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いずれ嫌いになる(第15回)

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 後ろで小さく丸い光がいくつか交錯して、どたばたと何かが地面に倒れるような音がした。だが彼女はペダルを止めようとしなかった。不審者が出没しているという噂を聞いていたので、まわりに注意を払い、身を固くしていた。しかしいざ不審な雰囲気を察知すると、そちらの方に目をやる勇気もなかった。自分みたいなおばさんを襲う人などいない、不審者も相手を選ぶだろう、そう自分を安心させて自転車を走らせていった。
 家に着き、静かに鍵を開けると、台所から水音が聞こえた。のぞいてみると、顔を洗い終えた夫が立っていた。
「えらく早いね」彼女はビニール袋から出したおにぎりを机の上に置いた。
「歳のせいか、最近はよ起きてまうねん」
「休みの日はぐうぐう寝てるじゃない」
「それが実は起きてるんや。夜明け前に目覚めて、何も考えんとぼおっとしてから、また寝てるねん」
 流しの中には昨夜の食事に使った二人ぶんの食器が重ねられてあった。二人ぶんの茶碗、箸、コップ。仕事から帰ってきてまずそれらを洗おうとするとき、彼女の心にはいつも何かが引っかかる。特に誰のせいでもない何かだ。
「夕べ、ワタルはどうだった?」
「どうって?」
「なんか変わったこととか」
「別にないよ。いつもと一緒や」夫はコーヒーを入れて、畳の上に新聞を置き、テレビ欄に目を通し始めた。
 いつかもう一人、彼女はスポンジに洗剤を染みこませながらいつものように思う。もう一人子供がいたら、いいかもしれない。夫が変わり、ワタルも変わるかもしれない。そして私自身も変わるかもしれない。この小さな三人の関係に広がりができるかもしれない。でも今はまだ無理だ。無理なことはわかっている。
 洗い物を終えた彼女は朝食の準備にとりかかった。インスタントコーヒーにマーガリンを塗った六枚切りの食パン。三人ぶんの準備をしながら彼女は家庭の中の自分を取り戻していく。そして時間を確かめて、ワタルを起こしにいく。二間続きのいちばん奥で息子はタオルケットを跳ねのけて、幼虫のように体を丸めている。薄暗くて寝顔はよく見えないが、よく眠っているようだった。
「もう起きなさいよ」母親は声をあらげる。
 ワタルは深い眠りに落ちたままだ。身動きひとつしない。父親は先に食パンを齧りながら、その日見るテレビ番組の予定を頭の中で組み立てている。「もう時間だよ」母親はしゃがんで、息子の顔を覗きこむ。目はしっかり閉じられ、少し開いた口から微かな寝息が聞こえる。
 そこに一瞬、夫と同じ影を彼女は見た。いつも自分を殴るときに夫の表情を覆う暴力の影だ。
 やっぱりいつかもう一人子供をつくろう、彼女は思う。この子のせいでもないし、たぶん夫のせいでもない。でもやっぱり何かのせいだと疑いたくなるものがどこかにある。
 あれはいったい何だったんだろうと彼女はふと思い出す。さっき仕事から帰っている途中に後ろで聞こえた叫び声と懐中電灯の光。もしかしたら自分を捕らえようする何かだったのかもしれない。

(16最終回へ続く)


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