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かみさま

「かみさま」
 修次は目を閉じて、そう呟いた。
 それは修次の毎晩の習慣だった。だからと言っても、別に修次は確固とした信仰心を持ち合わせているわけではない。どこの宗教団体の教徒でもないし、どの教祖も崇めていない。部屋に神棚を祭ってもいなければ、日曜日に教会へ礼拝に行ったりもしない。
 神を信じるとか信じない以前に、修次はそういったものにまったく興味が持てなかった。なんの宗教にもなんの信仰にもなんの教義にも、ただただ興味が持てなかった。そういったものよりかは、修次は自分自身に興味があった。修次は(おそらく多くの若者がそうであるように)この先長いであろう人生において、自分自身が物事に対して何を感じ、何を考え、何を選択し、どう行動するのかということに何よりも興味があった青年だった。自分の意志こそが人生のエンジンなんだと信じていた。
「今なんて言った?」
 隣の助手席で横たわっていた女が、突然口を開いた。
 修次は不意を突かれ、目を開けた。
「今、かみさまって言わなかった?」
 女は興味深そうに修次の方に顔を向けた。女はまだ眠っていなかったのだ。
 修次はその視線を振り払うかのように、右側の窓に目をやった。窓の向こうには、すでにシャッターが下ろされた小さな駅が見え、そのまわりを幾つかの街灯がとり囲んでいた。街灯の光の下ではダンボールに包まれた浮浪者らしき姿が横たわっていた。
「お祈りでもしてたの?」と女はしばらくしてから訊ねた。
「べつにそんなんじゃない。ただ口にしてそう言っただけだよ」と修次は浮浪者らしき姿を見つめながら答えた。ひょっとすると後部座席の二人もまだ起きているかもしれないと修次は思った。
 女は不思議がった。
 そして、かみさま、と修次の真似をして言った。
 ちょうど雨が降っているかどうかを確認するような長さの沈黙が流れた。
「なんだか、不思議に安心する言葉だね」と女は少し笑いながら言った。
 修次はひどく居心地が悪くなり、眠れないから酒でも買ってくると言って、車を出た。

 十九歳のときだ。予備校時代、修次は当時付き合っていた女の子の腹にできた子を堕胎させたことがあった。相手は十四歳だった。修次は恋に落ちた相手が十四歳だということに何のためらいもなかった。自分は相手のことを心の底から求めているし、相手も自分のことを心の底から求めてくれていると信じていた。しかし妊娠したという事実を知らされたとき、修次は正直どうしたらいいのか分からなかった。相手はすでに両親に妊娠していることを打ち明けていた。そして両親から子供を堕ろし、修次と手を切るようにと強く説得されていた。相手もその腹づもりで、修次に妊娠の事実を知らせに会いにきたようだった。
「気にしないでいいのよ」
 夏美は修次の目をまっすぐ見つめながら、淀みのない声でそう言った。その口元はどこか微笑んでいるようにも修次には見えた。
 修次は何を言ったら良いのか分からなかった。言葉にするべきことは山のようにあるとも思えたし、言葉にするべきことなんて何もないようにも思えた。何から考えて良いのかも分からなかった。何かを考えること自体拒否したかった。それまで自分の中に、何にも浸蝕されない水晶のように存在していると思っていた夏美への愛情が、灰色に濁り、泥にまみれ、音を立ててひび割れていくのを修次は感じた。
 それからというもの、修次は「かみさま」という言葉を小さな声で呟いてから眠るようになった。一日が終わって、ベッドにもぐり込み、瞼という小さな二つの蓋を閉じることによって世界から遮断された孤独の暗闇の中で、その言葉をふと呟いてみると、自分の人生への責任がふっと薄められたような気がした。これは自分の人生である、でも同時に自分の人生ではないんだ、と思うことができた。もはやそれまでのエンジンは自分を何処にも連れて行かないように思えた。その後、大学に入っても、カメラマンとして就職してからでも、修次は毎晩欠かさずその言葉を必ず呟いて眠った。他の誰か、友人や女と一緒に眠らなければいけない場合は、相手がちゃんと寝静まったのを確認してから、その言葉を呟いた。一日のうちでどんなひどい事が起こっても(あるいは何も起こらなくても)、その言葉を呟くことによって安眠することができた。その儀式なしでは修次は眠れないようになっていた。

 駅の隣にコンビニがあったので、修次はそこに入った。その辺りは田舎でなおかつ深夜だということもあって、店内には一人も客はいなかった。レジの向こうでは、黒縁の眼鏡をかけ、痩せ細った大学生らしき店員が椅子に座って雑誌を読んでいた。時計の針はちょうど午前二時を経過したあたりだった。修次はその店で、缶ビールを六本とポテトチップスを一袋買った。コンドームも買っておこうかと迷ったが、やはりやめた。帰りのガソリン代や高速代のことを計算すると、ちょっとやばそうだなと思ったのだった。
 コンビニを出て、駅前の広場を通り抜け、線路沿いの細い砂利道を100メートルばかり歩く。すると簡単なサッカーの試合が出来そうなくらいの広さの空き地に出る。その空き地の真ん中あたりに車が停めてあった。修次は車に戻るまでのあいだ、自分の儀式の言葉を聞いた助手席の女のことを考えていた。あの女をどうにかしたいという衝動が生まれていた。そしてそれは性欲という姿をとり、修次の中で無性にざわついていたのだった。
 修次はコンビニの袋を持って車に近づき、助手席側の窓ガラスをコンコンと叩いた。女はまだ起きていたらしく、さっと身を起こして窓を半分ばかり開けた。昼間ドライブしながら大音量でかかっていたローリング・ストーンズのテープが、車の中から微かに聞こえてきた。
 砂浜で飲まないか、と修次は誘った。
 女は窓を全開にして、少しだけ身を乗り出した。そしてしばらく外気の冷ややかさを確かめた後、眉をゆがめた。
「海なら昼間さんざん見たじゃん」と女は言った。
 それでも修次は黙って女を待っていた。
 女は諦めたように溜め息をつき、テープを止めて、渋々車から出てきた。四月の夜風の冷たさに、女は両腕を抱えた。
「後ろの二人を起こしちゃ悪いだろ」と修次は言って、さっそく海のほうへ歩き出した。
「ちょっと待って」
 女はそう言って、再び助手席のドアを開けた。そして上半身を運転席の方へ伸ばし、車内でなにやらゴソゴソし始めた。少しするとトランクの鍵が開く音が聞こえた。女はその音を聞くと、小走りで車の後ろに回り、トランクを開けてまたゴソゴソと荷物を物色しだした。
 修次はそのあいだ、女の尻を眺めていた。その女はとても魅力的な尻を持っていた。女自身はどう好意的に見ても魅力的だとは言えなかったが、女の尻を見ると修次は自分の肉体にひどく疼くものを感じないわけにはいかなかった。きっと何かの間違いでその女にくっついてしまったんじゃないかと修次は思った。女とは別に独立して生きているように思えるほど、その尻はスカートの中で生き生きと滑らかな曲線を描いていた。修次はその尻の間に自分の性器が吸い込まれていくところを何度も想像した。
 しばらくして女は何かを見つけたらしく、キラキラ光るものを手にとっていた。それはカメラだった。女は修次の鞄を探っていたのだ。
「こんな真夜中に何も撮れないよ」と修次は首を振って言った。
「いいのよ。撮り方教えて」と女は言って、カメラを首にぶらさげ、両腕を上げてトランクを力の限り思いっきり閉めた。
 ガタンという大きな音が深夜の空き地に響き渡り、車体が微かに揺れた。
 後部座席の二人はそれでも目を閉じたままだった。

 修次は大学のとき写真部に在籍していた。だからといっても、昔から写真に強く惹かれていたわけではない。たまに本屋で写真雑誌に載っているアマチュアカメラマンの投稿写真を眺めては、素人なりの直感と感覚でこれは良いとか悪いとかを判断しながら、ページをめくって楽しんでいたぐらいだ。一眼レフのカメラで撮ったこともなければ、触ったこともなかった。写真部に入部したのは、入学式の日に最初に勧誘されたのがたまたま写真部だったからだ。修次にとっては何でもよかった。大学に入ってとりあえず何かをやろうと思っていただけで、それがラクロスであれ日本拳法であれ文芸であれ、四年間という限定された時間を自動的に埋めてくれるものであれば何でもよかったのだ。
 入部してまもなく、修次はカメラマンのアルバイトを始めた。夏美のことがあって、修次は自分を知る人がいないどこか遠い町に行きたいと思い、東京の大学を選んで、一人暮らしを始めていた。しかし親からの仕送りの額は家賃の半分にも満たない程度だったので、食って生活していくためには、かなり熱心に働かなければならなかった。それは修次にとって望ましいことだった。時間をすき間なく埋めていけば、出口のない堂々巡りの思いに惑わされなくていい、何も考えなくていいんだと修次は思った。修次は、結婚式や七五三などの写真から航空写真や食品パンフレットの写真まで撮影する会社のアルバイトに就いた。自分が写真部員だということもあったが、休みは月に三、四回で、月給にすると十五万円以上稼げるという、学生で金がない修次にとっては好都合の条件だった。
 修次は在学中その会社でのアルバイトをずっと続けた。そして四年生になって就職活動のシーズンになると、いつも修次の面倒を見ていた会社の上司が「うちに就職しないか」と修次を誘った。
 修次にとって写真は好きでも嫌いでもなかった。写真部での活動とアルバイトを四年間続けたが、写真を撮ることに我を忘れるほど熱中し、のめり込んだことは一度もなかった。土石流が橋を打ち砕き山頂から噴煙が立ち昇る荒々しい自然の風景を撮っても、都会でスタイリッシュに暮らしている女の姿を撮っても、あるいは結婚式で新しい道に旅立とうとする新郎新婦の晴れやかな表情を撮っても、修次自身は写真に苦しみ、写真に喜ぶということはなかった。ましてや写真を撮るという行為に対して、自分の中に燃えたぎる創造意欲といったものを感じたことなど一度たりともなかった。
 しかし、写真をやめようと思ったことも一度もなかった。四年間撮り続けているうちに、これはきっと自分に向いているんだと修次は思うようになった。確かに好きではない。しかし俺は空間を切り取るだけでいいんだ。そこに写し出された人物なり風景なりの奥底に潜む何かしら深いものを、俺は背負わなくていいんだ。ただ淡々と撮り続ける。それだけなんだ。他のカメラマンがどう言うかは分からない。でも少なくとも俺にはそういう撮り方しか出来ない。これを仕事にできるのなら、俺は普通に暮らしていけるかもしれない、修次はそう思った。何の留保も条件もなく、修次は上司からの申し出を受け入れた。

 駅前の広場から民家の密集地帯へ続く道を、修次と女は歩いた。まわりには古ぼけた民家や商店が建ち並んでいた。何もかもが色褪せていた。まるで昭和三十年代に起こった公害病問題を記録したニュース映像によく出てくるような町並みだった。オロナミンCの看板や、週刊文春と書かれたシャッターや、薬局らしき前に置かれた蛙の置物や、扉付きの黄色い公衆電話などが夜の闇の中を通り過ぎていった。
 海へと続いている道を歩くあいだ、修次は絞りやシャッタースピードやピントの合わせ方などのカメラの一通りの使い方を女に教えた。女は分かっているのか分かっていないのか適当に相槌を打ちながら、興味のおもむくままにカメラをいじったり、ファインダーを覗いていたりした。
 二人は海岸公園にたどり着いた。そしてその中の松林を進んで行くと、防波堤に突きあたった。向こう側から波の音が微かに聴こえる。二人は防波堤の上に登った。
 目の前に夜の海が広がった。それは巨大で濃密な闇だった。空と海の境目が判断できなかった。波音と波の微かな光によって、やっと目の前に海があると確認できた。修次と女は砂浜に降りて、波打ち際へ向かった。途中、海の家に巻きつけられている大きな簾を修次は一枚剥がして、それを丸めて腕に抱え込み、再び歩き始めた。波の音と二人が歩く砂の軋む音だけが暗闇に響いた。波打ち際へ進むにつれて波音がはっきりと聞き取れるようになり、波の先端の白い泡が五メートルぐらい先まで押し寄せてくるところまで来ると、修次は立ち止まった。そして腕に抱えていた簾を砂浜に敷き、女と共に座った。
 修次はビニール袋から缶ビールを二本取り出し、一本を女に手渡した。女はそれを受け取るとすぐに蓋を開け、夜空を仰ぐようにゴクゴクと喉を四回ほどならして飲んだ。修次もその姿を見て、同じように勢いよく缶ビールを口にした。
 しばらくの間、修次と女は波の音に聴き入っていた。闇が溶け落ちるように真っ黒な波が押し寄せてきては、二人の足元の少し先で白い泡となって砕け散り、透明になっては、砂に消えた。二人はビールを飲みながら、その繰り返しを十数回ほど眺めていた。女は思い出したかのようにビニール袋からポテトチップスを出した。そして封を開け、一枚をぱくりと口に入れた。何回か咀嚼したあと、女は持っていた袋を修次との間に置き、今度は首にぶら下げていたカメラを手にした。ファインダーを覗きながら、左右前方取りとめのない方向に女はカメラを構えた。しばらく良い絵を探したようだったが、女は諦めたように「まっくら」と呟いた。
 隣で女が闇に向けてカメラを構えている様子を見ていると、修次は会社の上司の話をふと思い出した。

 修次が上司の申し出を受け入れ、その会社に就職させてもらうという旨を伝えに行ったときだ。その時上司は修次の撮る写真について話した。上司は背が高く、痩せていて、いつも高そうなスーツを着ていた。四十代後半にしては髪の毛の量が多かった。
「商業写真として向いているんだ」と上司は、修次が撮った写真を数枚テーブルに並べながら言った。「君の写真には変な気負いがない。抽象的な話になってしまうが、君の写真を見ていると、君という人間がカメラマンとして撮ることの意味みたいなものが、対象を束縛していることがないんだ。そういうことは簡単に出来そうに思われがちだが、実はそんな写真を撮れる人間というのはそう多くはない。みんな多かれ少なかれ、どこかに自分が撮ったんだという跡を残そうとする。もちろんそれが悪いと言っているんじゃないし、当然のことだと思う。でも商業写真として成立させるためには、カメラマンの個性的な視点といったものはまず必要ない。つまりフレームの中の対象より、写真自体が目立ってしまっては駄目なんだ。正確な地図を作るのに製作者の個性はいらないんだ。そしてまさに君の撮る写真には、君自身はいないんだよ。それは君がこのアルバイトを始めた頃からそうだったし、今でもそれは不思議にずっと続いているんだ」
 上司はそこまで話すと、胸のポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。そして大きく肺に煙を吸い込み、吐き出しながら、テーブルの上の写真を一枚ずつ丁寧に確認した。
「これから本格的に働いてもらう君にいきなりこんな事を言うのは、ネタばらしをするようであまり良くない事とは思うし、これから仕事をしていくにあたって、君が変な意識をしてしまうかもしれない。あるいは今の話を聞いて君はある種のショックを受けたかもしれない」
 別にそんなことはないという風に、修次は首を振った。
「でも、ちょうど君ぐらいの若い年代の人達が撮る写真というのは、悪い言い方をすれば何か企んでいるような写真が多いんだ。人目についてやろうとか、何か奇をてらってやろうとか。でもまあ、それだけエネルギーがあるということも言えるんだが、そういう人達は雑誌のコンテストにでも応募すればいい。でもうちが必要としているのはそういう写真じゃない。夕暮れをただの夕暮れとして撮ってある写真が必要なんだ。そして君にはそんな写真が撮れると思って、私は君を誘ったんだよ。そういった事を君にも是非分かってもらいたいと思って、こういう話をしたんだ」
 上司はそう言うと、しばらく何かを考え込んだ。そして申し訳なさそうに口を開いた。
「余計なことを言うようだが、君はコンテストとかに応募するつもりはあるの? 私が君の写真をかっているのは間違いない。でも、そういうコンテストに君の写真が良いところまでいくかどうかは、正直私には計りかねるんだが」
 上司はそこで言葉を詰まらせて、修次の言葉を待った。
 そんなつもりは毛頭ないと、修次は答えた。

 いつの間にかに酒がすすんでいた。砂の上には潰された空き缶が四つ転がっていた。それらは全て修次が空けたものだった。女とはとりとめのない話をした。会社の中で評判の悪い人物は誰とか、女性社員の中で誰が一番男と遊んでいるかとか、朝出勤のとき受付の前を通っても挨拶もしないのは誰それだとか、事務社員とカメラマンの給料の額が違いすぎるとか、そういうような話だ。しかし喋っているのはほとんど女の方であり、修次は合間にただ相槌のような言葉を挟むだけで、あとはひたすらビールを飲み続けた。
 修次は決して酒に強い体質ではなかった。女の半分愚痴のような話を聞きながら、早いペースで飲み続けていると、次第に頭の中がぼんやりし、ゆっくりと渦を巻き始めた。女の話す言葉が、ときおり何の意味も持たないただの音のように虚ろに響いた。女の方は話に夢中になっているせいか、まだ最初の一本さえ飲み終えていなかった。ポテトチップスが潮風で湿気り始めていた。
 話がふと途切れると、女は缶の底に残っていたわずかばかりのビールを一気に飲み干し、ふうと一息ついた。
 波はさっきよりも激しくなっていて、砂浜をえぐるように打ちつけていた。波の音に混じって、どこか遠くから車の急ブレーキの音が微かに聞こえた。
 修次は深呼吸を一つしてから、女に訊ねた。
「会社の三階の廊下に飾ってある写真は知ってる?」
 唐突な質問に、女は少しばかり修次の顔を見つめた。
「知ってるかもしれない。あんまり三階には行かないからよく覚えてないけど」
「東京の街に朝日の光が降り注ぐのを写した写真が飾ってある」
「ふうん」
 修次は自分の体内が熱くなっていくのを感じた。両腕を後ろについて、倒れそうな体を支えた。顔を真上にあげると、夜空にいっぱいの星が見えた。修次は生まれて初めて満天の星というものを見た。修次の頭が一瞬ぐらついた。
「なんであんな薄暗い所にあんな写真が飾られてあるんだろう。便所に行こうとすると必ず目につく場所だよ。みんなただ通り過ぎるだけなのに。それにその写真だって大した写真じゃない。ただ東京のビルの群れの間を朝日が差し込んでいる、それだけの写真なんだ。わざわざ立ち止まって、眺めるような写真じゃない。時々見ると思うよ。まわりの壁とそれほど変わらないんじゃないかって」
 修次の頭の重心が揺らいできた。足元の空き缶を見つめてみても焦点が定まらない。体全体が腫れ上がってしまったように感じられた。胃だけが、中にあるものを押し出そうと活発に動いていた。吐き気がグツグツと煮えたぎっている。
「壁を眺めるのが好きな人なんて、そうはいないものね」と女は言った。
「うん」
「でも一度見てみたいわ」
「ただの朝日だよ」
「会社の人が撮ったの?」
「俺だよ」
 女は、ふうんと言って、それきり何も言わなかった。
 女はまたカメラを手にして、ファインダーを覗き様々な方向へカメラを構え始めた。
 修次は隣にいる女を無性に抱きたくなった。女の顔から胸、そして尻へと視線を移していった。女が動くたび、その肉体は様々な曲線を描き、様々な谷間をつくる。修次の胃は裏返しになったように熱くなっていた。
 修次は女に抱きつき、そのまま倒れこんだ。女は抵抗しなかった。キリストのように両腕を開いたまま動かない。修次は女の首筋に吸いついた。そして左腕を背中に回し、服の裾から手を入れる。指先が素肌に触れた。そのまま手を伸ばしブラジャーのホックを探した。酒のせいで頭が重くなっていた。思い通りに動かせない。まるで重油を流し込まれたようだ。一方で腹がひどく熱い。胃が急激に食物を溶かし始め、それを押し戻そうとしている。修次は女のスカートをめくり上げ、下着の中に右手を滑り込ませた。指の腹が性器に食い込んだ。胃が縮み始める。修次は必死に吐き気を我慢した。数秒ごとに襲い来る吐き気に耐えるたび、体中の血管が切れ全身から血が噴き出しそうになった。それに耐えながら、指先を動かし、女の胸元を舐め続けた。修次は女の足を開くため、少し体勢をずらそうとした。その瞬間、電撃のようなものが全身に走った。修次は強く目を閉じた。内臓全体が燃え上がるような激痛が走る。指先がうまく動かなくなった。ブラジャーのホックがなかなか外れない。性器を開こうとする指も油が切れたような動きになった。波音が頭の中で拡大されては縮小されて響いた。修次の中で自分を成立させている軸のようなものがガクンと大きく傾いた。周囲の闇に同化していくように修次の意識は断片的になり、呼吸が荒くなっていった。自分の心臓の音だけがやけに大きく乾いて響いた。修次は目を閉じ、嵐が去るのを待った。しかしそれは同時に修次の意識をも闇の中へ連れ去っていった。

 修次は夢を見ていた。
 まわりは完全な暗闇だった。修次は立ち尽くしている。手にはカメラが握られている。修次は闇の中をしばらく歩き続けた。しかし何処までも歩いても、闇は完全な闇だった。自分が本当に歩いているのかさえ疑問に感じられた。修次は暗闇に向けてシャッターを押してみた。ピカッとストロボが光る。その瞬間、修次自身がカメラの中に吸い込まれ、閉じ込められた。再び暗闇の中。またシャッターを押す。するとまたカメラの中にいる。それがだまし絵のように永遠に繰り返された。
 かみさま
 その言葉がふと浮かんだ。

 修次はうっすらと意識を取り戻そうとしていた。女が暴れているのだ。女は修次の手を強く掴み、足をばたつかせているようだ。修次はゆっくりと目を開けた。女の顔が見える。女は強く目を閉じ、口を歪ませている。その首は誰かの手に絞められている。しかしそれは誰かの手ではなく、修次の手だった。修次の両腕が女の首に伸びているのだ。修次の手は女の首を強く絞めつけている。女は苦しみながら必死に修次の手を振り解こうとしている。一体自分が今何をしようとしているのか、修次はよく分からなかった。自分の意識は自分の肉体から遥か遠くで目覚めてしまったように思えた。女の首を絞めているのは修次自身であり、修次自身ではなかった。知らぬ間に首を絞める力がさらに強くなっていた。
「かみさま」
 女が空気をしぼり出すような声で助けを求めた。
 修次の心臓が激しく波を打った。自分はこの女を殺そうとしている、修次にははっきりそれが分かった。しかし女の首を掴む握力はおさまらなかった。女は苦悶の表情を浮かべている。この女を殺そうとしている、俺はこの女を殺そうとしている、俺が殺そうとしてるこの女、この女を殺しながら、この女だけじゃない、俺が殺そうとしてるのはこの女じゃない、もっと別の何かだ、もっと別の何かを殺してるんだ、修次は意識の中でそう呟いた。女が必死に右手を動かしていた。何かを探し求めるように右腕が伸び、地面の上で這いずり回っていた。その指先がコンビニのビニール袋に触れると、それを掴み、少し引きずり寄せた。そして中に一本だけ残ってあった缶ビールを取り出し、強く握りしめて、その腕を高く掲げた。振り下ろす方向は修次の頭だった。修次はすぐさまその手首をぎゅっと掴んだ。そして地面に強く叩きつけた。その瞬間、パリンと何かがはじける音がした。女の手元でキラッと一瞬何かが光った。女の掴む缶ビールがカメラのレンズを破壊したのだ。女は握力を失った。缶ビールが簾の上を転がってゆく。修次は再び両手で女の首を絞めた。絞め上げる力がグッと強くなった。修次の肉体は女を殺すだけのために機能し、燃焼しているようだった。次第に女の抵抗がおさまりかけてきた。修次の手をふりほどこうとする力も弱くなっている。これで終わりなんだ、修次はそう思い、最後の力を加えようとした。その瞬間、女の顔が何かの影になってよく見えなくなった。修次は女の首を少しずらした。月の光が女の顔を照らす。よく見ると女の顔からは苦悶の表情が消え失せている。むしろそれは秋の空を見上げるような穏やかな表情に変わっていた。女の目は真っ直ぐに修次の顔を見つめ、その口元は微笑んでいる。修次は不思議に思った。それが一体誰なのか修次は分からなかった。自分が一体誰の首を絞めているのか分からなくなっていた。修次は女の首を絞めながら、その顔をじっと見つめていた。よく見るとそれは女の顔ではなかった。夏美の顔だった。
 一瞬、修次の全身が凍りついた。
「気にしないでいいのよ」
 夏美は淀みのない声でそう言った。
 修次は体内の血液が透明になって、全て吸い取られていくような感覚に襲われた。さっきまでの獣が集まったような力は、波にさらわれたようにすっかり消え失せていた。瞼が重くなっている。修次は強烈な眠気に襲われた。自分の体が自分の体ではないように重くなっていた。修次は体を支えきれず、そのまま前に倒れこんだ。修次は閉じられてゆく瞼のすき間から夏美の顔を見てみた。しかしそれはすでに夏美の顔ではなかった。女の顔でもなかった。それは修次自身の顔に変わっていた。その顔はまるで死んでいるような土色をしていた。修次は目を閉じ、深い眠りに落ちた。波が修次の足元のほんのすぐ側まで迫ってきていた。

 かもめの鳴き声がする。修次が目を覚ますと、もうすでに朝になっていた。口の中がひどく乾いていた。唇には砂粒がついていた。起き上がろうとすると、頭の中が釘を打ち付けられているみたいに痛んだ。修次はゆっくりと仰向けにひっくり返って、しばらく朝の空を見上げていた。そして現実の世界に体を馴染ませるように、しばらくそのまま動かずにいた。どこか遠くで子供のはしゃいでいる声が聞こえた。
 女の姿は跡形もなく消えていた。修次の足元で五本の空き缶が砂にまみれていた。さらの缶ビール一本と開封されたポテトチップス、そしてレンズの割れたカメラが静物画のように簾の上にあった。
 修次は簾の上に寝そべったまま、側にあったカメラを手にした。割れたレンズには乾いた血が付いていた。レンズの割れ目からは砂がポロポロと落ちてきた。修次はカメラを揺すって砂を振り落とし、ファインダーを覗いて、空に向かってカメラを構えた。四角いフレームの中で、何もかもが水色にぼやけ、中央を一本の太くて黒いひびが走っている世界が見えた。
 修次は立ち上がり、海の方へ歩き出した。海面は朝日の光を満面に受け、細かく光り輝いている。目が痛くなるほどの眩しさは、修次を歓迎しているようにも、拒絶しているようにも思えた。波が修次の靴を濡らした。しかし修次はためらうことなく海水の中を進んだ。目の前には一本の太くて黒いひびではなく、ただの真っ直ぐな地平線が走っている。ちょうど膝ぐらいまで海水に浸るところに来ると、修次は持っていたカメラをしばらく見つめ、それを沖に向かって思いっきり投げた。澄みきった空の中で、カメラは弧を描きながら、朝日の光にキラキラと小さな反射を繰り返し、海面に触れそうなところで、大きな波の口に飲み込まれ、音もなくその姿を消した。
 もう一度、東京の朝を撮ろう、修次はそう思った。

(2001年作)

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