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永青

 みちるはソファの背もたれに身体をあずけている。テレビには、プロ野球のナイター中継が映し出されていた。フルカウント後、打者はしばらくファウルで粘っていたが、結局三振してコマーシャルに変わると、みちるは退屈そうに靴下を脱ぎはじめた。脱いだ靴下をまとめて、奥の部屋にむかってひょいと投げた。そして草色のロングスカートを少しめくり、右の足首あたりを手のひらで触ったり、こすったりした。
 台所のテーブルでカレーライスを食べながら、私はリビングを見まわした。部屋が汚れはじめている。洗濯物が床に投げ捨てられ、ダイレクトメールや量販店のチラシが机の上に散乱していた。食器が重ねられた流し台、裏返ったスリッパ、開けっ放しの引き出し、倒れたごみ箱。いつものように悪い兆候だった。
「目が痛いっていうのは、どうなった」
 私はみちるに話しかけた。
「痛いって、なに」
 みちるはテレビに視線を向けたまま答える。
「言ってたやろ。なんか入ってるような感じがするって」
「ああ、そのこと」、みちるは私の方を振り向いた。「痛かったけど、二、三日したらおさまった」
「病院は」
「行かへんよ。お医者なんかには」
 みちるは口の端に微笑みを浮かべて、首を横に振った。私もスプーンを空中で止めて、微笑みかえす。部屋の空気が淀んでいる。たぶん朝から窓を閉めきったままなのだろう。エアコンが温かい風を送りだしている。
 朝の六時、寝室から出てくると、みちるはすでにソファに腰を下ろしていた。化粧をし、長い髪を整え、きちんと服を着ていた。そしてテレビをじっと見つめていた。私が歯を磨き、顔を洗い、スーツを着て、玄関で靴を履くまでのあいだ、彼女はソファの上で脚を組んだまま、テレビの前から動こうとしなかった。東京に越してきてからというもの、彼女はときどきテレビに夢中になることがあった。ソファに座って気の向くままに食事をとり、チャンネルを変えながら、ひたすら画面を眺め続ける。それはいつも一週間ほど続き、そのあいだ彼女は部屋を自由に汚していく。
 私は鞄を引き寄せて、新宿駅で取ってきた旅行のパンフレットを出した。結婚してからというもの旅行らしい旅行に一度も行ったことがなかった。やっぱりもう、旅行しないと、焦るようにそう言い出したのはみちるの方だった。まるで今すぐに行く必要があるような口ぶりで旅行の話を持ちかけた。渋る理由は特になかった。仕事の都合はなんとかつく。急にみちるが旅行に行きたいと言いだしたのは不思議だったが、たしかに旅行ぐらい行ってみてもいいだろうと思った。テーブルの上にパンフレットを広げてみた。札幌、沖縄、ロサンゼルス、シドニー、北京、エジプト……。どの表紙にも鮮やかな原色の文字が並んでいる。
「旅行はどうする。行くんやろ」
 私はそう言って、カレーライスの最後の一口を食べた。みちるが作るカレーライスにはウスターソースが入っている。彼女は昔から料理をつくるのが好きで、奈良に住んでいたときに母親から教わったようだった。私は残っていた水を一気に飲んだ。するとみちるが短く笑った。私に対して笑ったのか、テレビを見て笑ったのか、よくわからなかった。
「どこに行けば、いいの」
 みちるは足首を触りながら言った。
「海外でも国内でも、どっちでも。パンフレットでよさそうなところを探せばいい。ゴールデンウィークはちゃんと休めると思う」
「パンフレットなんか嘘ばっかり」
「でも必要やろう」
 みちるは長細いリモコンを手の中で回したり、いじったりしている。なにか他のことを考えているようである。
「とりあえず、どこに行くかは決めんと」と私は言った。
「どこかには、行かないとあかんの?」
「だってあんなに行きたがってたやろう」
「そう」
「だから行ってみよう」
「やっぱり、どこかに、行くことになるんやね」
「そうやな」
「どうして」
 いつものように、みちるの中で何かがこわばりはじめている。もう止したほうがいい。私は立ち上がって、食器を流し台に運んだ。そして蛇口から湯を出し、みちるが汚した皿や鍋やコップを洗いはじめた。
 テレビを見続けるようになると、みちるはふと泣きだすことがある。怒ったり苛立ったりして私にあたるわけではなく、ただ重たい石のように身動きもせず、静かに泣きはじめる。ソファに深く身体を沈み込ませ、脚をたたみ、両手で顔を伏せながら、たっぷりと長い時間をかけて泣く。彼女が泣いていると、しだいに部屋の空気が薄くなるような気がしてくる。汚れた部屋がさらに汚れていくような気がする。そうならないうちに私は部屋を片づけることにしている。
 台所を片づけたあと、床に散らばったティッシュやビニール袋を大きなゴミ袋にまとめて入れた。それから脱ぎ捨てられたパジャマや洋服を洗濯機の中に放りこみ、新聞やチラシを整理し、テーブルの上を布巾で拭いた。
「カレーはまだ残ってる?」とみちるが訊ねた。
「まだあるけど、明日で終わると思う」
「目になんか入ってる、やっぱり」
 振り向くと、みちるは手で目を押さえていた。
「思いあたるふしはないか?」
 私はやっとワイシャツのボタンを外した。時計の針は十一時を過ぎている。
「ふしなんかない」
「空気が悪いからかもな」
「東京の?」
「東京の空気も悪いけど、この部屋の空気もよくない。ちょっと窓、開けよか」
「寒いよ」
「ちょっとや」
 私はベランダに出る大きな窓を半分ほど開けた。三月も終わろうとしているが、風はまだ冷たい。とくに関心もないのに夜空を見上げてみた。星はどこにも見えない。分厚い雲が空を覆っていて、雨を降らそうとしている。
「前はこんなん、なかった」
「前?」
 みちるはまだ目をこすったり、こめかみを押さえたりしている。
「目なんか、痛くならんかった」
「住む場所が変われば、いろんなもんが違ってくるんやろう。あんまり触らんほうがいい」
「どうしてやろ。どうしてそんなこと」
「そんなことって」
「おかしいわ」
「おかしいかもしれんな。腫れてないし、充血もしてない。だからやっぱり医者に診てもらった方がいいよ」
 みちるは何も答えなかった。テレビに向かって、唇を少し動かしていただけだった。何かを呟いているようだったが、声が小さすぎてまったく聞き取れなかった。
「寒いわ、やっぱり」、しばらくしてみちるは言った。
 私はもう一度夜空を見まわしてから、窓を閉めた。
 振りかえると、みちるは泣いていた。ソファの上で両足を抱え、膝の上に額をのせて、肩を小刻みに震わせている。
 テレビには子どもが映っていた。船や城や洞窟をモチーフにした巨大なセットを舞台に、海賊の衣装を着た三人の子どもたちがいろんなアトラクションをこなしていくという番組だった。子どもたちが崖をジャンプしたり、縄をつたって壁をよじ登ったり、流れてくる水で滑ったりしている。そのたびに若い男の司会者は何かコメントをし、拍手をする観客たちが映しだされた。
 私はテレビの音量を下げ、片づけをあきらめて、風呂に入る準備をはじめた。スーツをハンガーに掛け、下着を洗濯機に入れた。少し迷ったが、洗濯機を動かしておこうと思い、スイッチを押した。洗剤を入れると、いつものように水が溜まりだし、がたがたと乱暴な音がなりはじめた。
 足の裏になにかついている。
 砂だった。手で払うと、床の上にぱらぱらとこぼれ落ちた。


 一年ほど前まで、私とみちるは関西に住んでいた。
 大学を卒業後、私は文芸書を中心に刊行している中堅出版社の大阪支社に勤めた。配属された販売部では、できるだけ多くの店頭に刊行物を置いてもらえるよう、関西全域の書店を車でまわっていくのが大体の仕事だった。ちょうど不況の影響を受けて出版業界が低迷を続けており、本の売り上げが危機的に減少していた時期だった。人々は金を使うことに慎重になり、本の在庫はどんどん膨らんでいく一方だった。大型書店は漫画や雑誌の売り場を拡げていき、個人経営の小さな書店は潰れていくしかなかった。東京に移るまでの六年間、私は毎日車であちこちを走りまわり、夜遅くまでパソコンの画面に向かっていた。景気が悪くなるほど、仕事は忙しくなった。しかしどれだけ仕事をこなしても、なぜか状況は良くならなかった。むしろ体調を壊したり、会社を辞めたりする者が増えていくだけだった。
 二十九歳のとき、東京の本社から異動の辞令を受けた。組織を改変するにあたって人員が不足しているのでこっちに来て編集の仕事をしてくれ、家賃は会社が半分支払うから、ということだった。同僚からはチャンスだと羨ましく思われたが、私は内心首をひねった。過去に一度、販売成績の上位にたまたま入ったことがあるだけで、他にはとくに目立った成績を挙げたことがない。ただの平凡な社員だ。なぜ私なのか、自分自身よく理解できなかった。そしてみちるも戸惑っていた。生まれ育った関西を離れることに、彼女は気が進まない様子だった。
 みちるの父親が経営している書店は、奈良市街の商店街にあった。本以外に文房具や印鑑なども扱っている小さな店で、木造の引き戸は建てつけが悪く、蛍光灯はいつも薄暗くて、あちこちに埃がうっすらと積もっていた。人通りはまばらで、まわりの商店はほとんどシャッターを閉めていた。
 一人娘のみちるは、そこで手伝いをしていた。商品を陳列したり、電話を受けたり、問屋からのリストをチェックしたりしていた。仕事中、彼女はときどき微笑む程度で、あまり口をきかなかった。いつも地味な洋服を着て、愛想がよいともいえない。ただ、いつも目の前の相手に対して、大きく生真面目そうな瞳をまっすぐ向けている女だった。私は仕事で毎月一回、その店を訪れていた。みちるは私より一つ年下で、最初はあまり会話もなかったが、次第に話が合うことがなにかと多いことがわかり、いつのまにか親しくなった。時間があるときは一緒に昼御飯を食べることもあった。仕事上、美術館や映画館のチケットが手に入ることが多かったので、いつのまにか休みの日は二人で一緒に出かけるようにもなった。
 店を離れると、みちるの顔は柔らかくなった。たとえばコニー・ブックというドイツの小説家の話をすると、彼女は微笑んだり、眉間に皴を寄せたりしながら、彼の小説が持つ不思議な哀しさや優しさについて語った。ときどき電車に乗って、海や山に出かけることもあった。広々とした自然の中にいると、彼女はのびやかな気持ちになれたようで、冗談を口にして私を笑わせることもあった。店の手伝いをしているときには決して見せない顔だった。
 一方で、みちるはいつ潰れてもおかしくない店のことをいつも気にかけていた。自分の老いた両親のことをいつも気にかけていた。母親は交通事故で脚を自由に動かせなくなってから、二階の部屋でいつも横になっていた。父親は母親の世話に懸命になり、もともと無愛想で、商売向きの性格ではなかったが、さらに店の経営に関心がなくなっていった。そんな両親のもとをいずれ離れていくことになる。彼女はときどき黙りこんで、どこか一点を見つめては、そのことについて考えていた。
 ある冬の日、二人で公園のベンチに座っていると、みちるはいつもの生真面目そうな目で私を見つめた。私と出会う以前に、交際していた男がいたと彼女は話した。神戸のホテルでシェフをしていて、彼女が短大生のときに出会った男だった。そのとき相手は四十歳で、彼女より二十歳も年上だった。関係は六年続いたそうだ。しかし六年経っても、どうしてもその男と一緒に生きていく気にはなれなかったと彼女は言った。歳の差は気にならなかった。男は真面目な性格で、毎日遅くまで仕事をして、きちんと収入もあり、自分のことを大切に思ってくれているのはわかった。でもだからといって、その男と結婚しようという気にはとうとうなれなかったようだった。どうしてかはわからない、でもずっと暗い予感がまとわりついていた。たとえば何十年も営んできた両親の店がたやすく潰れて、真っ暗になって、いつか何もかもなくなってしまう。その男と一緒にいると、そんな暗い予感を肺の中に少しずつ吸い込んできたような気がする。みちるは小さな腕時計をいじりながらそう言った。
 みちるは私の部屋を訪れて、そのまま朝までいることがあった。彼女と一緒にいると、私は肩の力が抜けて落ち着いた心持ちになることができた。理由はよくわからない。しかしベッドで彼女の身体を抱いていると、それまでただ仕事をしてきただけの自分の不確かさのようなものを忘れることができた。彼女の中の温かみに触れ、自分の中の温かみに触れているようだった。つき合った女はそれまで何人かいたが、一緒にいてそんなふうに思えたことはなかった。いつしか私たちのあいだに結婚の話題がでるようになった。出会ってから二年ほどのことだった。
 籍を入れ、大阪市内に新しく部屋を借りてからも、みちるはよく奈良の実家に帰った。電車に三十分も乗れば行き来できる距離の場所を私たちは選んだ。彼女はいつものように父親の仕事を手伝い、母親を病院まで連れていき、夕飯の作り置きをした。そして私が会社から帰るまでには大阪に戻ってきた。両親のためにも自分のためにも、しばらくそうすることを続けたいと彼女は言った。
 東京に移ることが決まったのは、結婚して一年も経たないころだった。
 そのことを告げてから何日か後、みちるは部屋からいなくなった。三日間だけ奈良に帰ります、とだけ書き置きを残して、彼女はいなくなっていた。驚きはしたものの、三日間だけと書いているなら、三日後には戻ってくるだろうと思った。そして三日経った夜、彼女は部屋に戻ってきた。腹を立てているわけでもなければ、疲れたり落ちこんだりしている様子もなかった。彼女は靴を脱ぐと、テーブルの席に座り、いつものように私をまっすぐ見つめた。
「できれば、どこにも行かないほうがいい。行かないほうがいいのに、でもやっぱりどこかに行くことになるんやね」
 みちるは小さな声で言った。外からクラクションの音が聞こえた。みちるは一瞬窓に目を向けた。
 この先も同じように暮らしていくなら、たしかにそうするしかない、そんなことを私は口にしようとした。しかし足の裏が妙にざらついていた。その夜も、床の上に砂が落ちていた。


 初老の男が会社にやってきた。
 六十歳ぐらいで、背は低く、ニットキャップを被り、丸い眼鏡をかけて、口元に白髪混じりの短い髭を生やしている。厚手の茶色いジャケットを着て、手には黒い革の鞄を持っていた。私が会釈をすると、男は深々と頭を下げた。
「二本木と申します」
 男は掠れた声で言った。
 東京本社の一階は、来客を迎えるためのスペースに使われていた。広々したフロアに木目調のパーテーションがいくつも立てられ、机と椅子が置かれた小さなブースが十以上並んでいる。観葉植物が等間隔に配置され、大きな窓がまわりを取りかこみ、外の光がビルの中にたっぷりと注ぎこまれていた。天井のスピーカーからクラシック音楽が小さく流され、入り口には受付の女が二人座り、三機のエレベーターが静かに動いている。入念に磨かれた床を歩くたびに足音がやけに大きく響いて、私はいつも居心地が悪くなった。まるでホテルのロビーを思わせるつくりで、誰かから常に観察されているような気分だった。
 そんなまわりの様子を一つ一つ点検するようにゆっくりと見まわしたあと、二本木さんは席についた。
「突然参りまして申し訳ございません」と二本木さんは言った。
 私は二本木さんの向かいに座った。朝の十時前で、他のブースにはまだ誰もいなかった。空には雲ひとつなく、眩しい光が二本木さんの顔を照らしていた。しかし二本木さんは少しも眩しそうではなく、私の顏を穏やかに見つめている。電話で一度話しただけで、互いに顔を合わせるのは初めてだった。電話で話したときの印象と違って、二本木さんはしっかりとした顔つきをしていた。浅黒い肌で、骨張っていて、深い皴がいくつも刻まれている。二本木さんは工場で働きながら詩を書いていて、それまで自費出版で何冊かの詩集を出したことがあった。そして次回出版する詩集の編集を私が担当することになっていた。
「どうですか。原稿の調子は」、とりあえずそう訊ねた。
「ええ」と二本木さんは眼鏡のブリッジをいじった。「そうなんです。それについては、長いあいだお待たせして、本当に申し訳ないと思っとるんです。今回の話が持ち上がって、もう一年ぐらい経ちますかな」
「ええ、ちょうどそれぐらいだと思います」
「前の担当の方にもえらいご迷惑をおかけしました。あのほら、細身の女性で、鼻すじが綺麗にとおっていた方。あの方はどうされてるんですかね?」
 そう言いながら、二本木さんはニットキャップを脱いだ。真っ白な髪の毛が短く刈りこまれている。
 二本木さんが訊ねた社員はすでに会社を辞めていた。仕事熱心で、いつも夜遅くまで会社に残っていたようだったが、結婚して十年間子供ができないことをずっと悩んでいた。次第に口数が少なくなり、軽い神経症にもかかったようだった。しかし四十二歳のとき、妊娠していることがわかった。その翌月、彼女は二十年務めた編集の仕事をあっさりと捨てた。今は家で子育てに専念しているらしいとまわりは話している。
「彼女は退職してしまったんですよ」と私は答えた。
 二本木さんは少し眉毛を上げ、何かを考えるように何度か頷いた。
「そうですか。お辞めになりましたか。一目でもお会いできたらと思ったんですが。あの人はいつも、自分が誰かに迷惑をかけてるんじゃないかと不安に思っているような方でしたから。もし機会があれば、二本木が詫びていたとお伝えください」
「わかりました。でもきっと大丈夫ですよ」
 そう言うと、二本木さんはまた何度か頷いた。
「わたしもきっとそうだと思います」
 二本木さんはそう言ったあと、突然大きな咳をした。手で口をふさぎ、身体を何回か大きく揺らした。まるで身体の中で突然何かが暴れ出したような咳だった。しかし咳がおさまると、彼は深呼吸を一つしただけで、すぐに平静を取り戻した。
「失礼しました」と二本木さんは何でもないように言った。「しかし、今日参ったのは、あの方のことではなくて、あなたにご挨拶をさせていただこうと思ったからなんです。あなたは関西の方ですよね」
 二本木さんは顔の皴をより深くさせて、微笑みを浮かべた。まるで咳のことより、早くそのことを確かめたかったというような微笑みだった。「電話でお話しして、すぐわかりました。どちらですか」
「大阪なんですよ」
 わざと関西弁の抑揚を強めて言った。
「やはりそうですか。やはり言葉はずっとついてまわるもんです」
「こっちに移って一年近く経つんですけど、まだぴったりつきまとわれてますわ」
 関西の人だと言われたので、関西弁らしい言い方をした。でも口にしてみると、自分の言葉のようには聞こえなかった。
「関西には、わたしもしばらく住んでおったんですよ」
 二本木さんはそう言って、テーブルの上で指を組んだ。太くて短い指だった。「ずっと昔の、若いときのことです。まわりは山ばかりの土地だったんですがね」
「どのあたりですか」
「京都と奈良の、あいだぐらいの場所でしたね」
 その返事で、関西で車を走らせていたときのことを思いだした。二本木さんが言うそのあたりはたしかに小さな山が多く、いつも通り過ぎていくだけの場所だった。
「この前あなたと電話して、あなたの言葉を聞いて、受話器を置いたあと、窓際に座って、外を眺めとったんです。そしたら、その場所に住んでいたときのことをふと思い出して」
 二本木さんは窓の外に目をやった。「川の詩を書こうと思ったんです」
「川の詩」と私は繰り返した。
「ええ。そこは何もない、平凡で寂しい土地でした。住んでいたときは、本当に何もないなあと思っておったほどです。でも今になって思いだしてみたら、なにかいろいろなものが、そこにはあったんです。やはりどこにだって何かがあるもんです。そこに小さな川があったんです。でもそれはかつて川であったものです。わたしがいたときはもう枯れ果てていて、ただの長細い窪みでしかありませんでした。いつもその横の道を歩いていましたが、そのときはそんなものを別に気にかけたこともなかったんです。でもこの前、たしかそういうものもあったなとぼんやり思っていたら、だんだん気になってきたんです。それで自分は川のことを書いたほうがいいんじゃないかと思いはじめたんです」
「つまり、今度の原稿のことですよね」と私は訊いてみた。
「ええ」と二本木さんはゆっくりと頷いた。「でも申し訳ないんですが、もう少し時間がかかってしまいます。というのは、ひとまず川をつくってみようと思っとるんです。わたしは今、古い平屋に住んでいます。小さな台所と六畳が二間あるだけのところです。でもそこには申し訳程度ですが、縁側と小さな裏庭があって、そこで花や野菜を育てとるんです。その裏庭にまず川を引いてみたいと考えとるんです。川といっても、小さな水路みたいなものになると思うんですが」
 どこかで電話が鳴っていた。ドアを何枚か隔てた場所で鳴っている。しかし誰も受話器を取らない。誰もいないのだろうか。二本木さんはまた咳をした。静かなブースの中で、二本木さんの咳はどこか不吉に響いた。まるでずっと昔から二本木さんという人間から離れないでいるもののように聞こえた。でも二本木さんはすぐに平静を取り戻して、変わらず私を見つめなおした。やはりほんの少し笑みを浮かべている。川をつくる。その話を聞いて、私は何かを思いだそうとしていた。
 二本木さんは自分の生活について話しはじめた。
「朝はいつも四時半に起きて、布団をたたんで、軽い体操をするんです。そしてNHK のラジオ放送を聴きながら、昼の弁当を作り、残ったおかずを朝食にして食べます。食器を洗い終えると、三十分ほどかけて仕事場の工場まで歩いていきます。工場ではボタンを作っているんです。洋服に使ういろんな種類のボタンです。世の中には本当にさまざまな色や形のボタンがあるんですよ。といっても型を取ったり、穴を開けたり、色をつけたり、きれいに磨いたりといった作業は工場の真ん中にある大きな機械がやってくれます。わたしの仕事は、機械のおしりから出てくるたくさんのボタンを、傷や歪みがないか一つずつ検品しながら、ビニール袋に入れていくだけのことです。そしてビニール袋を段ボール箱につめていきます。いっぱいになった段ボール箱をパレットの上まで運ぶときは少々骨が折れますが、それほど力を使う仕事でもありません。それにわたしが疲れてくると、同じ部門で働いている青年が一緒になって段ボール箱を運んでくれます。無口ですが優しい青年です。五時になるとサイレンが鳴って、みんな仕事を終えます。わたしはいつも駅前にあるスーパーマーケットに寄って御飯の材料を買ってから、家に帰ります。この歳になると、そんなに食べなくても済みますから買い物も楽ですね。簡単な夕飯を済ませたあとは、近くの銭湯に行きます。近頃の銭湯は広くて豪華になりました。いろんな種類の風呂やサウナがあって、露天風呂でストレッチをする人がおったり、トルコ式のサウナの中で我慢くらべみたいにじっと座ってる人たちがおったり、そこらを子どもたちが走り回ったりしとります。わたしはただ身体を洗って湯船につかるだけなので、三十分も経たないうちに銭湯から出てきます。それから家に帰って、布団を敷いて、小便を済ませると、だいたい十時頃まで布団の中に入って、植物についての本を読んどるんです」
 二本木さんはそこまで話すと、考えこむように腕時計にじっと目をやった。「古い平屋で一人暮らしをしながら仕事は工場勤め、と聞くと人は哀れんでくれるようです。しかしわたし自身は、この歳になってやっと自分の人生にぴったりと合った暮らしを送れるようになったと感じておるんです。あるいは長く変わらぬ暮らしが、わたしという人間を少しずつ作りかえてきたのかもしれません。でもだからと言って、自分のことがわかるようになったわけではありませんし、詩を書こうといっても一体何を書いていいのか、実際のところこれまでよくわからんかったのです。こんな老人の独り言に長くつき合ってもらって、自分でも非常に心苦しいのです。でも、もう少し待っといてほしいと思っとるんです。せめて川ができて、水が流れるまで」

 二本木さんの話を聞いて、私は何のことを思いだそうとしていたのだろう。彼が帰ったあと、机で書類をつくったり、昼飯を食べたり、会議に出たりしながら、彼の話を切れぎれに思い浮かべていた。だからといってひとつにまとめると、よくわからないような話だった。
 それから何日か経った夜、仕事を終えて、いつものように地下鉄に乗って新宿で降り、三鷹に帰るため中央線のホームに向かっていた。そのとき、見覚えのある女とすれ違ったような気がした。振り返ると、まっすぐな髪を背中まで伸ばし、黒いハイヒールを履き、トレンチコートを着て、大きなスーツケースを重そうに引きずっている後ろ姿があった。以前二本木さんの担当だった女かもしれない、そう思った。そう思っているうちに、女はすぐ雑踏の中に消えていった。ただの見間違いかもしれない。私も再び歩き出した。彼女とは違う部署だったのでまともに話したことは一度もなかったし、顏もはっきりとは憶えていない。それに子供を産んだばかりの女がスーツケースを引きずりながら、夜の新宿駅を一人で歩いているだろうか。歩いているはずがないのに、なぜ彼女かもしれないと思ったのか。
 中央線のホームは、春の生あたたかい風がやたらと吹きつけるばかりで、電車はいっこうにやってこなかった。

 一週間がすぎても、みちるは部屋を汚していた。
 風呂に入り、毎日服を着替え、ときどき料理をつくってはいたが、それらの時間以外はあいかわらずテレビの前から動こうとしなかった。買ってきたパンや弁当のごみを床に捨て、テーブルの上に汚れた食器を積み重ねていた。そしてふと思いだしたように静かに泣いた。電話が鳴っても、インターホンが鳴っても、出ようとしなかった。一度、壁に落書きをしていたこともあった。読めないぐらい小さな文字だったが、そんなことをしたのは初めてだった。眠るときはソファの上で横になり、毛布をかけた。明かりを消したあとでも彼女は毛布の中でテレビのリモコンをいじりながら、闇の中のテレビを見つめていた。
 何日経っても、みちるは旅行先を決めようとはしなかった。どこでもいい、どこか旅行に行くことさえ決まれば、また元の生活に戻るだろうと私は思っていた。でも彼女は旅行の話もしなくなってしまった。私が持ち帰ってきたパンフレットにはまるで興味を示さず、テーブルの上に置きっぱなしにしていた。それを見ると、私の方が旅行に行きたい気持ちに強くさせられた。
 日曜日の朝、リビングのテーブルの上でコップが倒れた。みちるが飲んでいたりんごジュースだった。私が彼女の前を通りすぎようとしたとき、引っかけてしまったのだ。濡れた床の上を氷がいくつか転がり、そのひとつが私の足の指先に触れた。すでに溶けて、小さくなった氷だった。
「奈良に、行こか」
 その朝は、頭がぼんやりして身体が重かった。だから思わず口にしたのだろうか。ただ、奈良に行くことは数日前から考えていたことだった。
「奈良」
 ソファに座っていたみちるは不思議そうな顔で私を見上げた。彼女は白い薄手のセーターに、灰色のロングスカートをはいている。
「久しぶりに、奈良に行ってみよか」
 私は指でこめかみを押さえながら、自分の言葉を確かめるようにもう一度言った。
「どうして」
「なんとなく。久しぶりに奈良に帰って、奈良の空気を吸ってみるのも悪くないやろ」
「奈良に何があるの」
「何がって、お義父さんとお義母さんがいるやろう。最近どうや、調子は」
 みちるがときどき奈良の実家に連絡しているのは知っていたが、彼女はあまり私に両親の話をしようとはしなかった。父親がまだなんとか書店をやりくりしていることぐらいは聞いていた。
 みちるはテレビに視線を戻した。まるで自分の答えるべき言葉が映し出されるのを待っているみたいに、黙って画面を見つめていた。そのあいだ、私はみちるを見つめていた。見つめていると、彼女の身体がなんとなく昔より少し大きくなっているように思えた。
「奈良には行くよ」、しばらくしてみちるは小さな声でそう言った。「奈良にはいつか、行かないといけない」
 私は散らばった氷をひとつずつ拾い、テーブルの上の倒れたコップを元に戻して、その中に氷を入れた。そしてコップを流し台に持っていき、雑巾で床を拭いた。やはりどこかに行かないといけない、ぼんやりとした頭でそう思った。
「ゴールデンウィークに行こう。チケットは今週中に取っとく」
 はっきりとした口調でそう言ってみたが、みちるは何も答えなかった。ソファの上で、また足首のあたりをさすっているだけだった。

 翌朝、みちるは寝室で寝ていた。
 自分のベッドで口元が隠れるぐらい布団を被り、いつのまにかぐっすりと眠っていた。そばで私が仕事に出かける準備でばたばたと音を立てても、目を覚ます気配はまったくなかった。二つの瞼をしっかりと閉じ、これまで不足していた睡眠をたっぷりと貪っているようにも見えた。
 小雨が降っていた。私は傘をさして、いつものように三鷹駅まで歩き、快速電車で新宿まで出た。そして人気の少なそうなトイレに入り、携帯電話で会社に連絡して、欠勤することを伝えた。その日とくに差し迫った仕事は何もなかった。私は地下鉄のホームには向かわず、東口の改札を出て、とりあえず目についた古びた喫茶店に入った。
 久しぶりにみちるがベッドで眠っているのを見ていると、だんだんと会社を休みたい気持ちになった。十日以上部屋を汚し続け、テレビをじっと見続けていたのに、彼女は何事もなかったかのように眠りにふけっていた。その寝顔を見ていると、それまで私の中で平静に保とうとしていた気持ちが次第に淀みはじめた。頭がぼんやりして、いろんなことが面倒くさくなった。会社に行ったり、会議に出たり、誰かの原稿を読んだりすることが結局はどうなってもいい、ただの暇つぶしの行為のように思えてきたのだった。
 コーヒーを飲み、煙草を吸いながら、窓の外の景色を眺めていた。はっきりしない頭の中に、なぜか二本木さんのことが何回も思い浮かんだ。一人で平屋に暮らし、工場で働きながら、詩を書いて、川をつくろうとしている。二本木さんの生活を想像してみた。私は二本木さんという人間に対してどこか親しみのようなものを抱いていた。まだ一度しか会っていないにもかかわらず、二本木さんの顏や声や言葉が何かの匂いのように私の中にずっと残っていた。彼は本当に川をつくるのだろうか。彼はどんな野菜をつくっているのか。鞄の中から手帳を取り出し、携帯電話で二本木さんの自宅の番号にかけてみた。彼は今ごろ工場で大量のボタンをビニール袋につめている。家にはいないはずだ。そうとわかっていても、二本木さんに電話をかけてみたくなっていた。
 雨がやんだので、勘定を払い、喫茶店を出た。そして新宿通りを四谷方面に向かってあてもなく歩きだした。空にはまだ薄暗い雲が残っていて、雨あがりの生ぬるい空気が漂っている。行き交う人々の誰もが少し不快そうに歩いているように見えた。私はデパートに入って洋服を眺めたり、本屋で雑誌を読んだり、電器店で電気カミソリを見てまわったりした。昼になると、蕎麦屋でビールを飲み、天ぷらを食べた。
 歩くのに疲れると、裏通りにある小さな映画館に入った。上映されていたのはアメリカの映画だった。主人公の女が父親の分からない子供を次々と産んで、男と同じような肉体労働をしながら、子どもたちとの関係を探していくといったような話だった。客はほとんど入っておらず、床には空き缶やスナック菓子の袋が落ちていた。座席は石のように硬かった。
 映画を観るのは、ずいぶん久しぶりだった。関西にいたころはみちると映画をよく観に行った。気に入った映画だと、彼女は映画館を出て、しばらく何も話さずに私のとなりを歩いた。そして考えがまとまりだすと、映画の感想をぽつぽつ話したり、私に質問したりした。私が意表をついた答えをわざと言ってみると、彼女はまた考えこんで、別の意見を言ったりした。
 みちるが部屋を汚したり、テレビに夢中になったりしはじめたのはいつ頃だろうか。東京に越してまもないころ、みちると子どもの話をしたことがあった。これから知らない町で暮らしていくことを思うと、二人のために子どもをつくったほうがいいのではないかと私はなんとなく考えていた。そんな話をすると、みちるはしばらく何も答えなかった。いつものように頭の中で考えを何回も組み立てては壊しているようだった。
「何人」
 みちるは訊ねた。
「何人?」と私は訊きかえした。「何人つくるかはまだわからんけど、とりあえず子どもをつくることを考えてみてるんや」
「わたしは考えてなかった。そんなこと」
「でもこれからは、考えてもいいやろう」
「そうかな。考えてもいいんかな」
「考えてみてるだけや。今すぐっていうことじゃないし、まだ先のことかもしれへん」
「まだ先のことなんかな」
 住み始めたばかりの部屋は、まだ落ち着かなかった。私は窓際に立ち、みちるは台所の椅子に座っていた。たしかにすぐに子どもをつくる必要もない、まだ先でもいい、私はそうも思っていた。みちるはときおり首を小さく横に振った。何回も振っていた。なにか他のいろんなことを思いだしているみたいだった。
 私は暗闇の中でスクリーンをじっと見つめていた。スクリーンを見つめながら、そんなことを思いだしていた。

 三鷹駅に着いたときは、六時をすぎていた。普段帰る時刻よりずいぶんと早かったが、人ごみの中をあてもなく歩きまわるのにも疲れていた。みちるには、思ったより仕事が早く終わったと言えばいい。
 しかしみちるは部屋にいなかった。明かりをつけると、部屋は見事に片づけられていた。テーブルの上はきれいに拭かれ、スリッパはきちんと揃えられ、ごみ箱の中にはごみひとつなかった。
 私はソファに身体を深く沈ませた。そして煙草に火をつけ、テレビの電源を入れた。チャンネルはNHKに合わされていた。東北地方のどこかで大きな祭りが行われたとアナウンサーは伝えていた。思いだすことがあった。東京への転勤が決まったときみちるはいなくなったことがあった。奈良に帰るという書き置きだけを残して。しかしあのときのような書き置きはどこにもなかった。いつのまにか、昨日までのみちると同じように、私はテレビの画面をぼんやりと見つめていた。
 電話が鳴った。みちるの声がした。
「もうとったから、チケット」
 妙にトーンが高く、急いだ調子の声だった。
「チケットって、旅行の?」
「そう、新幹線。ホテルも予約した」
「ホテルって」
 奈良へ行くなら、みちるの実家に泊まることになるだろうと私は思いこんでいた。
「そうしたほうがいいかなと思って。なんとなく」とみちるは言い訳みたいに言った。
 電話の向こうは、小さく静かな部屋のようだった。コンクリートのような硬い壁に取り囲まれているみたいで、みちるの声はわずかに反響している。
「今から帰るから」
「どこにおるんや」
「新宿」とみちるは言った。
 新宿。みちるは何をしているのか。私が歩きまわっていたのも新宿だった。みちるはわざわざ新宿までチケットを買いに行ったのか。なぜこの時間に電話をかけてきたのか。誰もいないはずの部屋なのに。私はそのことを訊ねようとした。
 男の声だった。受話器の向こうで、男の低く小さな声が何かを話していた。何を話しているのか、声が小さすぎて聞きとれない。しかしその男はゆっくりと落ち着いた調子で、そしておそらくみちるのすぐそばで、ぼそぼそと何かを語りかけていた。
「じゃあ」とみちるは電話を切った。
 受話器を置いて、またソファに座りこんだ。そしてリモコンで意味もなくチャンネルを変え続けた。たぶん何かを考えなければならないはずだった。しかし何かを考えるには、頭がひどく重かった。そのせいで次々と映りかわるテレビの画面がのっぺりと平坦に見えた。どこか知らない暗い隙間に流されていくようだった。隙間から隙間へどんどん流れていく。こんなふうにみちるも流れていたのか。
 疲れていた。食欲がなく、誰とも話したくなかった。ソファの上に身体を横たえて、目を閉じてみた。しばらくじっとしていると、瞼の裏に字が浮かんだ。この前、みちるが壁に書いていた小さな字だ。電話のそばの壁に四行ぐらいのメモのようなものが書かれていた。読めないぐらい小さかったので気にせず、洗剤を染み込ませた雑巾ですぐに拭き消した。
 あれはなんて書いてあったのかなどと、今になってなぜ気にしているのだろう。テレビの音を耳にしていると、眠りたくて仕方がなかった。

 みちるの足首に、痣を見た。
 彼女の足首は、陶器のように白くて細い。そこに青い痣があった。右の足首のまわりにだけ、硬い紐でずっと縛られていたような痣が浮かんでいた。みちるは指先で愛しそうに痣を撫でていた。四月のあたたかい夜のことだ。
 そんな痣がいつからあったのだろう。私はみちるの身体をずいぶんと目にしていなかった。半年ぐらい前から、みちるは私と寝ることを避けるようになった。知らない場所での生活になかなか気持ちが落ち着かないのだと彼女は言った。そう言われると、私も無理に求めなかった。女というものはそういうものだろうと納得しようとした。
 痣は私の知らないずいぶん前からできていたかもしれない。そう思わせるような、深く落ち着いた色あいだった。
 痣を目にしたのは一瞬のことだった。会社から帰ると、みちるは台所の床に座りこみ、右ひざを立て、スカートを少しめくり、痣を撫でていた。玄関にいる私の気配に気づくと、みちるはすぐに立ち上がって、何もなかったように料理をはじめた。部屋は片づいていて、机の上にはコップや箸が並べられている。みちるは明るい調子で言う。
「今日はいい食器みつけた」
 私は用意されていた新しい皿を一枚手に取った。薄手のガラスでつくられた水色の皿で、蛍光灯につるりと反射した。
「目が痛くなくなったら、今度は足首みたい。べつに痛くも痒くもないねんけど」
 みちるは微笑んだ。
 彼女は普段どおりの生活に戻っていた。掃除をし、洗濯物を干して、買い物に行き、料理をつくった。私が帰ると、その日あったことを話した。ただ足首は見せなかった。私が痣を目にした夜から、彼女はいつもロングスカートに靴下を履くようになり、決して足首を見せようとしなかった。
 私たちの生活に何か別のものが入りこんできているような気がしていた。たとえば部屋の中に蜘蛛が一匹住み着いている、そんな小さく暗いものを私はふとしたときに感じることがあった。生活の陰に何かが潜んでいるような感じだ。しかしみちるは何でもないように話をしたり、本を読んだりしている。私も毎日変わりなく会社に行き、毎晩彼女のつくった食事を食べ、彼女の話に耳を傾ける。もし生活に何か別のものが入りこんでいるとしても、私はそれに気づいていないように暮らすことができた。あるいはずっと以前から暗い何かが私たちの生活を見つめていたのだとしても、ずっと気づかずに暮らすことができていた。

 風の強い日だった。
 みちるは朝から本棚の前でばたばたと用事をしていた。背の高い五段組の本棚を前にして、ずらりと並んだ本や雑誌を一冊ずつ取りだしては、目に止まったものを積んでいった。ある程度の高さまで積み上げると、ビニール製の紐でしっかり縛り、鋏で紐のあまった部分を切った。その塊がすでに二つできていた。
「捨てるの?」
 私はネクタイを結びながら、鏡に映ったみちるに訊ねた。
「うん、捨てる」
 紐で縛られていたのは、みちるが昔から買い続けていた料理の本や雑誌だった。時間があるとみちるはそれらのページを開き、自分の知らない料理が載っていれば、夕飯につくってみることがあった。
「ほんまに捨てるんか」
「だって」とみちるは紐を引っぱりながら言った。「大体おぼえたし、もう必要ないかなと思って。本棚もいっぱいやから」
 彼女は腕を伸ばしたり、背中を丸めたりしながら、必死に結び目をつくっていた。

 会社の机の上に手紙が置かれていた。毛筆で書かれたしっかりとした字で、差出人の欄に二本木と書かれていた。先日は長々と話してしまいましたという詫びと、今度ぜひ家にきてほしいというような内容が書かれていた。家にきて、裏庭を見てほしいということだった。
 昼休みが終わる頃、二本木さんから電話がかかってきた。
「お忙しいことは重々承知しておるんですが、川をつくる場所を、ぜひあなたに見ておいてほしいと思いまして」
「たしか野菜もつくられているんですよね」
「ええ、トマトやきゅうりといった簡単なものですが」
「そうですか、トマトやきゅうりを」
「ええ、はい」
「じゃあ、次の日曜は空いてますか」
 二本木さんは何も答えなかった。私の声が聞こえなかったのか、それともただ黙考しているだけなのかよくわからなかった。どうやら二本木さんは仕事場から電話をかけているようで、ときどき金属同士がぶつかり合うような音が後ろから聞こえていた。私は窓の外を眺めながら、硬く無機質な音に耳をすませていた。
「次の日曜日はいかがですか」ともう一度訊ねてみた。
「はい、ありがとうございます」、二本木さんの小さな声がした。
 私は二本木さんの家の住所を聞き、時間を決めて、電話を切った。
 ふと、奈良の家に電話をしておいたほうがいいんじゃないかと、私は仕事をしながら思った。来週の連休に帰るからとみちるがすでに連絡しているかもしれない。別にただ会うだけだし、私が前もって電話したところで何にもならないだろう。だがそれでも私自身が彼女の両親に電話をかけておくべきなのではないかと思った。原稿に目を通したり、昼飯を食べたりしながら、自分が奈良の家に電話をかけているところを想像していた。
 奈良のことを考えていると、みちるが以前交際していた男のことも思い浮かんだ。たぶん今朝みちるが料理の本を捨てようとしていたからだろう。私はその男の顏を知らなかった。それは顔のはっきりしない、ただの薄暗い人影だった。昔、その男は雑誌に載ったことがあるらしかった。勤めていたホテルの料理が評判になって、雑誌のインタビューを受けたことがあったとみちるは話していた。たぶんみちるはその雑誌を持っていたはずだった。今朝、他のものと一緒に捨てたのだろうか。これまで捨てようとはしなかったのだろうか。
 そんなことばかり考えていると、日が暮れて、風も弱くなっていた。

「次の日曜、おみやげ買いに行くから」
 みちるは台所で食器を洗いながら言った。
 本の塊はなくなっていた。本棚の下から二段目ががらがらに空いて、本棚ぜんたいのバランスが悪くなっている。軽く押してみると、本棚はたやすく揺らいだ。
「奈良の二人に渡すおみやげ」
 みちるは振り返って、奥の部屋にいる私に大声を出した。
「別の日は?」と私は言った。「日曜は仕事で人と会う約束があるから」
「あかん」とみちるはまた大声を出した。「もう来週は奈良に行くんやし、日曜しかないから。一人で行ってくる」
「どこまでや」
「たぶん、新宿」
 私は何回も本棚を揺らしてみて、バランスを確かめた。そして上の段から本や雑誌を何冊か取りだし、空いた段に移動させた。
「奈良には連絡したか?」と訊ねてみた。
「うん」
「なんて」
「変わりないみたい、べつに」
 みちるは背中を向けたまま、簡単に答えた。彼女の背中をじっと見ていると、自分が奈良に電話をかけるという考えがやはりどうでもいいことのように思えてきた。
「痣はどうや」とかわりに訊ねた。
「だいぶ消えてきた」とみちるは答えた。
 私は両手で本棚をつかみ、もう一度揺らした。揺らしながら、あの痣の深い色あいを思いだしていた。

 二本木さんの家は藤沢にあった。約束は二時だったので、昼飯を早めに食べてから、出発することにした。みちるは久しぶりに買い物をしたいからと言って、先に家を出ていた。
 春らしい、よく晴れた日だった。すれちがう人々はシャツの袖をまくったり、ハンカチで汗を拭いたりしていた。三鷹から藤沢まで行くにはいくつかの路線があるが、どれも行きにくく時間がかかりそうだった。電車を降りるたびに、次のホームを探しながら構内をうろうろと歩くはめになった。
 一時半すぎに、ようやく藤沢駅に着いた。私は二本木さんの家に電話をかけ、駅に着いたので今からそちらに向かうと連絡した。駅の外に出ると、目を細めてしまうほど日差しが強くなっていた。麻のジャケットを手に持ち、階段を下りて、ロータリーに向かった。五、六台のタクシーが待っていて、運転手たちが話をしながら煙草を吸っていた。私が乗ったタクシーの運転手は長髪で、木のように痩せた若い男だった。二本木さんの家の住所を伝えると、男は黙ってうなずいた。
 車は国道をまっすぐ走って、駅前の繁華街を抜けていった。しばらくして人や店が少なくなってくると、細い脇道に入った。そこは新しい住宅街のようで、整然と区画整理された土地に、大きな窓とガレージがついた出来たばかりの家がぎっしりと並んでいた。人々は車を洗ったり、庭で植木をいじったりしていた。眩しい太陽の下で誰もが微笑みを浮かべていた。電信柱さえ染みひとつなく光っていた。
 車内のスピーカーから外国のハードロックがずっと流れていた。運転手は自分のカセットテープをかけているようで、ときどきハンドルに置いた指先でリズムをとっていた。
「うるさいですか、音楽」
 信号待ちをしているとき、運転手は少しだけ振り向き、低い声で訊ねた。
 私は首を横に振った。「昔、よく聴いてましたから」
 運転手は首の体操をするみたいに少しだけ頭を下げ、信号が青に変わると再び車を走らせた。
 住宅街を抜けると、田んぼや畑が広がった。その真ん中を伸びる道路を走っていった。道路の横には小さな用水路が続いていて、ときどき野菜の直売所が目についた。遠くのほうには病院らしき白い建物や巨大なショッピングモールが、何かの遺跡のように唐突に建っている。二本木さんの住む平屋は、道路沿いにぽつんとある集落のようなところにあった。運転手はその入り口の近くに車を止めた。金を払って車から降りると、車は砂埃を立ててUターンをし、あっというまに見えなくなってしまった。
 そこには長屋が三棟ならんでいて、一棟に五戸が連なるつくりになっていた。昔の建物のようで、コンクリートの壁のいたるところに亀裂が入ったり、欠けがあったりした。私は砂利の上を歩きながら、二本木さんが教えてくれた番号の部屋を探した。軒先に干された洗濯物が揺れているだけで、どこの部屋からも物音が聞こえてこなかった。二本木さんの部屋は真ん中の棟のいちばん奥にあった。ドアの前には、土だけが入った素焼鉢が一鉢置かれていた。ベルを押すと、引き戸から二本木さんが顔を出した。
「わざわざこんなところまで」と二本木さんは頭を下げた。「本来なら駅まで出向くべきところですが、なにせ自転車もないものですから」
 二本木さんは長袖の白いシャツを着て、ゆったりとした綿のズボンを穿いていた。目を細めて空を見上げたあと、私を家の中に招き入れた。
 家の中には、甘い匂いが漂っていた。靴を脱ぎ、部屋にあがった瞬間、果物の皮を剥いたときのような甘い匂いがした。しかし部屋を見まわしても、果物などはどこにもなかった。二本木さんの部屋にはほとんど物がなかった。木製の小さな食器棚に一人用の四角いテーブルと椅子、ガラスの戸がついた本棚、使いこまれた小さな文机が、二間続いた和室になにげなく置かれているだけだった。畳は焼けて変色し、天井や壁には古い染みがついていた。奥には大きな窓があって、むこうに裏庭が見えた。外の陽気とは違って、部屋の中は薄暗くひんやりとしていた。息を吸いこむと、やはり空気の中に甘い匂いが潜んでいるのがわかる。
「まあ、あちらでゆっくりしてください」
 台所から出てきた二本木さんは盆に茶をのせて、部屋の奥へ歩いていった。
「花かなにかですか、この匂いは」
「花」、二本木さんは首をかしげて、私の顔を見つめた。「たしかに花は裏庭にありますが、匂いは特にしないはずですよ。でも、もうここにも長く住んどるので、いろんな匂いに慣れすぎて、わからんようになっとるだけかもしれないですね」
 二本木さんが窓を開けると、そこにはたしかに花が咲いていた。五、六輪の白い花が庭の右隅に咲いていたが、とくに匂いは漂ってこなかった。匂いはやはり部屋の中からきているようだった。
 庭は二畳分ぐらいのスペースしかなく、たまった洗濯物を一度に干せば、もう何も見えなくなってしまうほど狭かった。まわりは木の塀で囲まれており、土の上にいろんな形の影が交差していた。花や野菜はちゃんと生長していた。土に植わった白い花の横には、プランターが置かれていて、芽が勢いよく伸長しているものもあれば、まだ双葉が出たばかりのものもあった。左側には植えられたばかりの苗があり、塀に立てかけられた添え木には蔓が何本か巻きついていた。添え木の下には、なぜか風車が一本、土に挿しこまれていた。
「それはニガウリとキュウリなんです」
 二本木さんは蔓を指しながら、縁側に座った。私は二本木さんのとなりに腰を下ろした。
「あの苗はトマトですか」
「トマトですね。夏になると水で冷やして、塩をかけて食うんです。トマトはそれがいちばんうまい」
 二本木さんは微笑み、私は茶をすすった。
 しばらく二人で庭を眺めていた。あらためて小さい庭だと思った。ぼんやり眺めていると、庭のサイズに合わせて自分の身体も小さくなっていくようだった。決してきれいに手入れされているというわけではない。とりあえずホームセンターで目についた植物を買ってきて、適当に並べてみたといったような雑然とした印象だった。でもそれだけではなかった。その庭には長い時間が生んだ何か固いこわばりみたいなものがあるように思われた。おそらくはじめに秩序のようなものを組み立てようとして、それがいつのまにか違う方向に進み、迷い、崩れながら、もうそれ以上進むことも戻ることもできなくなったような雰囲気があった。土は固く、風車は動かず、花や野菜はなぜか美しくなかった。二本木さんはときどき眼鏡のブリッジをいじりながら、まっすぐ庭を見つめていた。奥行きのない目だった。庭を眺めながら、庭のことはまったく考えていないような目だった。二本木さんのとなりに座っていると、自分の身体が縁側からすっと浮いていくような感覚があった。
「ここに川をつくるんですね」と私は言った。
「はい、川を」
 二本木さんは言葉を取り戻すように言った。「そうです。この庭に川をつくろうと思っとるんです。左から右へ、この庭を横切るみたいに」
「水はどこから引くんですか」
「そうですね。水はどこからくるのでしょうか。まさか用水路から引くわけにもいきませんしね。なんとか工夫して、自前でどこかから引くしかないでしょうな。出ていく水は近くの排水溝に流れていくようにと考えとります」
「川ができれば、雰囲気も変わるでしょうね」
「ええ、そう願っております」、二本木さんは私に顔を向けた。「ご覧のとおり、これは庭とはよべないほどの代物です。誰かが気づかずに踏みつけていってもおかしくありません。まるでわたしそのものみたいです。でもここに川のようなものが流れれば、少しはましになるんじゃないかと思ったんです。少しはわたしの人生もましになるんじゃないかと思ったんです。そう思うと、水を引く前の庭をあなたにぜひ見てもらいたくなったんですよ。今日は無理を言って、申し訳ございませんでした」
 私は庭を眺めていた。庭に流れている川を想像していた。やはりどこからか甘い匂いが漂ってくる。
「あの川はどうして水を失ったんでしょうか」
 二本木さんは唐突に言った。
「あの川」、私は記憶をたどった。「昔、二本木さんが住んでいた場所の川ですか」
 二本木さんはこくりと頷いた。そして突然思いだしたように咳をした。まるでそれまでずっと我慢していたみたいに何回も大きく身体を揺らし、膝に顏を近づけて、懸命に肺の底から空気を振りしぼっていた。紙風船みたいに肺が縮みきったんじゃないかと思うほど咳は続いた。
「実は電話をかけてみたんです」、二本木さんは呼吸を整えて言った。「あの人に。あの女の方です。前に担当してもらった方です」
 塀の向こうのどこかで玄関の戸が開き、つっかけで地面を擦るように歩いている音がした。宙に浮くような感覚はまだ続いていた。前の担当の女?
「今ごろになって、こんな老体が突然電話をかけてきたら、きっとご迷惑になると承知しておったんですが、どうしても気になりましてね。以前に携帯電話の番号を教えてもらっていたものですから、それにかけてみました」
 つっかけの音はそこらじゅうを歩きまわっている。何かを探しているのだろうか、立ち止まったかと思うと、急に小走りになったり、ゆっくりとした歩調になったりしていた。
「昼休みに、工場の公衆電話からあの人に電話をかけてみました。しかし呼び出し音はいつまでも鳴りやみませんでした。二十回ほど鳴り続けたでしょうか。もう諦めようと、やはり意味のないことだったんだと受話器を置こうとした瞬間、あの人の声が聞こえました。わたしは急いで自分の名前を名乗りました。喜ばしいことにあの人はわたしのことをおぼえていてくださいました。わたしはまず原稿のことで迷惑をかけたことを詫び、自分の近況を簡単に話しました。といってもわたしの生活は長いあいだちっとも変わってはいないのですがね」
 二本木さんはつっかけの音など気にならないように話していた。視線を下げて、目の前の庭に語りかけていた。私はひどく煙草が吸いたくなった。しかしポケットには何も入っていない。朝、箱に残っていた最後の一本を吸ったきりだった。
「どうやら、赤ん坊は産めなかったそうなんです」と二本木さんは調子を変えずに言った。「会社を辞められて二ヵ月ほど経ったとき、突然体調を崩されたそうです。原因はわからなかったようですが、真夜中に急にひどい寒気がして、身体が震えだし、嘔吐を繰りかえしたそうです。ご主人が救急車を呼んで、そのまま何日か入院されました。医者には、たぶん疲れがたまっていたのだろうと言われたようです。そのとき、お腹の子を流産してしまったそうなんです。おそらくあの人は両側から巨大な鉄の塊に挟まれたような、いや、それ以上のショックを受けただろうと想像します。退院したあと、ご主人にすぐ離婚してほしいと言ったそうです。自分はもう誰かと一緒に生きていくような自信も資格もすべて失ってしまったからと。ご主人が納得しようがしまいが、誰に何を言われようが、あの人の心は固く決まっていたようでした」
「会ったんですか」と私は訊ねた。
「いえ」と二本木さんは首をゆっくり横に振った。「会ってはいません。あの人は電話ですべて話されました。ひどく乾いた声でした。平板で抑揚がなく、壁に書いた文字をそのまま読み上げているような話し方でした。わたしが訊ねたことに、ただぽつりぽつりと答えているだけでした」
 そこまで話すと、二本木さんは大きく息を吐いた。そして視線を上げた。その先には古い木の塀しかなかった。
「今はアパートを借りて一人で暮らされているそうです。わたしは受話器を耳にあてながら、あの人の心を思い浮かべていました。そして少し迷ったんですが、永青のことを話すことにしました」
「えいせい」と私は繰りかえした。
「はい。わたしが昔住んでいたところです」
「京都と奈良のあいだの」
「ええ、そうです。その場所のことです。そこに宿があるんです。でも宿といっても、それほど立派なものじゃなくて、古い民家の一部を客が泊まれるように改築しただけのものです。わたしはその宿でずいぶん長く暮らしておりました。もしかしたら、そこに行くことが今のあの人に必要なのではないかとふと思って、永青のことを話したのです」
「何かあるんですか、そこには」
「いえ、そこは基本的に何もない場所です。でも前にも申し上げましたが、どこにだって何かがあるもんです。その何かは人によって違ってくるものだと思います。わたしは永青の場所をあの方に教えました。もし時間があるのなら、ぜひ行ってみてくださいと」
 二本木さんはそう言って、私に微笑みかけた。気付くと、つっかけの音は消えていた。やがて日が傾き、影が濃くなってきた。
 帰りの電車の中、私は女のことを思いだそうとした。吊り革につかまって、通り過ぎる家々の屋根を眺めていた。彼女とは、たぶん廊下で一度すれ違ったことがあるだけで、そのあと彼女はすぐに会社を辞めてしまったのだ。思いだせそうなことは何ひとつとしてなかった。彼女の顔すら私はほとんど憶えていなかった。新宿駅ですれ違った女は、やはり彼女だったのだろうか。流産したあと、夫と別れ、一人で歩いていたのだろうか。トレンチコートを着て、ハイヒールを履いていた。細い足首だった。
 そこには痣があったのだろうか。
 そんな筋の通らないことを考えていた。

 奈良へ行く前の晩だった。みちるは食事の用意をしていた。鮭のムニエル、水菜とちりめんじゃこのサラダ、じゃがいものスープ。テーブルの真ん中にはワインが置かれていた。窓から穏やかな風が入ってくる。
 みちるはワインを飲んだ。料理はときどき口にするだけで、なにか話をしてはワインを飲んでいるばかりだった。子どもの話をした。その日、道ですれ違った二歳ぐらいの男の子がずっと彼女に手を振って、微笑んでいたそうだ。それからスーパーマーケットで買い物をすませ、同じ道を帰っていると、また向こうからその男の子が歩いてきた。みちるが手を振ると、男の子も同じように手を振って微笑み、またそのまますれ違ったそうだった。
 すでに旅行の仕度は終っていて、部屋の隅にボストンバッグが二つ置かれていた。食事を終えると、みちるは少し疲れたと言って、ソファに腰をおろした。彼女の皿にはまだ半分ほど料理が残っていた。机の上にはワインが少しこぼれている。私は布巾で机を拭き、食器を流し台に運んで、洗いはじめることにした。片づけが終わるころ、みちるは立ち上がり、ボストンバックのファスナーを開けて、ごそごそと探りはじめた。どこか落ち着かない様子だった。歯ブラシや着替えを取りだし、ひとつずつ確認するように見まわしたあと、またバックの中に入れた。彼女の頬は少し赤く、部屋の中にはワインの甘い香りが残っていた。

 その夜、私はうまく寝つけなかった。
 目を閉じると、魚の群れのような影が頭の中でずっと動きまわっていた。気にしないように頭の中でさらに目を閉じてみたが、目を閉じた頭の中にも細かい影の群れは忍びこんで、泳ぎ続けていた。仕方がないので身体を横に向け、壁を見つめることにした。
 みちるが私のベッドの中に入ってきたのは、やっと眠りの水に浸ろうとしたときだった。はじめは夢だと思った。夢の中で誰かが私の背中を引っぱったり押したりしているのだと思った。しかしそれはだんだん強くなり、私は眠りから強引に引きずりだされた。振り向いてみると、みちるがいた。ベッドの中で私と同じ向きに横たわり、長い髪を顔の上に垂らしていた。私はもう一度目を閉じ、軽く頭を振った。そして大きく息を吐き、体勢を変えて、みちると向かい合った。枕元の時計は三時をさしていた。
 みちるは何も着ていなかった。白い肌をあらわにして、私の胸のあたりを見つめていた。彼女は身動きひとつしなかった。まるで見えない拘束衣を着せられているみたいに、両腕を胸の前で交差させたままじっとしている。私は声を出した。言葉の切れはしのようなものだ。しかしそれは暗闇の中でどこか他人の声みたいに響いた。みちるはそれを合図のようにして、ゆっくりと両腕を開いた。二本の細い腕は煙のように空中を漂いながら、やがて私の首の後ろにまわされた。
 最後にみちるを抱いたのはずいぶん前のことだったし、求めるのは大抵私のほうからだった。そんなふうにみちるから求めてきたことはほとんどなかった。彼女は自分の頬を私の頬に合わせ、耳元でゆっくりと呼吸をした。息を吐くたび、甘い匂いが漂う。私はしばらく目を閉じていた。みちるの背中に腕をまわすのには、気持ちがひとつにまとめる必要があった。
 みちるの身体は冷たかった。まるで銅像のように冷たくこわばっている。彼女はときどき声を上げた。乳房を触ったり、首筋に唇をつけたりすると、小さな悲鳴のような声を上げた。彼女の性器ははじめから濡れていた。まるであらかじめ準備されていたかのようだった。たぶんベッドに入る前から濡れていたのだと思った。性器に指先を這わせてみると、みちるは眉間に皴を寄せて、下半身に伸びる私の手首を強く握りしめた。
 やがて身体を起こし、みちるの中に入った。抵抗もなく、なめらかに奥まで入っていった。私が動くと、みちるは押し出そうとしながら同時に奥まで招き入れようとした。彼女は両手で口を塞ぎ、大きな声を上げまいとしている。身体は何かをふりほどくように大きくうねっている。私はみちるの足首を掴み、両脚を高く上げて、腰を強く押しだした。うねりのもっと奥へ入ろうとした。
 左手の中に、やはり痣があった。右の足首を掴んだ指を広げてみると、そこに青黒い痣がくっきりと残っていた。痣はまわりの闇よりもずっと濃く、深かった。まるで足首のまわりにだけ別の生き物が住みついているみたいだった。親指と人さし指を沿わせれば、痣はぴったりと二本の指の下に隠れた。誰かが強く握りしめると、ちょうどそんな形の跡ができる。私はみちるの両脚をさらに高く上げ、身体を前のめりにして、再び身体を押しだした。本当に欲情したのは、その痣に触れたときからだった。みちるもそのことをわかっていて身体をうねらせているのだと思った。

 結局、朝まで私は目を覚ましていた。部屋の中はしんと静まりかえっていた。カーテンを開けると、漂白されたような夜明け前の空が見えた。
 こめかみの奥が重く、意識は夜の海のように微かに揺らいでいた。とくに何か考えごとをしていたわけではなかった。断片的な記憶が暗い水面に次々と浮かんで、私は砂浜からそれらを眺めていただけだった。大阪に住んでいたときのことや、みちると出会ったときのことが浮かんできた。記憶は何も語りかけてこなかったし、私も何も語りかけなかった。いつのまにか私は水の上にいた。そして私が座っていた岸辺には薄暗い誰かが座っていて、こちらを見ていた。
 みちるは私の背中に額をつけて、横たわっていた。ときどき呼吸が大きくなって、私の身体をわずかに揺らした。波のように眠ったり目覚めたりを繰りかえしているようだった。
 働こうと思う。
 行為のあと、みちるはうつ伏せになりながら言った。
 そうしたほうがたぶんいいと思う、いいとか悪いとか、ほんとはよくわからんけど、でもここしばらく考えてたことやから。奈良から帰ってきたら、とりあえず仕事を探そうと思ってる。
 前から準備していた台詞をそのまま口にしているような言い方だった。さっきまで身体をうねらせていた女とは違う女が話しているみたいだった。よく見ると、やはりみちるの身体は出会った頃と違っていた。昔と比べて肩や背中に肉がうっすらと積もり、身体ぜんたいが少し大きくなっている。みちるは働くことを考えていた。あるいはそれ以外のことも考えているかもしれなかった。私は何かを言わなければならない気になった。
 場所はどこ、そんな空々しいことを訊ねた。
 みちるは目を大きく開いて、私を見つめている。

 東京駅に着いたのは正午過ぎだった。私たちはそれぞれのバッグを持ち、新幹線のプラットホームに向かっていた。私はまだ頭が重かったが、みちるの足取りは軽やかに人ごみをすり抜けていった。構内は暑く、シャツの下で汗が滲んでいた。切符売り場や土産物の店の前には人だかりがいくつもできていた。途中で弁当でも買うつもりでいたが、人だかりを目にすると何も食べる気がしなくなった。その場から逃げるように私たちは新幹線に乗りこんだ。
 車内では家族連れがトランプで手品をしたり、誰かが床に飲み物をこぼしたりしていた。私の席は三列シートの真ん中で、みちるは通路側だった。窓際の席には、東京駅を発車しても誰も座ってこなかった。みちるは席に着くと頬杖をついて、すぐに目を閉じた。昨夜の足りない眠りを調整するみたいに、静かに寝息を立てはじめた。彼女はいつものように草色のロングスカートをはいていた。
 私は車内販売のビールを買い、少しずつ口にしながら窓の外を眺めた。新横浜を過ぎても、窓際の席は空いたままだった。身体のあちこちにはまだみちるの感触が残っていた。指先でふれた首筋や、唇をつけた腹のふくらみや、まとわりつくような性器の動き。窓の外で景色が通りすぎていくにつれて、みちるの感触は私の身体の中でざわざわとうごめいた。みちるを起こして、トイレにでも連れていき、もう一度彼女の感触を確かめたい衝動にかられた。昨夜のようにみちるに中に入りながら、足首を強く握りしめたい気になった。
 痣はやはり消えてはいなかった。あるいは消えないようにしていたのかもしれない。昨夜のうちにその正体を確かめるべきだったのだろうか。しかし、突然のみちるの行動に私は戸惑っていた。何かがこちらを見ているような気配を感じながら、みちるの身体を抱きしめていたのだ。

 夢を見ていた。私は二本木さんの家で布団を敷き、一人で昼寝をしていた。しかし汗が止まらないほど暑く、あちこちからいろんな虫の鳴き声が聞こえていた。あまりの暑さと鳴き声のせいで、ついに布団から飛びだした。そして庭に出た。庭には何もなかった。野菜も育っていなければ、花も咲いていなかった。ただ真っ白な砂が敷かれていて、真ん中を小さな川が音もなく流れているだけだった。私はズボンの裾をたくし上げ、庭に下り、川の中に足を浸してみた。皮膚が裂けそうなほど水は冷たい。冷たさに慣れるまでじっとしていた。しばらくすると、足元がじんわりと温かくなりはじめた。いつのまにか水はなくなっていた。足元には白く乾いた砂があるだけだった。四方は木の塀に囲まれている。いくら木の塀を叩いても無駄だった。わずかな隙間から外を覗くと、どこまでも続く砂漠が見えた。
 目を覚ましたとき、ひどく汗をかいていた。身体が固くこわばり、喉がからからだった。あまりの混雑に、どうやら車内のエアコンがつけられたようだった。シャツの下で冷えた汗が滲んでいる。
 みちるは消えていた。
 新幹線はすでに名古屋を過ぎていた。あたりを見まわしても、たくさんの見知らぬ顔が並んでいるだけだった。トイレに行ったとか飲み物を買いにいったとかというわけではないようだった。荷台から彼女のバッグも消えている。汗はなかなか乾かなかった。私は大きく息を吐き、肘をついて、しばらくのあいだ両方のこめかみをじっと押さえていた。
 いつのまにか男が窓際の席に座っていた。野球帽を深くかぶり、口のまわりに無精髭を生やし、腕を組んで眠っていた。男はいびきをかいていた。酒の臭いもしている。一瞬、その男のせいでみちるがいなくなったと思った。男の胸ぐらをつかんで、通路に投げ飛ばしたくもなった。その男が無関係であればあるほど、そうしたくなった。急に寒気がして、こめかみを押さえる指が震えだした。私はしばらく何かを考えていた。しかし何を考えても変わらなかった。米原を通りすぎても何も変わらない。変わらない確信が私の中ですでに固まっていた。もうみちるは新幹線の中にはいない。彼女は降りた。名古屋駅のホームに一人で降り立ち、そのままどこかへ消えてしまったのだ。
 男はこちらを見ていた。男は野球帽の陰から細い目を開き、前かがみになって頭を抱えている私の姿を見ていた。真っ黒でどこにも通じていないような目だった。私は男の視線から逃げるように立ち上がり、荷台からバッグを下ろして、デッキに足早に向かおうとした。通路に出る瞬間、みちるが座っていた席に目をやった。まだ夢が続いているみたいだった。座席の上にはやはり、砂が落ちていた。

 京都駅では足が勝手に前へ進むのにまかせるだけで、どこにも向かってはいなかった。バッグを持って階段を下り、エスカレーターで上がって、また階段を下りたりした。大きな柱にもたれて、改札から溢れ出てくる人々を眺めていた。土産屋に入り、八つ橋や最中の値段を見比べたり、タクシー乗り場で煙草を吸ったりした。
 奈良の家へ行く気は失せていた。そんなところに行くぐらいなら、どこにも行かないほうがましだった。みちるが予約したホテルがどこにあるのかもはっきり憶えていない。そもそもホテルは本当に予約されているのか。みちるははじめから奈良にくるつもりがなかったのかもしれない。何度かけても、彼女の携帯電話は電源が切られたままだった。
 何をしているのかわからないまま、夕方になった。駅はにぎやかだった。切符売り場の前には大きなリュックサックを背負った登山旅行の団体がわいわい話し合っていた。私は路線図を見上げていた。線を目でたどりながら、ぼんやりと何かを考えていた。突然、唇の上に温かいものを感じた。何が起こったのか、すぐにはわからなかった。鼻血だった。唇をゆっくりと伝わり、気づくと顎から地面へと滴った。鼻を押さえて、改札口の隅のほうへ足早に向かった。天井を見上げてじっとしていると、立ちくらみのようなものが襲ってきた。気分が悪くなり、思わずその場にしゃがみこんでしまった。手のひらには赤黒い血がついている。駅員が近づいてきた。
「どうしはりました?」
「大したことないです」、少し恥ずかしくなって、微笑んだ。「体調のせいやと思いますから、たぶん」
「立てますか」
 そう言われて立とうとしてみたが、首のうしろが妙に重くて、なかなか足に力が入らなかった。
「しばらく休まれたらどうです」
 駅員は心配そうに言い、私の身体を抱えるようにして、すぐ近くの駅員室まで連れていってくれた。駅員は若く、黒縁の眼鏡をかけていた。駅員室の奥に小さな畳の部屋があった。二つに折った座布団を枕がわりにして、私はそこで横になった。
「今日はほんま暑かったですね。人だらけで」
 駅員は隣の部屋で事務用の椅子に座り、帽子で扇いでいた。
「そうですね」、私は掠れた声で答えた。
「これからどっか、行きはるんですか」
 私は駅員の方を向いて頷いた。そして再び目を閉じた。しばらくすると電話のプッシュボタンを押す音が聞こえ、駅員が誰かと話をはじめた。
 私は二本木さんから聞いた話を思いだしていた。二本木さんの話では、まずJR線に乗って奈良方面へ向かうということだった。そして途中の小さな駅で降り、一日に数本しか出ていないバスに乗る。四十分ほど乗っていると、山の中へ続く坂道に入る。目的のバス停は坂道の途中にある。まわりに民家はなく、ときどき納屋や錆びたガードレールが目につくだけだ。バスが去っていった方向に歩いていくと、やがて細い脇道が見つかる。今の季節だときっと草が伸び、虫が飛びまわる中を歩いていくことになる。足元は悪く、電灯もない。道の果てに一軒だけ建っている古い宿。そこに行くには、その道しかないということだった。
 そんな場所に行って、どうするつもりなのか。しかしみちるが消えて、もうどこかに行く必要もなくなったのだった。
 日は暮れ、窓の隙間から風が吹きこんでくる。バスの中は薄暗い。私はいちばん後ろの窓際の席に座っていた。人家が少なくなり、通りすぎる木の枝が風にざわついている。駅前で乗り合わせた人々は途中で降り、車内はいつのまにか私と運転手だけになった。エンジンの回転数がせわしなく変化し、未舗装の道の上で車体が乱暴に揺れた。舌の奥には血の味が残っていた。駅員室の洗面所で顔と手は洗ったが、シャツには血の跡が数滴ついていた。ポケットの中の携帯電話はあいかわらず何の反応もなかった。
 窓の外に目をやりながら、なるべく気持ちを落ち着けようとした。昨夜みちると食事をしたことなどずいぶん前のことに思えた。次第に、みちるはもう戻らないような気がしてきた。戻らないとみちるはすでに決めていた。昨夜、私を求めたのもそのせいかもしれない。働くと言っていたのは、おそらく本当なのだろう。これからどこかで仕事を探すつもりなのだ。そのどこかにはたぶん誰かがいる。誰かがみちるの足首に痣をつけ、私の知らないどこかにみちるを引き寄せた。そう考えると、まるでやすりで擦られたように胸がたまらなくざわついた。みちるという女がまったく知らない人間に思えてきた。そして私という男もまったく知らない人間に思えた。実はまるで知らない他人の人生をずっと送らされてきたようだった。やはりみちるが働くと言ったことは嘘のような気がした。どこかにいる誰かを隠すために嘘を言ったのかもしれない。でも、嘘であろうと本当であろうと「働くつもりでいる」という台詞をわざわざ私に言う必要もないはずだった。彼女のしたことや言ったことの意味が私にはわからなかった。同じ部屋で暮らしてきたのに、なぜ意味がわからない。

 永青、とバス停にあった。二本木さんが言ったとおり、バスが走っていったほうへ私は歩きだした。山の空気は冷たかった。草の匂いが漂い、闇が徐々にあたりを覆いはじめている。山の斜面には落石を防ぐ網が張られていて、反対側は崖になっていた。下を覗くと、草木が鬱蒼と茂っている中に冷蔵庫が一台捨てられていた。ドアは開きっぱなしで、虫に食われたみたいに所々が真っ黒に錆びついている。
 アスファルトの坂道は左右にうねっていた。私はゆっくりと歩きながら脇道を探した。夜の山を目にしていると、昔読んだコニー・ブックの短篇小説を思いだした。夢遊病にかかった男の話で、真夜中になると山に迷いこむ。たしか男は薬学の大学院を優秀な成績で卒業したあと、製薬会社の研究員になった。二つ年下の大学時代の後輩と結婚し、女の子を二人もうけた。郊外に家を買い、日曜日には家族で海や山へ出かける。陰りのない平穏な生活を送っていたはずだった。しかしある夜、目を開けると、男は裏山の中に立っていた。裸足で、パジャマのあちこちには土がついている。たしか妻と同じ寝室で眠りについたはずなのに、眠っているうちに真っ暗な山の中まで歩いてきていた。夢遊が三日続いたあと、男は鎮静睡眠薬を飲んでみたが、何も変わらなかった。ただのストレスだ、そのうちおさまるだろうと思い、心配性の妻には相談しなかった。しかし日を追うごとに、男が目覚める場所は山の奥へと深まっていった。あるとき、夜の山道を家に向かって帰っている途中、男は人影を目にした。一瞬恐怖を覚えたが、自分の夢遊の原因はその人影なのだと直感した。あの人影が自分を山の奥へ引き寄せているのだと。男は人影を捕まえてやろうと追いかける。やがて夜が明け、妻は夫の姿がないことに気づく。警察が捜索を開始した数時間後、裏山の奥深くで頭から血を流して倒れている夫が発見された。なぜそんなところで夫が死んでいるのか、妻にはまったくわからない。結局その短編がコニー・ブックの遺作となった。彼は小説を書き上げた朝、まだ日も昇りきらないうちに冬の凍てつくようなライン河に身を投げた。
 脇道の入り口はひっそりとしていた。石で組まれた十段ぐらいの階段が伸び、その先の道は斜面に沿って山の上へ伸びている。みちるはコニー・ブックの小説の感想をよく私に話した。彼女が話したことに対して、私も意見を言った。そうやって私たちは何時間も話をした。しかしたとえばどんなことを話していたのか、そういうことはなぜか思いだすことができなかった。いつも、急に何かを思いだしたり、何も思いだせなかったりする。ふと哀しい気持ちになって、私は石の階段に足をかけた。道は細く、不確かだった。ほとんど前が見えない闇の中で道をたどっていくのは骨が折れた。まわりは長く伸びた草に覆われている。石につまずいたり、柔らかい泥の中に足を突っこんだり、羽虫を手で払ったりしながら道をのぼっていった。
 やがて砂地に出た。テニスコートぐらいの広さの平地で、その真ん中に長細い家が一軒建っていた。木造の二階建てで、瓦屋根だった。一階の窓の奥には白い光が灯っている。玄関まで近寄ってみると、細い木の柱に楕円形の看板が掛かっているのが見えた。そこにもやはり、永青とある。やはり宿らしい。
 ずっと何かを思いだしながら、こんな場所まで来た。しかしいざ来てみると、胸の中にとらえようのない不安がよぎった。私は息を大きく吐いてから、磨りガラスの入った戸を軽く叩いた。しばらくして顔を出したのは、背の低い白髪の男だった。
 突然で申し訳ないのだが、泊めてもらいたいんです。
 私の声は掠れていた。男は背中を丸めて、ええ、はい、とゆっくり頷いた。皺の多い顔に微笑みを浮かべている。男は玄関の脇に身を寄せて、静かに私を招き入れた。天井から小さな蛍光灯が弱々しくぶら下がっていた。薄暗い光が玄関をぼんやりと照らしていて、あちこちには埃が積もっている。靴を脱いで床にあがると、黒ずんだ板が大きく軋んだ。帳場には若い男が立っている。丸坊主で、肌の色がやけに白い。ノートに何かを書きつけている。奥の部屋からテレビの音が聞こえてくる。
 朝と晩に食事がついてます。お風呂は離れにありますさかいに。料金は先に払うてもろとるんです。
 低い声で丸坊主の男は言った。私はとりあえず一晩分の金を払った。
 そそくさと階段をあがる男のあとを、私はついていった。二人の男はまるで私が来ることをあらかじめ知っていたような素振りだった。振り返ると、白髪の男はもういなくなっていた。案内された部屋は、小さな机だけがある六畳の和室だった。男は布団を出し、マットを敷き、シーツを伸ばして、床を調えた。そして頭を下げて、部屋の戸を閉めた。
 時計の針は九時を過ぎていた。いつのまにそんなに時間が過ぎたのだろう。そういえば新幹線でビールを飲んでから、何も口にしていなかった。でも何か口にしたいとは思わなかった。部屋の空気が温かく湿っぽい。カーテンを開けてみた。窓の外は闇だけだった。月も見えない。窓を開けると、煮物を温めているような甘い匂いが漂ってきた。
 煙草を一本吸ってから、電気を消し、布団に入った。きっとまた何かを考えはじめてしまうだろうと思った。だが目を閉じるとすぐに眠気がやってきた。いくら考えても、わからないことが多すぎた。わからないことが私を眠りの中へ引き寄せていた。その夜は何の夢も見なかった。

 夕べから、雨がやみませんね。
 朝食をテーブルに並べているとき、丸坊主の男が言った。
 そうでしたか。気づきませんでした。
 男の顔色を見ると、昨夜より白くなっているように見えた。よく眠れたようで、と男は目を細めた。
 カーテンを開けると、霧が木々を包みこんでいた。空を大きな雲が覆っている。うすら寒そうな天気だった。朝食は簡素なものだった。久しぶりの食事だったが、食べている気がほとんどしなかった。一階に下り、風呂場と同じ離れにある洗面所に行って、顔を洗い、歯を磨いた。二人の男は朝から何かを運んだり部屋を片づけたりして、廊下を動きまわっている。
 このあたりに川はないですか。
 声をかけると、丸坊主の男は手にゴミ袋を掴んだまま、立ち止まった。そして私をじっと見つめた。やはり、川ですか、と答えた。
 車で三十分ほど走ると大きな川がありますけど、このへんにはもう。
 枯れた川もないですか。
 もう今は埋められてしもたから、枯れてるも何もないんです。
 そうですか。
 そうなんです。それでもよければ。
 男はそう言って、廊下に奥にいる白髪の男に目をやった。白髪の男は樽の上に石を積みながら、ただこちらを見ている。
 私はかつて川が流れていた場所を聞いた。それほど遠い場所ではなさそうだった。部屋に戻って出かける仕度を済ませて、また一階に下りた。そしてもう一日分の料金を払った。戸を開けて、手をかざすと、細かな雨粒が手のひらを濡らした。
 どうぞ、これ。
 振り向くと、白髪の男が折り畳まれた雨合羽を私に差し出していた。
 山ん中で、傘広げても邪魔になるさかいに。
 雨合羽は緑色のビニール製で、上着とズボンにわかれたタイプだった。私は礼を言って雨合羽を受け取り、その場で着てみた。少しサイズが小さいようだった。上着のボタンを留め、ズボンを穿き、フードを被った。
 暗くならんうちに戻ってください、と男は微笑んだ。
 はい。
 日が暮れたら、戻ってこれんようになりますから。
 最近、と私は訊いてみた。東京から女の人がきませんでしたか。
 ええ、ああ、はい、と男は頷いた。あの人も川を探してました。でも戻ってこられませんでした。きっとそのまま東京に帰りはったと思います。
 がさがさと雨合羽をこすり合わせながら、山の中を進んだ。道のようなものが途切れたり繋がったりしながら、山の奥まで長細く続いていた。雨が木々の上に柔らかく降りそそぎ、若葉は濡れ、水たまりの中に波紋が次々と広がっていた。ときどき遠くから鳥の甲高い鳴き声が聞こえてきた。
 やはり二本木さんの担当だった女もここに来ていた。そう考えると、その女のことが身近に感じられた。顏もほとんど憶えていないはずの女が、こんな遠い場所までわざわざ来た理由がなんとなくわかるような気がした。
 雨が激しくなった。
 丸坊主の男が言ったとおり、二メートルほどの幅がある道が目の前にあらわれた。それは山の上から蛇行するように長く伸びていた。だがかつて川であったような痕跡はどこにもなかった。ただ砂の道がどこまでも続いているだけだった。砂の中に雨が染みこんでいるだけだった。私は土が盛りあがった場所に腰を下ろした。強い雨が木の葉を打ちつけ、石を打ちつけ、土を打ちつけ、私の身体を打ちつけていた。かつて水が通っていたはずの場所をしばらく眺めていた。
 私はいつまでもその場所を離れなかった。あたりを歩きまわったり、道に沿って山を上ったり下ったり、木の枝で地面を掘りかえしたりした。いくら掘りかえしても、あるのは砂だけだった。雨が降りそそぎ、砂はすぐに黒く滲んだ。さらに掘っていくと、硬い土にあたって木の枝が折れた。疲れたら、岩に腰かけて休んだ。雨は強弱を繰りかえしていたが、やむことは一度もなかった。合羽のあちこちに泥が飛び散り、靴の中には雨水がたっぷりと染みこんでいた。二本木さんは言っていた。そこは基本的に何もない場所です。でもどこにだって何かがあるものです。しかしここにはもう何もなかった。川の窪みさえなかった。黒く滲んだ道が木々のあいだを伸びているだけだった。雨がひたすら降り続けているだけだった。
 あの女はここで何をしたのだろうか。子どもを失い、夫と別れ、一人でこんな遠い場所まで来て、何をしたのだろうか。私は彼女と話をしてみたい気になった。いつか新宿駅で見かけた女の後ろ姿を思い浮かべながら、山の中を歩いていた。
 日が暮れはじめたころ、耳元で誰かのささやく声がした。あたりを見まわしても、もちろん誰もいない。とても小さな声だし、雨音で何を言っているのか聞きとれない。しかし、しばらくすると思いだしたようにささやく声がまた聞こえる。なにか詩のような短い言葉をささやいている。ここには私しかいない。声を発するとすれば、私以外いなかった。
 ささやいていたのは私自身だった。自分でも知らないうちに、自分の知らない言葉をささやいていた。
 宿の明かりが見えたときは、すっかり暗くなっていた。戸を開けると、昨夜と同じように丸坊主の男が帳場に立っていた。ノートをぱらぱらとめくっている。私のほうを向くと、軽く頭を下げた。合羽を脱ぐと、ずっと雨にあたっていたせいで身体が小刻みに震えだした。
 すぐに風呂に入った。熱い湯に浸かっても、しばらく震えは止まらなかった。湯の中で両手を握ったり開いたりしていると、鈍い痛みを覚えた。よく見ると、手のひらに赤い跡ができていた。たぶん木の枝をずっと強く握っていたからだろう。小さな傷もいくつかついている。私はみちるの足首を掴んだときのことを思いだした。あの痣のように消えなければいいのに、そんなことを思った。
 風呂場を出て、白髪の男とすれ違った。
 誰かいましたか、と男は訊ねた。
 え。
 川に。
 誰も。
 誰かがいるような気配も。
 たぶん。
 そうですか。
 男は視線を床に落とし、ポケットから封筒を取りだした。
 手紙が届いてます。
 手紙?
 受け取った手紙の字は、二本木さんのものだった。私は部屋に戻り、二本木さんの手紙を開いた。庭につくる川の基礎をつくりはじめたということだった。
 よくよく冷静に考えて、たとえ小さくても川をつくるなどということは、やはり現実的に無理かもしれません。しかしできるところまではつくってみるつもりでおります。眠る前、水の流れる音を想像しておるのです。するとそれが言葉のように聞こえてきました。起き上がってペンを持ち、わたしは紙にむかいました。久しぶりに書いたものです。
 それは詩だった。

  わたしたちは 夜に歳をとる
  夢の中で生きるたび
  皴を一つきざみ 咳が一つふえる
  わたしたちは 夜に歳をとる

 その夜は眠れなかった。身体はひどく疲れていたはずだった。しかし電気を消し、布団の中で目を閉じると、頭の中がやけに冴えはじめた。翌朝、東京に帰ろうと思っていた。東京に帰っても、することは何もない。きれいに片づけられた誰もいない部屋が待っているだけだった。また二本木さんに会いに行ってみようかと考えた。二本木さんと一緒に川をつくってみるのも悪くない。
 携帯電話が鳴ったのは、夜明け近くだった。
 無機質な着信音が天井に響きわたった。一瞬、心臓が大きく波打った。みちるの番号だった。電波の状況が悪かったので、携帯電話をつかみ、窓際まで行った。外はまだ雨が降っていた。通話ボタンを押した。何も聞こえない。しばらく待っても、誰の声も聞こえてこない。電波が届いていないわけではなかった。耳を澄ましていると、暗い沈黙の奥に誰かがじっと息を潜めているのがたしかに感じられた。
 私は夜の山を眺めていた。暗闇の中にあらわれる言葉をじっと待っていた。私がそうしているのを、電話の向こうのみちるもわかっていた。みちるも私の言葉を待っている。電話を握りしめる手にじっとり汗をかき、身動きをせず、できるだけ呼吸を抑えながら言葉を待っている。そんなみちるの姿を想像することができた。きっとあの生真面目そうな瞳でまっすぐ闇を見つめている。私もみちるも、どこにも行かない。いつ途切れるかわからない沈黙の中で、私たちはお互いのありようを感じとっていた。そのような暗い場所でしか、私たちは結びつけないのだろうか。
「そばに誰かおるの」
 やがて小さな声が聞こえた。はるか遠い場所から発せられたみたいで、いつものみちるの声には聞こえなかった。でもやはり、それはたしかにみちるの声だった。
「誰かおるの」
 私が黙っていると、みちるはもう一度訊ねた。
「いや」と私は答えた。それも他人の声みたいに響く。
「誰かの声が聞こえる」
「誰か」と繰り返した。昼間、たしか山の中を歩きながら私は何かをささやいていた。気づかないうちに、また何かをささやいていたのだろうか。
「奈良の家には行った?」とみちるが訊ねた。
「いや」
「どうして」
「そんな気になれんかった」
「おみやげは」
「まだある」
「ホテルなの?」
「ちがう」
「食事は?」
「あんまり」
 舌の根元が渇いて、短い言葉しか出てこなかった。それまでずっとみちるに訊ねるべきだと考えていたことが、何ひとつ思いだせなかった。ふと、窓の外で何かがよぎったような気がした。
「今、どこや?」と訊ねた。
 みちるは何も答えない。
「名古屋か」
「……駐車場」
「駐車場?」
「そう」
「名古屋の駐車場か」
「ちがう」
「降りたのは名古屋やろ」
「そう」
「それからは」
「おぼえてない」
 みちるはときどき気持ちをひとつにまとめるように言葉を止めた。そのあいだ、私は気づかれないように静かに息を吐いた。手のひらには赤い痕がまだ残っている。
「起きてたら」と私は呟いた。
「え」
「もしおれが新幹線でずっと起きてたら?」、私は手のひらを見つめながら訊ねた。
「たぶん、同じ」とみちるは答えた。
「同じか」
「だってみんないつか眠る」
「そうやな」
「テレビが点いたままなの」
「テレビ」
「部屋のテレビ、点けたままにしてきたから」
「なんで」
「あなたが帰ると思って」
「おれが」
「そう」
「どこに行くんや、これから」
「まだ、わからん」
「……」
「でも、もうあなたのところには戻られへん」
「知ってる、それは」
「じゃあ」とみちるは言った。「わたしがずっと眠るように暮らしてたのは知ってた?」
「眠るように?」
「あなたは東京?」
 そこで電波が途切れた。そのあといくらかけなおしても、電話はどこにも繋がらなかった。
 私は携帯電話を握りしめて、そのまま窓の外を眺めていた。山の闇は濃かった。その黒く巨大な土の塊を目にしていると、足が軽くなり、身体が空っぽになって、宙に浮いてしまうようだった。やはり自分は誰とも結びついていないような気がした。たぶん自分自身とさえ結びついていないと思った。
 山の中を、また何かがよぎった。そしてすぐに闇の中に消えた。しばらくすると、また現れた。それは人影だった。白っぽい上着の上に長い髪が揺れている。女だった。女が山の中を歩いている。女は一人で、山の闇の奥へと進んでいく。私は女の背中を見つめていた。もうしばらくすると、いつものように夜が明ける。しかし女の進むほうには、まだ痣のような青い闇が残っていた。

(2007年作)

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