わせることもしなかった。曖昧なことに厳しい態度を示すこともあったが、それでも彼女のそばにいると、牧人は何かに許されているような感覚に包まれることがあった。何も言わないということはそのままでいいということ、毅然とした彼女の横顔はそう語っているように思えた。
掃除機のスイッチを切り、夢子の部屋に残る埃っぽく乾いた空気を牧人は肺の奥まで思いきり吸いこむ。何本もの皺が寄り添った彼女の手の温もりが自分の手のひらにそっと甦ってくる。包みこまれて一人になる。それはビニール傘越しに空を見上げるときの感覚と似ていた。やはり夢子は知っていたのだろうと牧人は思った。知っていて自分の手をそっと握ってきたのだ。男の自分が男を求めていること、そして川に流される父親を見殺しにしたことを、夢子は他の誰にも告げずにこの世を去ったのだ。
そのときの記憶が正しいものなのか。十年以上の歳月が細部を作り替えた可能性は充分にある。どこからどこまでが事実なのか、牧人自身にもよく判別できなかった。
まず思い出せるのは、広く開けた場所に張られたテント。日差しから逃れるためだけに簡易的に設置した小さなもので、冬音と冴は「私たちは昼寝でもしてるから」と体を横たえていた。夢子は体調を崩して遠出ができなかったが、以前から川へ遊びに行きたいと牧人がめずらしく駄々をこねていたらしく、せっかくの夏休みだからと四人で日帰りの旅行に出かけたのだった。
意気揚々と水着に着替えたが、テントから少し歩いて見えてきた川を前にして、六歳の牧人は足をすくませた。向こう岸まで大声を出しても聞き取りづらいほど川幅は広く、流れも想像より弱くなかった。すでに何人かの少年たちが泳いだり、魚を捕まえようとしたり、高い岩肌から川面へめがけて飛びこんでいたりしていた。牧人は水際まで進んでしゃがみこみ、めずらしい形の石を拾ったりした。
後ろから近づいてきた七平は、牧人の背中を優しくぽんぽんと叩いた。そしてそのままサンダルを履いた足を水に濡らし、ランニングシャツを脱いだ体を川の中へと進ませた。まるで風呂にでも入るかのように七平は腰を屈めて水に浸かり、両手ですくった水で汗粒だらけの顔を洗った。何もかもに満たされたような表情を牧人に向けて、怖がらずに来てごらんというふうに手招きをした。
サインを送る父の手に牧人は目を細めた。そのとき太陽は容赦のない攻撃的な光を放ち、それを増幅するように川面は白く輝いて、蝉の声は泣き叫ぶように青空を切り裂いていた。その手に強く握りしめられた石が牧人をその場に繋ぎ止めているみたいだった。ひどい暑さのせいもあって、七平の手招きが曖昧に揺らいだ。七平は普段から物静かな男で、六歳の牧人にとって良い父だった。決して怒ることはなく、自転車の乗り方を教えてくれたり、夕食のおかずを分けてくれたり、肩車をして家の天井裏を見せてくれたりした。一緒に湯船に浸かっているときのような穏やかな顔で父が自分を呼んでいる。だがそのとき牧人は一ミリも腰を上げることができなかった。川へ遊びに行きたいと言い出したのは自分だ。他の子どもたちも遊んでいるし、水流も見ためより大したものではないかもしれない。だが牧人は石を握る力をさらに強めた。自分は本当に川の流れに入るべきなのだろうか、自分は父のもとへと寄り添っていっても良いのだろうか、握った石がそう語りかけているみたいだった。太陽の眩しさでまわりの景色はよく見えず、牧人は父の濡れた顔に目を細めているだけだった。
やがて七平は牧人の顔に視線を向けたまま、ゆっくりと遠ざかり始めた。川の真ん中あたりまで移動していく父の顔が次第に小さくなっていく。機嫌を損ねている様子はなかった。じゃあ牧人はそのままでいいから父さんはもうちょっと遠くまで行く、とでもいうように七平は微笑んでいた。しばらく七平の頭だけが川面に浮かんでいた。川の深さや水の勢いがどれだけ危険なものだったのか、そのときの牧人にはもちろん判断できなかった。七平は気持ちよさそうに水の流れに身を任せている。牧人は足元の小石を選り分けながら、沢蟹などの小さな生き物を発見したりした。
ふと顔を上げたのは強い水音が聞こえたからだった。川の流れの真ん中で父の体が斜めに傾いていた。掴めるはずのない水面を両手で必死に叩いている。牧人は石を手離し、立ち上がった。父が何かを訴えている。言葉にならない声を出そうとしている。水中に沈みそうな顔を必死に持ち上げながら空気を求めている。同時に痩せた体は下流へと確実に流されていた。まわりの少年たちは誰も気づいていない。離れた場所で変わらず騒ぎ声を立てているだけだ。同じように牧人も川原の上で立ち尽くしていた。やはり足は一歩も動かなかった。目の前で起こっていることとこれから起ころうとすることを繋ぎ合わせることができなかった。繋ぎ目が途切れた落とし穴に彼は陥っていた。自分にはどうしようもできないこと、父が自分で何とかしなければいけないことだというふうに彼の体は固まっていた。鏡が割れ続けるような細かな反射を水流は繰り返していた。牧人は唾を飲みこんだ。そのたびに心臓が大きく音を立てた。遠くへ呑みこまれていく父の頭や手や足を、彼はただ見送ろうとしていた。
川面に飛びこもうと岩の上に立った少年の一人が、流されていく七平に気づいたときにはすでに遅かった。少年たちは近くのガソリンスタンドへと走りこみ、店員に救急車を呼んでもらった。やがて近づいてくるサイレンの音と共に、冬音が冴の手を引いて川原へ駆けてきた。棒のように立つ牧人の肩を抱き寄せながら、七平の姿が見あたらないことに不穏な表情が消えることがなかった。
七平の溺死体が発見されたのは、川の流れがおさまった下流だった。水流が田畑の用水路に分け注がれる暗渠前の金網に七平は引っ掛かっていた。すでに呼吸が止まっている彼に向かって、近所の犬が吠え続けたことで飼い主が気づいた。川底の石に足を滑らせたのか、それとも瞬間的な強い水流に巻きこまれたのか、現時点では判断できないと警察は説明した。冴からは表情というものが全く失われ、虚ろな目はどこも見ていなかった。冬音は子どもたちの手を離さないことで、事故に対応すべき自分をなんとか保っているようだった。同時に、別の場所で昼寝をしていた自分を後悔しているような顔色も窺えた。事件性はないと判断され、検視に時間はかからなかった。
七平の遺体を自宅へと運んでいる車の中、夢子には電話で伝えたからと冬音が口を開いた。
「おばあちゃん、黙ってた。そうかって呟くだけ」
静まり返った車内で、冬音の掠れた声が生々しく響いた。冬音は咳払いをして、今度ははっきりした声で訊ねた。
「牧、父さんの様子はどうだった」
自分の横顔に注がれる冬音の視線を牧人は感じた。車が走り始めてから、冬音は牧人の手をずっと握っている。その質問は七平の最期を知りたいという目的と同時に、一体おまえは何をしていたんだと問い詰められているように牧人は感じた。
「笑ってたよ」フロントガラスの景色を見ながら牧人は答えた。「だから僕も笑って、手を振った」
水流に見え隠れしていた父の笑顔を牧人は思い浮かべようとした。目を閉じて、水をかき分けながら、ゆっくり父に近づいていく。手招きをする父がすぐそこにいる。だがよく見ると、そこにいたのは父ではなかった。虹色の目をしたタキノセがにやりと微笑みかけていた。
牧人は目を開けた。まとわりついた微笑みを振り払うように頭を小刻みに振る。私は目に見えない場所に住んでいるという言葉を思い出した。牧人は掃除機のスイッチを入れて、再び夢子の部屋を片づけ始めた。
二学期が始まってから、大学受験に向けての緊張感が教室に漂っていた。これまで休み時間になるとふざけた話で笑い合っていた生徒たちも、黙って机の上に参考書を開いたり、教卓に駆け寄って教師に授業の質問をしたりするようになった。その日の帰り、牧人が家電量販店へ自動食洗機を買い行こうとしていることなど誰も知らなかったし、知っていたとしても誰もそれどころではなかった。牧人の知りたいことを教師は教えてくれなかった。この先、母と姉が家から出ていくのであれば、自分は一人でどのように生活をしていけばいいのだろうか。就職懇談会では地元の印刷会社やガス会社から求人票が届いているという話を聞いていた。トレーニングジムからの求人票はないですかと牧人が訊ねると、担当教師は面倒くさそうに首をかしげるだけだった。
駅前のショッピングビルにある家電量販店の制服は、黒いポロシャツに黒いチノパンツだった。キッチン家電のコーナーで牧人が商品を眺めていると、若い女の店員が声を掛けてきた。首から赤いひもの名札をぶら下げている。
「食洗機をお探しですか」
高校生の白いシャツ姿に不思議そうな表情を浮かべながら、女が訊ねた。
「ええ、家の者が電化製品に疎いもので」牧人は適当に答えた。
「そうですか。お若いのに責任重大ですね」
「こういうのって古い家でも取り付けられますか?」
「ええっと」女は壁に設置されている説明パネルを指差した。「大体は取り付けられるようにはなっています。昔から同じような型で住宅は建てられていますからね。ただ、あまりにも古すぎるキッチンや注文住宅などの特殊な型のものは、設置不可となるケースが稀にあります。要は水栓まわりの配管状態に関わってくることなんですが、御自宅の配管はこれらのケースに当てはまりますでしょうか」
牧人は説明パネルを見上げた。五種類ほどの配管パターンがイラスト付きで紹介されていた。微妙な違いだけで区別されていて、どれにも当てはまるにように思えたし、どれにも当てはまらないように思えた。
「よくわからないな。わからないけど、自宅の台所の配管がどういうタイプなのか、即答できる人っているんでしょうか」牧人は落ち着いた声で言った。
「そうですよね」女は申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。そしてパネルと同じ内容が記載されたチラシを差し出した。「一度、ご自宅のキッチンを確認していただければ助かります。それでもご不明であれば、スマホでお撮りになった写真を、弊社のお問い合わせアドレスまでメールをご送信いただければ、こちらで判断することも可能でございます。いちばん確実なのはうちの作業員が下見に伺うことですが、他の出張作業との兼ね合いになりますので日程を調整する必要があります。もし設置不可であれば、キッチンそのものをリフォーム工事することが最終的な手段になってしまいます。まずはよくお母様とご相談なさることをお勧めいたしますよ」
そこまで女が説明したところで、牧人は踵を返した。エスカレーターに乗ろうとしても、女は何も声を掛けてこなかった。
店を出てビニール傘を差し、しばらく歩いていると突然強い雨が降りだした。通りの人々は駆け足になって、建物の中へ次々と身を寄せた。傘を差しているのは牧人だけだった。歩行者の姿が消えた激しい夕立の中を歩きながら、キッチンの配管の写真を撮るなんて面倒くさいと牧人は苛立っていた。その画像をメールに添付して送信し、返信が届くのを一週間ほど待ち、その後も確認の連絡を送り合うことになる。自分はただ自動食洗機を手に入れたいだけなのに、こういうことに一つ一つ対応していかなければならない。あるいはたんなる役割である家事を、母や妻や娘などの永続的な仕事だとして初期設定に組みこまれているような者と関わり続けなければならない。それが生活するということなのだろう。世の中は自分の側についていない。欲しいものが簡単に手に入れられるわけではない。父親を見殺しにした十八歳のゲイが、ややこしいことを考えずに楽しく暮らせるような世の中にはできていない。
だから冬音も冴も、自分の好きなように暮らしていけばいいと牧人は思ってきた。相手が画商であろうが彫刻家であろうが、最終回が決まっているテレビドラマのように三人がいずれ別々に離れていくことはわかっている。自分ができるのはただ見送ることだけだ。ただし禍というものがもしこちら側に流れてくるのであれば、あの家族家のようにこのビニール傘で突き刺してやる。信号が変わるのを待つあいだ、いくつもの大きな雨粒がビニール地を叩く音に牧人は耳を澄ませた。明日ジムに行って、社員採用の希望を伝えようと彼は決める。可能であれば高校を中退して、すぐにでも働き出したい気持ちだった。仕事をして金さえ得ていれば、少なくともこの世で生きていくことに誰からも文句を言われることはない。金の前ではみんな平等に扱われる、ここはそういう社会なのだ。
ふと顔を上げた。遠くに見えるいつものピッチャーマウンドの上に人影が立っていた。自分と同じようにビニール傘を差して、微動だにせず黒い背中を向けている。牧人は足を止めた。まだ日は落ちていなかったが、分厚い雨雲が景色の輪郭をぼやけさせていた。人影のシルエットには見憶えがあった。木のような高い背丈に、背中まで伸びた長髪。ぬかるみになった箇所を避けながら、牧人はレフト方面からゆっくりとダイヤモンドの内側へ近づいていった。そんな彼に初めから気づいていたように、人影は振り向いた。
「今日はバイトじゃないんだ」
そう口にしたのは、やはり贄孝太郎だった。
車の急ブレーキ音がどこかで鳴り響いた。怒鳴り声が聞こえる。それでも贄孝太郎は牧人から視線を外さなかった。
「今日は休みです」牧人は答えた。
「そうなんだ」贄孝太郎はバケットハットを少し上げた。窪んだ目元は疲れているように見えた。「冬音さんが夕飯の準備をしていたから、てっきりジムでのシフトが入ってると思ってた。まだ当分はここで待たないといけないかなって」
「家に行ってたんですか」
「ああ、そうだよ。休みを取った冬音さんと冴ちゃんの三人で話をしてた。いろいろご馳走をしてもらったけど、夕飯まで頂くのはさすがに厚かましいから。君のことも話に出たよ」
「ここを通るだろうって言われたんですか」
「この球場のことは何も話していなかったよ。でも驚いた。トレーニングジムでのアルバイト代を家計に入れているんだってね。家事もちゃんとこなしてるっていうし、今どき偉いよ。ただ大学に進学するつもりはないんだね。人と違う人生は苦労するっていうけど、本人からすると比べようがないことだよね。それが生まれつきの性なら特に」
牧人はあたりと見回した。他の誰かがいる気配はなかった。ピッチャーマウンドに何歩か近づいた。
「ここで僕を待っていたんですか」
贄孝太郎は靴の先で土を掘り返しながら、牧人の質問の意図を見定めていた。「牧人くん、おそらく君の方には用はないだろうけど、僕からは少し話をさせてもらおうとここに来た。雨に降られながらで申し訳ないけど。それともどこかカフェにでも移動しようか」
「ここでいいです」牧人は笑みをつくった。
「わかった。ありがとう。僕も広い場所の方が話しやすい」贄孝太郎は頷いた。「まず冴ちゃんのことだけど、僕は彼女との結婚を希望している。学校を卒業したら、すぐにでも籍を入れたいと思っている。冴ちゃんも同意してくれているし、そのことを今日、冬音さんに伝えさせてもらった。先立つものとしてはいくつかあてがあるし、一さんからも連絡先を教えてもらって、個人的に相談させてもらっている」
「順調に進んでいるんですね」
「順調」贄孝太郎はゆっくり繰り返した。「そう、冬音さんも喜んでくれたし、たぶん仕事も見つかる予定だし、一見順調に思えるよね。ただ牧人くん、君だから言うことなんだけど、何かそこには淀みがあるらしいんだよ」
最後の言葉が釣り針のように牧人の鼓動を乱した。牧人の反応を少しも見逃さないように、贄孝太郎が目の前に立ち塞がっている。雨脚は穏やかになり、生温かい風が吹き始めている。牧人は何度か瞬きをしてみた。そこに立っているのは贄孝太郎、一人だけではないのがわかった。いつのまにかもう一つの人影が彼の背後に見え隠れしていた。トレース紙がわずかにずれてしまったみたいに、同じビニール傘の中から贄孝太郎の肩越しにこちらをじっと見ている。
「この球場を教えてくれたのは、この人なんだ」
贄孝太郎はさりげなく自分の背後を親指で示した。古い友人を紹介するような仕草だった。
「初めまして、家族家のニエです」
そう名乗った者は贄孝太郎の背後に重なったまま軽く頭を下げた。顔の半分は隠れていた。片方しか見えない目は虹色ではなかった。夏のアスファルトでのた打ち回るみみずみたいに、細長い目が柔らかく波打っていた。
「ニエさんはいろんなことを教えてくれた」贄孝太郎は話し始めた。「君がこの球場を帰りに通っていることも教えてくれたし、僕の家系のことも教えてくれた。贄っていうのは中部地方に多い姓らしい。川の氾濫が多い地域で、川への捧げものとして人柱の習慣が昔からあった。女性を生贄として捧げていたみたいだよ。贄っていう姓の由来だね」
なぜそんなことを贄孝太郎が唐突に話し出したのか、牧人は贄孝太郎の無精髭あたりをじっと見ていた。もしかしたら話しているのは背後の家族家かもしれないと思った。
「あなたの家族家とお会いしたことがあります」
背後のニエが細い声を出した。だからといって自信がない響きではなかった。布をしっかり縫いつける糸みたいに、左右に揺れながらも向かうべき方向へと言葉を着実に発していた。
「一ヵ月ほど前です。タキノセ様が来られました。そのときは一さんに関わる内容でした」
「一さんのこと」牧人はビニール傘に貼りついていたタキノセの顔を思い出した。
「はい、一さんです。たぶんもう察しはついてられるはずです。孝太郎さんと一さんは元々同じ流れを共にする方たちです。だから私は孝太郎さんの家族家でもあり、一さんの家族家でもあります」
「このことは僕も最近教えてもらったことなんだ」贄孝太郎が付け加えた。「まだ冴ちゃんも冬音さんも知らない。一さんはどうなんだろう」
「一さんも知らないはずです」ニエは答えた。「そもそも私は一さんの前には現れたことがありません。そしてタキノセ様も知らなかったはずです」
そう言って、ニエはあたりを見回した。「こんな状況ですから、タキノセ様も現れていいかとは思います。でもここには来ていないみたいですね。いろいろ忙しいんでしょう。ちょうどいいです。いない方が話は早いです」
ニエは顔を傾けて、口づけでもするみたいに贄孝太郎の耳元に近づけた。そして空気を吐くほどの微かな声で二言三言を短く囁いた。贄孝太郎は牧人に視線を向けたまま、こくりと頷いた。
「これは私の仕事です。私の口から述べます」ニエは顔の角度を元に戻した。「先ほど孝太郎さんが口にされた淀み。率直に言うと、それはあなたです。孝太郎さんが冴さんと結婚すること、そして一さんが冬音さんと結婚すること、家族家の私は賛成でした。贄家の流れに安定と平穏を運んでくれる二人だろうと。しかし先日、廃校での展覧会でお会いした様子を拝見し、事はそうすんなり運ばないと理解しました。このまま滝乃瀬家と一つになると、贄家に禍がもたらされることになる。何も滝乃瀬家そのものに原因があるわけではありません。原因は滝乃瀬牧人さん、あなた一人だけのことです」
牧人は手のひらを傘の外に差し出してみた。濡れることがなかったので、そのままビニール傘を閉じ、丁寧に生地を折りたたんで釦を留めた。そのあいだ牧人は可笑しさをこらえていた。これは一体何の話なんだろうか。俺はどういう種類の煩わしさに巻きこまれているんだろうか。もしかしたら十八歳という成人を迎えたことと関係しているのか。あるいは父を見殺しにしたことが尾を引いているのか。タキノセとは違う新しい家族家まで目の前に現れている。誰が滝乃瀬で、誰が贄なのか、そんなことは牧人にとってどうでもよかった。俺はただ、と牧人は一瞬だけ目を閉じた。俺はただ森の奥の静かな場所で中島と一緒に眠っていたいだけなんだ。
「もし俺が原因だとしたら?」牧人はビニール傘の柄を強く握った。
牧人の表情に、贄孝太郎は異変を感じたようだった。「ニエさん」と背後に向かって声を掛けた。
「ええ。わかってます」ニエは頷いた。
「牧人くん」ビニール傘をたたむ様子はなく、贄孝太郎は穏やかに言った。「僕が冴ちゃんと結婚したら、君は義理の弟に位置づけられる。親族の関係が結ばれる君に対して、僕たちは強引なことをするわけにはいかない。ただ同時に、どのように贄家を守るかも考えなくちゃいけない。僕は僕の行為に意味を発見する。同じように君には君なりの意味を発見してもらうしかない。一緒にいた中島くん、あの子とはとても仲が良いんだろう」
牧人は大きく踏み出して、ピッチャーマウンドに足を掛けた。そして体勢を斜めに傾け、ビニール傘を握った右手に勢いをつけると、贄孝太郎の背後に立つ家族家の横っ腹を思いきり突き刺そうとした。だが以前と同じようにはいかなかった。金属の先端は贄孝太郎によって止められた。針金のような長細い五本の指にがっしりと掴まれている。
「滝乃瀬牧人さん、あなたには流れに流れてもらいます」
そう言ったニエは、贄孝太郎の背後から真っ黒な全身をすらりと見せた。細い目をなびかせながら、細い体をこちらに近づけてくる。力がこめられている牧人の肩に手を置くと、電流が流れこんだようにニエの体はぐにゃぐにゃと微振動を始めた。微振動を続けながら、顔や手や足の分岐が胴体に溶けこんでいった。最終的には二つの目が胴体の上部に残っているだけだった。ニエは巨大なみみずのように細長い粘体に変身した。粘体のニエが牧人の体に何重にも巻きついた。頭の上から足の先まですっかり黒く包みこんでしまうまであっという間だった。牧人は指一本動かせず、意識が徐々に薄らぎ始めた。体のどこにも力が入らず、ビニール傘はいつのまにか手放されている。黒く大きなものに流され、深い水底に沈んでいくような冷たさが牧人の中を通り抜けていった。
「今から少しだけ、こことは違う場所に行きます。大丈夫。ちゃんと家まで送ってあげます」
そこでは、遥か頭上に微かな光だけが見えていた。
降り始めの雪のように白い一粒が遠くに浮かんでいる。二本の腕をばたつかせて方向転換をし、二本の脚で何もない空間を蹴る。そんなふうになんとか小さな光に向かおうとした。しかしそこは摩擦や抵抗といった物理法則が通じない場所だった。いくら首を伸ばし、目を見開いても、光との距離は変わらない。光が遠のいているのか、それともこちらが移動していないのか、相対性を計れる手がかりはどこにも見あたらなかった。ただ、何かが流動していた。風らしき水らしきものが、三六〇度のあらゆる方向からあらゆる方向へと流動し続けている。流動には声が混じっていた。そばを通り過ぎるとき、流動から声が聞こえた。言葉は聞きとれない。怒っている声、泣いている声、笑っている声、叫んでいる声、呼んでいる声、遊んでいる声、誰の声でもない声──そんな何千もの声が不規則に流動しながら混じり合い、通り去っていった。
やがて呼吸が苦しくなってきた。呼吸を求めて、白い光に向かおうとしていたことに気づいた。再び手足を動かす。だがやはり無意味だった。まわりの数えきれない流動が、光に近づこうとする行為を無意味にさせていた。果たせられない呼吸への渇望が心臓を強く圧迫する。眼球が押し出されそうになり、指先に痺れが走る。死とはこのことだろうか──流れを失い、無意味にあっけなく途切れていくのが死というものなのだろうか。父もこんなふうにこの場所にやってきたのだろうか。
しかし、呼吸ができない苦しみから解き放ってくれたのは死ではなかった。現れたのは巨大な手だった。どこからか手が近づいてきて、折り曲げられた五本の指に全身を包まれた。背骨に強い痛みを覚えたのは一瞬だった。声を上げそうになった瞬間、拳を握りしめたままの手は再び離れていった。巨大な手がつまんでいたものは人の形をしていた。スイッチが切られたように四肢をぴくりとも動かさず、首をだらりと垂らしている。呼吸のできない苦しみは消えていた。ただ、すべてを押し流してしまうような眠りの波がやってきた。もう他に何もできず、身を任せるしかなかった。そこは物理法則もなく、道理と混沌が同質となり、光と闇が混ざり合っている場所なのだ。最終的には脈々と繋がってきた流れにすべてを受け渡すことになるのだ。
牧人を目覚めさせたのは冬音の声だった。
「牧、あんた今日バイトでしょ」
ドアをノックする音が聞こえる。牧人は勢いよく上半身を跳ね上げた。自分の部屋のベッドにいる。制服の白いシャツを着たままだ。ただ低解像度の画像のように頭の中がぼやけて組み合わない。反射的に壁の時計を見上げた。冬音の声が言っていることに間違いはない。ああ、わかってる──なんとか喉を振り絞り、牧人はドアの向こうに返事をした。
出かける準備を終えて一階に降りると、食卓テーブルに冬音と冴が座っていた。
「めずらしいね、寝坊だなんて」冴がスプーンでヨーグルトを掬い上げた。
「疲れてるっぽいね。なんか顔がはっきりしないもん」冬音は新聞の折込チラシに目を通していた。「昨夜さ、何時頃に帰ってきた? 遅かったでしょ。全然気づかなかった」
「憶えていない」牧人は冷蔵庫を開けて、ペットボトルのスポーツドリンクをコップに注いだ。
「食洗機、どうだった?」冴が訊ねた。「うちに設置できそうなのかしら」
「ああ」牧人は乾いた喉を鳴らしながら思い出した。「ちょっと調べてみないとわからない。もしかしたら、キッチン全取っ替えかもって」
「ふうん。うちも古いからね」冴は流しの蛇口に向かって眉をひそめた。「今日の夜、何食べたい?」
「そんなこと聞かれるのって何年ぶりだ」
「ちょっとあってね」
「結婚するの?」
「そうだね、たぶん」冴は少し間を置いて答えた。
「やっぱり贄冴になるんだ」牧人は飲み干したコップを流しにおいた。「おめでとう」
「なにそれ」冴は笑った。
「カニクリームコロッケ」
「は」冴は目を見開いて一瞬考えた。「ちょっと待って、この世でいちばん面倒くさいやつじゃん」
牧人はリュックを肩に担いだ。「じゃあ時間ないし、行ってくる」
「牧」ふと冬音がチラシから顔を上げた。「今日は早く帰ってきなよ」
牧人は何も言わない代わりに手を上げた。
昨日の野球場での出来事を牧人は思い返していた。確かに現実に起こったことと思えたし、ただベッドの上で見ていた夢のようにも思えた。背骨の真ん中に残るわずかな痛みが現実であった証拠だとは思えなかった。単純に寝違えただけの可能性もある。なにやら奇妙な感触と生々しさが混じり合っている記憶だった。野球場に贄孝太郎がいて、その背後に家族家が立っていた。贄孝太郎は家族家を従えていた。三人で言葉を交わし、自分は黒く長いものに流された。そのときのことを思い出すと、牧人は息がつまった。そこは決して逃れることができない場所だった。そして決して歓迎されてはいない場所。結局はそこから生まれ、そこで死んでいくしかない。そういった選択の余地がない、永遠に広がる場所に連れて行かれたような感覚が牧人の呼吸を困難にさせた。
トレーニングジムの自動ドアの前に着くと、牧人の足が止まった。そこにある傘立てを目にして、自分の手にビニール傘が握られていないことにやっと気づいた。ビニール傘を持っていないことより、持っていないことを気づいていなかった自分に牧人は戸惑った。いくら急いでいるときでも、どんなに晴れているときでも、これまでビニール傘を持ち忘れたことは一度もなかった。やはり昨日のことは現実だったのだ──牧人はジムの中に入った。スタッフルームのドアを開け、制服に着替えるためにロッカー室に移動した。贄孝太郎は家族家を連れてきて、冴との結婚に禍をもたらすであろう自分をどこかに流そうとした。牧人はポロシャツを着て、名札の紐を首から掛けた。それならそれでかまわない。勝手にすればいい。俺は俺の現実に関わっていくだけだ。
「すみません、ちょっといいですか」
牧人はデスクでキーボードを叩いている男性の社員に声を掛けた。社員は手を止め、牧人の顔を見上げた。一度、牧人のみぞおちあたりに視線を下げた後、再び顔を上げた。
「このジムに社員登用の制度があると聞きました。自分は来年の三月に高校を卒業するので、その後はぜひ正社員として働かせていただきたいと考えています」
社員は眉間に皺を寄せ、しばらく考えこんでいた。
「あの……君って、なんて名前だっけ」
牧人は返答に臆した。その社員とは毎回のように業務報告で顔を合わせていた。
「滝乃瀬です」牧人はためらいがちに答えた。
「滝乃瀬? うちにそんな名前の子いたかな」社員は首をひねった。「変だな。もちろん君の顔は知ってるし、下の名前は確か牧人くんだったよな。でも苗字がなんかちょっとな……」
牧人は少し後ずさった。視線が足下に落ちた。
「だってほら、何も書いてないだろ」
社員は牧人のみぞおちを指差した。手に取ってみると、確かにそこにぶら下がっている名札には、漂白剤で洗い流されたように誰の名前も書かれていなかった。
〈後篇へつづく〉2022年作
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