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ブラッキング

 ブラッキングの申込フォルダへと振り分けられた一通のメールに池田亜芽あめが気づいたとき、デスクトップの時刻表示はすでに午前0時を過ぎていた。シャワーを浴びた髪を乾かすことなく、旧型の扇風機がかたかたと送り出す微風で就寝前の副交感神経を働かせ、亜芽は動画サイトを閲覧していた。ある風俗嬢の日常を映したチャンネルだ。自宅でくつろぐ風俗嬢は目元を隠したカメラアングルで、簡単に作った食事を口にしながら、その日の客について十分ほど話を繰り広げる。一人目の三十代の体育会系サラリーマンは、性感帯をいじられるたびに猫みたいな粘着質の声をあげた。二人目は材木みたいに痩せているヘビメタバンドのギタリスト。硬質化してささくれた指先が痛くてどうしようもなく、風俗嬢が取った対処は──そこで亜芽はひとまず再生を止めた。そしてメーラーに画面を切り替え、未開封のメッセージを開いた。
 ホームページの定型フォームによって送信されてきた個人情報が画面に並ぶ。最初の項目は申込者の氏名だ。その一行を目にした瞬間、亜芽の呼吸は止まった。肉体の異変を察知し、心臓が大きな音を立て始める。住所の欄には東京都杉並区とあり、その下に携帯電話の番号が続いている。希望の訪問日時は翌週の金曜日、夜七時から二十四時間の利用。二名での体験を望んでいる。もちろん初めての申し込みだ。ブラッキングを運営しているのがわたしだと把握しているのだろうか、亜芽は机の上に肘をついた手で口元を覆う。神経が張りつめてくると、亜芽の鼻腔はいつも収縮する。困難になった鼻呼吸の代わりに口呼吸が荒くなる。いや、わたしだと知りようがない。だってホームページの責任者には父の名前が記載されている。どこにでもある何の変哲もない名前だ。それにわたしが会社を辞めてから七年が経っている。今さらわたしを追いかけてくることなど考えられない。
 その申込メールを黙殺することはもちろんできた。亜芽は手のひらの湿り気に息苦しさを感じながら、一行目の氏名欄から目を離せないでいた。彼女の頭の中で広がろうしていたのは七年の歳月だった。何も見ず、何も聞かず、何も話さず、何も起こらなかった暗闇の七年。今もまだそこから完全に脱することができたとはいえないが、片手ぐらいはなんとか崖の上を掴むことができているかもしれない。この申込メールはわたしの足首を強く握り、再び暗闇の底へ落とそうとしているのだろうか。ただ、わたしは今すでに別の闇を手にしている。
 亜芽はミスタイプをしないように時間をかけて、田村晴夏はるかという氏名で送信された申込メールに返信文を作成することにした。完成した文章を何度も読み直し、送信ボタンをクリックしたときには、亜芽の鼻腔は扇風機の風を充分に吸いこめるほど開放されていた。
 男の硬くなった指先の皮膚を噛みちぎった──目元を隠した風俗嬢はカメラの前でそう続けた。そっか、舐めてふやけさせるには時間がかかるから、亜芽は乾いた指先でクリックして動画サイトを閉じた。

 田村晴夏と出会ったのは、亜芽が大学を卒業して初めて勤めた会社だった。東京郊外にある大学の文学部でエミリー・ディキンスンについての卒論を書き上げた後、主に自己啓発本やビジネス書を中心に扱う中堅の出版社に亜芽は入社した。編集部への配属を希望していたが、彼女のデスクが用意されたのは総務部だった。ダンス講師で社交的だった父とは対照的に、一人っ子の亜芽は子どもの頃からよく読書に夢中になった。誕生日に買ってもらった世界文学全集をベッドの上で読み耽っているときが、不安げな心を最も落ち着かせられる時間だった。中学から大学まで一貫して文芸部に所属し、自分で何篇か小説を書いたこともあった。だから出版社から内定が届いたときは、仏壇に飾られた母の遺影へ廊下を走って報告した。今の採用状況は買い手市場だから贅沢は言えない、社内経験を積めば編集部に異動させてもらえるかもしれない、先に見えているのは光しかないような気持ちで、亜芽は皺一つないスーツ姿を満員電車へと強引に押しこめた。
 田村晴夏の席は亜芽のとなりだった。晴夏は亜芽の三年先輩で、背も亜芽より高かった。いつも椅子の背もたれに体を預けることなく、背筋をぴんと伸ばして顎を引き、最小限の音でキーボードに素早くタッチしている。他部署の社員が総務部に入室してくると、アナウンサーのような淀みのない滑舌で声をかけ、彼らと気軽に笑い合った。自分の教育係としても親切に接してくれる晴夏に、亜芽も好感を持っていた。文房具や備品の場所、昼休みの席の空け方、取引先からの菓子折りをどういう順番で配っていくかなど、晴夏は亜芽の横にぴたりと張りつき、丁寧に一つずつ教えてくれた。
「これ、余ったからあげるね」
 銀座の有名洋菓子店のロゴが入った未開封の箱を、晴夏はそのまま亜芽に差し出した。
「いいんですか」亜芽は驚いて晴夏を見上げた。
「いいのいいの。誰も気にしてない」晴夏はにこりと微笑んだ。「あめちゃん、可愛いから。内緒だよ」
 もし姉がいたらこんな感じかもしれない、ランチを終えた亜芽は晴夏の横を歩きながら一人微笑んだ。ときおり晴夏の後ろ髪に隠れた首元から、気の遠くなるような香水のにおいが漂ってくると、亜芽の鼻腔はゆったりと弛緩した。あるとき香水が変わったことに亜芽が気づいて伝えると、晴夏は驚いたようにしばらく黙っていたが、嬉しそうにこくりと頷いた。
 入社から半年が経った頃だった。十月に発売が重なる新刊本のために、いくつかの大型書店でイベントが予定されており、その準備のために総務部では残業が連日続いていた。ポスターなどの印刷物の発注、POPの作成や陳列台の手配など、それらをまとめて各書店へ出荷しなければならない。その夜、時計の針は九時を過ぎていたが、亜芽はまだ各書店に陳列する書籍のラインナップを整理し終えてなかった。となりの晴夏だけが亜芽の作業を手伝うために社内に残っていた。
「もう少しだね」晴夏はキーボードを打ちながら励ました。
「ありがとうございます」亜芽はリスト表にチェックを入れていた赤ペンを止めた。「田村さん、もう大丈夫ですから。あとは一人で間に合います」
「でもあめちゃん、まだ最後の退館者になって、フロアのセキュリティを設定したことないでしょ。それは憶えなきゃね」
 自販機で入れた紙コップのコーヒーが空にならないうちに、なんとか亜芽はリスト表のチェック作業を完了させることができた。荷造りと発送作業に取り掛かるのは翌日でも間に合う。となりを見ると晴夏は頬杖をつき、まだパソコンのモニターを見つめていた。遊ぶようにマウスを回し、ときどきエンターキーを押しているだけだ。
「あめちゃんってさ、好きな人いるの」
「え、何ですか、突然」
 いつもの何気ない話かと思い、亜芽は調子を合わせようとした。だがモニターのブルーライトに照らされている晴夏の横顔はふざけていなかった。
「好きな人、いる?」今度は椅子をくるりと回し、晴夏は亜芽の目を正面から見た。
「いえ、いませんよ」
 晴夏の大きな目が昼間とは違う輝き方をしているように亜芽には見えた。
「じゃあ今まで付き合ったことある?」
「ええ……一人」
「学生の頃? どれぐらいの期間?」
「大学の同じ文芸サークルで、半年ぐらいですかね。結局なんとなくすれ違って」
「ふうん」
 晴夏は何度か頷きながら、亜芽から目を離そうとしなかった。まるでその体の中に潜む何かを見つけ出そうとするみたいに、亜芽の全身をしばらく見回していた。
「ねえ、あめちゃん」幼児に語りかけるように晴夏は甘い声で言った。「あめちゃんって小柄でおとなしいし、でもそのわりに胸はあるし、男の人に好かれるタイプでしょう」
 そう小さな声で言われると、亜芽は壁際に設置されている気難しそうなシュレッダーに目を向けるしかなかった。いつもの快活な晴夏とは違う雰囲気だった。
「わたしもさ、あめちゃんみたいな人、好きだよ」
 晴夏は椅子のキャスターを利用して、床を滑るように亜芽のそばに移動した。四つの膝は開通したばかりの橋のようにぴたりと接した。晴夏は黙って亜芽を見つめると、上半身を前に倒し、ゆっくりと両腕を亜芽の首に回した。そして少し傾けた顔を亜芽の唇に近づけてきた。亜芽はわけがわからなかった。考えるより先に鼻腔が締めつけられた。晴夏の香水のにおいを拒絶していた。
「すみません」
 晴夏の腕を振りほどき、亜芽は勢いよく立ち上がった。コーヒーの残った紙コップが晴夏の太腿の上に倒れた。白いスカートが黒く染まるのを亜芽が目にしたのは一瞬だった。亜芽は反射的に自分のバッグを手にして、総務部のドアから飛び出していった。
 翌朝、亜芽は洋服を汚したことを晴夏に謝った。わたしの不注意でしたとだけ言い添え、晴夏も「いいのよ、気にしないで」といつもと同じ笑みを浮かべた。亜芽が追いつめられていったのはそれからだった。最初は書店でのイベントで使用する物品の不足だった。細々こまごまとした用具は現場で買い揃えることができたが、商品としての書籍が圧倒的に少なかったことはどうしようもなかった。亜芽は営業担当者から叱責された。何度も冊数をチェックしたはずなのにと亜芽は首をひねった。晴夏からは「慣れないうちは仕方ないけど、次は気をつけてね」と肩を叩かれた。
 その後も、亜芽の担当業務で原因の思いあたらないミスが何度も続いた。著者に送付する見本誌を別の著者に郵送したり、取次会社に納品する書籍の数量入力を間違えていたり、共有ディスクに保存されていた社員の経費管理ファイルを削除したりした。一度、書籍流通に必要なISBNコードを間違って付番したときは、総務部全員で倉庫に出向き、印刷済みの書籍すべてに正しいコードのシールを貼らなければならなかった。
 ミスが続くにつれて、晴夏が話しかけてくることが少なくなった。他の社員とは変わらず軽口を交わしているのに、亜芽に用事があるときは事務的なメールを送信してくるだけだった。どうやら晴夏は社内で同情の空気に守られているようだった。晴夏がこれまで手取り足取り教育してきたのに、新卒の後輩がやるべき確認作業を放ったらかしにしているせいで、やりづらい立場に立たされているという話が広まっていた。亜芽の代わりに晴夏は迷惑をかけた部署に頭を下げていた。あの子はああいう感じですけれど教育係の私の責任でもあります、というふうに。給湯室で社員たちがそう小声で交わしているのを亜芽は耳にした。
 やがて朝から夜まで綱渡りをするように亜芽の神経は張りつめ続けた。自宅のベッドで横になっているときも眠った気がしなかった。睡眠不足の頭は実際に亜芽自身によるミスを引き起こした。彼女に回ってくる仕事は少なくなり、電話も取らなくていいと上司から言われた。毎朝出社してから誰とも言葉を交わさず、誰とも目を合わせず、一ミリも表情を変えず、何を食べても味がせず、ただパソコンの画面に顔の角度を合わせているだけの日々が続いた。
「今のご時世、簡単にクビにできなくなったからな」ふと誰かの声が聞こえた。
「何それ、私に言ってるの」
 晴夏がそう笑いながら、こちらの様子をちらりと窺うのを亜芽は感じた。
 入社から一年後、亜芽は会社を辞めた。自分はただ驚いたのだ、と亜芽はかつての夜を思い出していた。驚いて、晴夏の突然の態度にうまく対処することができなかった。自分が関わったミスはプライドを傷つけられた晴夏が仕組んだことなんだ、亜芽はそう初めから認識していた。だが証拠はない。言葉だけで会社に説明するにはもはや遅く、その気力の一滴も亜芽には残っていなかった。彼女が目指した光は会社のどこにも、そして社会のどこにも灯っていないように思えた。彼女はそんなふうにして、父親と二人で暮らすマンションの自室で七年間の暗闇に沈んでいくことになった。

 亜芽がブラッキングの運営を始めたきっかけは二つあった。
 一つめは父の死だった。会社を辞めてから、亜芽が外出せずに自室にひたすら引きこもっていた七年間、父は文句一つ言わなかった。昼夜の境目を失った一人娘が働こうとせずに本を読み漁ったり、インターネットの無限の世界に浸かったり、何日も風呂に入らずにいたりしても、父は盆の上に並べた食事や宅配便で届けられた荷物を、彼女の部屋の前にそっと置くだけだった。そんな父がある夜、ダンスレッスンの仕事を終えて横断歩道を歩いていると、電源コードを抜かれたみたいに何の前触れもなく地面の上にどすんと倒れた。脳卒中だった。まもなくマンションの部屋を訪れた警察に応対し、病院で父の横たわる姿を確認し、役所に死亡届を提出し、数人集まった親戚と共に火葬場で骨を拾うことで、亜芽は七年ぶりに外界の雑多な空気を吸うことになった。
 これからどうするのと伯母が火葬場で訊ねてきた。亜芽がうつむいていると、とにかく美容室に行きなさいと伯母は鼻を押さえながら立ち去った。美容室なんてどうだっていい、亜芽は何もない遠くを見た。すでに三十歳になっていた亜芽が考えていたことは、これから生きるのか、それとも死ぬのかの二択だった。父の死は亜芽の心に大きな穴を開けた。ただ、父に長く付き合っていた恋人がいたのを彼女は知っていた。相手の女と頻繁に外食をしたり、旅行に行ったりしていたことに気づいていた。だからこそわたしにもうるさくしなかったのだろう。女との付き合いで浪費していたためか、父が残した預金額は決して多くなかった。他に残されたのは自宅の分譲マンション、ダンスレッスンで使用している賃貸スペース、そしてダンス教室のホームページだ。七年間も引きこもっていた三十歳の女を雇う企業がこの世にあるとは亜芽には思えなかった。父が残したもので生きることができなければ、選択肢は自然に一択に絞られる。
 亜芽はとりあえず倹約を始めた。賃貸スペースの管理会社に連絡をし、自宅の電気をほぼ点けず、週に二、三回しか風呂に入らず、食事は一日中食べないことがあった。徐々に減少する体重計の数字を見ながら、亜芽はふとファスティングのことを思い出した。イベント会社が用意した会場に複数の人々が集まり、何日かにわたって断食を行うのだ。口に入れるのを許されるのは最低限の水だけらしい。ファスティングを終えた人たちは生まれ変わったような輝かしい表情を浮かべていたと文章は締め括られていた。引きこもった自室で流し読みしていたネット記事が、ブラッキングを始めた二つめのきっかけになった。
 一定時間食事をしないことで胃腸が休められ、衰えていた消化機能が復調する。消化がスムーズに行われることで、脂肪がつきにくい体になるという。また断食によって、体はエネルギーを生み出そうと脂肪を燃焼させる。ファスティングは効果的なダイエット法だと話題になっていた。本当にそうだろうか、亜芽はあらためてファスティングについて検索した。消化機能とか脂肪燃焼なんて現象にすぎない。本当は死に近づこうとしているからだ。食事をって死の状態に向かおうとするのを、肉体が反抗する。死に向かう精神に対抗しようと、肉体が生を引きずり出してくるのだ。かつて亜芽も食事を取らずに、薄暗い部屋で何日かを過ごしたことがあった。確かに追いつめられた空腹状態が全細胞を叩き起こし、全身がじりじりと騒めいてくる感覚が起こった。だが記事に書かれているような生まれ変わった状態などにはならなかった。きっとまだ足りなかったんだ、モニターを眺めながら亜芽は思いきり息を吸った。食事を断つだけでは足りない。死とは根本的に光を断たれることだ。「断光」しないと限界まで死に近づけない。
 父の残したダンス教室の鍵を返却する日、亜芽はやはり契約を継続する旨のメールを管理会社に送信した。そこには町のダンス教室として充分な生徒数が練習できるほどの広さがあった。だが窓が多かった。さらに壁一面の巨大な鏡が、降りそそぐ外光をフローリングの床へと眩しく反射させていた。亜芽はまずネット通販で黒い遮光フィルムと黒い紙を買った。それらをダンス教室の窓に隙間なく貼りつけ、さらに上から遮光カーテンを引いた。床には厚めの黒いカーペットを敷きつめた。蛍光灯を消すと、かつて光に満ちていたレッスン場は一瞬で完全な暗闇に閉ざされた。一条の光も侵入していない。自分の手がどこにあるのかもわからなくなり、亜芽はすぐに電気のスイッチを点けた。
 ホームページを用意することは亜芽にとって難しくなかった。言葉を綴れるなら小説を書けるのと同じように、誰でもたやすくネットビジネスを立ち上げることができる。ダンス教室のアドレスにリダイレクトを設定して、亜芽が作ったサイトへと訪問者を遷移させる。デザインはシンプルなもので構わず、受注や決済などのECシステムは代行会社のサービスを利用すればいい。真っ暗な空間を提供するだけなので料金設定は高くできないが、毎月の賃貸費と生活費を賄える収入さえあれば充分だった。最後、サイトの名称欄に「ブラッキング」と入力すると、亜芽はアップロードのボタンをクリックした。
 従来のファスティングに満足できない声があることを亜芽は調べていた。彼らは肉体機能のリセットやダイエットだけに物足りず、何か精神的な高みに向かうことを求めているようだった。そんなコメントが記載された掲示板に、亜芽はブラッキングのバナー広告を掲載した。反応はゼロではなかった。怪しい宗教団体とか犯罪組織だろうという批判のコメントが多かったが、実際の利用者の体験談がSNSや口コミで広がっていくと、ブラッキングへの申込メールも少しずつ増えてきた。何ヵ月か経つと、申込者の利用日時が重ならないように調整する必要が出てくるほどになった。

 金曜の六時五十五分、田村晴夏がドアの前に到着した姿を、亜芽は自室のパソコンで確認した。玄関前の天井に設置された防犯カメラの映像は、ネットワークで転送されるようにしている。晴夏は用心深そうに周囲を見回していた。小さな防犯カメラに気づき、しばらくこちらを見上げた。亜芽は汗ばんだ手でマウスを操作し、映像を拡大する。やはり田村晴夏だった。かつて自分のとなりの席で香水のにおいを漂わせていた女だ。晴夏はスマホを片手で操作し、ノブに付けられたデジタルロックの暗証番号を押し始めた。あらかじめメールで知らせておいた数字だ。暗証番号は一度きりの使い捨てで、一度ドアを閉めると別の暗証番号に切り替わる設定になっている。解錠ランプが小さく光った後、晴夏はドアを開け、部屋に入ろうとする。晴夏の背後に、もう一人いた。晴夏が開けたドアを伸ばした手で支えている。背中までの長い髪で、細身の体。精細な画像ではないが、女ということは判別できた。
 部屋での利用者の行動について、亜芽は基本的に干渉しなかった。室内に設置している暗視カメラはあくまで不測の事態のためだ。一度、部屋の中をなぜか羽毛だらけにされたことがあり、カメラを設置することにしたのだ。部屋の中には何もない。トイレ以外、水は流しの蛇口からも出ない。蛍光灯のスイッチも利用者には操作できず、入室後の十分間と退室前の十分間にだけ自動的に点灯するように設定している。ダンスレッスンで音楽が流されていたため、壁には防音材が使用されている。利用者は最大三名、最長七十二時間まで滞在できる。ほとんどの利用者はブラッキングの目的どおりに食と光が断たれた暗闇で過ごすが、なかには懐中電灯や食料を持参して仲間同士だけの空間を楽しむ者たちもいる。自由にすればいい、利用者の様子を確認して亜芽は思う。わたしは空間を提供するだけだ。そこでどう過ごすかは利用者の意志だ。父だってわたしのことを七年間も放ったらかしにしてくれたのだ。
 だが田村晴夏が女と二人でドアを閉めた瞬間、亜芽はすぐにパソコンの画面を廊下のカメラに切り替えた。自分の知り合いがそこでどんな行動をとるのかにも興味はあった。ただ同時に、晴夏は本当に自分の存在に気づいていないのか、そのことも確かめたかった。ドアの前で防犯カメラを見上げた晴夏。その二つの大きな目は、ネット回線をくぐり抜け、パソコンの前に座る自分の姿をじっと見据えているように亜芽には思えた。
 暗視カメラに音声を伝える機能はない。低解像度で映し出された無音のモノクロ映像の中で、晴夏と女はゆっくりと廊下を進む。持ち物はそれぞれ小さなバッグを手にしているだけだ。亜芽は部屋のカメラに切り替えた。ドアを開けた二人は室内を見回し、しばらく隅々を歩き回った。晴夏はどんな設備があるのかを確かめているようで、ときどき振り向いては女に言葉をかけている。室内の暗視カメラはカモフラージュされていて、設置場所は亜芽しか知らない。ブラッキングの利用者が外界を意識せずにすむようにだ。いくつかのカメラで晴夏と一瞬目があったが、亜芽は構わずに晴夏の動きを追った。
 晴夏と女は部屋の真ん中に腰を下ろした。互いに手を差し出せば繋げるぐらいの距離が二人のあいだに保たれている。カメラに背を向けている女の表情はわからないが、晴夏はときどき口元を動かし、昔と同じく白い歯を見せている。やがて十分が経過し、栓が抜かれた水槽のようにゆっくりと光量が減少していった。暗視カメラのセンサーが反応し、映像が極端なコントラストに切り替わる。真夜中の猫のように晴夏の瞳が白くなる。いつもそのようにして光は完全に黒く塗り潰される。
 光が失われても、二人は姿勢を崩さなかった。変わらずに脚を斜めに曲げて、カーペットに手をつき、口を動かし合っている。もし体調が急変したり、どうしても退室したくなったときはスマホで通話してくるようにと事前に伝えている。ふと、先ほどまでブルーライトを放っていた二つのスマホが見あたらないことに亜芽は気づいた。二人の手元にもないし、床にも置かれていない。バッグにしまったかもしれない。微かな不安を覚えた亜芽が映像を凝視していると、やがて晴夏と女は上着を脱ぎ始めた。ブラッキングのあいだ、室内はエアコンによって適温に調整されている。だが二人は申し合わせたようにシャツを脱ぎ、スカートを脱ぎ、するりとストッキングを脱いだ。あっという間に下着姿になった二人は覚束ない動きで両手を差し出し、盲人のように互いの場所を確かめようとしていた。晴夏の指先が女の手首に触れる。晴夏はそのまま女の腕をゆっくりと引き寄せ、女の胸に顔をうずめた。そして首元に舌を這わせ、顎の先に舌を這わせ、唇を重ね合わせた。唇を重ね合わせたまま、晴夏の手は女の背中を引き寄せてブラジャーを外した。手にしたブラジャーは闇の片隅に投げられた。晴夏は自分のブラジャーも外し、同じように投げ捨てた。そして再び二人は互いの裸を抱きしめ合い、首の角度を変えながら長いあいだ唇を重ね続けた。下着を脱いで相手のあらゆる部分に触れ合い、手脚を重ね合い、強く求め合っているときでも、まるで互いの存在を忘れないように周期的に唇を重ねていた。

 亜芽自身、ブラッキングを行うことがあった。
 最初は室内のすべての準備を整えて、ホームページをアップする直前だった。ドアのデジタルロックや室内の自動点灯や防犯カメラが正常に機能するかをチェックする目的も兼ねていた。亜芽は部屋の隅に膝を抱えて座り、壁にもたれた。まもなくして夕暮れが夜を迎え入れるように光量が絞られた。亜芽は真っ暗な天井を見上げた。いくら時間が経過しても、目が慣れることは決してなかった。開放された瞳孔がわずかな光を求めようとしても、眼前には何も浮かんでこない。鼻先まで漆黒の壁が迫っているようだった。念のために手をかざして、そこが空間だと認識する。
 亜芽は背後の壁に手をやりながら、恐る恐るカーペットの上に横たわった。このまま二十四時間を過ごすのはたやすいだろうと最初は思った。そのうち眠ってしまうかもしれない。だがどれだけ時間が過ぎても、眠りが訪れることはなかった。それどころか亜芽の意識は研磨されるガラスのように冴えていった。肉体への視覚的認識が失われ続けることで、意識だけが闇の床に転がっているように思えた。そのまま眠ってしまうことに次第に恐怖を覚えた。亜芽は落ち着かなくなり、肉体の実存を確かめるために上半身を起こし、立ち上がった。そして部屋の中をすり足で動き回った。すぐに自分が部屋のどのあたりにいるのかわからなくなる。前後左右の意味は暗闇の海に霧散し、脆弱な方向感覚の羅針盤はたやすく損なわれた。
 亜芽は諦めて、再び床に腰を下ろした。普段彼女は電灯をすべて消さないとベッドの中で眠れなかった。だが今、まわりを覆っている闇は普段のそれと全く違っていた。密度が濃く、亜芽の皮膚や筋肉や内臓を通り抜けて、亜芽の意識に侵食しようとしていた。その日は朝から何も食べていなかったが、まるで肉体そのものが失われたみたいに空腹感はどこにも見あたらなかった。そんなことよりも濃密な闇は長い時間をかけて彼女の存在にじっくりと確実に染み渡り、闇そのものに塗り潰そうとしていた。「これが死ぬことなのか」亜芽が実際に口にした言葉は、その場に不適当な響きであったかのようにすぐにかき消された。
 内側からなら玄関のドアはいつでも開けられるようになっている。だが亜芽はずっと膝を抱えていた。そして瞼を閉じていた。意味はなかった。瞼を開けているときと同じ闇だからだ。それでも亜芽は瞼を閉じて、自らの意識の流れに身を任せようとした。子どもの頃に読んだ本、自分で書いた小説、学生時代に数少ない友だちと観に行った映画、父が毎日作ってくれた弁当、幼少の頃に亡くなった母とのほのかな思い出、出版社に就職して担当した仕事、晴夏と交わした会話と迫られた夜、引きこもっていた自室で目にしていたウェブサイトやテレビゲームの画面……。さまざまな種類の記憶が脈絡なく蘇り、それぞれが繋がり合って、突然ぷつんと消えたりした。現実に起こったことが闇の中で再び起こった。そして起こらなかったことも闇の中では起こっていた。現実に起こったことと起こらなかったことの境目はほどかれ、その狭間で亜芽は鼻腔を弛緩させながら残りの時間を過ごした。
 やがて電球色の優しい明かりがゆっくりと灯り始める。一点の星のような光が数十秒をかけて朝日のように部屋中に広がっていく。カーペットの上に横たわっていた亜芽は立ち上がり、オートロックのドアから出て、自転車のペダルを漕いで自宅のマンションに戻った。二十四時間、彼女は一睡もしていなかった。だが不調を感じるどころか、妙な平静さが心に宿っているのがわかった。通り過ぎていく信号機やビルの輪郭がくっきりと浮かび上がり、車のクラクションや人の話し声などの雑踏一つ一つを聞き分けることができた。自宅に戻ると、亜芽は洗面台の鏡を見た。前日より自分の二つの瞳が深く透きとおっていた。もう一つの世界が瞳の奥に広がっているようだった。闇の中で起こったことを亜芽は思い出そうとしたが、うまく思い浮かべることができなかった。それらは闇の中でしか見えないものなんだ、そう思うことにした。その日、彼女は美容室に行った。毎日風呂に入り、三食を取るようにした。そしてときどきブラッキングを行い、闇で起こることに向き合うことにした。闇の中でしか見えないものが、そこにはあった。

 二十四時間が経過し、晴夏たちが退室したのを防犯カメラで確認した後、亜芽は自転車に乗って部屋を訪れた。室内に変わった様子はなかった。ただ、うっすらと香水のにおいが残っている。その微量の粒子は亜芽の鼻腔から侵入し、晴夏との記憶を引きずり出した。七年前、晴夏がどういうつもりで自分に唇を近づけてきたのか、ただの興味本位なのか、それとも本当に自分を求めてきたのか、あのときの亜芽は測りかねた。それよりも自分を突き落とそうとする策略に憔悴しきっていた。しかし七年ぶりに目にした晴夏の行為に、亜芽はもう戸惑ったりしなかった。裸の晴夏が女と溶けるぐらいに抱き合っている映像を、亜芽はただ静かに眺めていた。
 それは以前、すでに闇の中で起こっていたことだった。自分はすでにここで晴夏から求められている。暗視カメラで見た映像のように、裸の晴夏が裸の自分を抱いている光景をすでにこの闇の中で見ている。実際に起こらなかったことがすでに起こっている。亜芽は部屋の真ん中に立ち、それまで闇の中で見てきたものを思い浮かべようとした。そのときちょうど十分が経過し、部屋の光は失われていった。
 その後も晴夏は定期的にブラッキングを申し込んできた。大体二週間に一度のペースで、相手はいつも同じ女だった。部屋の光が失われてまもなくすると、晴夏と女はいつも裸になって、自分の肉体を相手の肉体に重なり合わせた。ゆっくりと時間をかけて互いの体を慰めた。晴夏はときどき目を閉じ、女の髪の分け目に鼻をあてて肩を上下させた。女は晴夏の首筋に歯をあてたり、頬ずりをしたりした。目を開けたり閉じたり、口を歪ませたり、歯を食いしばったり、二人の表情は波のように変化した。それはまさに光を断たれた場所でしか希求することを許されない切実な行為だった。求め合う波が静まると、体を離し、二人とも横たわったまま動かなかった。そして時間が経つと、思い出したように相手の肉体と再び一つになろうとした。闇が失われる終了時間まで、彼女たちは一つになることを何度も繰り返していた。
 晴夏たちは毎回二十四時間以上も部屋を利用していて、その姿を連続して注視し続けることは現実的に不可能だった。それに暗視カメラを通じて晴夏の行動を見続けることは、亜芽にとって味のしない料理を口にするような重い空しさがあった。そのかわり晴夏たちがブラッキングを終えた直後は他の客からの利用を受け付けなかった。晴夏たちの退室を確認すると、亜芽は自転車にまたがって部屋に向かった。そしてまだ晴夏の残り香が漂っているうちにブラッキングを始めた。
 亜芽が一人でブラッキングを行なっているとき、闇の中の晴夏は明確な顔を持たなかった。昔の二十六歳だったり、今の三十三歳だったりした。洋服もいろんなタイプのものを身につけていたが、大して意味はなかった。晴夏はすぐに身につけているものを脱ぎ捨て、亜芽の唇を求めてきた。晴夏に導かれるまま亜芽も服を脱ぎ、下着を脱いだ。そして唇を受け渡し、乳房を差し出し、二本の脚を開いた。明確な顔を持たないかわりに、晴夏の肉体は闇の中で明確に形作られていた。その肉体は夜の水のように亜芽の意識に侵入し、何かを引きずり出そうとしていた。それがどこにあるのかわからない。晴夏は何かを探しあてようと亜芽の中を優しくまさぐり続ける。それは亜芽にとって抵抗すべき侵入であり、受け入れるべき解放だった。収縮して押し出そうとしながら、弛緩して受け入れようしていた。
 だが結局いつも晴夏の肉体は途中で闇に消えていった。電圧が落ちるように明確な輪郭は徐々に失われた。晴夏が実際にブラッキングを利用するようになってからは、亜芽は以前よりも長い時間をかけて晴夏と交じり合うようになった。だがそれでも最後までたどり着いたことはまだなかった。たとえば途中で父が姿をあらわして空中でステップを踏み始めたり、母がソファに座って赤ん坊をあやし始めたりしていた。
 亜芽は自宅の洗面台の前に立つ。半年前よりも顎のラインがシャープになり、口元が引き締まり、瞳の深度は増していた。鏡をじっと見ていると、瞳の奥底で裸の晴夏が住み着いているような気がした。
 ある夜、パソコンの前に座って動画サイトを開くと、いつもの目元を隠した風俗嬢がブラッキングの体験レポートを語っていた。彼女がどの申込者と一致するのかは不明だったが、話しぶりから最近部屋を訪れたのだろうと亜芽は推測した。
「……あたしは一人でやったんだけどね。普通に瞼を閉じるだけじゃ、太陽の光とか透けて見えるでしょ。でもそこはガチ闇。目をぱちくりさせても、まったく変わらない暗黒空間なの。完全にゲームオーバー。最初はさすがに怖くて、じっと膝を抱えて固まってた。ペットボトルのミネラルウォーターをぎゅっと握ってね。でもだんだん慣れてくると、不思議と気持ちが落ち着いてくるのよ。どれぐらい経ったのか……時間の感覚も実際なくなるんだよね。なんかね、自分がまわりの暗黒と同化してきて、ちょっと空中に浮いてるんじゃないかっていうほど、ふわふわと軽くなってくるんだ。精神が体から脱皮した感じっていうのかな。それがめっちゃ心地良かったな。水以外は基本的に飲食禁止なんだけど、別に何も食べたくならなかった。普通のファスティングより効果あると思うよ。ただ長時間だから、どうやって過ごすのかは考えどころかな。眠ったり、スマホで誰かと話したり、音楽聴いたり、カップルだとエッチしたり、とか? あたしも実はこっそり一人エッチをしました。真っ暗だと違う感覚がして、いつもより気持ち良かったな。でも結局やることがなくなって、ずっと床の上でごろごろしてた。それから何時間も経って、やっと電気が点いて、ドアを開けて外を歩くでしょ。するとね、目に映る全部の景色がまるっきり嘘っぽく見えたのよ。たとえば電信柱が本当にそこに立っているのかわかんない感じ。なんて言えばいいんだろう、ちょっと待ってね……なんかね、自分がブラッキングをしていたあいだに世界中がいったんリセットされて、できたての世界を歩いている感じがしたな。全部が曖昧で、ふにゃふにゃしてて、柔らかくなったみたいで、イコール自分も生まれ変わったみたいな。あくまであたしの場合だけどね。こんな感じになれるならリピーターになってもいいと思ったよ。うん、もう一回やってみたい。ちなみにサイトの運営者が男の人になってて、ちょっと検索したらダンスの先生なんだよね。え、なんでダンス? ってウケたんだけど……」
 そこまで見て、ふとブラッキングの申込フォルダに一通のメールが届いていることに亜芽は気づいた。メールを開くと、送信者は田村晴夏だった。そのとき初めて晴夏は一人でブラッキングを申し込んできた。

 一人の晴夏は、ブラッキングのあいだほとんど身動きをしなかった。カーペットの床に座り、正面に顔を向けて、ときどき髪に手をやりながら、じっと何かを考えこんでいるようだった。亜芽はパソコンの前から離れ、食事を取ったり、買い物に行ったり、風呂に入ったり、ベッドに入ったりしながら、その合間に晴夏の姿を何度か確認した。やはり晴夏は姿勢を崩していなかった。七年前にとなりの席で座っていたように、顎を引いて背筋をぴんと伸ばしていた。ただ、ときどき前髪を垂らしてうつむき、目元を手で押さえ、小刻みに肩を震わせていることがあった。
 次第に晴夏からの申込メールが一週間に複数回届くようになり、利用時間も少しずつ伸びてきた。三十六時間、四十八時間、六十時間、そして七十二時間までブラッキングを行うようになった。あの女と別れたのだろうか、暗闇で一人佇む晴夏を見ながら亜芽はそう思った。最後に二人でブラッキングをしていたとき、晴夏と女が立ち上がって激しく口論している映像を亜芽ははっきりと憶えていた。女は手探りで自分の下着と服を拾い集めて身につけ、一人で部屋を出ていった。残された晴夏は裸のままカーペットに腰を下ろし、映像の転送が停止してしまったと思い違えるほど両手でずっと顔を覆っていた。
 モノクロに映る晴夏の頬が以前よりもこけている。目も落ち窪んで、彫刻刀で削ぎ落としたみたいに体のラインから曲線が失われている。暗視カメラだからそう見えているわけではない。亜芽は口元にあてた手のひらに息を吹きかけた。晴夏は実際に痩せ始めている。長期間のブラッキングが晴夏の肉体と意識を変貌させようとしている。食と光が断たれた空間に長時間身を置いたことによって、晴夏はより死に近づこうとしている。ある朝、亜芽が歯を磨いた後にパソコンの画面を見てみると、部屋の真ん中で晴夏が横たわっている姿が映し出された。亜芽は息を呑んだ。倒れた? 過度な断食と断光で気を失ってしまったのか──いや、本当に死んでしまったのかもしれない。亜芽は急いで服を着替えた。すぐに自転車を漕ぎ、部屋のドアを開け、明かりを点けて、晴夏の体を抱き起こし、七年ぶりに顔を合わせるところを一瞬のあいだに想像した。
 しかし自転車の鍵を手にしたところで、パソコンの中の晴夏はゆっくりと身を起こした。まるで一時的に空っぽにしていた肉体に自分を馴染ませるように、晴夏はしばらく手足を伸ばした。そしてふと、天井の隅を見上げた。そこはカモフラージュされた暗視カメラが設置されている場所だった。その先には汗ばんだ手で自転車の鍵を握りしめた亜芽が立ち尽くしている。晴夏はこちらを見上げたまま、いつまでも目を離さなかった。まるであの夜、オフィスチェアに座って滑りながら近づいてきたときと同じように、じっと亜芽のことを見つめていた。自分の視線が亜芽の視線と繋がっていることを認識しているとでもいうように、晴夏は痩せた頬で薄く微笑みかけてきた。

 自室に引きこもっていた七年間、亜芽は出版社で働いていたことを思い出すことがあった。亜芽が秘めていたわずかな夢と自信はたった一年で粉砕され、一歩も外に出ることができなくなった。当初は晴夏の顔が思い浮かぶたびに汗がじっとりと首元に噴き出て、眠れない日々が続いた。だが年月が経つにつれて、晴夏への苦い感情は植物が枯れていくように静まっていった。あのとき晴夏がわたしに怒りを持っていたとしても、その原因の一端はコンクリートの壁みたいに拒絶してしまったわたしにあったかもしれない。わたしは決して機転の利く人間ではなかったのに、晴夏はいつも優しく接してくれた。
 自室の中で時間が止まったように何も変わることなく、誰とも比べられることのない生活が過ぎ去るのを亜芽は何年も見送り続けた。結局は何も起こっていない人生を何も起こらないまま終えていくのだろう、亜芽は毎日パソコンのブルーライトに照らされ続けた。だからブラッキング中に晴夏が出現してきても、亜芽は最初から彼女を受け入れた。彼女にいざなわれるままに亜芽は闇の中で服を脱いだ。わたしを求めたいなら、そうすればいい。実際に晴夏がブラッキングの部屋を訪れてから、亜芽は積極的に晴夏を求めるようになった。晴夏の唇を噛み、晴夏の指先を舐め、晴夏の乳首を硬くさせた。きっとわたしは求めていたのだ、闇の中の晴夏に抱かれながら亜芽はあるときそう気づいた。本当はこうやって晴夏と抱き合うことを七年前から求めていたのだ。そのことにわたしは気づいていなかった。いや、あのとき本当は気づいたのに、そんな自分を反射的に拒絶したのだ。晴夏の腕を振り払ったのと同時に自分の腕を振り払ったのだ。でも逃げることはできなかった。それはやはり姿をあらわした。七年ぶりに晴夏がカメラの前にあらわれたように、それは闇の中で明確な像を結んで亜芽の前に姿をあらわした。
 昔のことを思い出していた亜芽は、ふとキーボードから顔を上げた。ひょっとして自分は決定的な思い違いをしていたのかもしれないと、突然目の前が真っ白になった。わたしが出版社で犯した数々のミスは、本当は晴夏が仕組んだものではないかもしれない。誰かに確かめたわけではないし、証拠はどこにもない。もしかしたら晴夏はわたしのことを心配して、本当に何も言葉を掛けられなかったのかもしれない。給湯室で耳にした噂話なんて歪められている可能性が充分にある。それなのにわたしは晴夏を疎外されることを恐れている同性愛者なんだと勝手に決めつけ、自分の中で彼女を拒絶した。そのうえ晴夏を求めていた自分自身も認めようとしなかった。
 暗視カメラの向こう側から微笑んできた晴夏の姿を亜芽は思い浮かべた。晴夏は今おそらく危険な状態だ。あの痩せ細った体でこれ以上長時間のブラッキングを行ったら命に関わる。生きることよりも死ぬことが目的になっているかもしれない。今度申込のメールが届いたら断った方がいいだろう。
 翌朝、やはりメールが送信されてきた。希望日時は五日後の夜九時から、十二時間の利用。人数は二人となっている。亜芽がメールを最後までスクロールすると、問い合わせ用の自由記入欄に「あめちゃんと二人での利用を希望します」と田村晴夏は書いていた。

 時刻が夜の九時に近づいても、亜芽は自室のパソコンの前で頬杖をついていた。晴夏はすでにドアの前に姿をあらわしている。しかしデジタルロックはまだ押そうとしない。ときおり腕時計に視線を落としている。やがて九時を過ぎると、晴夏はゆっくりと振り返って、防犯カメラを見上げた。その先にいるはずの亜芽に何かを訴えるように落ち窪んだ目を精一杯開き、柳の枝が揺れる感じで柔らかく頷いた。そしてロックの暗証番号を押して、部屋の中に入っていった。
 なぜわたしがブラッキングを運営していることを晴夏は知っているのだろう、亜芽は考えていた。父がダンス講師をしていたことは言っていないはずだ。わたしの利用していた最寄駅から大体の見当をつけたのだろうか。いずれにせよ晴夏と直接顔を合わせることはまだ避けたかった。ブラッキングで何度も晴夏と交わりを繰り返していることが、直接会うことで明るみにさらけ出されるのではないかと亜芽は臆した。今回の利用は十二時間だ。体への負担はそれほど重くないだろう。次、晴夏がまた行動を起こしてきたら、そのときにまた考えればいい。
 亜芽はモニターの電源を落とし、風呂に入った。そしていつもの動画サイトをスマホでチェックしてからベッドに入った。翌朝、歯を磨いて顔を洗い、洗面台の鏡で自分の瞳を確かめた。少し濁っている。自分もブラッキングの回数を増やした方がいいのだろうか、時計を見ると八時四十五分を指していた。亜芽は自室に戻り、パソコンのモニターを点けた。まだコントラスが強いブラッキングの部屋が映し出される。晴夏の姿はなかった。トイレかもしれない。やがて光がゆっくりと灯り、室内が白く照らし出されていく。変わった様子はどこにもない。その空っぽの部屋を亜芽はしばらく見つめ続けた。いくら見つめ続けても、画面の中に晴夏はあらわれなかった。亜芽の鼻腔が収縮し始める。途中で帰ってしまったんだろうか。でもそんなことはこれまで一度もなかった。カメラは死角を残すことなく室内を映し出している。廊下のカメラに切り替えても晴夏の姿はない。もしまだ部屋にいるとしたら、やはりトイレだ。そこで倒れている可能性がある。亜芽は急いで服を着替え、外に出て自転車にまたがり、部屋へと向かった。
 新たな暗証番号でロックを解除し、亜芽はドアを勢いよく開けた。スエード生地の黒いヒールが一対、几帳面に揃えられている。亜芽は廊下を進み、ブラッキングの部屋の手前にあるトイレの前で止まった。呼吸を整えてから、ドアをノックした。返事はなく、ノブを回すと鍵は掛かっていなかった。ドアを開けても、廊下の光に便器が鈍く反射するだけだ。亜芽はブラッキングの部屋に入った。カメラを通して目にしたように晴夏の姿はない。亜芽は足を進めた。黒いカーペットが敷きつめられ、窓もすべて黒く塞がれているただの空間。どこにも身を隠す場所はないし、脱出した形跡もない。亜芽は顔を上げたまま茫然と立ち尽くした。闇の中でしか見えないものがある──そう心の中で呟いた。やがて光の波と粒子が少しずつ排除され、いつもの闇が彼女の足元に忍び寄ってきた。
 晴夏があらわれるまで、それほど時間はかからなかった。
「あめちゃん」
 晴夏はカメラに映っていた同じ服で闇に浮かび上がった。体の前で両手を重ね、糸で吊られたようにまっすぐ立ち、亜芽を見つめていた。闇の中でもやはり三十三歳の晴夏の頬はこけていた。
「あめちゃんに謝りたかった」晴夏は透きとおる声で言った。「一人でここにいると、あめちゃんがあらわれるようになったの。きっとあめちゃんもここにいるって思った。あめちゃんはこれまでのことをいろいろ話してくれたわ。あのとき、会社で一緒に働いていたとき、わたしに好意を持っている先輩の女性がいて、その人があめちゃんにひどいことをしてしまったの。わたしがあめちゃんのことを好きだと知って」
 晴夏の声が空気を震わせていることに亜芽の鼓動が早くなった。
「わたし、きちんと説明できなかった。強引なこともしてしまったし、もうあめちゃんに拒絶されてると思っていたから」
 亜芽は晴夏の言葉を反芻した。そんなことはもうどうでもよかった。そんなことは起こらなかったこととすでに同じことなのだ。それでも亜芽はゆっくりと頷いた。暗闇で伝わる行為かどうかはわからなかったが、晴夏も呼応するように頷いた。
「あれから、わたしにもいろんなことが起きた。辛いことの方が多かった。でももう終わりにしようと決めたの」
「終わり」亜芽は言葉に出して繰り返した。
「そう。ここでなら、きれいに終われると思ったの。わたしの場合は結局生まれ変わることができなかった。ごめんね、あめちゃん。最後まで迷惑をかけて」
 亜芽はいつのまにか闇に手を差し出していた。もう少しで指先が届きそうなところに晴夏はいた。そのわずかな距離を埋めるように亜芽の指先は絡みとられ、優しく引き寄せられた。亜芽と晴夏は互いの体に両腕を回し、沈みこませた。懐かしい香水のにおいが二人のあいだを通り抜けた。亜芽は一瞬のあいだ、命を絶つように晴夏と唇を重ねた。それまでのブラッキングで交わしてきた口づけとは何もかもが違っていた。互いが生きていることを確かめ合い、通じ合わせ、交換し合おうとする温かな行為だった。
「さよなら、あめちゃん」
 亜芽の体を離れた晴夏の手は左右に振られていた。亜芽に向かっていつまでも振られた手はやがて闇に細かく分解された。そして闇自身として溶け入っていった。
 光が灯るのはまだ先だった。
 亜芽は空っぽの闇の中で二つの瞼を開け、そこに見えてくるものを必死で見ようとしていた。わたしの瞳に住み着いているもの。それはちっぽけな生かもしれないし、死そのものかもしれない。そんな自分の瞳の中をわたしは見ようとしているのだ、亜芽はそう思った。

〈了〉2022年作

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