見出し画像

いずれ嫌いになる(第9回)

 八月十五日。三年ぶりにユウジの姉が帰省していた。夫は仕事で沖縄に行っていて、二歳の息子だけを連れてきていた。息子はさらさらの前髪を眉毛の上で一直線に揃え、革靴を履き、ライオンのぬいぐるみを決して手放そうとしなかった。ユウジの姉は二日間だけの帰省にもかかわらず旅行ケースにいっぱいの荷物を持ってきていた。彼女は実家に着くなり、母親とぺちゃくちゃと話しこみ、母親の体の具合をいろいろと聞き出した。きつい香水の匂いがまき散らされていたが、母親も特に咎めようとしなかった。いずれ話の矛先が自分に向かってくるのを感じたユウジは気づかれないように家を出ようとした。玄関先で座っていた姉の息子がじっと彼のことを見ていたが、ユウジは目を合わせずに自転車にまたがった。
 猛暑が連日続いていた。入道雲がビルのあいだから立ちのぼり、交差点では車や人の熱気がぶつかり合って、高速道路の下には濃い影が生まれていた。ユウジはコンビニに行くべき曜日と時間をなかなか把握できないでいた。一日に数回訪れて、ワタルの母親がレジにいるときを憶えようとしたのだが、同じ曜日、同じ時間に訪れても彼女はいたりいなかったりした。試しに真夜中に行ってみると、一度だけ彼女がいたことがあった。昼間と変わらない様子で彼女は商品を陳列したり、バーコードに赤外線をかざしたりしていた。想像できるのは不規則なシフトでも働かなければいけない彼女の生活状況ぐらいだった。
 その日、ワタルの母親は店に入る予定ではなかった。だが急に子供が東京から帰ってきた同僚から頼まれて、何の予定もなかった彼女は代わりに出勤することにした。彼女にしてもせっかくの夏休みなのに息子をどこにも連れていってやれない後ろめたさがあった。ワタルは何も言わない子だ。だからと言って家族と一緒に海やプールに遊びにいくことなんか望んでいないと思う。あの子が望んでいることはもっと別のことだ。ギターを弾くことかもしれない。でもそれもいつか捨て去ってしまうような気がする。いったい何だろう。漠然とは想像できるものの、はっきりとはわからない。母親のくせにわからない。いつからわからなくなったんだろう。そんなことを考えながら、彼女はコンビニでの決められた作業を繰り返していた。
 ふと見ると、例の男が店の中にいることに気づいた。雑誌ラックの前に立って、立ち読みをしている。この暑い日に長髪を垂らして、革のパンツを穿いている。そしていつも重そうなビニールバッグを持っている。いつも同じ格好。最近よく見かける男だ。ちらちらとこちらを見ている気もする。よくあることだ。コンビニにはいろんな人間がやってくる。みんな何を考えているのかわからない。だけどこちらもいちいち構ってはいられない。コンピューターのメッセージ画面のようにできるだけクールに均一に対応するしかない。
「ここらへんに、ボウリング場って、ありますか?」
 カロリーオフの喉飴をレジの上に置くと、ユウジは途切れがちに訊ねた。
「え? ボウリング場ですか?」ワタルの母親は表情を固めたまま繰り返した。
 ユウジはじっと相手の顔を見つめる。
「えっと……ちょっと待ってくださいね」
 ワタルの母親は奥の部屋に入って、休憩している従業員に訊ねた。レジの上には喉飴がそのままにされている。だがそんなものはどうでもいいみたいに、ユウジはカーテンが掛かった相手の背中を見ていた。
「すみませんね。私もあまりこのへん詳しくないもので」ワタルの母親は地図を手にして戻ってきた。「えっと、ちょっとここからじゃ遠いみたいなんですけど、この前の道をまっすぐ行って、ここの大きな交差点を曲がって……」
 地図の上をゆっくり動いていく細い指をユウジは見つめていた。大阪弁ではない話し方に彼女の息子のことを思い出した。いまのこの場面を見たら、あの息子はどう思うやろう。優越感のようなものを覚えながら彼は想像してみる。
「プロボウラーに、なろうと思って」ユウジは言った。
「え?」
「テストがあるんですよ、近々。だから練習しとこうと思って」
「ああ、そうなんですか」
「ええ、そうなんす」
「じゃあ、がんばってください」
 ユウジは喉飴の入ったビニール袋を受け取り、店を出た。そしてビニールバッグと一緒に自転車のかごに放りこんで、ペダルを漕いだ。細い首筋、胸のわずかな膨らみ、ジーンズに締められた腰のくびれ。相手が動いているあいだに目に焼きつけたものをユウジは思い出そうとした。勃起したペニスを射精に導くまでは、そのイメージを消してしまうわけにはいかなかった。早く自分の部屋に戻りたかった。だが姉や母親と顔を合わせることを思うと、やはりどこか離れたところに行こうと思った。
 天王寺駅まで向かい、駐輪場に自転車を停めると、御堂筋線に乗って難波で降りた。久しぶりにライブハウスにでも行ってみようと思った。昔よくメンバーと出演していたライブハウスだった。古い雑居ビルが建ち並ぶ人通りの少ない場所にあって、地下に続く急な階段は暗く、人がすれ違うのに苦労するほど狭かった。
 夕方ということもあって、客はあまり入っていなかった。大学生ぐらいの若いバンドが単調なリズムの曲を演奏していた。テーブルについている数人の客は誰も聴いておらず、携帯電話をいじったり、友達とこそこそ話したりしていた。薄暗いフロアを誰かが素早く移動し、微かな光の中でたばこの煙が揺らいでいた。
 ユウジはカウンターで缶ビールを買い、目立たない端のテーブルについた。バンドの生演奏を聴くのは久しぶりだったが、別に聴きたいわけでもなかった。ライブハウスに漂う埃っぽく淀んだ空気は何度も吸いこんできたものだが、別に懐かしさを喚起させるものでもない。スタッフたちも新しく入れ替わっている。ユウジは頬杖をつきながら、目の前の演奏を頭の中で批判した。ロックらしいリズムとロックらしいギターのリフ、そして歌謡曲のようなメロディーと歌詞を合わせれば、それなりの形ができあがる。でもそれがいったい何やというんやろう。いったい何を壊し、何を作り出してるんやろう。結局同じパターンの繰り返しや。だが、いつもそんなふうに芸術家じみた考えをしてしまう自分の思考パターンにもやがてうんざりしてきた。芸術家ぶっているけど童貞なんや。
 長い後奏が終わって、照明が点けられた。そのとき聞き覚えのある高い声がした。
「ミドリカワやないか」
 店を出ようとバッグを持って立ち上がろうとしていたユウジは振り返った。後ろに立っていたのはベース兼ボーカルだった。「何してんねん、こんなとこで」眉毛を上げ、目を見開いて、ユウジの顔を覗きこんでいる。そして彼の腕をぽんと叩く。「久しぶりやな」
「おお、久しぶり」ユウジはバッグをもう一度床に置いた。
「こんなとこで会うとはな」
「ああ、そうやな」
 ベース兼ボーカルはユウジのとなりに座った。ネクタイを緩めて、ワイシャツの袖をまくり、折り畳んだスーツの上着と鞄を手にしている。髪は短く切り揃えられ、たっぷり日焼けをしていて、歯がやけに白い。彼が体を動かすと、香水の匂いが微かに漂ってきた。
「そんな格好して、仕事か?」とりあえずユウジは訊ねた。
「せやねん。営業回りしてきたとこや。広告業界っていうのは基本的に盆休みがないからな」
「へえ。じゃあいまから会社に戻るんか」
「いや、今日はもう直帰や。でも家に帰る前になんかちょっとおセンチになってもうてな。世間は休みやっていうのに、なんで俺は働いてんねんやろって。それでなんとなくここにふらっと寄ってもうたってわけや」
「おセンチか」ユウジはぎこちなく笑った。
 さっきまで出演していたバンドメンバーたちがフロアに入ってきた。それぞれ飲み物を注文して、ステージの感想を笑いながら言い合いはじめた。ステージ上で見るよりも彼らはずっと子供っぽく見えた。まだ高校生なのかもしれない。ユウジはしきりに缶ビールに口をつけながら彼らの様子を眺めていた。ベース兼ボーカルと交わす言葉は簡単に見つけられなかった。
「音楽はやってんのか」居心地の悪そうなユウジの顔をにやにやと観察しながら、ベース兼ボーカルが訊ねた。
「ああ、やってるよ」
「新しいバンド始めたんか」
「そうやな」ユウジは缶ビールを大きく傾ける。「年下の若い連中とまた始めたんや」
「へえ、年下か。意外やな」
「女ボーカルに、ベースとドラムは男。俺だけちょっと浮いてるけどな」
「はは、長老的存在やな。続けていけんのか?」
「さあ、わからんな」
「俺は今な」ベース兼ボーカルはネクタイをするする外して丁寧に折り畳み、鞄に入れた。「俺は今、子育てと仕事で精一杯や。来年から私立の幼稚園に入れようと思ってねん。だから嫁もパートをして、子供の面倒も二人で見ることにしてる。昔みたいに好き勝手にはできんようになったけど、でも毎日が充実してるっていう実感はあるな。かなりしんどいけど」
「もうそんなに大きなったんか」
「そうやで」ベース兼ボーカルはただ口を横に広げただけの笑顔をユウジに向けた。「あっというまやで。ぼうっとしてるうちに何もかもどんどん変わっていくわ。しっかりせなあかんと思うわ」
 そう言ってユウジの肩をポンと叩くと、ベース兼ボーカルは椅子から降りて、トイレに行った。彼がいなくなった後でも香水の匂いは残っていた。
 バンドの若者たちの笑い声はまだホールに響いていた。そんな場末のライブハウスですらもユウジは取り残されたような気がした。ふと口をついて出たくだらない嘘までもベース兼ボーカルに否定されたような気がした。「ぼけが」缶ビールを握りしめながらユウジは呟く。きっとこのことはいつまでも憶えてるやろう。そして思い出すたびに、胸を掻きむしられるような苛立ちが生まれるやろう。そんなことはもう許さない。もう誰にも俺の中に苛立ちを残させはしない。闘争領域の拡大やとユウジは思った。
 トイレは人目のつかない奥まった場所にあった。ユウジはビニールバッグを手にすると、フロアを出て、入り口とは逆の細い通路をトイレの方に進んでいった。次の出演バンドの準備でスタッフはばたばた走り回っていて、まわりには誰もいない。天井のスピーカーから早いテンポのBGMが流され続けていた。
 ユウジは壁にもたれて、目の前の黒い壁を見つめていた。こんな店にくるはずじゃなかった。そして昔のメンバーなんかに会うはずじゃなかった。それなのになぜこんなふうになってしまうんやろう。
 水を流す音が聞こえる。しばらく間があり、ドアが開く。
「おっ、びっくりした」
 ベース兼ボーカルは目を見開き、完全にドアを開けた。その瞬間、無防備になった腹部にユウジは正面から蹴りを入れた。筋肉の伸縮がまっすぐ足先に伝わった渾身の蹴りだった。ベース兼ボーカルは勢いよく洋式便器の上に背中から倒れこんだ。大丈夫や。大した音じゃない。ユウジは素早くトイレの中に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。なかは一人分のスペースしかなく、ビニールバックの中からボウリングの玉を取り出すのに手間取った。だがベース兼ボーカルは背中に手を回し、弱々しい呻き声を上げていたので、邪魔されることはなかった。まとわりつくビニールバッグをなんとか玉から引き剥がし、三つの穴を真上に向けた。そして右手の三本の指をそこに入れ、落ちてしまわないようにしっかり掴む。あとは簡単だった。簡単だと思う前に、ユウジは行動に移っていた。続けざまに降り下ろされる重く硬質の球体が、ベース兼ボーカルの顔面を変形させていった。頬骨を砕き、鼻をひん曲げ、白い歯をもろく崩していく。攻撃を防ごうとする二つの手の骨も潰していく。便器の上に垂れた白いシャツには血の滴がこぼれたように飛び散っている。
 どこまで続くのか、ユウジ自身にもわからなかった。ただ同じ行動を繰り返している右腕がだるくなってきて、降り下ろすスピードが遅くなったのは憶えている。それ以外はテレビのチャンネルを切り替えるように目の前の景色がめまぐるしく変化していた。いつのまにかユウジは店の前に出ていた。外では激しい雨が降っている。ユウジは構わず足早に街の中へ向かった。どの道を歩いたのかよくわからない。信号を無視し、車のクラクションが鳴らされ、何人かの肩とぶつかったかもしれない。だがユウジが頭の中で繰り返されていたのは、闘争領域の拡大だけだった。闘争領域の拡大、闘争領域の拡大、闘争領域の拡大……。
 ユウジは立ち止まった。そこは高速道路の下の横断歩道の分離帯で、両側では車が行き交っている。彼は自分が何も持っていないことに気づく。ビニールバックもなければ、ボウリングの玉もない。トイレに置いてきたかもしれないし、途中で捨ててきたのかもしれない。何も憶えていなかったが、不安に駆られはしなかった。もう自分は何も呟かなくてもよくなるやろう。そんな心地良い解放感に満たされていた。ユウジはアスファルトに膝をつき、二つの耳を手で塞いだ。そして腹の底から思いっきり叫び声を上げた。まわりには誰もいなかった。ただ雨とエンジンの音が彼の叫びに応えているだけだった。

(10へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?