夜行バス⑥
突然降りだした大粒の雨。嘔吐物を流しこまれたように靴の中がぐしょぐしょに湿ってきても、私は構わずに自宅にむかって歩き続けていた。傘も差さず、通り過ぎる車に水しぶきをかけられている人間など他に見あたらない。みんな鞄を頭の上に掲げて走っていったり、コンビニで雨宿りをしたりしている。ガラスのむこうで顎髭を生やした同じような顔の若者たちが私にむかって指をさしていた。ときどき首をかしげて可笑しそうにしている。
胃が熱を帯びていた。どうしようもない熱さで、固く収縮しており、誰かに強く握りしめられているような痛みが続いていた。電車に乗ったときはたいしたものではなかった。しかし駅に着いたときには息が荒くなり、みぞおちを手で押さえなければいけないほど痛みが増していた。たとえ雨でずぶ濡れになったり、若者たちに笑われたりしても、そのときの私にはどうでもいいことだった。自分の中の苛立ちを何でもないようにやり過ごしてしまうことはできないでいた。
その日曜日、私と妻はひさしぶりに映画を観るため街まで出かけていた。面接の回数が増えて疲れがたまってきたし、たまには気分転換も必要じゃないと妻が提案してきたのだ。確かにそうかもしれない。夫婦とも無職だからといって一度ぐらい映画を観に行ってもばちは当たらないだろう。
朝食の後、私たちは電車に乗ったり歩いたりしながら一時間ほどかけて映画館にたどり着いた。私たちが観る映画はかなり人気なようで、朝いちばんの上映時間にもかかわらず行列ができていた。だが内容はたいしたものではなく、上映が終わったロビーで私と妻は苦笑いを浮かべた。こんな映画にどうしてこれだけ大勢の人が集まるのだろうかとまわりの人々を眺めた。しかしまわりはまわりで私たちと同じように苦笑いを浮かべているのかもしれなかった。そう思うとどこか居心地が悪くなった。
妻は前の会社の友人と一緒に昼食をとるというので、私たちは映画館を出て別れた。その日は朝からよく晴れていて、人が次から次へと流れ過ぎていた。ときどき四月のふわりとした風が吹き抜けて、人々をどこか幸せそうにさせていた。私はしばらく歩いて目についたファーストフード店に入り、サンドウィッチとコーヒーを注文した。そんなふうに一人で街を歩き、一人で飯を食べるなんて久しぶりのことだった。その一カ月間、ほとんどの時間を妻と一緒に過ごしていたのだ。一人になるのは風呂とトイレと寝るときぐらいだった。私は薄っぺらい乾いたサンドウィッチを噛りながら、ガラスのむこうを眺めていた。そういえば会社で働いていたときはどんな生活を送っていただろうか。いまよりもっと忙しくしていただろうか。あるいは他にいろんなことを考えていただろうか。
何も用事がないので家に帰るしかなかったが、その前に書店に立ち寄ることにした。まともに本を読んだのは二年前か三年前か、それも思いだせない。まるではじめて本を買うような気持ちで、私は文庫本の棚の前でどれを買おうか迷っていた。
「お、何してんだよ」
突然声をかけてきたのは、かつて働いていた出版社で副編集長を務めていた男だった。となりでは妻らしき女が赤ん坊を抱いている。
私はしばらく副編集長の顔を見ていた。そして視線をとなりの女に移し、再び副編集長の顔を見た。自分では笑みを浮かべていたつもりであったが、相手の表情は何も変わらなかった。
「ひさしぶりですね」手にしていた文庫本を棚に戻して私は言った。そして女にむかって頭を下げた。女も軽く会釈した。
「ひさしぶり」副編集長は私の顔をぐっと覗きこんで答えた。彼は私より八つ年上だったが、見かけは若々しく、いつも皴のないシャツを着て、髪の毛を整髪料で整えていた。彼が少し近づくと、香水の匂いがふと漂った。
「えっと、四週間、一ヵ月ぶりぐらいか」わざとらしく天井を見上げながら指で数えて副編集は言った。
「そうですね。一ヵ月ぐらいですね」
「どうだ?」
「まあまあですね」
「まあまあか。まあ、最初は慣れるまで仕方ないけどな」
「そうですね」
「それでどういった仕事なの? あんまり変わらないか」
「そうですね。前とあんまり変わらないですよ。似たようなものです。そちらはどうですか?」
「あいかわらずだよ。社長は傲慢なゴリラで、編集長はその飼い犬。雑誌も全然売れねえしな」
「そうですか」
「そうだよ。辞めて正解だよ」
副編集長はそう呟くと、ポケットに手を入れて、ごそごそと動かし始めた。何か付け加えて言いたそうにしていたが、結局言わないでおこうとしているような曖昧な表情を浮かべていた。
「僕は辞めてよかったと思ってますよ」少しためらって私は言った。
副編集長は機械的な笑いを浮かべた。そしてそばに貼ってあったポスターにしばらく視線を移していた。まだポケットの中をいじっている。どうやらそれ以上何も言う気はなさそうだった。
赤ん坊がぐずぐずと言葉にならない声を発した。女は赤ん坊をあやしながら、少し離れた場所へ移動した。視線はずっと赤ん坊に注がれていたが、言葉は何もかけようとはしなかった。どうやらじっとこちらの話に耳を傾けている様子だった。
「何買うの?」
「え」
「何か買うつもりだったの」
「ああ、本ですか」私はさきほど文庫本を戻した棚に目をやった。しかしどの本も同じ見え、自分がどれを手に取っていたのか思い出せなかった。「コニー・ブックです。ドイツの作家なんですけど、あんまり売ってないんですよね。知ってます?」
私は本棚を睨んで、架空の作家の小説を探すふりをした。それ以上会話のための言葉を見つけ出すことができないでいた。
「俺はよく知らないな」副編集長はすこし間をあけて言った。「じゃあそろそろ行くわ。なんかこの店ってちょっと空気悪くないか。それか、ここらへんがなんかじめじめしてるのかな。まあいいや。じゃあ、まあ頑張れよ。たぶん頑張った方がいいよ。コニー・ブック、見つかるといいな」
副編集長は手を上げ、女は最初と同じ角度で会釈をした。私から遠い場所まで離れると、二人は顔を見合わせて笑い始めた。
何に対しての苛立ちなのか、自分でも見分けがつかなかった。副編集長に対してなのか、その妻に対してなのか。あるいはそんな二人にとっさの嘘をついた自分自身に対してなのか。見分けがつかないほど三者への苛立ちが絡み合っていたことにも苛立っていたのかもしれない。
雨が激しすぎて、前がよく見えなかった。私はいったい何をしているんだろう。一ヵ月間仕事もせずに、前の会社の上司にくだらない嘘をつき、まわりから笑われるほどずぶ濡れで歩いている。そして胃が熱くなるほど苛立っている。
家に帰ると脱いだ服を洗濯機に投げ入れ、温度設定を四十二度に上げてシャワーを浴びた。そしてドライヤーで丁寧に髪の毛を乾かし、新しいスウェットをタンスから出して着た。夕飯までには帰ってくると妻は言っていた。だけど何を食べるかは決めていない。私はコーヒーを飲みながら、あらかじめ夕飯の支度をしておこうか迷った。迷いながら、テレビの前で背中を丸めていた。もう一度こたつ布団を引っぱり出すべきかどうかについても迷いながら、じっと背中を丸めていた。
「雨? もうやんじゃってたわよ」
七時に帰ってきた妻の服はたしかにどこも濡れてはいなかった。テレビを見ながら寒そうにしている私を見て、妻は無表情に言った。「遅くなって悪かったわね。つい話が長引いちゃって。すごく話が長い子がいたのよ」
結局、私たちは宅配ピザを注文することにした。他にサラダとか唐揚げも頼もうかと妻は言ったが、私はあんまり食欲がないと断った。
「大丈夫? 今晩またバスに乗らなきゃいけないのに」
「ああ。ちょっと調子がおかしくなっただけだよ。風邪じゃない」
「でもあんまり顔色よくないみたいよ。食べて休んでも変わらなかったら、今回はやめたら?」
「どうしてだよ」思わず私は体を起こし、語気を強めた。「行かないわけにはいかないだろう。ずっとこのままでいいのかよ」
「そんなこと言ってないじゃない。どうしたのよ」妻は一瞬私を睨んだが、すぐに冷静な声を取り戻した。「明日行くところは、初めての会社ばっかりなの?」
私も冷静さを取り戻そうと一呼吸置いた。「はじめてがひとつ。二次面接がふたつ。二次面接っていっても、ひとつは最終面接みたいなものだけど」
そう答えながら、私はその夜に夜行バスに乗ならなければいけないことに内心やはり億劫になった。狭いシートに身を埋めて、暗闇の中で眠れるか眠れないかのあいだを何時間もさまよわなければいけないことを想像すると、胃の痛みが少し戻ってきた。
「なあ」私は話題を変えようとした。「闇化って何かわかった?」
「やみか?」
「弟にどういう意味か訊いておくって言ってただろう。前のメールで闇化されたくないって書いてあったから」
「ああ、あれね」妻はテレビのチャンネルをぱちぱちと変えて、料理番組が映ったところで止めた。「あれから連絡とってないのよ。いったいどうしてるのかしらね」
「そりゃあとりあえず闇化されないようにしてるんだろう。どういう意味なのかな」
「何かの本に載ってたんじゃない、たぶん。あの人、昔からそういう言葉遣いをするのよね。子供の頃ね、いま外でUFOを見た! って部屋に入ってくるの。そしてまだ飛んでるから一緒に見に行こうって。でも外に出てみたら何もないわけ。そんなときあの人、きっともう空化しちゃったんだって言うの。何それ? どういう意味? って訊いても、空化は空化だよって答えるばっかり」
「それはなんとなくわかるよ。空に消えたってことだろう」
「あと、死ぬふりをするのも好きだったな。これから二人で死ぬふりをしようって言うの。」
「二人だけで死ぬふり?」
「そう。床に寝転がって、目を閉じて、息もできるだけしないようにして、どこまで死んだように動かないでいられるかっていう遊びよ。でも二人とも目を閉じてるもんだから、お互いの様子がわからないわけ。本当に動かないでじっとしているのかなってときどき疑ってみたりして。三十分とか一時間ぐらい死んだふりをしてるんだけど、いつも結局はわたしが音を上げて、目を開けて動き出すの。あの人は目を閉じる前と同じ姿で寝転がってる。でもいくらわたしが終わったよって言って、揺り動かしてもあの人しばらく動こうとしないの。一度いくら経っても動かないから、本当に死んじゃったと思って、お母さんを呼びにいったことがあるわ」
「きっと寝てたんだろう」
「そうね。はっきり憶えてないけど、きっとそうだったと思うわ。そんなことばっかりしてたわね」
やがてピザが届いた。いつもどおり二人で半円ずつ食べようとしたが、私はどうしても最後の一切れを食べられなくて、妻に食べてもらった。体がだるいとか、熱っぽいとかいうわけではなかった。寒気もなくなっている。ただ腹いっぱいに食べようとする気がどこかに失せていた。
十時までできるだけ動かないようにして、テレビばかりを見ていた。アフリカに棲む動物の生態を追ったドキュメンタリーが放送されていた。ナレーションの言葉は頭に入ってこず、サルやフラミンゴたちの奇妙な動きをただぼんやり眺めていただけだった。最終面接の会社は、企業の社内報や労働組合の資料を制作している小さな編集プロダクションだった。一度目の面接では悪くない印象の会社だった。ただ勤務時間が十時から七時までの裁量労働制というのが引っかかっていた。編集部につきものの深夜作業が前提とされているのが、あの陶芸の出版社を連想させた。
やがて時間がくると、スーツに着替えてネクタイを締めた。雨はすっかりやんでいて、窓を覗くとアスファルトは乾きはじめていた。湿った空気を吸いこむと、やはり一瞬、夜行バスに乗るのが嫌になった。
「こんど小説でも書いてみようかな」私は言ってみた。
「なにそれ」洗い物をしている妻が振り向く。
「小説を書いてみるんだよ」
「ふうん。やってみたら」
「やるとしたら小説の通販だな。最初の部分だけをマンションのポストとかに入れてさ、続きを読みたい読者を集めるんだよ」
「なんか気持ち悪いよ、それ」妻は眉をひそめた。
「そうかな」
私は靴を履いて、ドアノブに手をかけた。「それじゃあね」
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