虫けら
なんでやねん──若かった頃ならそう突っ掛かっただろう。まだ蕎麦を一口もすすっておらず、食事がテーブルに出されてもいない状態で、どうかお引き取り願えないでしょうかと店員に追い出されそうになる不条理。きっと二十代の私なら長かった髪をかき上げ、パンプスの音を響かせて店員に詰め寄り、ネイティブの大阪弁で噛みついたに違いない。
大晦日に蕎麦屋を訪れたのは生まれて初めてだった。昼時の繁忙がおさまり、夜中の初詣へ赴く人たちが腹ごしらえをしにくる七時頃までの隙間であれば空いているはずだと予想し、私はスーツケースを引きずりながら、新宿バスターミナルに向かう途中にある蕎麦屋の暖簾をくぐった。やはり席は残っていた。全員が同じ丸い体型の四人家族と、一人で瓶ビールを傾けている白髪紳士との間の席に私は腰を下ろした。山菜蕎麦を注文した後、天井の隅に吊られたテレビをぼんやりと見上げた。アナウンサーは昆虫食についてのニュース原稿を読み上げていた。今年は食用こおろぎを中心とした昆虫食が世界的な食糧難を解決する方法として注目を浴びたが、一方で蕁麻疹や湿疹などのアレルギー反応を示す人たちが現れ、今後食材の一つとして採用するかどうか賛否が分かれているようだった。街頭インタビューでアクリルケースの中を跳ねるこおろぎを見せられた人たちは叫び声を上げて嫌悪感をあらわにした。こおろぎを粉末加工したものは決して安価でなく、コストメリットもない嫌われ者がどうして大衆に受け入れられようかと、私は頬杖の角度を斜めに傾けた。そういえば新型コロナが5類感染症に引き下げられ、マスクの着用判断が個人に委ねられてからというもの、感染症の話題はほとんど報道されなくなった。水は高から低へ、狭から広へ流れる、という諺みたいなのが誰かの小説にあったのを思い出す。山菜蕎麦はまだ運ばれてこない。そのかわり白髪紳士は器を置くなり、早々と席を立ち去って勘定を済ませた。四人家族は次第に口数が少なくなり、両親は周囲を見回しながら子どもが食べ終えるのをじっと待っていた。針先を向けられているような緊張を感じ、何となく様子を窺うと、四人家族が警戒していたのはどうやら私だった。丸い顔の父親は私を睨み、丸い背中の母親はときどきこちらを振り返って眼鏡のフレームを光らせた。二人の子どもは表情を強張らせたまま箸を動かしていない。四人家族だけではなかった。離れた席に座っている客たちも私に小刻みな視線を向けて、ぶつぶつと呟いたりしていた。私は自分の格好を確かめた。薄手のセーターにコーデュロイのロングスカート。スマホのカメラで自分の顔と髪型を映す。何もおかしなところはない。口元に手を当てても口臭はしないし、セーターはクリーニング店のビニールから出したばかりだ。一体私の何が彼らの注意を引いているのか、私はテレビに視線を固定したまま深く息を吸って、注意深く姿勢を正した。決定的だったのは柄の悪い男の入店だった。店の戸を勢いよく開けると、男は紫のズボンに手を突っ込みながら、白髪紳士が座っていた席へ大股で向かってきた。そして私の姿を目にするなり、ぴたりと足を止めた。「おいこら、この店はこんなのも客として扱うのか!」男の怒声は店内の空気を硬直させた。私は男を見上げていたが、他の者はみんな私を見ていた。やがて作務衣を着た店員が小走りに近づいてきて、面倒臭そうに私に耳打ちをした。「申し訳ありませんが、お引き取り願えないでしょうか」。店の戸は開けっ放しにされていた。まるで迷いこんだ虫を追い出そうとしているみたいに。
蕎麦屋からバスターミナルまでは五分ほどだ。私はダウンジャケットを羽織り、キャリーケースを体の横に沿わせて、伏し目がちに雑踏を進んだ。店内中から向けられた視線の圧力に耐えられず、無抵抗のまま店から逃げ出してしまった。そう、SNSで私は虫けらだった。虫けらと自らを名乗っていた。虫けらの日常を投稿するたび、ある程度のいいねを毎回もらっていた。虫けらの「けら」は、おけらの「けら」らしい。そしておけらとこおろぎはなんとなく似ている。確かに虫けらも食えない奴ではなさそうだった。私は若い頃からカフカの愛読者だった。『変身』のグレゴール・ザムザは一晩で巨大な虫へと見事に変身したが、私がこっそり虫けらに変身するのはSNSだけだ。新宿のリアル蕎麦屋で虫けら扱いされることなんてあり得ないのに、店員の湿った息で耳打ちされたとき、自分がリアル虫けらになってしまったように鼓動が早くなった。
虫に光を貸す、なんて慣用句は本当にあったっけ。二十七歳のとき、応募した小説が地方文学賞を受賞した。応募総数は三〇〇ほどの小規模で、最優秀賞ではない優秀賞。つまり二着。それでも私はうれしく、ロストジェネレーションなどとアイドルグループみたいな名称で一括りにされた世代としては、やっと将来に期待を込められる気がした。文芸関係者から声をかけられても対応できるように、そして物語を書き続ける時間を確保するために、私は派遣社員という不安定な立場を維持することにした。だが二十年待ち続けても、私は誰にも見つけてもらえなかった。創作的な依頼や誘いは一件も届かず、新人賞への応募ではいつしか予選止まりの常連と化し、職場では歳下であろうが同じ女性であろうが、彼らの小間使いとして名のない労働に徹した。二十年前と同じワンルームの賃貸マンションに一人で住み、時給でこつこつ積み上げられたほどの額しか預金通帳に印字されていない。虫に光を貸すという意味は、余計な者に余計な物を与えるなということだったと思う。集まった虫を周囲の人々は疎ましがるが、虫自身は失われた光の残像を名残惜しそうに求めて、地縛霊みたいに同じ場所をしつこく這い回ることになる。
三年勤めた職場との契約は年内で終了した。形式的に私の方が契約を更新しなかったことになり、結婚したら連絡ちょうだいねと上司から小ぶりな花束を渡された。これまでかつての職場の人たちと連絡を取り合ったことは一度もない。帰りの電車を新宿で降り、雑居ビルの二階の喫茶店に入って文庫本を広げたときには、エレベーターホールで別れを果たしたばかりの顔は全員頭から消え去っていた。そんなことより疲れやすくなった体で深い溜め息をついた。いくら気を入れても、高速道路をスクーターで走るように体力が衰えてきた。まだ次の職場も決まっていない。年明けには紹介できますからと派遣会社の担当は早口で告げたが、コロナ禍の経済的影響がまだ企業に影を落としていることは私にもわかっていた。ページをめくる手を止めて、ふと窓の外を見た。遠くに高速バスターミナルの看板が光っている。五年間帰っていない大阪。父が死んで、母が死んで、弟が管理する実家に帰るなんて誰にも求められていなかった。だからといって東京でやるべきことが残されているわけでもない。ただ光の残像に惑わされて、二十年も同じ場所を這い回っていただけなんだ。私はスマホでSNSを開いた。ここから新宿バスターミナルの光が見えます、と一匹の虫けらとして投稿した。
大晦日のバス待合室は混み合っていた。東北や甲信越、中部や関西など、様々な行き先が表示された出発予定のモニター画面は、ほぼすべて満席の赤い字で埋められていた。忙しく行き交う人の合間をすり抜け、一つだけ空いていた椅子に私は腰を下ろすことができた。大阪駅行きの発車時刻までにはまだ余裕があり、ハンドルを収納したキャリーケースを膝の前にぴたりと引き寄せ、出発時間まで背を丸めて目を閉じていることにした。だが息をつけるひとときは用意されていなかった。私の両どなりに座っていた二人は示し合わせたように、まもなく荷物を手にして立ち去った。一人は舌打ちをし、もう一人は咳払いをした。不自然に孤立した私のとなりには誰も座ろうとしなかった。それどころか誰もそばに近寄ろうとせず、トイレに入ったり自動販売機で飲み物を買ったりするのに、私から一定の距離を保ってわざわざ迂回していた。私はやっぱり虫けらなのか。客扱いをされない虫けらは高速バスに乗車することも許されないのか。一体どうしてしまったんだろう。わけなどわからないが、ひとまず私はダウンジャケットのジッパーを閉め、再びキャリーケースのハンドルを伸ばして待合室から出ていくことにした。
動く虫けらに対しては警戒心を緩めるのか、エスカレーターを上ってくる人とすれ違っても、彼らは無表情に自分たちの行き先を見上げているだけだった。エスカレーターを降りきった私の前には行き場がなかった。自動ドアが開くと、年末の冷風が吹きこみ、左右のどちらから吹いているのかさえわからず、その場で立ち尽くすしかない。
「もしかして」と目の前の路上を通り過ぎようとした少年が立ち止まった。「虫けらさんですか」
少年は白黒のスタジャンの中に赤いパーカーを着て、フードを目深に被っていた。私より少し背は高いが、表情ははっきりと見えず、まだ中学生か高校生ぐらいの幼い肌が街灯に反射している。
「ほら、いつもTwitterで」少年は続けた。変声期を過ぎた低く落ち着いた声だ。「俺、カオルです」
憶えのある名だった。私の投稿にいいねを押してくれたり返信をくれたりして、女面の能面をプロフィール画像に使っている。DMを送り合ったことも何度かあった。エスカレーターを降りた人が背後に近づいてきたので、私たちは反射的に路上の端に移動した。
「カオル、くん」私は不意なことに動揺しながら、あらためて繰り返した。「なんで、虫けらって」
「画像載せてたでしょ」カオルは口角を微かに上げた。「顔さらしてたから」
自分の顔の画像をアップした記憶はなかった。読み終えた本の表紙や外食時の料理の写真をアップするときも、ガラスの反射に自分の像が映っていないかを注意していたほどだ。
「そんなはずないけど」私がそう言っても、カオルは動じなかった。
「なんかバスの狭い席に座って、自撮りしたみたいな写真でしたよ」カオルはスニーカーの先でアスファルトを軽く蹴った。「なんにしても現実的に僕はカオルで、あなたは虫けらだってことは確認できたし。それに実際ほら」
カオルはジーパンに手を突っ込んだまま、歩道を行き交う人々に顎を向けた。彼らは通り過ぎる瞬間、訝しそうに眉をひそめて私のことを一瞥していた。
「とりあえず歩きましょうか」カオルは首を傾けて私を促すと、雑踏に混じった。
私はキャリーケースをごろごろと引きながら、カオルの斜め後ろをついていった。「ちょっとまだ、よくわかんないんだけど」
「俺だってなんであなたが虫けらなのか、わからないですよ」カオルは振り向いて笑った。「でもこうやってお互いに認識できた。それで充分のはずでしょ」
「確かにそれで充分。一緒に行動する必要まではないよね」私は足を止めた。
「これから予定でもあるんですか?」カオルも立ち止まった。
カオルの目元にはフードの影が落ちている。プロフィール画像に似た一重まぶたが薄く開いている。バスが出発するまでの四時間、私に行き場がないことを予め知っているかのような訊ね方だった。
「じゃあ進みましょう」カオルは微笑んだ。「動いている方が視線うざったくないし」
スタジャンの背中をしばらく追った。歩道橋を渡り、交差点を越えて、雑居ビルが並ぶ人通りが少ない道へと曲がった。カオルの歩き方は安定していた。ときどき後ろを歩く私を確かめながら、遅くも早くもないスピードでまっすぐ目的地に向かっていた。
「あそうだ、虫けらさん」カオルは振り返った。歩調を緩めて、私のとなりに肩を並べた。「結夢って知ってます?」
「むすびゆめ」
「簡単に言うと、初夢の対義語です。一年の初めに見る夢を初夢と呼ぶのに対して、一年の最後に見る夢を結夢って呼ぶらしくて。まさに今日、大晦日の夜に見る夢のことですね」
一富士二鷹三茄子の続きがあることは知っていたが、大晦日に見る夢に名前が付いていることは初耳だった。そしてそんな古風な呼び名をスタジャン姿のカオルが口にしているのがどこか可笑しかった。
「それがどうかしたの?」私は訊ねた。「その結夢に出てきてほしいものでもあるの?」
「いや、そうじゃなくて」カオルは前方に目を向けた。「ほら、初夢ってすぐに忘れちゃうでしょ。どんなめでたい夢であっても、その後に控えている364日の現実にかき消されちゃう。でも結夢は一年の最後に入る世界なんです。一年を締めくくる夢だから、そう簡単に忘れたり抜け出したりできないものでね。少なくとも僕はそうです」
抜け出す? 結夢から抜け出せないとしたら、それはいつまでも同じ一年をさまよっていることになるのか。あるいは物語の最後を夢で終わらせるということなのか。
「いわゆる夢オチとは違うみたいね」私は言った。
「違いますね」カオルは笑って首を横に振った。「夢オチってラストは現実でしょう。でも結夢は夢で終わるんです。それまでの一年を終わらせてくれる夢なんです」
「なんか、ちょっと怖い」私は苦笑した。「でも今夜、いい夢が見られたらいいね」
「もう見てますよ」強く吹き渡った風にカオルは洟をすすった。「虫けらさんが出てきた夢を今こうやって見てますから」
カオルが足を止めたビルはコンクリートが打ちっ放しにされていた。両側を年季の入ったビルに挟まれて、二棟の間に産まれた子どもみたいなサイズだった。一階の店舗はシャッターが閉じられ、カオルは脇の細い階段を駆け足で上っていった。私も階段を上がることをまったく疑っていないのか、一度も振り返らずに姿を消した。そうであるなら手伝ってくれてもよかった。キャリーケースのハンドルをしっかり握って、私は一段ずつ階段を上がなければいけなかった。
二階は音楽スタジオだった。開けられたガラスドアの向こうで、カオルはカウンター越しに店員と手続きをしていた。濃い木目調の壁には洋楽バンドのポスターや、ライブハウスの出演情報や、バンドメンバー募集中のチラシなんかが隙間なく貼りつけられている。何かの用紙に書き終えたカオルは「行きましょう」と手招きをして奥の方へ進んだ。
「スタジオって大晦日でも開いているのね」私は客が一人もいない廊下を見回しながら何気なく口にした。
「年末年始ってどこのライブハウスも結構イベントやってるんですよ。そのための準備にスタジオも開けてくれてるんす」
私たちが入ったスタジオは、私のワンルームの部屋と同じぐらいの狭さだった。ドラムセットが詰めこまれ、何台かのアンプとPA機器が並べられたところに、楽器を抱えたバンドメンバーが入ればもう身動きが取れない。重いドアが閉められると、防音壁に圧縮された固い沈黙が張りつめた。その瞬間、私は自分がどこにいるのかを見失った。新宿でもなく、スタジオでもなく、自分の部屋でもなく、職場でもなく、どこでもない場所──私はこんなところで一体何をしているのか。それでもカオルはドラムセットの奥に座り、手元にあったスティックでスネアドラムを撫でるように叩き、バスドラムを何度か鳴らした。
「僕のツイートにも、ときどきいいね押してくれてましたよね」
カオルはスティックを指の間でくるくる回しながら言った。私は近くにあった丸椅子に腰を下ろした。確かにカオルの投稿には音楽についてのコメントやライブに行った感想やスタジオで演奏している写真なんかがアップされていた。
「まだ若い子なんだろなって思ってた。うらやましいなって。他のメンバーは?」
「今日は俺一人です」カオルはハイハットの位置を少し調整した。「みんな今頃、家族とまったり過ごしてるでしょう。年越し蕎麦でも食べながら」
カオルくんは? とは訊ねなかった。そのかわり自分が高速バスで大阪に帰ろうとしていたことを思い出した。ごまかすように私はスマホを取り出して、スタジオの機材を適当に何枚か撮影した。
「この写真、またアップしておくね」私は微笑んでみせた。
「そういえば」カオルは私の目をまっすぐ見つめた。「虫けらさんのツイートで、今でも憶えているものがあります」
「やめてよ、恥ずかしい」
「虫けらさんって自分の仕事に真面目ですよね」
「そうかな。もっと頑張っている人は他にもいるよ」
「そうかもしれません。確かにみんな頑張っています。それでも朝は誰よりも早く出社してコピー機に紙を補充して、減った事務用品を注文する。終わった会議の後の湯呑みを洗って、乱れた椅子をきれいに並べる。足拭きマットを正しく伸ばして、たまったごみ袋を一階まで運ぶ。みんなが当たり前だと見過ごしてること、顔さえ思い浮かべられない仕事に、虫けらさんは毎日ひたすら取り組んでる。誰も虫けらさんのことを誉めたり、評価したりしないのに。そんな虫けらさんの仕事ぶりを読ませてもらうと、俺は勇気づけられるんです。自分のやろうとすることに前向きになれるんですよ」
「そんな細かいことまで書いたっけな」私は腕を組んだ。
「ええ、でもたとえ書いていなくても想像はできます。さらにいうなら長く書いてきた小説は全然ぱっとしない。いくら応募しても梨の礫。若い頃を懐かしみながら、最近じゃついに気力が落ちて、書くことから遠ざかっている。彼氏は十年近くいないし、人肌に抱かれる感触を忘れつつ、閉経が近づいていることに憂鬱になっている。両親は亡くなり、このまま孤独に老いるだけなのか。でもひょっとして高速バスで大阪に帰ったら何かが待っているかもしれない」
ちょっと待って──私は心の中で叫んだ。口に出すことはできなかった。カオルが言ったことにはすべて間違いがなかったからだ。本当ならすぐにここから出ていくべきなのだろう。よくわからない初対面の少年のあとを馬鹿みたいについてきて、音が遮断されたスタジオに二人きりでこもって、自分の生活のあり様を滔々と聞かされる。カオルだって男だ。突然何をしてくるかわからない。だけど私は安っぽい丸椅子から立ち上がることができなかった。キャリーケースのハンドルを強く握りしめて、じっと何かに耐えているしかなかった。
「僕はそんな虫けらさんのツイートが好きなんです」カオルは何かの合図みたいにスネアとバスを短く打った。「ほら、いつか『変身』のことを書いていたでしょう。虫けらさんによる『変身』の解き明かし。きっと主人公のグレゴールは物語が始まる前から虫だったんだって。グレゴールは自分が虫であることを忘れて、ずっと夢を見ていた。訪問販売のセールスマンとして見事に売上を伸ばしたという夢から覚めて、ただ現実の虫に戻ってしまっただけなんだと。書き出しにもありますもんね。『ある朝、グレゴール・ザムザは気がかりな夢から目覚めた』って」
私は顔を上げた。「それは憶えてる」とたぶんひどい顔をして答えた。
「俺もよく憶えてます」カオルは優しく微笑んだ。「一つ疑問なのは家族の反応かな。家族は人間のグレゴールが巨大な虫に変身したことに驚き、反抗し、落胆するように描かれます。もし以前からグレゴールが虫だったなら、そういう反応はしませんよね。それが引っ掛かってたんですけど、でも今夜虫けらさんと会えて、ここまで一緒に歩きながらまわりの反応を見ていると、俺の中ですとんと落ちました」
スタジオは相変わらず人工的な沈黙に覆われていた。カオルはスティックをスネアの上に置くと、私の方を向きながらフードをそっと後ろに外した。現れたのは能面だった。カオルのプロフィール画像に使われている能面。
「能面っていうのは不思議なもんです」カオルの声は言った。「少しの角度の違いだけで笑ったり悲しんだり、幸福になったり不幸になったり、多様な表情が見えてきますから」
新宿の街は静かだった。夜空は鋭く澄みわたり、ビルの窓明かりは消え、店舗のシャッターは閉じられて、車はほとんど走っていなかった。大晦日の喧騒はすっかり取り払われている。通りを歩く人々は誰も言葉を発していない。彼らはみんな一人で歩いていて、同じ顔をしていた。いや、よく見ると、同じ能面を一様に被っている。
「どんなふうに見えますか」
振り返ると、スタジャンを着たカオルが立っている。やっぱり能面を被ったままだ。
「なんなん、これ」私はつい声を漏らした。
「虫けらさんにはやっぱり不愉快そうな人々に見えますか」
立ち止まっている私に対して、能面の人々はあちこちから視線を向けている。顎を引き、首を傾け、目尻の上がった角度で私を睨みつけている。
「きっとグレゴールは目覚めた現実に絶望したんですね」カオルの声は言った。「人間として暮らしていた夢から覚め、自分がただ一匹の虫であることを思い出した。本当は夢の中で永遠に生き続けたかったのに。グレゴールは自分の暗い運命を呪った。せめて自ら命を絶つのではなく、誰かに自らを殺させるために、家族から冷酷な扱いを受けることにした。グレゴールの精神によって家族の反応や行動の意味が変わったんです。『変身』という小説はグレゴールというより、とうとう日の目を見ずに死んだ小説家フランツ・カフカの復讐の物語。虫けらさんによる解き明かしはこういうことですよね?」
能面の人々は足を止めていた。首を傾け、目尻を上げて、私に白い顔を向けている。信号機の下から、公園の植えこみの向こうから、歩道橋の上から、彼らは遠くもなく近くもない一定の距離を保って、私を不快がっていた。
「つまり私の思い過ごしやっていうんやね」私はカオルに言った。「私が虫けら扱いされているのは、私からそういうふうに見えているだけ」
「ただし、最初に自分を虫けらだと名乗ったのは虫けらさんの方でしょう。虫けらさんが自らこの状況を求めたんです」
「そうだとしても、その能面を外したら私の顔が現れるなんてベタな展開はやめてや」
「それも虫けらさん次第です。なんなら外しましょうか」
カオルは右手を能面に這わせた。そして少し下を向き、能面を顔から微かに浮かせた。その瞬間、私は振り返って駆け出した。キャリーケースを置き去りにして、行くあてのないまま全力で走った。自分の顔なんて見たくなかった。世の中を憎んでいる顔。仕事を憎み、派遣会社を憎み、出版社を憎み、文芸新人賞を憎んでいる。蕎麦屋を憎み、高速バスターミナルを憎み、生理を憎み、行き交う人々を憎み、なにより自分の運命を憎んでいる自分の顔なんて目にしたくなかった。
能面の人たちと次々にぶつかった。彼らは私の急速な接近に対応できず、体勢を崩して歩道に倒れこんでいった。後ろを振り返ると、それぞれ怒ったり、訝しんだり、笑ったり、悲しんだりする表情を浮かべながら地面に手をついている。体力が衰えているのは確かだった。すぐに足が前に出なくなって、しがみつかれたように太腿が重くなり、肺の機能が低下して酸素が細胞に行き届かなくなった。肩を大きく揺らして、走るスピードを落とした。それでも手足を少しでも動かすこと自体が苦しかった。路上に吹っ飛ばされた能面の人々と同じように、私もその場にへたりこんだ。新宿のアスファルトはもっと硬いはずだった。人々の感情を跳ね返し、人々の欲望を受け止める硬さを持っているはずだ。でも手をついた地面はぐにぐにと柔らかい。水分を多く含んだゼリー状の感触が手のひらと臀部に伝わってくる。こんな柔らかい地面を思いっきり走れるわけがない。まるで巨大な夢の上に座っているみたいだ。
そしてその男はズボンのポケットに手を突っ込みながら近づいてきた。柔らかい夢の上で立ち止まったり傾いたりせず、まっすぐ私の方まで向かってきた。男は赤いパーカーに白黒のスタジャンを羽織り、スニーカーを履いていた。そしてやはり能面を被っている。男は躊躇なく能面を外した。現れた顔は蕎麦屋に入ってきた柄の悪い男だった。大声でがなり立てたときと同じように、男は眉間に深い皺を刻んで私を睨みつけた。私の前で腰を落とし、自分の鼻先を私の鼻先まで近づけて、混じり気のない暗黒の憎しみを私に突き刺した。憎しみの表情を浮かべたまま、男は私の服を脱がせた。ダウンジャケットとセーターとロングスカートを手際よく奪い取り、下着もあっという間に取り去った。ぐにぐにとした地面の上では抵抗のしようがなかった。男も自分の洋服と下着を脱ぎ、裸になった。そして腰の真ん中で硬く隆起したものを私の中に侵入させた。痛みはなかった。男のものは巣へ帰るように私の奥まで運ばれていった。たぶん私は最初から濡れていた。予め私は準備されていたのだ。男は私の上で体を激しく動かした。眉間の皺はずっと浮かんだままだ。男は強い憎悪を抱えながら私を犯していた。男の憎悪は腰の振動をつうじて私の中に染み入ってきた。そして私の下半身を痺れさせ、私の指先を小刻みに震えさせ、私の唇の端から涎を垂れさせた。
「虫けらさんが自らこの状況を求めたんです」
カオルの声はそう言った。
私はここから抜け出せるのだろうか。もし本当にそんなものがあるとしたら、私はこの結夢から抜け出すことができるのだろうか。それとも私の最後はこの結夢を永遠に生き続けることになるのか。私は一体この夢をどこで見ているのだろう。バス待合室の硬い座席の上で見ているのか、蕎麦屋で山菜蕎麦を待ちながら見ているのか、ワンルームマンションのベッドの上で見ているのか。それとも遥か昔の自分が見続けているのだろうか。
今何時なんだろう。大阪行きのバスはもう出発してしまっただろうか。いや、もっと時間は経っているかもしれない。すでに年は明け、新しい一年の太陽が姿を見せているかもしれない。もしこの夢から目覚めることができたら、新たな光は私の姿も照らしてくれるだろう。たとえベッドの上で虫けらの姿に変わり果てていたとしても、太陽は私に光を貸してくれることだろう。でもグレゴールとは違って、私には家族がいない。親友も仕事仲間もいない。虫けらの自分を自分一人でなんとかしなければいけない。
私はそれ以上、憎しみと抱き合っているわけにはいかなかった。私の中で憎しみに射精させるわけにはいかなかった。上半身を持ち上げ、腰を引いて、男のものを外に出した。男は虚ろな表情で涎を垂らし、目を閉じている。殴り飛ばすに値するほどの顔じゃなかった。私は自分の口元を拭い、立ち上がって近くにあった洋服と下着を抱え、暗い歩道を再び駆け出した。地面は相変らずぐにぐにと柔らかく、うまく走ることができない。でもとにかく動き続けるしかなかった。いつか真夜中の街に現実の光が射しこみ、この暗い夢から目を覚ますまで、私は同じ場所をしつこく這い回るしかないのだから。
〈了〉2023年作
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