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ユニコーンたちの団欒(後篇)

 牧人がビニール傘を差さなくなった代わりに、まわりの人々の口元には再びマスクが着けられるようになった。
 それまで政治家の賄賂疑惑や長期に渡る海外の火山噴火について放送していたテレビ局は、数年ぶりに増加していくウイルスの感染者数の報道へと一気に切り替えた。時の経過によりウイルスの脅威はすっかり沈静化したと思われていたが、おそらく島嶼を飛び交う鳥類を中心とした野生動物の体内で増殖と変異を着々と繰り返してきたのだろうと専門家は解説した。過去と比べて毒性をさらに強めており、十四世紀のヨーロッパにおいて二五〇〇万人を殺したペストの致死率に達するまで、それほど時間はかからないという見解も声高に叫ばれた。肺細胞に炎症を起こしてガス交換の機能を低下させ、嗅覚や味覚を鈍化させるという以前からの症状に加えて、男性器に痛みを伴った異常をもたらす症例もいくつか発生していた。勃起反応が落ちたり、精子量が少なくなるといった症状だったが、詳しいメカニズムは研究調査を待たなければわからなかった。
 ともかく以前に多くの人々が長い行列を成してまで接種したワクチンは何の役にも立たなかったではないかと人々は憤慨した。顔の半分をマスクで隠し、政府の対応を一語一句まで糾弾した。薬やワクチンの不能説が拡散されたネットでは、効果の疑わしいサプリメントや粉末や液体が密かに売買された。山奥に入りこんで閉鎖的なコミュニティを作り出す者たちも現れた。人々は過去の体験に基づいて様々な行動を取ろうとしていた。共通していたのは自らの不安を少しでもかき消したいかのように、誰もが手元のスマホからいつまでも目を離さないことだった。
 牧人の高校では引き続き授業が行われていた。一年生と二年生はオンライン授業に切り替えられた一方、三年生のクラスは空っぽの教室を利用して少人数に分散され、大学受験に向けての追いこみが続けられていた。十月に入り、ウイルスそのものより、それが受験に与える深刻な影響の方が生徒たちを恐々とさせた。生徒たちは距離をもって配置された机にしがみつき、クラスメイトと肉体的に接触することなく、マスクの下からでも言葉を発しようとしなかった。牧人の名を呼ぶ者などいなかった。滝乃瀬という姓を牧人が失っていることに気づいている者はほとんどいなかった。出席を取ったりテストを返却したりするとき、教師が牧人の顔を見ながら不思議そうに首を捻ったが、あまり気にしている様子はなかった。それよりも世に蔓延するウイルスをくぐり抜けて、入試合格者を輩出するための文科省マニュアルを守り抜くことに教師たちは必死だった。
 問題は秋から冬へと季節が移ろうとしても、牧人の就職先が決まらないことだった。確かにウイルス感染の再拡大で業績上昇に歯止めが掛かり、人員採用を停止する企業は増えた。だが根本的な原因は別にあった。姓をもたない十八歳の若者に世間の企業は仕事を与えようとしなかった。食品加工会社の採用担当者は履歴書に何度も目を通しては溜め息をつき、奇妙な質問を投げかけた。
「君の親御さんは、今どうされているの?」
 会議室の最も端に座るマスク姿の担当者は、反対側の最も端に座る牧人に訊ねた。机の上に置かれた小型スピーカーから担当者の声が聞こえてくる。
「父は幼少の頃に亡くなり、母は社労士事務所に勤めています」牧人は目の前のマイクに向かって答えた。
「お母さんの苗字は?」
「滝乃瀬です」
「君の苗字は?」
「滝乃瀬です」
 担当者は咳払いをした。「私の手元にある履歴書には、君の下の名前しか書かれていない。ま、き、ひ、と、とだけ。君は本当に滝乃瀬くんなのかな?」
「僕は確かに履歴書の姓の欄に滝乃瀬と書きました。でもいつのまにか文字が消えてしまったんだと思います」
「一体どこの誰がそんな暇なことをするというのかね」スピーカーを通しても、担当者が冷笑している様子が伝わってきた。「牧人くん、果たして君は一体どちらの牧人くんなのかな」
 大体そんな終わり方で牧人はいつも面接会場を後にした。これが社会の厳しさだな、と担当教師は牧人の肩を叩いた。「この御時世だし、タイミングが悪かったと思うしかないが、君には君の方で先方の会社とマッチしない要因があったかもしれない。ちょっと私には推し測りかねる事情のようだが。でもまあ、これで終わりというわけじゃない。腰を据えてゆっくり探してみようじゃないか」
 牧人は担当教師と一度も目を合わせなかった。やがて進路指導室を訪れることをやめ、求人ファイルを手に取るのもやめた。
 トレーニングジムからの返事もなかった。社員登用の希望を伝えた男性社員は、推薦文と共に牧人の意志を本社に伝えてくれた。
「正直こういう状況になって会員数が減っているし、本社は今なんとか経営の立て直しを図ろうとしている。だから牧人くんへの回答が届くのはしばらく時間がかかりそうなんだ。不安にさせて申し訳ないけど、しばらく待ってほしい」
 男性社員は伏し目がちに答えた。どちらかというと彼の細めた目元は会社の行く末そのものを心配しているようだった。基本的に男性社員は親切な人間だった。牧人の姓が思い当たらないことにも業務には支障がないと判断し、名札に牧と印字してくれた。アルバイト代の振込先に滝乃瀬牧人という口座名が見つからないと判明したときは、お母さんの口座にとりあえず振りこんでおけばいいでしょ、と処理してくれた。
 トレーニングフロアの床をモップで磨きながら、牧人は冬音と冴のことを考えた。もし自分がアルバイトの状態を続けるなら、二人は結婚を先延ばしにして、しばらく今の家に住み続けることを選ぶかもしれない。自分は二人の障害になろうとしているのだと牧人はモップを握る力を強くした。この社会で経済的自立を果たしていない人間は他者の自由を奪う悪と見なされている。なんだか自ら増殖できないウイルスと似ているなと彼は苦笑した。
 タキノセの狙いはこれだったのかもしれない、牧人は裏口から外に出て、モップの先をホースの水で洗い始めた。結局のところ自分は冬音と冴の結婚をはばんでいる。贄家がもたらす禍を防ぐ役割を果たそうとしている。ずいぶんと姿を見せていないが、タキノセは今頃暗い場所でほくそ笑んでいるかもしれない。ただ、物事はそう簡単に収まらないだろう。家族家のニエが何かを仕掛けてくるに違いない。あの夜から牧人は贄孝太郎と会っていなかった。冴の口からときどき名前が出てくるだけだったが、結婚への準備が着々と進んでいることは話に聞いていた。
 贄孝太郎とニエについて、牧人は他の誰かに説明しようとしなかった。姉の結婚を成立させるため、巨大なみみずのような姿に変身する家族家という存在が現れて、自分をわけのわからない場所へ放り流した──致死的なウイルスが蔓延している最中に一体誰がそんな話を信用するだろう。野球場で贄孝太郎と会ったことも冴に言わなかった。冴と贄孝太郎の関係はうまく続いているようだったし、あくまで彼らの目的は俺なのだ。牧人はトレーニングフロアに戻った。彼らと会った翌朝から、牧人は滝乃瀬という姓を周囲から認識されなくなった。まわりの反応は様々だった。そのまま無視する者もいれば、首を捻って問い質す者もいた。現実的に姓がなくても困らないこともあれば、スマホの契約などが滞ってしまうこともあった。まるで無重力状態の部屋を宙ぶらりんで浮かんでいるような奇妙な感覚だった。自分を繋ぎ止めるものが失われたはずなのに、失った実感はどこにもなかった。そもそも自分は本当に繋ぎ止められていたのだろうか、と。
 いずれにせよ贄孝太郎とニエは俺から姓を奪い取ることで、贄家への禍を取り除こうとしたのだ。彼らの言葉を思い返していると、きっとそういう理屈なのだろうと考えた。そして俺が姓を失うことで就職が困難になることをもちろん予想しているだろう。近いうちに何らかの流れがまた自分を捕らえるかもしれない、牧人はなんとなくそう予感していた。
 急き立てるような規則的なリズムが聞こえていた。初秋の外光を存分に取りこんでいる全面ガラスの前で、一台のランニングマシンが可動している。淡い雲がたなびく青空に視線をまっすぐ固定しながら、中島が黙々とランニングベルトを蹴り続けていた。
「めずらしいな。休日なのに」
 タイマー設定によってマシンのスピードが落ち、呼吸を整えながら歩く中島に牧人は声を掛けた。
「気が滅入って、本当に病気になるよ」中島はタオルで額の汗を拭いた。「まじで体調があんまり良くないんだ。ずっと部屋に閉じこもって机に向かっていると、首の後ろに大きいおもりを乗せられて、その重みで体中の毛穴からどろどろした液体が滲み出てくる──そんな感じがしてくるんだ」
「そんなに体調が悪くて、走る奴がいるかよ」
「体を動かしている方が楽なんだ」
「外出はハイリスクだぜ。感染して重症化でもしたら、試験を受けられないかも」
 中島はパネルを操作し、ランニングマシンを止めた。そしてそばにあった椅子に座った。あたりに他の会員はおらず、名のないダンスミュージックが天井から流れているだけだった。牧人もベンチプレスに腰を下ろした。
「今回はかなり情報統制がされているみたいだよ。前回みたいにあたふたするわけにはいかないしね」中島はバッグから取り出したスマホの画面をスワイプした。
「そりゃあ霞ヶ関には全国から一流の頭脳が集まっているからな」
「情報の流れを完全に一元化させて、トップに辿り着く途中で絶対よそに漏れないように関係者を徹底的に制限しているみたいだ」
「へえ。まるで感染が広がることを前から知ってたみたいだな」
「たぶん予測してたんだ。だからこの何年かで強固な情報統制のシステムを構築しようとしてきた。人々の動きをしっかりと掌握するためにね。あるいはまるっきり逆の感染状況を発表したとしても、誰にもわからないように」
「死亡率や感染者数はコントロールされてるってことか」
「人流を制御するためには情報を制御する。数字の上下を操作して、人心を扇動する。そこにあるのが、あたかもユニコーンの角のように価値を付ける。昔と同じだよ」
 前のめりになって肘を突き、スマホに向かって話す中島の姿はやはりどこか疲れているように見えた。目元に影がかかり、両肩の三角筋は以前よりも削ぎ落とされている。学校の授業を終えた後でも、中島が毎晩遅くまで塾の講習に通っていることを聞いていた。牧人は脚を組み、マスクを顎の先まで下げた。
「そんなに厳重に管理された情報を、なんでおまえが知ってるんだ。入試の時事問題で出題されるのか? それともそのスマホで読めたりするのか」
「違うよ」中島は口の端を曲げた。「ネットにも載ってない。もし僕がトップの人間なら、間違いなくそうするってだけの話だよ」
「なんだ。勉強のやりすぎだよ。ちょっと休んだ方がいい」
 中島はふと顔を上げて、眼鏡のフレームに手をやった。そして牧人の顔や手や足をしばらく見回した。「もうビニール傘は差さないの?」
「ああ」牧人は大きく息を吸った。「前に失くしてから、持ってなくても別に気にならなくなった。マスクを着けるようになったからかな。ただ、ときどき脇の下が妙にくすぐったくなることはあるけど」
「酷暑の日でも毎日差してたのに」
「意外にそんなものさ。人の習慣なんてあっけなく変わる。変わらない毎日を過ごせる」
「滝乃瀬を失くしたことと何か関係があるのかな」
「さあね」牧人は微笑んだ。「自分でもわけがわからない。これまで苗字を失くしたことなんて一度もなかったからな。中島だってないだろ?」
「少なくとも記憶にはないね」中島は笑った。「でも、もしかしたら僕だってこれまで気づかずに失くしていたかもしれない。そして気づかないうちに元に戻っていたかもしれない。そういう前提に立たないと、科学的考察への第一歩にさえ辿り着けないよ。ただ個人的には、牧人が滝乃瀬じゃなくなったことにすぐには気づかなかったな。そういえばなんとなく変だなって感じたぐらいでさ。たとえばもし人の顔の左右が反転しても気づかないでしょ。そんなレベル」
「ビニール傘を持っていないことは気になるのに?」
「そう。僕にとって君は、ずっとビニール傘の牧人だったから。でも今は、ただの牧人」
 家族家について、そして家族家とのあいだで起こったことについて、牧人は中島に何度か打ち明けようとした。たぶん中島なら理解してくれるはずだった。それが何のメタファーなのか、あるいは何のメタファーでもなく現実に存在するものなのか、中島なら知識と想像力を組み合わせてパズルを解くように説明してくれるだろう。だが牧人はどうしても話す気になれなかった。自分のまわりで起こりつつある、あるいはすでに起こっている不穏な流れに中島を巻きこんでしまうかもしれないと押しとどめていた。
 考えこんでいる牧人の表情を、中島はにこりとして見つめていた。彼はふと立ち上がり、牧人の横に腰を下ろした。そして自らの腕を牧人の腰に回した。少しのあいだ指を這わせてから、その先にある牧人の手を握った。
 導かれるように牧人はマスクを外し、中島と口づけを交わした。中島の髪のあいだから流れてきた汗の匂いで、どこかの景色が頭の中をよぎった。うねる波のように舌を絡ませていると、次第にダンスミュージックが遠のいていく。それは静かな森の中に佇んでいるときの草や土の匂いだった。使用者を長らく失っているトレーニングマシンたちは頑なに沈黙を守っている樹々だった。樹々たちは自分たちの中心に捧げられる純潔を待ち続けていた。
 風や水が流れるのと同じように、中島の手が牧人の下半身に伸びた。そこには制服のストレッチパンツを強く突き上げる隆起があった。垂直に持ち上がる牧人の隆起を、中島の白い指が包みこんだ。指はそれぞれ別の動きをしながら、隠された隆起を露わにしようとした。隆起の形は次第に明確になり、金属のように硬質化していく。だがストレッチパンツの内側へと侵入しようとする五本の指は牧人によって阻まれた。隆起を直接愛撫しようとする中島の手を牧人の手が抑えつけていた。中島の怯えた目が牧人に向けられる。牢獄からの解放をひたすら願っている目だった。牧人は視線を外した。ゴム材の床に向かって首を小さく横に振る。牧人はまだ許していなかった。これまで中島が一線を越えようとするたびに、牧人は素早く木の影に隠れた。中島に対して許せないというわけではなかった。他に許そうとしないものがどこかに潜んでいた。ずっと昔から、子どもの頃から、ビニール傘を差すようになってからも潜んでいたものだ。それが牧人の手を自動的に動かして、罪人を捕らえるように中島の手を強く掴んだ。
 中島は自ら手を戻した。牧人と同じようにのっぺりとした床に視線を落とした。しばらくするとベンチの上で体重を移動させ、そこが唯一の自分の居場所であるかのように、牧人の太ももの上に頭を乗せた。そしてそこに安心できるものがあるのを確認できたのか、眠るように目を閉じて深呼吸を始めた。膝の上で横たわる中島の髪を牧人はかきわけた。中島の耳の裏を撫で、中島の耳の溝をなぞり、中島の耳たぶを指先で包みこんだ。真夏の中華料理店で贄一が言ったことを思い出す──たとえ致死的なウイルスに蝕まれるとしても、同じ場所にいたいと願う誰かがいるだろうか──牧人は中島の横顔を優しく見下ろしていた。たとえばもしウイルスに感染しても構わないことを表明すれば、俺と中島が結婚をして家族になることを許してもらえることにはならないのだろうか。
 やがて激しいダンスミュージックが遠くの地平から再び聞こえ始めるまで、牧人はそんなふうに中島の耳たぶを弄んでいた。

 日曜日、冬音に呼び出された場所は、贄一の画廊だった。自宅で遅めの朝食を取っていると、食卓テーブルの上でスマホが震えた。
「今日はバイトじゃなかったよね。今からこっちに来れる?」冬音が早口で言った。
「バイトじゃないけど、今から準備しても、自由が丘までは時間はかかるよ。だいいち面倒くさい」
「遅くなってもいいよ。待っとくから。電話じゃ話せないことなの。急で悪いけどよろしくね」
 電話を切った後も、牧人は何事もなかったようにスマホを触っていた。二杯目のコーヒーを入れようと立ち上がったとき、冬音から画廊への地図が送信されてきた。牧人は溜め息をつくと、顔を洗って歯を磨き、服を着替えた。
「さわやかな秋の日曜にお出かけか」
 玄関で靴を履いていた牧人に、冴が声を掛けた。まだパジャマ姿で、静電気がまとわりついているような寝癖がついていた。
「自由が丘の画廊に来いって」牧人はリュックを肩に掛けた。
「なんだ、母さんか」
「今日はそろそろ台所の配管でも調べようかと思っていたのに」
「あ、忘れてた。食洗機」冴は口をぽかんと開けた。「いいよ、洗い物は私がやっとくよ。それと孝太郎がさ、牧人くんはどうしてるって聞いてた」
「なにそれ」
「知んない。別に何も変わんないけどって返しといた。あんたたち、どっかで会ったことあんの?」
「ない」牧人はドアのノブを握った。「あのわけわかんない造形物の前で一緒に並んでいたとき以来、一度も会ってないよ」
 冴はまだ寝ぼけているような半開きの目で、牧人のことを何も言わず見ていた。「ホワイトソースのロールキャベツ」
「は」
「今日の晩御飯。あんたの番でしょ」
 何も聞こえなかったふりをして、牧人はドアを開けた。
 途中で路線を乗り換え、自由が丘の駅で降りた。改札口を出ると、ビルの向こうでは栓が抜けたような乾いた空が広がっていた。まばらに落ちた午後の影の中を人々は足早に通り過ぎ、ロータリーには何台かのタクシーが退屈そうに停まっていた。牧人はスマホの地図を手にしながら、物静かな通りの方へ足を向けた。
 街路樹が並ぶ歩道を進みながら、冬音と冴について牧人は思い巡らせた。牧人が滝乃瀬家の人間と認識されないようになっても、冬音と冴は特に何も言わなかった。牧人宛ての郵便物は変わらずポストに届いていた。牧人のバイト代が冬音の銀行口座に振り込まれることについて「キャッシュカードを失くして引き出せないから」と説明すると「あそう。大丈夫よ、くすねたりしないから」と冬音は頬杖をついて俳句の続きを考えた。スマホの名義を冬音に変更したいと頼むと、冬音はただ面倒くさそうに書類に記入してくれた。役所にある戸籍謄本がどうなっているのかまではわからない。もちろん二人とも確かな異変は感じているのだろう。だが自分が滝乃瀬牧人であろうが、ただの牧人であろうが、少なくとも三人で日々を暮らすぶんにおいては何も変わりはしない、二人が笑い合っている姿を見ていると牧人にはそう感じられた。
 贄一はおそらく何かしらの反応を示すと牧人は見こんでいた。贄一と贄孝太郎の系譜は古い地点で繋がっていると家族家のニエは告げた。贄一はニエの存在を認識していないとのことだったが、あれから時間が経っている。贄一もまた贄家の安泰という目的を自覚して冬音を取りこみ、俺を排除しようとしているのだろうか。
 贄一の画廊は小さなビルの一階にあった。コンクリートが打ちっぱなしにされた三階建てのビルで、ガラスドアになっている一階の入り口には「ギャラリーニエ」と書かれた控えめな看板が設置されていた。ガラスドアを開けると、間口とは対照的に真っ白な空間が奥まで続いていた。白い壁には十五号ほどの絵画が余裕のある間隔で並べられ、白い天井からはダウンライトが柔らかな光を落としている。不思議なことに路上の雑音はぴたりと遮断され、息を吸いこむとアロマオイルの香りがほんのりと感じられた。空間全体に漂う人工的で無機質な清潔さに、牧人はどこか居心地が悪くなった。
「ほれ、こっちよ」
 奥の方から冬音が顔を出した。足を進めると、広めの商談ルームのようなスペースがあった。マガジンラックや書類が納められたキャビネットが置かれ、カウンターの上にはノートパソコンが開かれていた。大きめの丸いテーブルの席には冬音と贄一が腰を下ろしている。
「悪かったね。突然呼び出して」贄一は立ち上がり、牧人に椅子を勧めた。「駅から少し歩いたろう。冷たいものの方がいいかな」
「どうぞお構いなく」牧人は手を上げた。
「あ、今日は爪の色がいいね。調子が良さそうだ。じゃあアイスコーヒーにするね。あとここは意外に換気状態が良くて、抗ウイルスのオイルも焚いているから、マスクの着用は特にお願いしていない」
 贄一はそう言って、奥の小部屋に姿を消した。食器の揺れる音が聞こえてきた。牧人は冬音の横に腰を掛け、マスクをポケットにしまった。
「日曜はいつも休みなのよ」冬音は声をひそめた。「普段ならアルバイトの女の子がいて、いろいろと手伝ってくれるんだけどね」
「予想以上に洒落てるね。新築の歯医者と間違ったよ」
「なにそれ。良い意味?」
「新築の歯科クリニックって患者をリラックスさせようとする演出が過剰で、逆にリラックスできないだろ」
「そこまでじゃないでしょ」冬音は笑みをこぼした。「でもバイトの女の子はどこか汚れたところはないかって、いつも緊張した顔をしてる」
 しばらく牧人がまわりを見回していると、贄一が戻ってきた。盆の上に載せたアイスコーヒーを牧人に前に置いた。
「ストローの場所がわからなくてね」贄一は苦笑しながら席に着いた。
「ありがとうございます。あの、あれは」牧人はホワイトボードに貼られている写真を指差した。「あそこに写っているのは、以前展示会にあった孝太郎さんの作品ですか」
「ああ、そうだよ。ちょっと気になってね。あのときスマホで撮ったものをプリントしたんだ。ときどき手にとって眺めるんだけど、なんとも不思議な作品だなと思って」
「確かに。じっと観ていると、吸いこまれていく感覚がありました。どこかで目にしたような記憶もあって。そういえば孝太郎さんの就職は決まりそうですか」
「彼の実力なら、どこかしら拾ってくれるところがあるんじゃないかな。私からも紹介できる話をさせてもらったけど、ちゃんとしたあてが自分であるみたいだよ。それで牧人くん、その就職の話なんだけど」
 贄一は冬音の表情を確認した。冬音は視線を落としたまま小さく頷いた。
「牧人くんの今後がまだ決まっていないことは、冬音から聞いたよ」贄一は姿勢を正した。「これまで家事でも家計でも協力的だったし、同年代の男の子よりもずいぶん自立している牧人くんのことだから、これから就く仕事に関しても、自分のしっかりした考えがあるに違いない。自分で選んだ仕事をするのがいちばんだし、焦って無理に決めることはないと私も思う」
 テーブルの上で組まれた贄一の手を牧人は見た。様々なビジネスを経験してきたことを想起させるごつごつとした指が重ねられていた。左手の薬指に指輪が嵌められていた。確か以前はなかったものだ。冬音? 何も付けずに名前を呼ぶのは自分と冴と、死んだ父だけのはずだった。数ヵ月先には贄冬音になる──眩しく光る指輪がそう告げているように牧人には思えた。
「ただ、牧人くん」贄一は牧人の目をじっと見据えた。「タイミングとしては、これからみんな新しい道を進もうとしている。冴ちゃんと孝太郎くんも将来に向けて準備をしているし、冬音と私も新しい生活方法を具体的に決めていかなければいけない。そんな中で牧人くんだけが新しい道になかなか歩み出せないでいることは、私たちとしてもとても気がかりなんだ。今の社会情勢を見ても、就職難という状況は当分改善されないだろう。そこで牧人くんさえ良ければ、私から仕事を紹介させてもらいたんだ」
 贄一は安心感を与える笑みを口元に浮かべていた。まるでこの話が父という新しい役割を果たす第一歩であるかのように。彼の堂々とした肩幅を眺めていると、いくらあがいても小さな光に辿り着けないでいた、あのときの永遠のような場所がなぜか頭の中に広がった。
「ご心配を掛けてしまい、申し訳ないです」牧人は頭を下げた。
「水臭いことは言わないでほしい。息子となる人の将来だからね、私としても全力で応援させてもらいたい。実は付き合いのある画材会社がちょうど人を募集しているんだ。首都圏を中心に十店舗ほどを経営している大手だよ。最初は現場を知るために店頭に立って、接客や品出しを憶えてもらうことになるけど、先々は本部の一員に加わって商品企画や販売戦略なんかを考えてもらうことになるようだ。牧人くんのことだから、そこまでいくのにきっと時間は掛からないだろうね」
「本当に僕なんかでも雇ってもらえるんでしょうか」
「もちろんだよ。あ、そうそう、この画廊を手伝ってもらっている女の子がいるんだけど、ちょうど彼女もその画材会社への就職が決まっているんだ。もしかするとその子と机を並べることになるかもね。今度紹介するよ」
 贄一は満足そうな表情を見せた。牧人は咳払いをし、テーブルの中心を見つめながら、言葉を組み立てた。
「僕が滝乃瀬じゃなくても雇ってもらえますか」
 贄一は動きを止めた。「どういうことだろう」
「滝乃瀬という姓を奪い取られ、僕がどこの系譜にも属さない人間だとしても、その画材会社は僕を雇おうとするでしょうか」
 不思議な沈黙が訪れた。贄一は眉根を寄せていた。牧人の言葉の意味をあらゆる角度から解明しようとしているようだった。そんな彼の困った顔を冬音はどこかおもしろがっているみたいに頬杖を突いていた。
「それは」やがて絞り出すように贄一は言葉を発した。「つまりこういうことかな。牧人くん、君は私と冬音の結婚に何か不安を抱いていると」
「もしそうだとしたら、贄さんが今仰ったみたいに僕もストレートな言葉で伝えます。今は僕の就職の話ですよね。僕が言った言葉のとおりに受け取ってもらって構いません」
「君が滝乃瀬じゃないとしても」贄一は独り言のように呟いた。「そうだね。それが具体的にどういう状態なのかはイメージしづらいけど、そのことと仕事のこととは直接的な関係はないはずだ。率直にいうと、私と画材会社とはかなり古い付き合いなんだ。お互いに信頼しているし、私からのお願いを受け入れてくれるのは間違いないだろう」
 牧人の奇妙な質問をとりあえず横に伏せ、贄一は固い笑顔を浮かべた。
「わかりました」牧人は静かに答えた。「ただ実は今、別の会社で採用の話が進んでいます。今日のお話はとても有難いものですが、先方への礼儀もありますし、合否結果が出るまではちょっと待ってもらえませんか」
「もちろん」贄一は大きく頷いた。「いずれにせよ牧人くんの仕事が決まるわけだから、私してはとても嬉しいことだよ」
 その後はしばらく三人で近況を話し合ったが、贄一は出張で羽田空港から発たなければならず、牧人と冬音は画廊を後にすることにした。
 大通りに出ると、冬音がタクシーを止めた。「たまにはいいでしょ。これで家まで帰ろ。なんか最近疲れやすくてね」と冬音は後部座席に乗りこみ、牧人も横に座った。
「いい話だと思うよ」冬音が座席にもたれて息を吐いた。「画材屋って安定した商売だと思うし。今、若い子のあいだでも絵を描く子が増えてるんだってね」
「そんなの聞いたことないな」牧人は窓の外に視線を向けた。歩道では、秋空の下で夫婦らしき男女がベビーカーに手をやりながら見つめ合っていた。
「高卒じゃなかなか仕事がないのが現実だね。私も人のことは言えないけど。ジムの正社員の話もほんとは進んでないんでしょ」
「返事はないね。でも駄目だったって話も返ってきてない。後押しはしてくれているみたいだよ」
「それはやっぱり難しいってことじゃないかな。バイトとしては続けてもらいたいから、言いにくいのかもしれない」
「すみません、お客さん」赤信号で停車すると、運転手が後部座席を振り向いた。「マスクはお持ちですか? いちおう室内なもので。会社がうるさいんですよ。なければ差し上げますから」
 牧人と冬音はそれぞれ自分のマスクを着けた。信号は青に変わり、運転手は何も言わずに車は発進させた。
「一さん、困ってたね」冬音は牧人に顔を向けた。「なんであんなこと言ったの」
「何が」
「自分は滝乃瀬じゃないって。わけわかんなかったと思うよ」
 牧人は冬音の横顔を見た。視線は前方に戻されていたが、訝しんでいる様子はなかった。牧人はゆっくり深呼吸をした。
「実際、何か変だろう」牧人は答えた。
「そりゃ、まあね」冬音は両手を組んだ。「変な感じは最近、蠅みたいにぶんぶん飛び回ってた。でも蠅程度だから気にしなかった」
「滝乃瀬じゃなくなったことは、蝿程度のことなのか」
「やだから、本当にそうなの? 口座が使えなくなったり、郵便物に牧人しか書かれてなかったり、それはつまり本当に滝乃瀬じゃなくなったってことなの?」
 牧人は顎に手をあて、マスクの中で湿った呼吸を何度か繰り返した。「そういう、夢みたいなものを見たんだよ」
「夢」冬音は大きな声で繰り返した。「で夢から目覚めたら、滝乃瀬ではなくなってたわけね……そうか」冬音は何度か細かく頷いた。「なんか、素敵な話だな。私も目が覚めたら、誰でもない人になっていたらなって思うことがあるよ」
 冬音はしばらく窓の外に顔を向けた。そしてその先に見えるものを自分の胸にしまいこんだように、再び視線を前方に戻した。
「昔、七平さんにプロポーズされたときのことを思い出した」冬音は語り出した。「私すっごくびっくりしたの。だってまだ付き合って一ヵ月足らずのときに、結婚するかって突然言い出したんだよ。休みの日に二人で鎌倉のお寺を巡ってて、途中に古いおもちゃ屋があったから、そこにふっと入ったの。テレビゲームとかは置いていない、おじいちゃんが一人で小さいテレビをずっと見ているような昔のおもちゃ屋。そこであの人さ、埃の積もったプラモデルの箱を繁々と眺めながら、結婚するかって呟いたのよ。プラモデルの箱に向かって、これを今から一緒に組み立てようかみたいな口ぶり。思わず、は? って訊き返しちゃった。え、プラモデル作りが初めての共同作業? って」
「二人で作る愛のガンダム。悪くないと思うよ」
「そういったロボットじゃないのよ。モビルスーツじゃないから。あの人が好きだったのはデコトラ」
「どっちでもいいよ。でもデコトラでもオーケーしたんだろ」
「や、さすがのわたしも即答しなかった。いくらなんでも埃にまみれたデコトラの前で頷くことはできないから。帰りの江ノ電のホームで別れるときまで引き延ばしてやったよ。ちょうど夕日が海の向こうに沈もうとしていたときに、じゃあ結婚しましょうかって」
「そのとき、父さんはどんな感じだった?」
「よく覚えてないけど、変な顔してた。笑い声は出さないんだけど、鳩みたいにいろんな方向を向きながら笑顔を浮かべてた。わかりやすい照れ方だよね。それでその後、私一人で江ノ電に乗って、なんとなく窓の外を眺めてたの。眺めながら、これから新しい場所に移るんだなっていう感覚を一人で受けてた。それまであたりまえにあると思ってた自分の家から離れて、別の家に移ろうとしてる。たんに籍を入れて、名前が変わるっていうだけじゃなくてね。そんなことを考えていると、電車の中で急に心臓がどきどきしてきたんだ。あの人からプロポーズされた瞬間は、は? って眉間に皺を寄せるだけだったのに。今、何かから何かへ移動しようとする自分っていうのは一体何なんだろうって。今いる場所から離れて、ふわふわ漂っているたった一人の自分っていうのはどうにも頼りなくて、流されるぐらい薄っぺらで、とっても弱々しいものなんだなって、突然不安になってきたのよ」
 牧人はマスクの位置を調整した。「いわゆるマリッジブルー? だとしたら反応が早すぎるな」
「さあ、どうだろう」冬音は首を傾げた。「確かに沈んだ気持ちにもなったわね。遠くの方で新しい場所がゆっくり見えてくるっていうのが、しばらくはなぜか悲しかった。でも、どこかで新しい気分もひょっこり顔を出してた。泣けてきそうだったけど、新しい自分が始まるんだなっていう素敵な気分でもあった」
「父さんが聞いてたら号泣してるかもね」
「そんなタイプじゃないわよ。料理の味も甘いか辛いかしかわからないんだから、七は」
「なな?」
「あ、付き合ってた頃はそう呼んでたから」冬音は短く笑った。「でも、そんな素敵な気分もほんの束の間だった。結婚してからは毎日が目まぐるしかったわ。夢子さんとの三人暮らしが始まったら、すぐに冴が生まれて一日中ばたばた。やっと夜泣きをしなくなった年齢になって、ほっと落ち着いていたら、次はあんたが生まれたでしょ。もうこれで子どもはいいかと思ってたら、七平さんが溺れて天国に行っちゃうし」
 冬音はそこで言葉を止めた。何かを思い出すように鼻の頭に手をやっていた。
「でもまあやっと冬音も大学を卒業するし、牧も自立できる年齢になったからね。妻の役割はもう十年以上前に失われてるし、母親の役割もあと少しで終了だ。これでまた一人に戻って、ふわふわと漂うんだろうね」
「これからは一さんと一緒に住むんだろ」
「やだから今、ふわふわで泣けてきそうな素敵な気分になってるの」冬音は自分の両膝を両手でぽんと叩いた。「牧、あんたはあんたにとっての新しい場所に行けばいいよ。私が母親じゃなく、冴が姉じゃない場所。そしてそれがもし滝乃瀬でもない場所だとしても、それはそれで別に構わないじゃん。ちょっとわけわかんないのは確かだけど。でもよくよく考えたら、私と冴が滝乃瀬じゃなくなるのも確かだからね。今日の画材会社の話も、牧の好きにすればいいよ。変な気は遣わなくていい。ジムで働きたいなら働けばいい。誰もあんたの代わりに生きることはできないんだから。そして中島くんっていう良い友だちがいるなら、大切にした方がいいよ。それはあたりまえのこと」
 タクシーが自宅近くの道路に入ると、冬音は身を乗り出して、細かい道順を運転手に教え始めた。「そこ」と「あそこ」の指示代名詞を連発して、要領を得ない説明を繰り返す冬音の必死な横顔を見ていると、牧人は泣けてきそうな素敵な気分というのが少しわかる気がした。そして今からホワイトソースのロールキャベツを作ることを思い出し、本当に泣きそうになった。

 一時間目が終わった休み時間、教室の外から騒ぎ声が聞こえてきた。いつもは足音が際立って響くほど静かだったが、そのときは驚きの声や悲鳴と共に、生徒たちが次々と集まっているようだった。牧人はそんな騒ぎを無視し、机の上で伏していた。中島が学校を休んで十日ほど経っていた。季節は冬に変わり、ほとんど意味を失った学校の授業に出席せず、自らのペースで受験勉強の追いこみに集中する生徒は少なくなかった。中島は違った。牧人が確認のメッセージを送ると[体調を崩しちゃって]と返信があった。ウイルスに感染したわけではないと中島は書いていた。[熱があるとか咳があるとかじゃない。検査でも陰性だった。ただ食欲がなく、頭が重くてふらつく。まっすぐ歩くこともままならないんだ。でもウイルスじゃないから大丈夫。会えなくてごめん]。中島はジムにも来ていなかった。ここ一ヵ月は以前よりトレーニングの回数は減っていたが、十日も姿を見せないことは初めてだった。
 昼休みを告げるチャイムが鳴った。朝のコンビニで買ったパンを鞄から取り出そうとしたとき、牧人はスマホの通知サインに気づいた。メッセージの相手は中島だった。
[今、保健室。階段で転んじゃった]
 牧人はスマホを手にしたまま、教室を飛び出した。階段を駆け下り、一階の端にある保健室まで向かった。ドアの前で呼吸を整えてからノックをすると、女の返事が聞こえた。ドアを開けると、初めて目にする保健室の教師が机の前に座っていた。
「どうかした?」白衣姿の教師はこちらを振り向いて訊ねた。
「友だちがここで休んでるって聞いて」
「ああ、中島くんね。そこのベッドで横になってるよ。朝ここに運びこまれて、しばらく気を失ってたの」
 牧人は足を進めて、ベッドの方に近づいた。そこには首元までシーツを掛けられた中島が身を横たえていた。瞼を薄く開けて、天井を見上げている。
「ちょっと前に目が覚めたところなんだよね」牧人の背後から教師が声を掛けた。「頭を打った様子はないから大丈夫だと思う。でも念のため、今日は一日安静にしておいた方がいいわね。勉強を頑張りすぎて、ちょっとふらついちゃったのかな」
 中島は牧人に視線を向けた。眼鏡は外されており、焦点が定まっていない目つきだった。髪は乱れて絡み合い、マスクだけが妙に白かった。実は何日も入院していたといわれても違和感のない姿だった。
「申し訳ないんだけどさ」教師は声量を落とした。「もし君がまだここにいるなら、ちょっとお昼買ってきていいかな。十五分ぐらいで戻ってくるから、そのあいだここにいてくれたらとっても助かる。君のクラスと名前は?」
 牧人は一呼吸を置いた。「三年一組の滝乃瀬牧人です」
「はい、牧人くんね。それじゃあ悪いけどお願いします」
 教師が保健室から出ていくと、牧人はベッドのそばの椅子に腰を下ろした。
「今日、学校に来てたこと知らなかった」牧人は言った。
「そうだね」中島は掠れた声を出した。「今朝は少しましだったから、びっくりさせようと思ったんだ」
「確かにびっくりした。なんでそんなに痩せたんだ」
「やっぱりトレーニングを止めたら、急に筋肉が落ち始めた。穴の空いたバケツみたいにあっという間だった」
「しばらくトレーニングをストップしたぐらいで、そこまで変わるはずないだろう」
「筋肉が落ちたから体調が崩れたのか。それとも体調が崩れたから筋肉が落ちたのか。よくわからない」
「根本的な原因があるんじゃないのか」
「医学的な原因は見つからなかった」中島は徐々に体を移動させながら、上半身をゆっくりと起こした。制服の白いシャツにいくつもの皺が折り重なっている。「病院で診てもらったけど、ウイルス検査は陰性だったし、血液検査でも悪いところは見あたらなかった。少なくとも医学的な原因ではないってことだよ」
 牧人は中島の胸元を見た。首元のボタンが開けられ、白い肌が覗いていた。筋肉の膨らみは失われ、叩くと乾いた音が鳴りそうな胸板に変わり果てていた。肩の骨は突出し、シーツの上には両手が力なく放り出されている。
「眼鏡は、どっかにあるかな」中島はあたりを見回した。
 枕元の棚の上に眼鏡は置かれていた。牧人が手に取ると、片方のつるが奇妙な角度で垂れた。どうやら転倒の衝撃でフレームが歪んでしまったようだった。
「これじゃどうしようもないな」
 中島は牧人から慎重に受け取った眼鏡を掛けた。落ち窪んだ両目に重ねられたフレームは余計いびつに傾いているように見えた。
「あいかわらず食欲はないのか」牧人は訊ねた。
「食べてもすぐ吐いちゃうからね」
「点滴でも何でも、とにかく栄養を摂った方がいいよ」
「うん。そうだね」
 やはり校内は静かだった。ときどき硬い物を落としたような音が廊下の遠くから響いてきた。グラウンドからは掛け声一つ聞こえてこない。牧人は静かに中島を見つめていた。ベッドの上で背中を曲げて、虚ろな目をこちらに向けている。まるで何かを奪われ、どこかに消えようとしている──そんな不吉な姿に牧人は見覚えがあった。夢子は亡くなる数ヵ月前、同じように布団の上で虚ろな視線をぼんやりと漂わせていた。畳の目を視線でなぞっていたのか、どこでもないどこかを見ていた。出口のない隘路で一人佇んでいるみたいだった。そして俺もあのときそうだった、牧人はそう思い出した。家族家のニエに流されたとき、呼吸を奪われ、自分を繋ぎ止めているものがすべて激しい雨によって打ち絶たれていくようだった。新しい場所などどこにも現れない。古い場所もすでに失われている。結び目は全てほどかれて、その場所で永遠に漂い続けることになる。
「事典は最後まで読んだ?」
 牧人を呼び起こすように中島が訊ねた。
「事典」牧人は繰り返した。「ああ、ユニコーンの事典か。いや、途中まで」
「あの本はやっぱり興味深いよ。いろんなことが書かれている」中島は真剣な目つきを見せた。「たとえば古くからユニコーンを描いた絵画はたくさんあったけど、どれも決して複数では登場していない。ユニコーンはいつも一体だけなんだ。あと、性別が不明な点もおもしろい。果たして男の象徴なのか女の象徴なのか、時代によって解釈が変わったりするけど、ユニコーン自体が性別を持っているかどうかは、はっきりしないんだ」
「そんなこと書いてるのか。知らなかった」牧人は髪をかきあげた。「だからといってユニコーンが何かのメタファーだっていうのは安直だと思うぞ」
「最後にもう一つ説がある」中島は牧人の言葉を無視した。「旧約聖書にもユニコーンは出てくる。方舟はこぶねの話さ。世界を沈める大洪水が起こったとき、種を保存するために動物のつがいを一組ずつ方舟に乗せたよね。あらゆる動物の中にユニコーンも当然いたんだけど、雄同士が乗せられてしまった。その後にユニコーンが滅びたのは、そのことが理由だったっていう説がある」
 中島はマスクを顎まで下げた。頬はこけ、唇は白く乾いていた。そして小さな微笑みを浮かべている。
「やっぱり、中島が考えているもののメタファーだとするのは安直だと思う」牧人もマスクを下げた。
「お母さんとお姉さんは元気?」中島は訊ねた。
「うるさいぐらいだよ。でももうすぐ静かになる」
「たぶん、僕たちのことに気づいている」
「そうだな」
「素敵な二人だよ。大切にしなよ」
 ドアが開く音が聞こえ、保健室の教師が戻ってきた。しゃりしゃりと音を立てながら、手に下げたコンビニのレジ袋を机の上に置いた。
「ごめんね。しっとりメロンパン食べる?」
「いらないです。それじゃあ失礼します」
 牧人はどこに向けることもなく手を上げて、保健室を出た。
 五時間目のうちに中島はタクシーで帰宅した。[さっきは変なこと言ってごめんね]と中島はメッセージを送信してきた。[牧人と会えて、だいぶ調子が戻ったよ。とりあえず今日は家に帰る。またジムでね]
 下校時の空から眩しい光が失われる季節に移り変わっていた。牧人は歩道橋の上で立ち止まっていた。夕日の光線は排気ガスの中で乱反射を繰り返し、街並みをやわらかく輝かせていた。車の列は暖色の川をつくり、岸辺の歩道を進む者はそれぞれ長い影を引いていた。だが夕日そのものは、まっすぐに続く国道の消失点に浮かんでいなかった。秋から冬に移るわずか数日間の時期はすでに過ぎ去っており、夕日は少しずれたビルの向こうに身を隠していた。牧人はいつまでも歩道橋の上から立ち去ろうとしなかった。
 何か不吉な流れが本当に近づきつつある──牧人は目を細めて、ビルに隠れた夕日の姿を追った。結局のところタキノセが警告したことは本当に起こるのだろう、牧人はそう予感した。確かにそれは贄一や贄孝太郎によって呼びこまれたものかもしれない。しかし彼らはきっかけであり、一部にすぎない。あの何重にも白く絡み合って分裂する造形作品のように、彼ら二人がいる場所とは別の遠く離れた場所からとても長い手が伸びている気がした。それは俺の足元にひっそりと忍び寄っている。そして俺の大切なものを致命的に奪おうとしている。滝乃瀬という姓を失ったのは、きっとその予兆に違いない。
 牧人は耳元に手をやり、マスクの紐を外した。そして腕を伸ばし、歩道橋の上からマスクをそっと落とした。白く舞い落ちていくものはやがて金属の波にたやすく飲みこまれていった。やはり俺は俺にとっての新しい場所を見つけなければいけない。牧人は夕日に照らされた国道を背にして、歩道橋の階段を下りていった。

 ウイルスの蔓延に乗じて広まっていた違法行為は次々と取り締まられた。さもウイルスに対して免疫力が上がるような宣伝をしていたサプリメント会社は摘発され、山奥でテントを張ったり小屋を建てたりしてコミュニティを築いていた連中は不法占拠で逮捕された。ウイルスを人工培養し、生物兵器として保持しようとした左翼系集団の事務所を警視庁が家宅捜索したときは、テレビ各局が一斉に生中継で放送した。逮捕された構成員には高学歴のエリートコースから脱落した若者が多かった。経済格差が固定化された社会に抱く逆恨みの感情がこのような狂気に走らせたのだろうと、コメンテーターたちはあくまで個人の暴走として断罪した。牧人はテレビのスイッチを切り、トレーニングジムへ向かう準備を始めた。
 テレビでもインターネットでも、以前のように政府の対応を批判する声は少なくなった。毒性を高めたウイルスに対して効果を確認できた経口薬をまもなく無料で供給できるだろうと政府は発表していた。感染者数のグラフは淀みのない右肩下がりを描き、人々の行動規制は日常に不自由のないレベルまで緩和されていた。結局我々の行動は許可されるものであり、生存のための手段は用意されるものであるのか? という誰かの呟きは誰の相手にもされなかった。自由を尊重する批評よりも、人々が求めたのは目の前の金と健康だった。
 牧人のバイト先のジムも会員数を徐々に取り戻しつつあった。以前と同じ売り上げにはまだ届かないにせよ、どこの店舗も潰さずに済むぐらいの経営状況までには立て直していた。その日、牧人も会員の一人としてジムを訪れた。ロッカーで上着を脱ぎ、タンクトップとショートパンツに着替えた。トレーニングフロアに入ると、ラットプルダウンに腰を下ろし、バーの両端を握りしめた。そして負荷を掛けられた背中が大量の汗で濡れるまで、牧人は広背筋を鍛え続けた。
 中島の体調はなんとか維持されていた。学校の授業を欠席することは多かったが、そのぶん自宅で受験勉強を続けているということだった。最低限の出席日数を確保するために登校してくると、中島は痩せた姿を牧人に見せにきた。
「頭のふらつきはまだあるけど、体重はなんとかキープしてるよ」中島は新調した眼鏡の奥で目を細めた。
「ほんとかよ。目の下のくまは濃くなってる」
「これはただの寝不足。プロテインだけは欠かしてないよ」
「豆乳に混ぜるんだろ」
「詳しいね」
「いちおうジムでバイトしてるからな」
「牧人さ、ビニール傘をやめて、今度はマスクもやめたの?」
「だって」牧人は口元に手をやった。「もういらないから」
「ふうん」中島は牧人の体を見回した。「ひょっとしてトレーニングしてる?」
「ああ、最近始めた」
「うらやましい。ちゃんと筋肉が付いてるね」
 自分が体を鍛えたからといって、中島の体調が戻るわけでないことはもちろん理解していた。中島から勧められたわけではないし、特に喜ばれることでもないとわかっていた。ただ、歩道橋の上で消失点からずれてしまった夕日を眺めていると、それは今の自分に必要な訓練なのだと思えてきた。雲行きを観察し、空気の湿度を感じて、不穏な空模様に向けて傘を準備するのと同じことだった。マスクを捨て、自らの肉体を追いこみ、筋繊維や赤血球を増やすことは、やがて訪れる大きな流れを自分の力で進んでいくために必要なことだと牧人は感じた。
 トレーニングを終えてシャワー浴び、廊下を進んでいると、社員登用の希望を伝えた男性社員とすれ違った。お疲れさま、とだけ言って彼はスタッフルームに入っていった。牧人も挨拶を返しただけだった。たぶん採用の話は通らなかったのだろうと牧人はガラス張りの自動ドアから出ていった。まだウイルス感染の影響が拭えないのかもしれない。でもいずれは社員を採用するタイミングがくるはずだ。それまでアルバイトを続けるのか。それとも贄一に紹介された画材会社に就職するのか。
 あるいはそれら以外の可能性を考えながら、牧人は家に着いた。玄関を上がると、夢子の部屋の襖が開いていた。冬音は朝から出かけていた。覗いてみると、冴が背筋を伸ばし、仏壇の前で正座をしていた。
「怖いんだけど」牧人は声を掛けた。
「しばらく顔、見てなかったから」冴は振り向いて答えた。
「どっちの?」
「二人とも。どんな顔してたっけなって」
 牧人は部屋に入り、腰を下ろした。「就職がまだ決まりそうにない」
「そうなんだ」冴は手のひらを畳について、正座のままくるりと牧人に向いた。「それは苗字を失くしたから?」
「たぶん、そのことが大きいと思う」
「だったら適当に付けちゃえばいいじゃん。滝口でも滝本でも。誰も戸籍謄本まで調べはしないよ」
「学校からの推薦だから、そういうわけにはいかないよ」
「くだらないよ。今どき苗字で仕事してるのって世襲制の古典芸能ぐらいでしょう。そんな古くさい会社だったら別に無理に決めなくていいと思うけどな」
「でも俺の就職が決まらなかったら、この家を出たくても出られないんだろ」
「そんなことないよ」冴は意外そうに目を見開き、微笑んだ。「孝太郎はデザイン事務所から内定をもらったし、私は画塾のバイトを続けることにした。春からは1LDKぐらいの部屋を借りて一緒に住むつもり。牧の就職とは関係ないよ。牧のせいでお互いが不自由になる、そんなのお互いに嫌でしょ。だから悪いけど、私はこの家を出るね。お金のこととか細かいことがあるなら、後で考えればいいわけだし」
 冴は足を崩すと、膝を立てて両腕で抱えた。
「孝太郎さん、デザイン事務所で働くんだ」牧人は確かめた。
「専門は彫刻だけどね。でも一応デッサンもできるし、コンピューターのデザインソフトも扱えるし、そこにいる先輩が誘ってくれたっていうのもあってね。でも社員デザイナーとか社員イラストレーターは給料も安いし、業界的にはあんまり一人前と見なされないから、いずれ独立するまでの腰掛けとしか考えてないみたい」
「ここには住まないの?」
「え」
「この家で孝太郎さんも同居するっていう可能性はないの? 滝乃瀬孝太郎として」
「あ、なるほどね」冴は何かを計算するように斜め上を見た。「この家での同居については、確かに私も一瞬よぎったことがある。部屋も余ってるし、経済的だよね。でも孝太郎は絶対拒否するだろうな。同居することも、滝乃瀬になることも。ていうか同居したとしても、養子に入る必要はないでしょ」
「孝太郎さんのことは好きなの?」
「やだ何言ってんの」冴は口を大きく開けて笑った。「まあ、そりゃそうだよ。孝太郎って何考えてんのかわからないとこがあるでしょ。ちょっと暗いしさ。でもああ見えて、実はお笑い好きなの。ドリフのDVD全巻揃えてる。お笑いは意外にオーソドックスなものを好むんだよね。あそうだ、昨日駅前で買ったみたらし団子が残ってるよ」
 冴は立ち上がり、足早に台所に向かった。
 牧人は二人分の麦茶を入れ、冴は冷蔵庫から取り出した皿のラップを外し、三本だけ残されたみたらし団子を食卓テーブルの上に置いた。賞味期限は短く、二人とも席に着いた。
「そもそも卒業はできそうなの」牧人は一串つまんで訊ねた。
「もちろん」冴も串を片手に答えた。「卒業制作も大詰めだよ」
「もしかして廃校の展示会にあった絵?」
「よくわかったね。あの『廃子』をもっとブラッシュアップしてるの。あと少しで完成かな……それでさ、昨夜、雨降ったでしょ」
「そうだっけ」
「そう。画塾のアルバイトが終わって、駅に着いて、みたらし団子を手にして和菓子屋を出たら、急に降り出してきたんだよ。だから私、折りたたみ傘を広げて帰ろうとしたんだけど、すごく強い雨だった。足元はずぶ濡れで、みんな軒下で一時避難してたぐらい。でももうすぐ家だし、できるだけ水たまりを避けながら、足早に家に向かってたの。するとね、ちょうどあそこの野球場のあたりで、いつのまにか変な人がまとわりついてた」
「変な人?」
「私の横とか後ろでちらちらするものが見えて、なんだろって振り返ったの。最初は自分の見間違いだと思った。だってずっとキャンバスに描いてる廃子がそこに立っているんだもの。ランドセルは背負ってなかったけど、真っ黒な服を着て、目だけが虹色にぎらぎら光って。ああ、きっとずっと描いているから目と頭がおかしくなったんだと思った。雨がざあざあ降ってるのに、服は全然濡れてないし」
 牧人の指に甘だれが落ちていた。まだ団子が刺さっている串を皿の上に戻し、指を舐めた。牧人の呼吸の間隔が短くなっていた。
「気のせいだった?」牧人は訊ねた。
「ううん」冴は首を横に振った。「本当にいた。私に向かって微笑んでた。それから低い声で、家族家のタキノセですって名乗った」
 冴は何でもないように団子を一つ頬張った。そして麦茶を一口飲んだ。
「雰囲気だけなら、悪そうな感じはしなかった」冴は続けた。「同じ滝乃瀬だしね。だから何も言わずに会釈だけして、そのまま去ろうとしたら、その人が立ち塞がるように言うのよ。冴さんに滝乃瀬家を救ってもらいたいって。滝乃瀬家の危機がそこまで近づいていて、時間はほとんど残されていない。いちばん手っ取り早く、すぐにでも手を打つ必要があるのは、牧人さんと中島さんを引き離すことだって」
 冴は団子をすべて食べ終えると、串をごみ箱に放り入れた。そして汚れた指を何度か舐めた。いつも甘いものを食べた後に見せる満足げな表情だった。
「廃子なら可哀そうかなって思ったけど」冴は牧人に向かって首を傾けた。「でもこれは廃子じゃないってわかった。別の人なんだって。だから折りたたみ傘を閉じて、ちゃんと生地を丁寧にたたんで、釦もパチッて留めて、深呼吸を一つしてから、思いっきり傘でぶん殴ってやった」
 冴はテニスラケットを振るような仕草をした。「みたらし団子を片手に持ってたから、全力は出せなかったけどね」
「時間は残されていないって?」牧人は冴の目を見た。
「うん、言ってた。どういう意味かはわかんない。でもどんな事情があるにせよ、なんか私は腹が立ったんだ。だって初めて会った人にごちゃごちゃ言われる筋合いはないから。滝乃瀬家を救うことは、結局中島くんのことも助けることになるとか、めちゃくちゃなことも言ってたし」
 皿の上に残ったみたらし団子に視線を向けながら、牧人は冴の言葉を反芻した。夏から続いていた一件は、やはり中島に影響を及ぼしていたのだ。タキノセが予言した禍は具体的な形をとり、すぐそばの足元まで近づいている。牧人は麦茶をすべて飲み干し、椅子から立ち上がった。
「わかってるよ」
「牧」冴は声を掛けた。
「わかってる。俺もやっぱりタキノセに会わなきゃいけない」牧人は答えた。

 次第にTシャツの袖は張りつめられ、ショートパンツの腿まわりには余裕が失われてきた。服の上からでも肩から背中にかけてのラインが盛りあがり、胸板は険しい台地として形成されているのが見てとれた。腰はなだらかな渓谷を生み、ふくらはぎは放出するためのマグマを溜めこんでいるようだった。牧人は休みなくジムを訪れた。バイトのシフトが入っていない日は会員として時間の許す限りマシンと向き合い、止まることのない汗で体を濡らし続けた。
 経口薬の無料供給が世間に広まるにつれて、ウイルス感染者数のさらなる減少が報道された。そしてジムの会員数は以前を上回るようになった。これまでの室内生活による筋力低下の解消や免疫力の増強に対する意識が人々のあいだで強まり、その切実さを示すようにトレーニングジムへの登録者数は増えていった。
 ただし一方、牧人が身近に耳にする話ではウイルスに感染し、なかには死亡に至るケースも決してなくならなかった。ジムのスタッフのあいだでも、ひそかに何人かがウイルスに感染した。牧人の就職を推薦している男性社員もその一人だった。仕事を休み始めて何日かが経った後、迷惑を掛けて申し訳ないと牧人に直接連絡を送った。だが感染者が発生したことは決して口外しないように本部から指示されているらしく、他の社員たちは何事もないように黙々と業務にあたっていた。
 閉館時間が近づいた夜、牧人はランニングマシンの上で走り続けていた。アルバイトを終え、閉館までの二時間をトレーニングに費やすことにした。喉が渇くと、プロテインを混ぜたスポーツドリンクを口にした。休憩中、鏡に映る自分の上腕二頭筋が着実に太くなっていることを牧人は自覚した。その姿には確かな因果があった。タンパク質を摂取し、過重な負荷を筋繊維に与えたぶん、筋肉は確実に細胞数を増やして大きくなる。結局自分自身も生体システムに組みこまれていることを牧人は実感した。人体に侵入して、増殖していくウイルスと同じだと思った。
 だから一体何なんだ──ランニングマシンの上で呼吸のテンポを上げながら牧人は思った。常に何かの影響を受けながら、物質そして生命は変化していく。変化しながら、どこかに辿り着こうとしているのか。いや、このランニングマシンの上で走り続けるのと同じように、辿り着こうとしている場所なんて最初からないのだ。ただ流動し続けることが目的とされているだけなんだ。
 ふと顔を上げた。全面のガラス窓の向こうには夜の街が広がっていた。建物の明かりや路上の街灯がわずかな意味も示唆することなく、ただ散らばっているだけだ。そんなどこにでもある冬の夜景に重なって、一つの人影が目の前にガラスに反射していた。肩を上下に揺らせ、どこにも辿り着くあてがないまま走り続けている。いうまでもなく牧人と同じ動きだ。だが、それは牧人自身ではなかった。暗く広がるガラスの中、人影の顔の上で二つの小さな光が点滅していた。それらは次第に光量を増していった。眩しいほど光を放つと、渦を巻き始め、やがて虹色に輝く二つの目がこちらを見た。
「お元気な様子ですね」タキノセはランニングマシンの上を走りながら、牧人と対峙して言った。
「ずっと、つきまとってたんじゃないのか」牧人もランニングマシンの上を走りながら、小声で答えた。
「私だってそんなに暇じゃありませんよ。いろいろと方々(ほうぼう)に忙しく駆け回っていました。ときどきは牧人さん、あなたの様子を窺いにきたことはありましたよ。何か面倒くさいことに巻きこまれているみたいだなって」
 タキノセはガラスの中から微笑みかけた。低い声はガラスを震わせ、空気を震わせ、確かに自分の鼓膜を震わせているように牧人には聞こえた。どうやら首から上だけがタキノセにすげ変わっているみたいだった。
「そろそろあんたに会わなきゃなって思ってたところなんだ」
 両脚のスピードを維持しながら、牧人は周囲を確かめた。他にランニングマシンを使用している会員はおらず、遠くの方で数人がベンチプレスやレッグプレスを行なっているだけだった。
「冴さんから聞いたんですね」タキノセが言った。
「俺の次は冴を利用するのか」
「あなたたちはやっぱり姉弟ですね。二人とも傘を使った暴力を得意とされている」
「きわめて常識的な反応だろ」
「こちらは滝乃瀬家をいかに存続させようか、そのことに日々頭を捻(ひね)っているというのに、なぜそんな扱いをされないといけないのか。つくづく家族家というものは報われない仕事だと痛感しております。まだブラック企業に勤めた方がましでしょうね」
「聞きたいことがいくつかある」牧人はスピードを落とした。
「私も同様です」タキノセも同様にスピードを落とした。
「まず、贄孝太郎と贄一は俺から姓を奪ったことで何が変わったのか」
「牧人さんから姓を奪ったのは正確には孝太郎さんでなく、ニエ様です」タキノセは落ち着いた声を出した。「孝太郎さんや一さんに大きな変化が訪れることは、基本的にはないでしょう。あの方たちはしょせん個にすぎませんから。大きな流れの底に沈んでいる大量の砂粒の、ただのひとかけらです。孝太郎さんの方にニエ様が姿を現したのは、彼が感応しやすいタイプだったからでしょう。今回の一件はあくまでもニエ様が家族家として、脈々と繋がれてきた贄家を守るために行われたことです」
「俺から贄家を守るため?」
「違いますよ、牧人さん。ウイルスからです」タキノセは呼吸を少しも乱さずに答えた。「私も最近のこの世情になって、やっと突き止めることができました。ニエ様の動向をひそかに探っていたんですよ。おそらくニエ様は予知していたのでしょう。致死的なウイルスが再び世を覆う、そのときがほどなくして訪れることを。しかも以前より毒性を高めたウイルスです」
「ウイルスから贄家を守る。それが冬音や冴と結婚することとどう繋がる?」
「すでにある程度、予測はついているはずです」タキノセは虹色の目を細めた。「薬やワクチンが当てにならないことはご承知のとおりです。効果があるかもしれないし、ないかもしれない。実際に試してみないとわからない。そんなまがい物より贄家には昔から伝わっている人柱の風習があります。古くから作物や人命を損なう自然災害が起こると、贄家は決まって人柱を立てて生き延びてきました。いわゆる人身御供です。今、化粧品の試供品みたいに無料で配られている経口薬なんかより、禍や災厄を退ける効果は歴史的に実証されています」
 牧人はランニングベルトを蹴る足を弱めた。胸元まで上げていた両腕をだらりと下げ、ゆっくりとマシンの上を歩きながら、深呼吸を何度も繰り返した。タキノセも同じ動きをし、同じ歩調になって、こちら側に向かって進んでいる。だがもちろんいくら歩を進めても、牧人もタキノセも互いの場所に踏み入ることはなかった。
「冬音と冴は、贄家の人柱になる」呼吸を整えた後、牧人は確かめた。
「それがニエ様の狙いです。贄家の人々をウイルスに感染させないために」
「そのためには俺が邪魔だった」
「そのあたりは私にもまだ詳細を認識できていません」タキノセは歩きながら首をひねった。「単純に牧人さんの就職のことが、二人の結婚を滞らせる障害になっているのか。それとも、もっと本質的な淀みがあなたにあるのか」
 牧人は足を止めた。両手を腰にあてて、しばらくガラスの中のタキノセを見つめた。同じく腰に手をあてるタキノセも牧人を見つめていた。これまでガラス越しに交わされた言葉が一体どちらの言葉だったのか、牧人は一瞬わからなくなった。彼はランニングマシンを下りた。そしてガラス窓の寸前まで近づいた。
「中島の状態が良くない」かつてビニール傘の中でタキノセと対峙したときと同じぐらいの近さで牧人は言った。「今回の件と無関係だとは思えない」
「私も無関係だとは思っていません」タキノセも牧人の間近で二つの目を見開いた。「ここからは私の推測に基づきます。おそらく本来、冬音さんと冴さんが人柱として引き受けるべき毒が、何かの拍子で中島さんの場所に流れこんでいると考えられます。牧人さん、あなたを介してです。贄家から冬音さんと冴さんの二人に流れ、二人から牧人さんに流れ、牧人さんから中島さんに流れている。流れとはそういうものです」
「ただの推測じゃないのか」
「そのとおりです。でも実際に中島さんは死にかけている。まもなく死ぬはずです。少なくとも一流国立大学の入学試験には残念ながら間に合いません」
 牧人はタキノセの虹色の目を覗きこんだ。比重の重い液体が煮込まれているように渦を巻いている。渦のあちこちで微小な光が発生してはすぐに飲みこまれている。牧人はそこに中島の痩せた姿を思い浮かべた。中島の手足は抵抗する間もなく渦に飲みこまれていく。抗うための筋肉はすでに失われている。
「たとえば」牧人は口にしてみた。「もし中島にも家族家がいるとするなら、そいつがなんとかしようとしないのか」
「ようやく、ですね」タキノセは可笑しそうに天を仰いだ。「ようやく牧人さんに家族家の存在を認めていただいたことで、お互いに建設的な歩み寄りができそうです。中島さんの家族家については、もちろん私も調べました。結論から申しますと、中島さんの家族家は存在しません。家族家がいないどころか、今同居している両親とは血が繋がっておりません。おそらく中島さんが赤ん坊のときに何らかの事情が起こって、今の育ての親に引き取られたのでしょう。この事実は中島さん本人には知らされていないはずです。牧人さんだってそういう話を打ち明けられたことはないでしょう。いずれにせよ中島さんが産まれる前か産まれた直後に、中島さんと中島さんの家族家との流れは途切れてしまったと思われます」
 だらりと下げた腕の先で、牧人は拳を握りしめていた。次第に拳が固くなっていくことを牧人は冷静に自覚した。中島の秘密についてタキノセが淡々と説明しているのを聞いていると、全身が強張っていくのがわかった。拳の中にあるものもわかっていた。それは怒りだった。何への怒りだろうか、彼は思い巡らせた。タキノセか、タキノセを通じて初めて中島の秘密を知った鈍感な自分か、中島の肉体を損なおうとしているわけのわからない流れか、ウイルスの感染者数を操作して人心を煽動しているシステムか、面倒くさい手順を踏まないと設置できない自動食洗機か、あるいは自由に生きようとする流れを集約して都合のいいようにまとめ上げようとする大きな流れか──様々な色をした怒りが血液のように体中を駆けめぐった。そして手のひらから放出されようとするのを、牧人は爪を立てて押しとどめていた。
「結局、贄家との結婚を阻む必要があるってことか」牧人はタキノセを睨んだ。
「だから最初から言ってるじゃない」タキノセの声が耳をつんざくほど高くなった。「あなた自身の力で二人の結婚を阻止することが滝乃瀬家を救うことだってね。いくら中島さんが毒を引き受けているといっても、それは全てじゃない。冬音さんや冴さん、そしてあなたにも多少の毒は蓄積されているのよ」
「でも俺はもう滝乃瀬じゃないんだろ」
「確かにニエ様はあなたから姓を剥ぎ取ったわ。でもまだ記憶が残ってる。人々の中には、あなたが滝乃瀬だったときの記憶がかろうじて残ってるのよ。だから私もまだあなたの前に現れることができた。今ならまだ間に合う。再び滝乃瀬の姓を取り戻して、贄家との縁を切るのよ。そうすれば中島さんのことも助けることができる」
 タキノセは微笑みながら、黒い手袋を嵌めた右手を胸元まで上げた。野球場で初めて会ったときと同じように握手を求めてきた。牧人の両手は下げられたままだった。しかし拳を固く握った右腕は小刻みに震えていた。震えながら、牧人の意志とは無関係に強張った肘は曲げられようとしていた。まるで屈強な肉体を持った透明の誰かが強引に牧人の右腕を掴み、ガラスの中に向かって差し出そうしているかのようだった。牧人はさらに力をこめて抵抗した。抵抗しながら、抵抗すべき理由を探した。なぜ俺は抵抗しているのだ。タキノセの言うとおりにすればいいはずだろう。その方が面倒くさくない。中島も冬音も冴も守れるなら、その方がいいはずだ。だけど俺は必死に押しとどめている。拳の中の怒りが必死に押しとどめている。流されてはいけないと怒っている。
「おまえは何者なんだ」牧人は声を震わせた。
「だから家族家のタキノセ」タキノセは右手を差し出したまま答えた。
「どこから来た」
「それも前に言ったよ。ちょっと詳しく言うなら、時間と時間のあいだに住んでいるの。時間にも最小単位があって、普段はそのあいだで時間同士を結びつけてる。ちなみにあなたや中島さんが好きなユニコーンも時間の隙間に住んでるよ」
「だったら、俺もその場所に行くよ」
「だったら、の接続詞の意味がわかんない。その前にさ、今の時間の話は理解できる? 物理のテストがあの点数じゃ、量子力学を理解するのに無理があると思うけどな。時間というのは連続していると同時に離散しているって」
 タキノセは冷笑を浮かべた。透明な誰かの人数が増えたみたいに、さらに牧人の右腕に強い力が加えられた。いくら左手で押さえつけても無駄だった。右腕は激しく震えながら、タキノセに向かって伸ばされた。右手の爪の先には、タキノセの黒い指先が寸前まで迫っている。ガラスを通り抜けて、手と手を重ねた瞬間、タキノセの流れに流れてしまうことになる、牧人は全身に力をこめながら、ゆっくりと顔を上げた。
 そのとき、タキノセの目は虹色に輝いていなかった。輝くどころか、目そのものがいつのまにか失われていた。冴が描いた『廃子』のように、目があった場所は真っ黒に塗りつぶされている。牧人の右腕は弾かれたように目に見えない力から解き放たれた。牧人は何歩か後ずさった。人影はまだガラスの中に残っていた。だが牧人には戻っていない。くたびれたランニングシャツを着て、破けた短パンを穿き、ビーチサンダルを濡らしている。その痩せた姿は、一瞬にして昔の川の記憶を思い起こさせた。
「牧人」
 七平はそう息子の名を呼んだ。
「今こうやっておまえに言葉を掛けられるのも、この家族家さんのおかげには違いない」
 あのとき、川の中へと手招きをしていた父の顔と同じだと牧人は思った。目尻を下げて、穏やかな微笑みを浮かべている。目の前にいるのはあの日と変わらない父だった。
「できれば、ふうとも話したかったけどな」七平は照れくさそうに言った。「でもそれは叶わないらしい」
「ふう?」牧人は声を出した。
「あ、母さんだよ。付き合ってたときはそう呼んでた」
 七平はそう言うと、腰に手をあてて、しばらく下を向いた。そして何度か頷いてから、牧人の顔を見た。
「ほんのわずかな隙間を狙ってきたから、時間はないんだ」七平は静かに言った。「家族家さんの言うことは気にしなくていいよ、牧人。おまえは自分の思うように生きなさい。家族家さんが何を言おうが、それは牧人自身のことじゃない。ただ家族家さんの都合の良いようにしたいだけなんだよ。家族家さんを怖がることはない。何も怖がることなんてない。みんな連続しながら離散している、そんなふうに生きているからね。父さんのことも気にすることはないよ。そりゃあ家族家さんがいなくなったら、こんなふうに現れることはできないけど、まあ仕方ないさ。夢子ばあちゃんも納得してくれるだろ。誰もおまえを思いどおりにすることなんてできない」
 七平の目は微かな輝きを放っていた。降り始めの雪のように白く小さな光だったが、その二つの輝きは牧人にまっすぐ向けられていた。暗闇に包まれた街を背に、七平はガラスの中から牧人を見守っていた。牧人はガラスに向かってゆっくりと手を伸ばした。浮かび上がる七平に触れられると思った。だが次の瞬間、ガラスの中に別の手が現れた。背後の暗闇から黒い五本の指が伸びてきて、果物でも選ぶような手つきで七平の頭部を掴んだ。そして力まかせに暗闇の奥へと引き寄せた。七平の代わりに現れたのは、やはり虹色の目をしたタキノセだった。
「死んだ奴が何言ってんの。油断も隙もないんだから」
 タキノセは目を細め、舌打ちをした。牧人は伸ばした右腕の先で反射的に拳をつくった。そしていったん右手をゆっくり引き寄せ、全身で勢いをつけて思いきり窓ガラスを殴った。ガラスは振動し、重い衝突音は離れた場所でトレーニングをしている会員を振り向かせた。牧人の右手は砕けたかのように激しく痛んだ。だが分厚いガラスにはひび一つ入っていない。そこには右手をかばっている牧人が一人映っているだけだった。
 ガラスの向こう側にはユニコーンがいる──牧人はタキノセの言葉を思い返した。

 年の瀬が迫った日、夕飯担当は冬音だった。贄孝太郎と贄一を招待して一緒に食卓を囲む話になっており、牧人はジムでのバイトもトレーニングも予定に入れなかった。「牡蠣のみぞれ鍋にするけど、いいよね」と冬音は昼食の後にスーパーへ出かけようとした。「荷物が多いだろうから、私も行くよ」と冴が声を掛けたが「いいよいいよ。一人で大丈夫」と冬音は自転車を走らせた。だが両手いっぱいのレジ袋を提げて帰ってきた冬音の足取りは覚束なかった。買ってきた食材を重そうに床に置き、コートも脱がずに食卓テーブルの上に突っ伏した。
「熱は?」牧人は訊ねた。
「どうだろう。解熱剤でも飲んどこかな」
 顔を上げた冬音の目からは力が失われていた。辛そうに肩で息をしているが、咳はしていない。牧人は救急箱からウイルス用の抗原検査キットを取り出した。唾液を検体とする簡易的なもので、十分ほど待つと結果がわかる。すぐに冴が二階から下りてきた。
「症状は感染してるっぽいけどね。先に熱を計ろう」
 冴は冬音の上半身を椅子にもたれさせ、脇の下に体温計を入れた。数値は三十九度を超えていた。急いで検査キットを開けて、細長いシートを冬音にくわえさせた。だがウイルス感染の結果は陰性だった。
「ただの風邪……それとも別の何か……とりあえず横になろうか」
 冴は冬音を抱えて寝室に連れていった。牧人はレジ袋の中の牡蠣や野菜や缶ビールなどを冷蔵庫に詰めこんだ後、病院に電話をかけ、冬音の症状を伝えた。「陰性であれば、まずはご自宅で様子を見てくださいますようお願いをしております」と受付の女はマニュアルを読み上げるように答えた。「こちらには実際に感染された患者さんが来られていますし、来院することで逆にリスクが高まります。容態がおさまらなければ、再度お電話をいただければと思います」
 電話を切ると、冴が戻ってきた。
「陽性患者もいるから、とりあえず自宅で様子を見てくれって」
「なんだよ、感染者は減ってるってニュースで言ってたじゃん。薬であっというまに治るんじゃないの」冴は肩をすくめ、椅子に腰を下ろした。
「辛そうにしてた?」
「解熱剤を飲ませたから、たぶんもうすぐ寝るでしょう。私の見たところ、熱はすぐに下がりそうだけど。生理がめちゃくちゃ重いときみたいな感じだな。とにかく今日の食事会は中止だね」冴はスマホを操作した。「孝太郎には私から連絡するよ。一さんにも私からしようか」
「いや、いいよ」牧人は答えた。「一さんには俺から連絡する」
 冴は牧人の顔を見た。「連絡先は知ってる?」
「前に自由が丘に行ったときに教えてもらった」
「それ、右手、どうしたの?」冴が身を乗りだした。「赤く腫れてるよ」
「ああ、寝てるときに机の角にぶつけたんだよ」
「もしかして」冴は短く笑った。「あの変質者を殴ったとか」
「殴れないよ」牧人は首を横に振った。「どこにいるのかもわからない」
「それもそうね。私もあのとき、振り向かずに走って逃げたから」
 冴は何でもなかったように自分の部屋に戻った。
 牧人はテーブルの席に座ったまま、スマホで贄一に電話を掛けた。しばらく呼び出し音が鳴り続けた後、贄一の声が聞こえた。
「お久しぶりです」牧人は言った。
「ごめんね。ちょうど電車を乗り換えるところで」
 贄一の声の後ろから、人波が流れる音や構内のアナウンスの声が聞こえてきた。
「何かあったの?」贄一が訊ねた。
「母が体調を崩しまして」
「もしかしてウイルス?」
「いえ、検査は陰性でした。ただ熱が高くて、立っているのも辛そうなんです。申し訳ないんですが、今日の食事会は延期にさせてもらえないでしょうか」
「そうなのか……」贄一は唸り声を上げた。「もちろん食事会は、冬音が快復してから改めることにしよう。ただ今日、これから顔を見るだけでもできないかな。どんな様子なのか心配だから」
「今日はやめておきましょう」牧人ははっきりと言った。「検査といっても簡易的なものですから、完全な陰性と判断できるわけじゃありません。ただ症状としては発熱ぐらいなので、明日には治るかもしれません。いずれにせよ今日はおとなしく様子を見た方がいいと思います」
「そうか……そうだね、じゃあ今日はそうしよう」贄一は自分を納得させるように言った。
「すみませんが、また母から連絡が届くと思います」牧人はそこで一呼吸置いた。「それと一さん、先日のお仕事の話なんですが」
「ああ、画材会社だね」
「とても良いお話なんですが、やはり辞退しようと思っています」
 贄一は沈黙した。「それはつまり、他の会社で就職が決まったということ?」
「いえ。まだ決まってはいません。ただあれから自分の中でずいぶん考えまして、誰かの手を借りることはやめた方がいいと思えてきたんです」
「うんと……それは」贄一は言い淀んだ。「前に言ってた、自分は滝乃瀬じゃないっていうことを気にしているのかな?」
「いえ、それとは別の話です。これからの自分の先行きに、僕にもあてがないわけではありません。そのあてが本当に先々まで通じているのかどうかは、正直まだはっきりとはしていないんですが、自分としてはそっちに進んでみたいという気持ちなんです。なんだか判然としない言い方で申し訳ありません」
「そうか」贄一は低い声を出した。「まあ私自身、祖父からの家業を終わらせて、自分のやりたいことをやってきた人間だからな。人にとやかく言える立場じゃない。牧人くんの気持ちは自分にも思いあたるところがあるよ。十八歳の男としてこれから成長していくのに重要な決断だと思う。わかった、私としては残念だけど、今回の話はなしにしよう。牧人くんが自分の行きたい場所に行けることを応援させてもらう」
「ありがとうございます」
「じゃあとりあえず、私は冬音からの連絡を待つことにするよ。メッセージにあった牡蠣のみぞれ鍋は次回の楽しみに取っておくから」
「あと」牧人は付け加えた。「一さんの体調は変わらないですか?」
「私の体調?」贄一は不思議そうに繰り返した。「私はいたって健康だよ。昔から人体の研究をしていたこともあって、健康状態には常に気を配っているんだ。だから私から冬音に何かがうつったということは考えにくいと思うんだが」
「そうですか。別に一さんを疑ったわけじゃありません。失礼しました。ちょっと気になっただけです」
 その後に少し言葉を交わして、牧人は電話を切った。
 きっと贄一は冬音のことを本当に想っているのだろう、切電したスマホの画面を見ながら牧人はそう思った。五年前に冬音と出会い、少しずつ互いの心を許し合いながら、一緒にいたいという気持ちに結婚という形をあてはめることを決意したのだろう。最初から家族家のニエによって操作され、贄家をウイルスなどの禍や災厄から守るために、冬音を利用しているとは思えなかった。そして冬音も同じ気持ちなのだ。もし致死的なウイルスに蝕まれる可能性があるとしても、贄一と同じ場所で過ごしたいと願っているのだろう。
 牧人はメッセージアプリを開き、中島とのやりとりを読み返した。直接顔を合わせることが少なくなり、互いに受験勉強や就職活動の時間を気遣い、最近は短い言葉ばかりを投げ合っているだけだった。牧人はスマホを手にしたまま、しばらく目を閉じた。そして中島に送るメッセージを打ち始めた。
[体調はどうだ?]
 すぐそばで待っていたように、中島から返信が届く。
[変わらないよ。良くはなっていないけど、悪くもなっていない]
[勉強は?]
[ぼちぼちだよ。いくらやってもきりがないしね。牧人は?]
[就職はまだ決まらない。そのことなんだけど、今夜会えないかな。話したいことがある]
 返信が届くまでに時間が空く。思考の時間なのか、それとも長文を打っている時間なのか、牧人はじっと画面を見つめる。
[いいよ。場所はジム?]
[いや、中島の家]
 今度は明らかに思考している時間が流れた。
[突然だな。何かあった?]
[だめか?]
[いいよ。待ってる]
 牧人はスマホをテーブルの上に置いた。そして頭の後ろで手を組み、再び目を閉じた。しばらくすると服を着替えた冴が台所に足早に入ってきた。
「出かけるの?」牧人は訊ねた。
「孝太郎がさ、卒業制作のことで今日相談したいことがあったっていうから」冴は冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注ぎ、喉を鳴らして飲んだ。「ちょっと出てくるわ」
「俺も出かけるんだ」
「何時ごろ?」
「夕飯を食べてから」
「そうか」冴はコップの手を止めた。「たぶん遅くはならないと思う。それまでには帰ってこられると思うから、母さんが一人になることはないと思う」
「夕飯はいらないの?」
「わからない。けど自分で済ませるからいい」
 冴はコップを流しに置くと、台所を出て、玄関のドアを勢いよく閉めていった。
 結局日が暮れても、冴は帰ってこなかった。
 雪平鍋の中でおかゆが出来あがっていることを確かめると、牧人は冷蔵庫を開けて、牡蠣のパックを取り出した。パッケージには生食用と書かれている。ウイルスが流行して以来、店が食中毒を過度に恐れて、加熱用の牡蠣を並べなくなったことはニュースで報道されていた。牧人は一パック分の牡蠣を開けて水洗いし、大根おろしと一味唐辛子とポン酢を合わせ、夕飯として食べることにした。消費期限は短かったが、さすがに五人分の牡蠣は腹に入らず、残りのパックは冷凍庫に移し替えた。
 風呂から上がった後にスマホを確かめたが、冴に送った居場所を訊ねるメッセージは開封された様子もなかった。牧人は冬音の具合を確かめるために襖を開けた。冬音は布団の中で横たわっており、こちらに向けた背中に光が差しこんでいた。身動き一つせず、ぐっすりと眠っている。冬音の額にそっと触れると、解熱剤が効いたのか、それほど熱は伝わってこなかった。牧人は静かに襖を閉じた。
[ちょっと出かけてくる。冴がそろそろ帰ってくるはず。鍋におかゆがあるから温めて]と牧人はスマホを握って、冬音に送信した。そして[俺はもう出かけるから]と冴にも送信した。
 今ならまだ間に合う──牧人はタキノセの言葉を頭の中で繰り返しながら、玄関の鍵を閉めた。
 駅前のコンビニで、牧人はビニール傘を買った。澄んだ夜空には半月が煌々と浮かんでいたが、店員は何の反応も見せずにビニール傘のバーコードに赤外線をかざした。閉じたビニール傘を手にして牧人は電車に乗り、中島の住む町の駅で降りた。中島家の住所は閑静な住宅街だった。夜間に路上を歩く人はほとんどおらず、等間隔に並ぶ洒落た街灯が立派な外壁やガレージの高級車を照らしていた。
 中島の家は二階建てで、三人で暮らすには充分すぎるほどの大きさだった。おそらく三人それぞれの個室以外にも、オーディオルームやウォーキングクローゼットや納戸や食糧庫などがあるのだろうと牧人は想像した。そしてそこに含まれている中島を想像した。連続しながら離散している中島の姿を思い浮かべながら、牧人は門扉の横のインターフォンを押した。
「はい」上品そうな女の声がした。
「夜分に恐れ入ります。中島くんと同じ高校の牧人と申します」
「あ、少々お待ちくださいね。今、玄関を開けますので」
 通話が切られると、すぐに玄関のドアが開いた。顔を出したのは中島だった。屋内の逆光に照らされて表情はわからなかったが、こちらに向かって手招きをしている。牧人は門扉を開けて、玄関まで足を進めた。
「夕飯は食べたの?」中島が小声で訊ねた。
「ああ。亜鉛たっぷりの生牡蠣」
「豪勢。あ、ビニール傘、買ったんだ」
「なんだか気持ちのいい夜空だったから」
 中島の頬は変わらず痩せこけていた。目は落ち窪み、肌からは水分が失われているように見えた。しかし久しぶりに牧人に会えたことに、中島の瞳は生き生きと輝いていた。牧人が靴を脱いで上がろうとすると、中島の両親が揃って姿を現した。
「こんばんは」マスクを着けた父親が言った。
「ゆっくりしていってね」母親もマスクの中で言った。
「今日は進路のことで中島くんに相談したいことがありまして。すぐに失礼させていただきます」牧人は言った。
 父親はサーモント型の眼鏡を掛けて飴色のカーディガンを羽織っており、母親も縁なしの眼鏡を掛けて長袖の白いシャツを着ていた。二人とも微笑を浮かべたまま、それ以上の言葉は何も発さなかった。ただマスクを着けていない牧人の顔からは決して視線を外さなかった。中島に案内されながら、牧人は二階に上がった。
 中島の部屋はシンプルな装いだった。モノトーンの色調で統一された家具が、広々したスペースに適当な間隔で配置されている。書棚、スタンドライド、テレビ、机、ベッド、それらのあいだをすり抜けながら、窓際のソファセットに中島は腰を下ろした。そして手にしていた二本のペットボトルをテーブルの上に置いた。牧人は中島と向かい合わせに腰を下ろした。
「落ち着いて勉強ができそうな部屋だ」牧人は部屋を見回した。
「外の音は聞こえてこないし、部屋の音も漏れてない。毎日とても静かだよ」
 中島はソファにもたれると、ペットボトルのキャップを開けて、水を一口飲んだ。グレーのTシャツに黒のハーフパンツ姿は、高所得者向けの個室に入院している患者のようにも見えた。
「昔からうちには友だちが来ないんだ」中島は何でもないように言った。
「これだけ立派な家なら、みんな来たがるだろう」牧人はペットボトルを手にした。
「両親が嫌がったんだよ。他人を家に呼ぶなって。昔から家の中の空気を乱されるのが我慢できない二人でね。僕は僕で、他の親より老けた両親を見られるのが恥ずかしかったというのもあった。歳を取ってからの子だから」
「今日は許可されたのか?」
「夕飯を終えた時間の訪問客に、何か特別なものを感じたのかもしれない」中島は笑った。
 牧人はペットボトルに口をつけた。自宅を出発して、電車に乗り、駅から歩いてくるまでのあいだ、中島に話すべきことをずっと頭の中で繰り返していた。それらを一つずつ検証し、適切な言葉を当てはめ、順番を付けて整理できていたはずだった。だがいざ中島を目の前にすると、ぴたりと詰まった頭の中からまずどの言葉から取り出せばいいのか、牧人はしばらく迷った。脚を組んでいる中島の視線に見透かされているようにも思えて、牧人は何度も水を飲んだ。
「今日はなんだか固いね」中島は牧人の様子を窺った。
「初めての家だからな。体調はどうだ?」
「あまり変わらないよ。でもすぐにふらついたり、呼吸が荒くなったりするから、激しい運動はしないようにしている」
「ひどくなることは?」
「たまに悪い夢は見るよ」
「夢?」
「何も見えない真っ暗な空間で、上下左右もわからなくて、ひたすら足掻あがくんだけど、どこにも辿り着けない。そのうち自分の意識が真っ黒に塗り潰されて、悲鳴と共に目が覚めるっていうパターンだね。そのまま死んじゃいそうになる」
「いつから」
「二週間ぐらい前かな」
 牧人は視線を落とし、爪をいじった。以前よりも薄いピンク色に変わっていた。黒い点はどこにもない。赤血球の数がきちんと増えているということだろうか。牧人は顔を上げた。
「中島」牧人はまっすぐな声を出した。「おまえは自分がもうすぐ死ぬかもしれないと思っているか?」
 ちょうどそのとき、テーブルの上で中島のスマホが鳴った。タイマー機能で設定された時刻になったようで、警告音と微振動を繰り返していた。九時だった。中島はスマホを手に取り、何度か操作をして静かにさせると、テーブルの上にそれを伏せて、再びソファにもたれ、牧人の目をじっと見つめた。
「昔からそんな気はしてたよ」中島は小さく頷いた。「小さい頃から、なんとなく自分は長くは生きられないんじゃないかという気はしてた。根拠は全然ないんだけどね。でも他人と違う部分があるし、そばに寄り添ってくれる人は誰もいないと思っていた。毎晩目を閉じて眠るときに、自分はもう目を覚まさないんじゃないかと怖くて眠れないこともあった。最近体調不良が続いて、そんなことを思い出してたよ。ああ、やっぱりそうなるかもって」
「親はなんて言ってる?」
「今はとにかく無理をせず、受験勉強以外のことには関わるなって」
「あんまり重篤とは見ていなさそうだな」
「大学に合格さえすればすべてうまくおさまる、そう信じているみたいだよ。とにかく、まわりが納得して肯定してくれる人生を僕に歩んでほしいと、子どものときから願っていたから」
 牧人は再び自分の爪を見た。俺も同じだった、と牧人は唾を飲みこんだ。俺も子どもの頃、大人になっている自分をどうしても想像できなかった。きっと子どものうちに死んでいくのだという予感が離れず、心がいつも霧に覆われていた。たぶん、いつのまにか周囲の少年たちに心を奪われている自分から逃げようとしていたのだろう。ただあの日を境に、霧は年月をかけて少しずつゆっくりと薄らいでいった。あの夏の川原に立ち尽くしているとき、その霧は俺ではなく、代わりに父を飲みこんで連れていった。流れ、と牧人は思った。結局その流れは俺ではなく、父の場所に流れ着き、父を流していったのだ。そして俺は今、後戻りができない道の前に再び立っている。
「中島の本当の両親はどこにいるんだろう」
 気づくと、牧人はそう訊ねていた。自分の代わりに他の誰かが発したような言葉にも聞こえた。中島は表情を変えずに、牧人を凝視していた。様々な可能性が一瞬で検証され、様々な言葉が生まれてはすぐに死んでいるような表情だった。テーブルの上のペットボトルを中島は手に取った。だがキャップは開けなかった。握力を鍛えるようにただ強く握りしめているだけだった。
「その話を、僕は今まで、誰からも、聞いたことがなかった」中島は丁寧に一言ずつ言葉を区切った。「今この家で一緒に住んでいる二人からも、その話をされたことは一度もない。僕が気づいていることに、二人は気づいていない。それは僕がずっと気づいていないふりをし続けてきたからだよ。もしかしたらこの先もずっと、僕に打ち明けずに過ごしていくつもりなのかもしれない。まわりが納得さえしていれば、それを引っくり返すことはしない方がいいと考えているのかもしれない」
 中島はやっとペットボトルのキャップを開けて、水を飲んだ。その顔には数分前よりも暗い影が落ちていた。
「それでもいいと僕は思ってきた」中島は続けた。「十八年間も養ってくれたことには本当に感謝してる。血の繋がりがあろうとなかろうと、その事実が揺らぐことはない。本当の両親の居場所を探そうなんて気も僕にはさらさらない。だったら今のままでも充分平穏に暮らせるはずなんだ。でも、だんだんと──だからこそ、十八年間も同じ場所で暮らしてきた事実を、自分たちの血肉として受け止めるためにも、全てを話すべきなんじゃないかと思うようになってきたんだ。簡単なことではないとわかってる。何かが変わってしまう恐怖がある。ただ、恐怖は僕らをどこにも連れていかない。死んだようにその場にずっと立ち尽くさせるだけだ。もしどこかの地点で二人が決心をして、血が繋がっていないことを僕に話していたら、と想像することがあるよ。そしてさらに、僕がゲイであることを二人に話していたらって。きっとそうしたことで、僕たち家族はやっと家族として生き始められたんだろうと思うことがある。楽観的すぎるかもしれないけど」
 中島の両肩は上下にゆっくりと揺れていた。できるだけ表情は崩さずにしているようだったが、話したことで体力が奪われたのかもしれない。だが牧人にはまだ話すべきことと行うべきことがあった。中島を救うためにやらなければいけないことがあった。
「血の繋がりがないことをどうやって知ったんだ」牧人は訊ねた。
「まず単純に顔や性格が似てないんだ。親戚にもたくさん会ったけど似てる人がいなかったし、そもそも親戚と顔を合わせる機会が不思議とあんまりなかった。母が僕を妊娠しているときの写真は一枚もなく、出産時の話を聞いたことも一度だってない。血液型が一致してることなんて頼りにしてなかった。いつもどこかに不審な影がまとわりついていたんだよ。それで数年前、ウイルスが流行した中学生のときに、一人でパスポートを持って役所に行ったんだ。戸籍謄本というものを目にして、自分が実の息子じゃないことを初めて確認できたよ」
 中島は眼鏡のブリッジを触った。まるで大した話ではないというふうに。「もちろん二人には何も言わなかった。その方が変わらずに暮らしていけると、そのときは思っていたからね。でも変わらないことなんて本当はなかったんだ。秘密として知ったこと、それは言葉で外に伝えられないと、そのぶん秘密を抱えた人間を変質させていくことがある。決定的な距離を感じ始めた僕は、だんだん二人の言うことをおとなしく聞くようになって、二人の望むままに勉強に励むようになった」
 中島は諦めたように微笑んだ。そして穏やかな口調で牧人に訊ねた。「牧人はどうやって知った?」
 牧人は一度深呼吸をして答えた。「家族家だよ」
 中島は何の反応も示さなかった。ただ牧人の次の言葉を待っていた。
「幻覚だろうって思っていた」牧人は続けた。「何度も幻覚が現れて、母さんと姉さんの結婚を阻止しろって俺に忠告した。自覚はしてないけど、たぶん俺自身が無意識に二人の結婚に反対しているのかと思った。鬱陶しくなって傘で刺したけど、家族家は死ななかった。また最近になって現れて、今度は中島が両親と血が繋がっていないことと、中島がもうすぐ死んでしまうことを告げた」
「幻覚じゃないとしたら、一体何者なんだろう」中島は指先を顎にあてた。
「科学的に考えるなら、俺以外にも家族家に会った人間はいる。そして他の人間には他の家族家がいる。客観的な存在かもしれないが、実体はない。よくわからない」
「僕にも家族家がいるってこと?」
「中島にはいないと言ってた。この世に産まれる前後に流れがぷつりと絶たれたって」
「牧人が苗字を失ったことと、その家族家とは何か関係があるのかな」
「直接的にはないかもしれないけど、間接的にはあると思う」
「難しい話だね」中島は腕を組んだ。「きっと言葉と言葉のあいだにある隙間の話なんだろうね。その場所がどんなふうになっているのか誰にもわからない」
「俺の家族のことが中島に影響している可能性も考えられる」
「いずれにせよ、僕はもうすぐ死んでしまう」
「うまく説明することはできないんだ」
「じゃあ、うまく説明できないことを僕も話すよ」中島は言った。「僕は実際にユニコーンを目にした」
 牧人は身動き一つしなかった。中島の言葉に耳を傾けることしかできなかった。
「夢の中じゃない」中島は続けた。「実際にこの部屋にも現れたし、ジムに一人でいるときにも現れたことがあるよ。ふと気づくと、いつのまにかそこにいた。特に何をするわけでもない。ユニコーンはいつも長い角を横たえて、僕の膝の上で静かに眠るだけだった」
「そして」牧人は声を出した。「俺のところにも現れていると思った」
「わかるだろう。うまく説明することはできないんだ」
 確かにうまく説明することなんてできないと牧人は思った。抽象と具象が混ざり合っていて、それらを分離して正しく話すことはできない。たぶん世のあるゆる物事はそういうふうに出来ている。中島は本当に命を落としてしまうのか──そんなことは俺にはわからない。俺にできることは、ただ自分の心に従うだけだ。かつて死にゆく父を目の前にしたときのように、何もせずに立ち尽くすことはもうできない。中島が川に流されていくのを、ただ見送ることなんてできない。俺は今夜、中島を求めるためにここに来た。自分の新しい場所を求めて、中島に会いにきたんだ。
「中島」牧人は両手を組み、中島の目を見つめた。「俺はおまえと家族になりたい。それを伝えるためにここにきた」
「家族」中島は静かに繰り返した。
「もうただの牧人じゃなく、俺は中島牧人になる」
 牧人はそう告白した。

 中島の家族家になる──そのために牧人はビニール傘と一緒に、あらかじめコンドームをコンビニで買っていた。中島と肉体を重なり合わせて一つになること。それが中島と家族になり、中島の家族家になるために必要な行為だと牧人は考えていた。
 中島の家を去るとき、中島の両親は再びマスク姿を見せた。「これからが本当の踏ん張り時だ。頑張りなよ」「落ち着いたら、また遊びにきてね」と手を振り、玄関で見送ってくれた。牧人の手に握られたビニール傘については最後まで訊ねなかった。牧人は澄んだ夜空に向かってビニール傘を広げ、駅までの道を戻った。人の流れは減っていた。切符を買い、空いた電車の吊り革を握りながら、牧人は窓の外を通り過ぎていく初冬の夜景を眺めた。
 スマホには冬音からメッセージが届いていた。
[今起きた。おかゆ、ありがとう]
[熱は?]
 牧人が返信すると、すぐに反応があった。
[だいぶ下がってるよ。ちゃんと食べられた]
[冴は帰ってる?]
[部屋は見てないけど、まだ帰ってなさそう]
 数時間前に送信した冴へのメッセージを確認したが、変わらず開封されていなかった。牧人はスマホをズボンのポケットにしまった。そして吊り革を握り直し、目の前を流れ去るいくつもの小さな街の光を見送った。
 冴と贄孝太郎のあいだで何かが起こっている、牧人はそう直感した。そしてそこには家族家のニエが深く関わっている。もしかしたら今夜の集まりで、冬音と冴を完全に贄家に取りこむための決定的な事柄が起こっていたのかもしれない。それが延期になったことで、冴がまだ家に帰れない状況になったのかもしれない。
 牧人はじっと車窓の外の暗闇を見ていた。またそこにタキノセが映りこむかもしれないと予想した。しかしタキノセは現れなかった。いつまでも経っても牧人自身の姿の上で夜の街が過ぎ去っていくだけだった。中島みたいだと牧人は思った。自分の腕に抱かれた中島もまた、自分の体の中を通り過ぎていったような気がしていた。
「大丈夫。体はきれいにしてあるから」
 唇を重ねた後、ベッドの上で中島はそう言った。リモコンで部屋の光量を落とすと、中島はゆっくりと牧人の服を脱がせた。
 力強い曲線を描いている牧人の大胸筋に指を這わせ、中島はその弾力を確かめた。硬くなった乳首をいじったり、優しくつまんだりした。生温かい吐息と共に舌の先を乳首に絡ませたり、腹直筋の波に指先を行ったり来たりさせたりして、ときどき牧人の反応を窺った。中島はベッドの上に牧人の体を横たわらせた。牧人の勃起はボクサーパンツの上からでも明確に形作られていた。中島はそれに触れないよう注意しながら、ボクサーパンツを両手で慎重に引き下ろした。薄暗い部屋の中で、その角度は遠くまで広がる空の彼方を指していた。空に向かって今にも走り出しそうなぐらい、硬質で荘厳な角を宙に向けていた。中島は五本の指でそっと角を包みこんだ。しばらく手を動かしていると、牧人の呼吸は声に変わった。中島は指を離し、顔を近づけ、眼鏡を外してから角を口に含んだ。
 性器を中島に舐められているあいだ、牧人は目を閉じていた。生身の中島がすぐそばにいるにもかかわらず、瞼の裏側では別の中島を思い浮かべていた。それはいつも同じ時間を過ごしていた中島だった。休み時間に教室で喋っていた中島、一緒に下校している中島、トレーニングジムで自らに負荷を掛けている中島、ベンチの上で一人辛そうにスポーツドリンクを口にしている中島……牧人の性器を愛撫していたのはそんな記憶の中島だった。牧人はふと泣けてきそうな気分になった。目の前にいる中島は、目の前にいる中島だけで存在しているわけではなかった。そのほとんどは俺の記憶で作られている中島なのだ。そんなあたりまえのことに牧人は涙をこぼしそうになった。中島の舌は牧人の性器を滑らかに濡らし、全てを貫くほどに硬直させ、絞り出すように導こうとしていた。牧人は目と目のあいだの神経に強く集中して、射精を懸命に抑えた。まだそのタイミングではないとわかっていた。
 牧人は上半身を持ち上げ、中島の動きを止めた。中島も牧人を見返し、小さく頷いた。今度は牧人が中島の服を脱がせた。光の少ない部屋の中でも、中島の体から筋肉が以前より失われていることはたやすくわかった。薄く、細く、硬い体の感触が手のひらから伝わってきた。だがそんなことは問題ではなかった。中島と同じように、牧人も中島の乳首に口をつけた。それからへこんだ腹に口をつけ、削ぎ落とされた太腿の内側に口をつけ、下着を脱がせた。中島を仰向けにし、脚を大きく開かせると、牧人はそのあいだに入り、中島の性器に顔を近づけた。硬くなった性器を口に含み、唾液を絡ませながら、さらにその下の奥に指を這わせた。そこにある窪みはまだ閉じていた。牧人は出かける前の台所を思い出した。ボウルに入れた生牡蠣を洗うときの力加減をイメージし、指の腹を窪みに柔らかく押しつけ、円を描くように動かし始めた。
「待って」
 中島は首を上げた。そしておもむろに立ち上がり、性器を勃起させたまま机まで歩いて、引き出しから何かを取り出した。ベッドに戻ってきた中島の手には、長細いプラスチック製の容器が握られていた。
「これ、つけてみよう」
 中島はさっきと同じ体勢に戻った。言われたとおり、牧人は容器からとろりとしたローションを手にとった。濡れた指先を中島の窪みにあて、ゆっくりと回転させた。硬く緊張した筋肉はだんだんと緩み、閉じられていた通路は開放されつつあった。さらにローションを加えながら、牧人の指は通路を押し広げ、さらにその中へと侵入していった。
 そのあいだ牧人の性器は萎えることがなかった。中島に触れられたときから同じ硬度を保ち続け、放たれるべきものの準備はすでに整えられていた。中島の通路は充分にほぐれているように思えた。牧人は指を抜き取り、自分のリュックを引き寄せ、コンドームを取り出した。装着すると、中島はうつ伏せになり、四つん這いの姿勢になった。牧人は自らの性器を掴んで中島の窪みにあて、上下させながら通路を探った。貫くべき部分が定まると、牧人はゆっくりと腰を前に突き出した。だが簡単にはいかなかった。柔らかに拒絶されるように牧人の性器はしなった。枕に顔を埋めながら、中島が苦痛の声を短く上げた。何度か強引に押しこもうとしたがうまく入らず、そのたびに中島は体を強張らせた。そこは充分に広げられているはずだと牧人は思った。サイズが合わないのだろうか。プラスチックの容器を手に取ると、牧人はコンドームの上からローションをつけた。そして中島の通路にもつけ加えた。再び後ろから中島の体に覆い被さり、挿入の体勢をとると、牧人は手を伸ばして中島の性器を掴んだ。そして性器を愛撫する手の動きに呼応させるように、自分の腰も徐々に前に突き出していった。中島は小さく声を上げた。しかし痛みの訴えではなかった。ただ、哀切な呼吸を漏らしていた。やがて抵抗のないまま自然に合流するように、牧人の性器は中島の内におさまった。牧人は自分の体を中島の体に馴染ませるよう緩やかに腰を動かし、同時に中島の性器を握る手も動かし続けた。途中から牧人の手の上に中島の手が重ねられた。中島は牧人に貫かれながら、牧人の手と一緒に自分の性器を愛撫していた。
 射精に導かれるまでの流れの中、牧人はやはり深い森にいるみたいだった。そんな匂いが中島の体からも自分の体からも漂っていた。俺と中島が結ばれるのはそういう場所なのだと牧人は腰を動かした。木の陰に潜んで、こちらの様子を窺っている名もない誰かたち。大丈夫だ。気にすることはない。彼らが見ているものは、しょせん目に見えるものでしかない。俺たちはそこではなく、目に見えない場所にいる。いや俺たちだけではない。本当はみんな眠りから目を覚ますたびに、目に見えない場所から訪れているのだ。時間や言葉の最小単位からこぼれ落ちたものたちの場所。中島はユニコーンを目にしていた。俺が家族家と対峙して言葉を交わしたように、中島もユニコーンと交流していた。いつからかあのトレーニングジムで、ユニコーンのたてがみを撫で、膝の上に頭を乗せてやりながら、ユニコーンの孤独な寝息に耳を澄ませていたのだろう。
 牧人の腰の動きが早くなるにつれて、自分の性器を握る中島の手の動きも早くなった。ジムでのトレーニングのように汗の粒が牧人の体に次々と生まれていた。中島を求める血液が爪の先から性器の先まで巡っていくのがわかった。そして中島が牧人を求める強さも手の力から伝わってきた。二人の呼吸は同調していた。だからこそ放たれた瞬間も同じだった。自らの射精の瞬間、相手の射精の震えも体内に伝わってきた。牧人が中島の内に射精した瞬間、中島もまた牧人の手を精液で濡らしたのだった。
 俺はこれから中島の家族家として生きていく──肩を上下に揺らしながら、牧人はそう心を決めた。そしてそのために何をすればいいのか、中島に話すことにした。
 気づくと、電車は駅に着いていた。
 階段を下り、改札口を出ると、牧人はビニール傘を広げて、自宅の方向へと足を進めた。夜空には消え入りそうな星が点々と浮かんでいた。タクシーの運転手は退屈そうに煙草を吸い、スーツ姿の男は生垣に向かって苦しそうに咳こみ、マフラーを巻いた女は足早に人々をけている。振り返ってみると、終電間近の改札口には数えるほどしか人の姿はなかった。しかしそれでも、そこにいる人たちはみんな自分の役割と目的をなんとか果たそうとしているように見えた。自分もその一人なんだと牧人は思った。自分も中島の家族家として役割を果たさなければならない。
 ビニール傘とコンドームを買ったコンビニの前を通り過ぎ、誰もいない歩道を進もうと、牧人は細い角を曲がった。その路地では畳屋のシャッターが下ろされ、店先には色褪せた自動販売機が設置されていた。背後から声が聞こえたのは、ちょうど街灯と街灯のあいだの暗がりに足を踏み入れたときだった。
「おまえ、気違いか」
 振り向くと、白いワイシャツが目に入った。緩んだネクタイが揺れて、薄ら寒そうなスーツ姿の人影が今にも倒れそうな体勢でこちらを見ている。
「どっから帰ってきたんや。どこで降ってんや。なんでおまえだけに雨が降ってんねん」
 呂律の回っていない関西弁の男は明らかに酔っていた。牧人は無視し、その場を離れようとした。
「アピールはもうやめろ!」立ち去ろうとする牧人の背中に向かって、男は怒鳴った。「そんなに他人との違いを見せつけたいんか。そんなに自分らしさを醸し出したいんか。こんな気持ちのいい夜空に傘を差すことが、おまえの表現ってやつなんか。なあ! その前におまえ、ちゃんと仕事してんの? 個性とか多様性とかほざく以前に、みんなと同じぐらい我慢してんのか? 見ず知らずの他人にアピールする前に、ちゃんと金稼いで生活出来てんのか。個性はおまえだけの特権じゃないねんぞ。みんなそれぞれのもんや。自分の個性をアピールする前に、みんなと同じことをおまえはみんなと同じように出来てんのか。ふざけんなよ、くそガキが。こっちは見ず知らずの他人からの自己アピール被害を黙って受けとんねん。マジでむかつくわ」
 何も聞こえなかったかのようにそのまま足を進めるのか、それとも一八〇度回転させるのか、牧人はしばらく迷った。怒りはなかった。ビニール傘の柄を握る手のひらも汗ばんではいない。中島との初めての性交で不思議なぐらい気持ちが静まっていた。もし近くにベンチがあるなら、二人で腰を下ろして、男の言い分を聞くのも悪くない。酒に酔い、終電間際の誰もいない路上でしか吐露できない男の話を聞いてやるのだ。そこの自動販売機で買う酔い覚ましのウーロン茶を飲み干す頃には、男はすっきりとした気持ちになっていることだろう。別れ際に立ち上がって笑顔でも見せるかもしれない。やっとそのときに、俺は男の腹をビニール傘で突き刺すだろう。そして腹を押さえている後頭部にめがけて、ビニール傘を思いきり振り下ろすだろう。それで俺と男の関係は、強者も弱者もない対等な立場を結べる。そんなことを想像しながら、牧人は踵を返し、やはりその場を離れることにした。次の角を曲がる瞬間、振り返ってみると、男はまだ同じ場所に立ち尽くしたまま、牧人の方をじっと見つめていた。
 男に絡まれたことで、牧人は自分の苛立ちについて考えた。流れ、流れ、流れ──タキノセやニエといった家族家がひたすら口にしていた言葉を思い返した。あたかも不可逆的に流動する時間や血縁の流れに、自分たちの存在が組みこまれているみたいな言い方だった。なぜ彼らは川の流れのように捉えているのか。それは家族家が目に見えないものを目に見えるようにしているからだ。たんなるメタファーを実在化させようとしているからだ。牧人はビニール傘越しに夜空を見上げた。だけど俺たちは川なんかじゃない。川に流されて生きているわけではない。過去が流れ去ることなどない。過去はそこにある。父や祖母は死者としていつも現在に存在し、父を見殺しにした俺自身もずっと現在に存在している。中島の死だって俺の死だってすでに現在に存在している。俺たちはいつだって現在を思い出し、現在を見定めようとしながら、現在を流動している。視線の先に市営野球場の入り口が見えてきた。牧人は柵を越えて、いつものように外野フェンスの壊れた穴をくぐり抜けて、グラウンドに侵入しようとする。最初にタキノセに会った場所はここだった。タキノセの話を聞いて、牧人は苛立った。タキノセ自身にではない。タキノセが現在という形をとって現れ、それまで逃げてきた煩わしさに待ち伏せされたような苛立ちを牧人は覚えたのだ。
 グラウンドの暗闇はしんと張りつめていた。足を一歩踏み出すと、夜の空気がさざ波を打つような静けさだった。そして、その先のピッチャーマウンドにはやはり誰かが立っていた。牧人はピッチャーマウンドまでまっすぐ進んだ。膝下まで伸びたロングコートを羽織り、首の後ろで髪を一つに束ね、首を少し傾けている。人影は冴だった。コートにポケットに手を突っこんだまま、ビニール傘を差して近づいてきた牧人に気づいた。しかし適切な言葉が見つからないのか、冴は眼鏡の位置を整えたりしているだけだった。
「ここで、ずっと待ってたの?」ビニール傘を広げた距離を保って、牧人は訊ねた。
 冴はこくりと頷いた。
「ここで誰かと会うことはなんとなくわかっていた。でも冴だとは。俺がここを通ることは知ってたんだ」
「家族家に教えてもらったから」冴は淀みなく答えると、地面に視線を下げた。そして発すべき言葉を見つけたように顔を上げた。「中島くんと会ってたの?」
「そうだよ」牧人はゆっくりと頷いた。
「体調は?」
「あまり変わりはない。でもこれからは良くなると思う」
「中島くんとはどうするつもり?」
「どうする」冴の目を見ながら、牧人は繰り返した。答えるべき言葉はシンプルだった。「俺は中島の家族になるよ」
 冴も牧人の目から視線を外さなかった。驚いている様子はない。ただ確かめるべきことを確かめているといった表情だった。
「それは、つまり、どうやって」
「中島の養子になるんだ」牧人は微笑んだ。「中島はもう十八歳で成人だから、それが法的に可能になる。数ヵ月だけど、俺より中島の方が歳上になる。今日そのことを中島に話した。すぐには難しいかもしれない。でもそのためにお互いできることをしていくことになった」
 冴は表情を崩さなかった。やはり否定的な雰囲気ではなかった。「実は今日ね、家族家のタキノセからいろんなことを聞いた。頭がパンクしちゃいそうなぐらいね。何から話せば良いのかさっぱりわからなかったけど、まず中島くんのことであれば、そこから始めるのがよさそうね」
 牧人はビニール傘越しにまわりを見回した。人影はなく、二等辺三角形のビニール地に誰の顔も映っていない。
「そもそも苗字を失くしたこともあるけど、俺は滝乃瀬から離れることになる。タキノセは反発するだろうな」牧人は言った。
「中島くんの養子になるまで、牧は苗字のないまま過ごしていくの? そのあいだに中島くんが命を落としてしまうことはないって言えるの?」
「今のジムだったらバイトを続けさせてくれるし、シフトも増やしてくれるだろう。中島はまだ死にはしないよ。そんなことは俺がさせない」
「そのためには?」冴は訊ねた。
「ニエを殺すよ」牧人は答えた。「そのために今夜、この野球場に来た」
「それで食べていけるんですか」
 冴の言葉ではなかった。冴の背後からふわりと姿を現したタキノセの低い声が言ったのだった。「トレーニングジムや画材会社での正社員を選ばずに、まさか家族家を仕事にしようとするとは」
 タキノセは虹色の目を片方しか見せなかった。冴の斜め後ろにぴたりと張りつき、半身だけを見せた位置から動こうとしなかった。
「牧人さんはやはり変わった考え方をされる。ただ、家族家には給料という概念がありませんが、それでもよろしいのですか」
「家族家にならなきゃ家族家を殺せないと俺は見定めている」牧人は冷静に言った。
「家族家の風上にも置けない発言ですよ、ねえ冴さん」
「あんた気持ち悪いよ」
 大きな声を上げると、冴は背後に向けて勢いよく肘を突き上げた。しかし一瞬にしてタキノセは姿を消した。冴がしばらくまわりを窺っていると、すぐにまた同じ斜め後ろの位置に姿を現した。
「冴さん、私の話をちゃんと聞いてくれていましたか」タキノセは冴の耳元で言った。「孝太郎さんと別れた後、一人になった駅のトイレの中でニエ様のことをきちんと説明したはずです。贄家が世の禍から自らを守るために冴さんと冬音さんを取りこもうとしてきたことを。そしてその悪い流れがすでに影響を及ぼしていて、中島さんの肉体にまで忍び寄っている」
「あんな狭い場所で話されたら、嫌でも耳に入ってくるわ」冴は顔を正面に向けたまま、背後を睨みつけた。
「だったらその態度はないでしょう。あるいはもう完全に贄家の者になってしまったのかな」
「まるで私があなたの所有物みたいな言い方。どこにいようが私は私よ。ましてやあなたに所有されてなんかいない」
「あなただけの問題ではありません。お腹の子にもきっと影響は出てきます」
 タキノセの言葉に反応して、冴はポケットから出した手を自分の下腹部にあてた。「影響ってどういうこと」
「そこまではわかりません」タキノセは微笑み、首を横に振った。「家族家の守備範囲を超えることです。贄家の流れを受けないことはない、ということ以外は残念ながら私にはわかりません」
 冴は再び地面に視線を落とした。下腹部にあてた手は固く握られていた。
「妊娠してたんだ」牧人は冴に確かめた。
「そのことを今夜、孝太郎と話してたのよ」冴は顔を上げた。「本当は先に母さんに話すつもりだった。話せる状況じゃなくなったけど、私としては気持ちがいっぱいになってきて、ちょうど孝太郎から会おうって連絡があったから、今日話すことにしたんだ」
「何て言ってた?」
「喜んでくれたよ。あらためて二人で母さんに報告しに行こうって。籍を入れるタイミングも考えてくれた。卒業と同時に籍を入れて、式を挙げるのは出産して落ち着いてからでもいいだろうって。仕事も他にもっと条件が良いところを探してみるって」
「贄家からの禍を引き受けることになるかもしれないよ」
「そうです」タキノセが口を挟んだ。「贄家との結婚はすぐに断ち切るべきです。そして孝太郎さんとのあいだに産まれる子は、牧人さんの養子にするべきです。そうすれば滝乃瀬家には何の問題も起こらない」
「私は産むわ」タキノセの言ったことがまるで耳に入らなかったかのように、冴は牧人に向かって言った。「そして孝太郎と結婚する」
 冴は表情を強張らせながら、牧人から一歩ずつ後ずさっていった。タキノセは冴の背後から離れない。虹色の目を刃物のように細くして、蔑みの視線を冴にじっと向けている。そんな悪意に晒されている冴を見ていると、これまで冴や冬音と一緒に過ごしてきた限りない記憶が、牧人の胸に湧き起こってきた。家族として同じ場所や時間を過ごすことにどんな理由があるのかは知らない。だが不安げに自分の体を気遣う冴の姿を見ていると、たんに家族と名称されるだけではない、どこか暗く深い場所でこんこんと湧く泉のようなものが自分の中に育まれていることに牧人は気づいた。それは確かに自分の中で息づいている。それはどんな関係にも限定されるものではないし、どんな関係でもきっと育まれるはずの温かさだった。
「子どもは産めばいいし、孝太郎さんとも結婚すればいい」牧人は言った。「でも冴と冬音が不吉な目に遭うことを見過ごすことは俺にはできない」
 牧人の言葉を受け止めるように冴は何度か頷いた。「ねえ、牧。私は孝太郎を愛しているのよ。たとえ自分がウイルスに感染するとしてもね。たぶん、牧が中島くんを愛しているのと同じように」
「だから家族家のニエを殺すんだ。そうすれば誰も不吉な流れに巻きこまれないで済む。そしてタキノセもいずれいなくなる。中島の家族家がいなくなったのと同じように。そんなものから俺たちは解放される」
 牧人は冴の背後に立つタキノセを睨んだ。見開かれたタキノセの片目は真っ赤に変貌していた。以前に牧人を激しく罵倒したときの色だ。牧人はビニール傘を下ろし、丁寧に生地を折りたたみ、釦を留めた。そして金属の先端をタキノセに向けて、柄を強く握りしめた。半身のタキノセは薄笑いを浮かべていた。
「おい、牧人」タキノセの声が鋭くなった。「おまえは本当はあのとき死ぬべきだったのよ。ガキのとき、あの川で本当はおまえが流れて、溺れ死ぬべきだった。でもおまえの代わりに七平が死んだ。そこからだよ、滝乃瀬家の流れがおかしくなったのは」
「俺から言わせれば、おまえの頭がおかしいんだ」
「おまえ自身が滝乃瀬家の淀みだった」
「そのとおりです」
 タキノセの言葉ではなかった。家族家のニエが口を挟んだのであった。冴の斜め後ろ、タキノセとは反対側の位置に、いつのまにかニエの半身が現れていた。
「この方のお腹には贄家の者が存在しています。そしてその者を孕んでいるこの方も、すでに贄家の者になろうとしています」
 片方だけのニエの目は、やはり地を這うみみずのように波打っていた。指先から足先まで長細い体をまっすぐにして立っている。二人の家族家に挟まれている冴は、両側の真っ黒な姿に飲みこまれそうなほど心許ない表情を浮かべていた。
「誰」冴は声のした方に瞳を寄せた。
「初めまして、家族家のニエでございます」ニエは軽く頭を下げた。「冴さんとは今後、長い関係を結ばせてもらうことになります」
「こっちに来るんだ」
 牧人は手を差し出した。凍りついていた両足を力の限り解放させるように、冴は牧人のもとに勢いよく駆け寄り、その手を掴んだ。牧人の体にもたれ掛かった瞬間、冴は深呼吸を繰り返した。今まで自由な呼吸が制限されていたように肩を上下に揺らしていた。
 冴の背後にいたのは二人の家族家ではなかった。半身のタキノセと半身のニエが一つに繋がっていた。冴の体で隠れていた空間には、黒く大きなゼリー状のぶよぶよとしたものが浮かんでいて、半身同士の家族家を一つにさせている。複数の獣が一体に結合した神話の幻獣のようでもあった。
「なんだ」牧人は可笑しくなった。「おまえら、できてたのか」
「牧人」タキノセが半分の口を歪ませた。「お、おまえのせい、なんだよ。わ、私自身が贄家に取りこまれようと、してるんだよ」
「牧人さん」もう片方でニエの目が大きく波打った。「あなたは大した人です。あなたの姓さえ奪えば、問題は解決すると考えていました。それがまさか別の姓を受け継ごうとし、さらに私を殺そうとするとは──家族家は占い師ではありません。そんなことは予測していませんでした」
「これからは目に見えないものを、しっかりと見た方がいいんじゃないか」
 牧人は冴をその場に落ち着かせ、家族家たちの方にゆっくりと近づいていった。
「しかしながら、結果はいずれにせよ同じです」ニエは抑揚のない声で言った。「牧人さんが滝乃瀬家の者ではなくなったことで、冴さんと冬音さんはすでに贄家への禍を防ぐ役割として機能し始めています。中島さんという方もその影響を受けているようですが、不可抗力みたいなものです。私の家族家の仕事としては一件落着です」
「じゃあなんで出てきた」牧人は言った。
「うるさい蝿をまとめるためです」
「中島を死なせはしない」
「私も死にはしない」
 牧人はビニール傘の柄を強く握り直した。目の前のニエを絞め殺すほどの力だった。中島の家族家になる──そう決めたものの、自分が本当に中島の家族家になれるのかどうか、牧人にはっきりとした確信はなかった。中島牧人という新しい名前の響きが、自分に新しい変化をもたらしている実感もなかった。それは自分一人だけのたんなる妄想だと言われれば、否定できる材料はどこにもない。ニエに近づく足取りがふと止まった。手の中に汗が滲んで、上腕二頭筋が痙攣を始める。タキノセは口を歪ませたま言葉を失い、赤い目の輝きも失われかけている。だがニエのひずんだ目はずっと牧人を捉えていた。
 牧人は目を閉じた。そして自分の鼓動に耳を澄ませた。自分が何者なのかなんてわからない。だがそこでは確かに中島と繋がっている感覚がある。胸の奥のずっと暗く深い底にある場所。そこに目に見えるものは何もない。そして目に見えないものを見る必要もない。ただ中島の見ているものを見ればいいだけだ。俺はその場所で中島になれる。中島が見ているものを見ることができる。中島が深い森の奥で見ていたものを俺も見ることができるはずだ。
 目を開けると、ニエの一本の足が溶けていた。その一部は粘体になって土の上を伝わり、牧人の足に絡みつこうとしていた。再び牧人を何もない流れに流そうとしている。だが牧人は動じることなく、静かに立ち尽くしていた。そして揺れ動くニエの汚れた目にじっと集中していた。よく見ると、それは波ではなかった。細菌のような微小なものたちが大量に身を寄せ合っていた。互いを食い合い、次々と分裂を繰り返し、分裂したもの同士がさらに食い合っていた。そんな蠢きがうねるような動きを生み出していた。蠢き自身がニエだった。
 意を決し、ビニール傘を振りかざしたときだった。牧人は突然、性器に激しい痛みを覚えた。下腹部の奥で実際に出血したような痛みだ。だがもう動きを止めることはできなかった。
「安っぽいビニール傘」
 ニエがそう笑った瞬間だった。牧人は踵を支点にして、肩の三角筋を後ろにひねり、上腕二頭筋を思いきり伸ばした。握られたビニール傘はニエの目にまっすぐ突き刺さった。確実な手応えだった。笑い声は止まった。みみずのような目は分断されて、黒い内部にめりこみ、ぴくりとも動こうとしなかった。
 牧人もビニール傘を掴んだまま、身動きをしなかった。貫かれたような性器の痛みが体中を駆けめぐるのをじっと耐えていた。牧人は固く閉じていた目をそっと開けた。ビニール傘の半分ほどまでがニエの目元に刺さっている。だがニエの後頭部から突き出ているのは、金属の先端ではなかった。それは確かに螺旋状に流動しながら月光を反射させているユニコーンの角だった。

 年が明けた頃には、ウイルス感染の報道を目にすることがほとんどなくなった。配布された経口薬が効果を果たしたということで、一桁台の感染者数や死亡者数がトップニュースで扱われることはなくなった。人々は再び満席の飛行機や新幹線に乗って全国を旅し、話題の飲食店の前に長い行列をつくり、大声を出しながら酒場でジョッキを交わすようになった。そんな毎日がやはり揺るぎのない日常なのだという安心感が広がり、内閣の支持率は高数値を安定的に推移した。
 だが一方で、マスクを着用し続ける者たちもちらほらと街を歩いていた。彼らは今でもできるだけ他人との接触を避けていた。あるいは外ではもはやマスクを外せない習慣が染みついているみたいだった。確かに医療機関サイトによる定期的な発表では、日々必ず感染者は発生しており、死亡者の数もゼロが続くことはなかった。そんな数値をもう誰も気にしてはいなかったが、それでも毎日どこかで誰かがひっそりと死んでいた。
 牧人の病室に他の患者はいなかった。牧人が救急で運びこまれたとき、使用されていなかった奥の三人部屋が急遽用意された。牧人の血中酸素飽和度は当初九〇%を下回っており、生命の瀬戸際をさまよっている危険な状態だと冬音と冴に伝えられた。感染する恐れがあるため、面会できない冬音と冴からはスマホでメッセージが送られてきたが、牧人からは何の返信も送ることができなかった。ベッドの上の牧人は高熱と咳が止まらず、経口薬が投与され、点滴は昼夜問わずに取り替えられた。意識は混濁と覚醒を数十分ごとに繰り返したが、やがて混濁している時間の方が長くなった。毎日どこかで死んでいる一人に牧人は数えられようとしている、誰が見てもそう予想する状態に陥っていた。
 しかし運びこまれて一週間が経った夕方、牧人は目を覚ました。咳は止まり、熱は引いていた。頭の奥に小さく硬いものが押しこまれているような異物感があったが、体を動かせないほどではなかった。人工呼吸器を着けたまま、上半身をゆっくり起こし、まわりを見回した。清潔な空のベッドに夕日がしんと差しこんでいた。喉がひどく渇いている。牧人はナースコールを押そうと振り返った。枕元の上に患者名を書いた名札が貼られていた。そこに一秒を争うような勢いの筆跡で、滝乃瀬牧人、と書かれているのを彼は確かに目にした。
「赤血球のおかげで、滝乃瀬くんは助かったんだよ」
 精悍な体つきの看護師は朝の体温を記入しながら低い声で言った。鍛えられた僧帽筋と大胸筋によって白衣が張りつめている。
「先生が驚いてた」看護師は目を見開いた。「あんなに重症だったのに、こんなに早く人工呼吸器を外せることはないって。血液検査によると、君は赤血球が多いらしい。きっと赤血球たちが必死になって酸素を運んでくれたんだろう」
 牧人は朝食のハムエッグを口にしていた。ただ生ぬるく柔らかいものが舌の上を転がっている。
「何の味も匂いもしないのは、元に戻りますか」牧人は訊ねてみた。
「個人差があるんだ」看護師は微笑んだ。「すぐに戻る人もいれば、時間をかけて少しずつ戻っていく人もいる。このウイルスに関してはまだわからないことは多いけど、焦ることはないよ。じっくり待てばいい」
 看護師の声はどこか耳に馴染むものがあった。もしかしたらトレーニングジムで見たことのある男かもしれないと牧人は思った。体調が戻ってからまだ一度も勃起していないことは訊ねないことにした。
「いずれにせよ、もう退院だね」
 そう残して看護師は病室を出た。
 牧人が発症したのは、冴と二人で野球場から自宅に帰った深夜だった。
 性器にひどい痛みを覚えながら玄関の戸をなんとか開けると、冬音がパジャマ姿で心配そうに姿を見せた。「何かあったの」と眉根を寄せる冬音の血色は元に戻っていた。その代償のように牧人は廊下に倒れこんだ。突然堤防が決壊したような止まらない咳と土色の顔、そして額から伝わる高熱によって、牧人の体を支えていた冴は救急車を呼ぶことにした。
 ニエはどうなったのだろう、複雑な医療器具が取り払われた病室で牧人は天井を見上げていた。果たしてニエを殺すことはできたのだろうか。そもそも家族家が死ぬ、あるいは家族というものが死ぬとはどういうことなのか。野球場での出来事の後、俺が生死のあいだをさまよったということは、ニエにも何かしらの変化が起こったとも想像できた。実際、滝乃瀬という姓が名札に書かれている。ニエはいなくなったのか。それによって贄孝太郎も贄一もこれから平等にウイルスに感染することになるのだろうか。
 牧人は体を起こした。頭の中の異物感はほとんど治まっていた。水を飲み、ベッドから下りると、静まりかえった廊下に出た。深夜二時を過ぎている。明かりの落とされた床を出来るだけゆっくり進んだが、スリッパの底がひたひたとまとわりつく音を止めることはできなかった。先の方ではナースステーションの光が漏れている。牧人は手前の角を曲がり、階段を上っていくことにした。
[これからは料理の質が落ちるよ]
 牧人は冬音と冴にメッセージをそう送っていた。[味も匂いも感じないから]と。冬音からは[味見なんかしなくても、分量の感覚は身に付いているでしょ]と届き、冴からは[牧のごはんを食べられるのはあと三ヵ月だし、最後まで充分堪能させてもらうよ]と届いた。冬音と冴は二人とも四月に家を出ることにしていた。これから冬音は贄一と籍を入れ、冴は贄孝太郎と籍を入れ、それぞれ相手と同じ部屋で住む時期を決めていた。
 そのことを中島に伝えると[苗字はどうするの?]と訊ねてきた。[贄牧人にはならないよ]と牧人は返した。[成人だから自分で選べる。しばらくは滝乃瀬のままで暮らすことにするよ]。中島は次第に体調を取り戻したようだった。食欲が戻って体重も増え、息切れや頭痛はなくなり、これまで以上に受験勉強に集中しているとのことだった。
[まずは入試に合格しないと、何も始まらないから]中島は書いていた。[合格発表の後、二人と話をすることに決めたよ。これまでのこと、そしてこれからのこと。この家を出て、牧人の家で暮らすことも話す]
[学費はどうするんだ?]
[もちろんバイトをして、自分で払っていく]
[俺もトレーニングの時間より、シフトの時間を増やすことにするよ]
[もう退院だよね。僕もまた鍛えなくちゃ。来週ジムで会おう]
 上りきった階段の終わりは屋上庭園への自動ドアだった。電源は落とされていたが、ドアの隙間に指を入れ、思いきり引くと、体一つぶんが通り抜けられるぐらいのスペースを開けることができた。牧人は外に出て、冷たい外気を肺一杯に吸いこんだ。一月の夜風は牧人の耳を切りつけた。急速に体温を奪い、全身を小刻みに震わせる。スリッパだけの素足は氷を踏んでいるように痛んだ。ポケットに両手を突っこみながら、特徴のない植えこみのあいだを通り過ぎ、牧人は木製のベンチに腰を下ろした。横板が張られたフェンスの隙間には真夜中の街が広がっていた。新しい年を迎えたことをまだ祝っているように、いくつかの部屋に明かりが灯っている。
「順調に快復しましたね」
 いつのまにかタキノセが隣に座っていた。牧人と同じように前方に視線を向け、低い声を出している。暗闇の中で虹色の目だけがやはり輝いていたが、横顔はどことなく疲れているように見えた。
「順調、だったのか」牧人は言った。
「何はともあれ生き延びました」
「ニエは死んだのか」
「どうでしょう。あれきり見かけません」
「ニエが死んだから、俺は滝乃瀬に戻ったんだろう」
「確かにニエ様の手に握られていた姓は、牧人さんの元に戻ってきました。でもだからといって、ニエ様が死んだことにはなりません。おそらくあれぐらいのことで死にはしないでしょう。家族家を舐めてもらっては困ります」
 牧人は両手を口元にあて、息を吹きかけた。一瞬のうちに冷たくなる手のひらに何度も温かいかたまりを与えた。そういえばと牧人は思い出した。そういえば俺のビニール傘は今一体どこにあるのだろう。
「この春には俺は中島と一緒に暮らし始める。そして中島の養子になる。そうすればおまえは死ぬ」
「そんなにうまく流れてくれますかね」タキノセは微笑んだ。「味覚と嗅覚を失くして、まともな料理を作れない。さらに勃起不全にもなっているかもしれない。そんなあなたを中島さんは受け入れるでしょうか」
「心配しないでいい」牧人は静かに答えた。「それは個と個の問題だ。俺と中島が話し合うことだよ。家族の問題じゃない」
「いずれにせよ、私はまだいます。滝乃瀬家をこれからも繋ぎ渡らせるためにね。あなたが滝乃瀬牧人であり続ける限り、私はいつもここにいます」
 牧人はベンチから立ち上がった。そして歩を進めて、背の高いフェンスまで近づき、板の隙間を覗いた。高速道路やビル、学校やビルに埋もれそうになりながら、名も知らぬ家々がどこまでも連なっている。
「あのとき」牧人はフェンスの向こう側を見つめながら言った。「ジムのガラスの中に父さんが現れた。あれはおまえだったのか。タキノセ」
 しばらく沈黙があった。訊くまでもないことだったが、牧人は確かめたかった。これまで自分の心にタキノセが隠れ住んでいたことを。そして家族家という役割を果たすために自分の心をひそかに扇動しようとしたことを。
「どうなんだろうね」タキノセの声が高くなった。「私にはよくわからないわ。前にも言ったけど、私はあなたのメタファーでもないし、七平さんのメタファーでもないから。私はただの家族家なのよ」
 牧人は振り向いた。タキノセの姿はすでになかった。まるでそこに存在すべき人々を全て失ってしまったかのように、ベンチの上ではただ冷たい夜風が吹きつけているだけだった。
 再びフェンスの隙間に視線を向け、複雑に建ち並んでいる家々を牧人は見下ろした。一つ一つを追っていくと、瓦屋根で小さな庭が付いている家が目に止まった。その古びた一軒家に牧人は中島との暮らしをあてはめてみた。新たに始まる二人の生活。それは同時に、方舟に乗りこんだ一組のユニコーンを連想させた。どこにも辿り着く場所はない。日々を流動するように生きていく。まずは二人で一本のビニール傘を差して、自動食洗機を買いに行くことから始めよう、牧人はそんなふうに点在する小さな光をいつまでも見つめていた。

〈了〉2022年作

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