いずれ嫌いになる(第11回)
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もう何度も同じ場面をユウジは想像していた。
深夜十一時、勤務終了時間が過ぎて、彼女はコンビニの裏口に停めていた自転車にまたがる。かごの中には、朝食のために譲ってもらった賞味期限切れのおにぎりや菓子パンを詰めこんだビニール袋が入っている。二十四時間営業のスーパーに寄って消耗品などを買うことがあるが、基本的にはまっすぐ家に帰る。大通りの明るい道をまっすぐ進んでいく。そして必ず公園の中を横断する。ユウジがギターを奪われ、暴行を受けた公園だ。道幅の広いジョギングコースを彼女は軽快にペダルを漕いでいく。まだ若者や仕事帰りの会社員などがちらほら歩いている。だが自宅に最も近い出入口から出るためには、薮が生い茂った薄暗い道を通らなければいけない。人影がなく、明かりも少ない道だ。人の顔もはっきり認識することができない。そこが彼女に最も近づくべきポイントだった。そこで彼女の衣服と下着を剥ぎとり、勃起したペニスを強引に挿入するべきだと判断した場所だった。
八月も終わりに近づいていた。あと十日でカレンダーをめくらなければいけない。それまでにはなんとか実行しようとユウジは考えていた。自室で胡座をかき、アンプに繋いでいないレスポールの弦を高速でピッキングしながら、姿鏡に映る自分を見つめる。長髪をすっかり失った頭はもう見慣れていた。ベース兼ボーカルを殴り続けた翌朝、床屋で丸刈りにしてもらったのだ。警察はまだ何も言ってこない。死亡したというニュースはテレビでも新聞でも報道されていない。もしかしたら口が利けない状態なのかもしれない。いや、すでに自分の名前を話していて、家のまわりには警察が見張っているのかもしれない。ボウリングの玉に付いていた指紋を調べているのかもしれない。いずれにせよ時間があまりないことには違いなかった。
まるで東南アジアの熱帯雨林に迷いこんだ日本兵みたいやなと、ユウジは鏡の中の顔を可笑しがった。一階からいつものようにギターの音色が響いてくる。彼女の息子がいつも練習している『アルハンブラの思い出』だった。少年の母親に惹かれていることを彼は自分で認めていた。朝起きてから夜眠るまで、頭の中から彼女の顔が消えることはない。優しそうな話し方と童顔の大きな目、そして一児の母親とは思えない体のスタイル。
ユウジはギターを壁に立て掛け、ズボンを下ろして横たわった。そして床に耳をぴたりとつけながら、勃起したペニスを擦り始めた。息子は同じフレーズを繰り返し練習している。あの子はやっぱり変わってる。彼女は息子を理解できないし、いつか息子に泣かされることになるやろう。おそらく自分と同じように。
ユウジは想像する。息子がギターを弾いている眼前で、哀しく落ちこんでいる母親の体を舐め回している自分を想像する。そのイメージは固く勃起しているペニスをやがて射精に導く。
ミドリカワ楽器店の店長は、右足の指先に痛みを覚えたまま数日間を過ごしていた。店の荷物を運んだり、階段を上がったりするとき、力の入れ具合で激痛が走ることがある。長時間立つこともままならなくなったため、至るところに椅子を置いていた。右足をかばいながら歩くため、他の部分で筋肉痛が起こる。
八月二十一日の夜、台所で片づけをしながら、しばらく店を閉めた方がいいかもしれないと彼女は考えていた。一ヵ月ぐらいは治療に専念した方がいいかもしれない。いや、違うな。一ヵ月ぐらいで治るもんじゃない。夫の場合、投薬や食事療法で症状の進行が遅くなることはあったものの、決して快方に向かうことはなかった。自分もきっとそうだろう。一度店を閉めたら、もう二度と開けることはできなくなる。彼女はタオルで手を拭くと、トイレの前の鏡でドレッドの髪型を調節した。そのとき階段をばたばたと駆け下り、玄関の戸を開ける音が聞こえた。
「出かけるんか」
声をかけても、返事はない。仕方なく足を引きずりながら、廊下に顔を出す。ちょうど戸に手をかけて、息子が階下からこちらを見上げていた。
「どこ行ってるんや、毎晩毎晩」
「バンドの練習や」
「練習って、ギターもなしにか」
「打ち合わせや」
息子が戸を閉める瞬間、自転車に乗った警官が外を通り過ぎるのが見えた。暗くてよくわからなかったが、怪訝な表情を浮かべていたような気がする。彼女は再び足を引きずって、台所の椅子に腰を下ろした。そしてふと思う。いつもギター教室にくるあの子と、息子の子供の頃がどことなく似ていることを。だからと言ってどうというわけでもない。それよりもやっぱり店を畳んだ方がいいのかもしれないと思い直した。その方がユウジにとっていいことなのかもしれない。
それとなくあたりを窺いながら、ユウジは自転車を走らせていた。家を出た瞬間に警官と目が合ったときは体が固まったが、警官はそのまま走り去っていった。だがそれでもやはり何かに見張られているかもしれないという疑いが晴れることはなかった。
わざと遠回りをしたり、知らない道を通ったりしながら、ユウジはコンビニの近くに着いた。二車線の道路を挟んだコンビニの向いに大型書店がある。そこがいつもの観察場所だった。冷房も効いているのでちょうどいい。道路側の雑誌コーナーに進んで、テレビ情報誌を適当に手に取り、ちらちらと外に目をやる。毎日観察を続けているものの、まだ彼女のシフトパターンは掴めなかった。そもそもパターンや曜日の関係というものがなく、場当たり的にシフトが組まれているようだった。だが昼のシフトが三日連続で続けば、そろそろ夜勤に変わるぐらいのことは予想できた。
いくら合理的にシステム化された全国チェーンの大型書店といっても、毎日汚い風貌の男が来店してくることに店員たちは注意を払い始めていた。自動ドアが開き、男の姿を認めると、店員たちの眉間に皴が寄る。男はいつも何も買うことなく、ページが手の脂でべたべたになるまで長時間立ち読みをしている。しかも雑誌コーナーから離れようとしない。何度か商品整理のために男のまわりでわざとらしく動き回ってみたのだが、男は何も目に入っていないようにじっと雑誌に目を落としていた。店員たちは溜め息をつき、こそこそと小言を言い合い、レジに戻る。店員の一人がカウンターの中でしゃがむ。そして引き出しの側面に貼られている指名手配犯のチラシを確認する。だがどこにも男の顔に該当する写真はない。警察からも新しい不審者の情報は寄せられてはいない。店員たちはどうすることもできない。立ち読みをしているのは男だけではない。書店にはいろんな種類の人間がやってくる。男もその中の一人にすぎないと諦めるしかない。
ときどき自分のまわりを動き回る店員に苛立ちながら、ユウジはあの夜のライブハウスのことを思い出していた。ベース兼ボーカルを殴り続けたときの感触が手の中にじわじわと甦ってくる。殴っていた瞬間のことはほとんど憶えていない。だが店員たちが自分のことを疎ましがっていることがわかると、あのときの衝動が思い出されてくるのだ。ボウリングの玉から伝わってくる、なにか細やかなものがぱりぱりと崩れ散る振動。それをもう一度、この店員から得てみたくなる。ユウジは三ミリ以下になった頭髪に手をやる。そして以前の自分とは変わっていることを確認する。
ガラスの向こうで一人の女が自転車を停めた。車輪に鍵をかけ、コンビニの中に入り、レジの店員に軽く会釈をして、カウンターの中に入っていく。ユウジはその行動をどれも見逃さないようにしていた。どういった服装かもチェックしていた。赤いTシャツにタイトなジーンズ姿。軽快な足取りから機嫌が良さそうに見えた。それは今日かもしれない。あるいは八月二十一日の今日でなければいけないかもしれない。ユウジは再びばりばりと頭を擦った。
「お客様」意を決した若い店員が声をかけた。「長時間の立ち読みは他のお客様のご迷惑になりますので、申し訳ございませんがご遠慮ください」
ユウジは雑誌をラックに戻す。何人かの客がこちらを見ている。ユウジは微笑みを浮かべた。まわりがすべてひ弱な臆病者に見えた。何も言わず、足早に店を出た。
外は熱気が残っていた。上着を手に持つのも暑苦しそうなサラリーマンや、タンクトップに短パン、そしてビーチサンダル姿で日焼けした肉体を見せびらかしている若者が行き交っている。青信号を待ちきれない改造されたシビックが少し前進すると、急いで曲がろうとする右折車が長いクラクションを鳴らした。シビックの運転手は窓から顔を出して、汚い大阪弁でまくし立てる。
どいつもこいつも……ユウジは路上に唾を吐いて、ガードレールに半分腰をかけた。しばらくコンビニの中を見ていると、レジに彼女が戻ってきた。白と青のストライプの制服が胸のあたりで少し膨らんでいる。腕時計の針は二十一時の少し前を指していた。おそらく仕事が終わるのは明け方の四時だろう。やっぱり今日しかない。今日俺はやることになる。ユウジはポケットに手を突っこんだまま、自分のペニスに触れた。それはいつもより収縮していた。どこか奥深くに隠れている。彼はいつものピッキングを奏でるように、ポケットの中で人さし指を小刻みに動かした。
そのとき、男がコンビニの前に自転車を止めた。彼女の夫だった。ユウジの心臓は鼓動を早めた。だが夫は店の中に入り、飲み物と雑誌を手に取ってレジで金を払うと、すぐに店から出て行った。彼女とは二、三言交わしただけだった。サドルにまたがる瞬間、夫がこちらに目を向けたような気がした。まるでそこから誰かが見ていることを知っているみたいな視線だった。ユウジは電信柱の陰にすばやく身を隠したが、道路の向こう側を覗いてみると、そこにはもう誰もいなかった。夫はすでに遠くの交差点を曲がりかけていた。
いくら指を動かしても、勃起する気配はなかった。ユウジは自転車に乗って、何度か言ったことのあるネットカフェに向かうことにした。ここからそんなに遠くないし、まだ時間はある。無修正のアダルトサイトで勃起しやすくする必要がある。ユウジは何度もコンビニの方を振り返りながら、夜の道を進む。歩道で行き交う大勢の人々は、猛スピードで走り抜けようとするユウジを怪訝そうな表情で見たり、舌打ちをしたりしながらよけていた。復讐の夜や、ユウジは人にぶつかりながらそう思った。誰に対しての復讐かは自分でもよくわからない。でもいずれにせよ彼にとって長い夜になりそうなのは違いなかった。
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