魚へんに誰
昔に見たものがあらわれる。子どもの頃にまわりを取り囲んでいたもの。淡い色彩で描かれた花柄の魔法瓶。指先一つで悪党を爆死に追いやる古代拳法の伝承者。ブラウン管を彩る巻貝衣装のアイドル。プラスティックカプセルに格納されたプロレスラーのゴムフィギュア。そんなものたちを懐かしく目にするようになった数年。あ、と動きを止めるものの、目を細めるだけで頬が綻ぶことはない。財布の紐が緩むこともない。どこかの誰かが仕掛けているターゲットマーケティングやらが、一九七〇年代生まれである私の世代を絞りこんでいることは漠然と察していた。生活に余裕があり、結婚をして、子どもを生んでいるであろう──金をいちばん使う世代として標的にされているようだった。正解だし、間違っている。確かに二〇〇〇年代の就職氷河期を見事に乗り越え、タワマン最上階の空調が整った部屋で株式投資に明け暮れている同世代もいるらしい。自分のまわりでは見たことがないだけで、かつてのITバブルの恩恵を運良く賜った者もいるのだろう。でも若い頃から私の生活には余裕なんてなかった。結婚はしたことがないし、当然子どもはいない。そして私たち世代をターゲットとして狙っている者もたぶん私たち世代の奴らなのだろう。そう考えると、自分が釣り堀の魚にでもなったような気がした。餌に食いつくのを眈々と狙われている。ふと違和感を覚え、スマホの画像を拡大してみると、昔とはどこか違う。昔の花柄はもっと虫に食われていたし、拳法使いの顔はもっと馬面だったし、巻貝衣装はもっと巻かれていたし、プロレスラーの足はもっと短かった。結局昔ふうに見せているだけの今のものなのだとスマホをジーパンのポケットに入れなおした。そして青に変わった交差点に向かって、自転車のサドルから尻を浮かせた。
ファミコンも昔とは違う。当時の形状に似せてはいるけれど、今のフォルムは丸みを帯びている。だからといって三十年前に製造された当時のファミコンを買う気はない。店内のほとんどが中古品で埋められているホビーショップの棚を丁寧に見てまわる。コントローラーのボタンを連射しすぎて操作不能っぽいもの。ACアダプタの取付口が頼りなさげにぐらついているもの。汁物をこぼしたような黄色い染みに覆われているもの。小学生の小遣いでも買える値札が貼られているが、小学生でも買わないだろう。私だって買わない。ジャンク品を集める趣味など持っていない。埃っぽい中古品の棚とは一線を画したワゴンに、現代の新品ファミコンは積まれていた。聞いたこともないメーカーのロゴが印字された明らかな海賊版だ。昔の正規品なら一四八〇〇円もした8ビットのマシンが、今では二九八〇円。HDMIケーブルでモニターと接続可能だ。海賊版でもかまわないと抵抗なく手が伸びた。遊べればいい。もうこだわりのない歳である。やけに軽い箱を脇に抱えながら、カセットの商品棚へと移動した。さすがに新品は並んでいない。だがファミコン本体と比べて、カセットは損傷を受けにくい作りだし、プログラムが起動しないことはないはず。子どもの頃に遊んだことのあるタイトルを一つずつ追うたび、実際のプレイ画面が思い浮かんだ。『マイティボンジャック』『プーヤン』『ミシシッピー殺人事件』……やはり足は止まるものの、ただ目を細めるだけだ。たとえ三〇〇円でも、それらに金を払おうという気にはなれなかった。わざわざ休日に初めてホビーショップを訪れたのは『マイティボンジャック』『プーヤン』『ミシシッピー殺人事件』といった、とうの昔にプレイ経験のあるゲームをもう一度なぞりたかっただけなのか。スペースの狭い棚の前を私はためらいがちに往復した。
ふとファミコンでも触ってみようかと喚起されたのは、確かにターゲットマーケティングによるものだった。ただし今の新型マシンで昔のゲームをダウンロードするのは、奴らの餌に食いつくのと等しい。というかそもそも新型マシンを持っていない。バイト先のコールセンターで臨時ボーナスが出されたこともきっかけだった。数年前に重度の肺炎を引き起こす新型ウイルスが流行した影響で、シニア層の健康意識がオレオレ詐欺なみに煽られた。基礎疾患でもある高血糖や高血圧を抑えるサプリメントに手を出す人たちが増え、コールセンターにかかってくる注文電話が倍増した。電話機の台数は増やされ、新たな人員も雇われた。そしてウイルスバブルで頬が綻んでいるマネージャーが「いつもご苦労さま」と寸志と書かれたポチ袋を従業員一人ずつに手渡してくれた。なかみは五〇〇〇円。なんの事前情報もなかった金が配られたことに私は早まる呼吸を抑えられなかった。高揚したまま帰宅の電車に揺られる私にぴたりと照準を合わせたような配信記事がスマホに届いた。タイトルは懐かしのファミコン特集だった。
ファミコンカセットを買うのは三十年以上ぶりだった。三十年以上ぶりだというのに、ファミコン本体代を差し引いた残額二〇〇〇円を急に惜しみ出す自分の貧乏性に嫌気が差した。いっそのこと何本かの激安カセットをまとめて買うことにも足踏みした。懐かしさとおもしろさは似ているが、決して同義じゃない。たぶんカセットを本体に差しこみ、スイッチを入れてから十分も経たないうちに懐かしさの火は消え失せるだろう。それじゃあなぜファミコンの箱をいつまでも小脇に抱えてるのか。もっと有意義な五〇〇〇円の使い道があるのではないか。同じ十分なら、大塚のピンサロで舐められた方がすっきりするのではないか。そう下半身に目を落としたとき、床のかごに盛られた色とりどりのカセットの中で、一つの白が蛍光灯の光に反射した。
かつてあらゆるジャンルのゲームが登場し尽くした後、メタが人気を集めた。自分でゲームのキャラクターをデザインし、台詞を打ちこみ、各種パラメーターを設定する。つまり自分でRPGを作るゲームだ。私はその場にしゃがみ、中古カセットの山から硬質プラスティック製の白い直方体を手にした。年代物にしては汚れが少なかった。買い取られるまで大事に保管されていたのかもしれない。裏面には油性マジックで「クミトト」と大きく波打つ字で書かれていた。所有者は男だったのか女だったのか。筆跡からはまだ義務教育なかばの幼さが漂うが、なかみは何度も作り変えられている可能性がある。いずれにせよクミトトのつくったゲームについてはもちろん何も知らない。大塚のピンサロでどんな女があらわれるかよりも予想がつかない。値札シールには一〇〇〇円と印字されていた。確か容量の大きいROMが搭載されて、当時の定価が高かったことを思い出した。妥当な金額設定だろう。それにマーケティングで誘導された物を買うよりよっぽどおもしろそうだったし、黴臭いホビーショップで黴臭い時間を過ごすことに飽き始めていた。私はゆっくりと膝を伸ばし、クミトトのカセットを手にしてレジに向かった。列に並んでいる途中は残った一〇〇〇円で食う昼飯のことを考えた。
結局スリランカカレーのランチセットにタンドリーチキンを追加したことで一〇〇〇円を超えてしまった。そんな価値はなかったぞと自転車のペダルを漕ぐ力が強まった。鶏肉のサイズは小さく、固く冷めていて、駄菓子屋に並ぶカレーせんべいのような大量生産的なスパイスにまみれていた。アパートの階段を上がり、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出して何度か口の中をゆすいでも、不快なスパイスはしつこく残った。舌じゅうの味蕾にべっとりこびりついている。唾液を口内に溜めては飲みこむ自浄作業を繰り返しながら、テーブルの上の空き缶を片づけた後、海賊版ファミコンの箱を開けて、ケーブルをゲーム向けのモニターに接続した。テレビチューナーは付いてませんよと説明しても、NHKの集金人は疑わしそうな目つきで玄関から部屋の奥を覗きこんでいた。NHK発信の情報に金を支払う価値などないことは集金人だってとっくに知っている。集金人が依存しているのは自分の経済生活を支えている仕組みなのだ。効きめのないサプリメントを平気で販売するコールセンターのオペレーターと同じ立場だ。そういえばこれまでNHK受信料を払ってこなかったことで、私の生活は少しでも価値あるものになったのだろうか。くそまずいタンドリーチキンを追加できるほどの生活にしか変わっていないかもしれない。サプリを飲んでも飲まなくても、体調がほとんど変わらないのとやっぱり同じだ。
白のカセットを差しこみ、舌打ちをして、伏し目がちに話していた集金人の顔をかき消すようにファミコンのスイッチを入れた。【ゲームをつくる】と【ゲームをあそぶ】の二択があらわれ、迷わず後者にカーソルを合わせる。一つだけ保存されたファイルの作成者欄に表示されているのはクミトト。私は感度の鈍いコントローラーのボタンを強めに押した。
『魚へんに誰』
黒い画面にゴシック体のタイトルが浮かびあがった。
無音のまま「あなたのなまえは?」と訊ねられる。私は何も考えずに画面の五十音表を使って、四十七年間付き合っている「ヨシタケ」という姓を入力した。
ヨシタケには妻がいた。共働きで、子どもをつくる気は今のところ二人にないことが説明される。その朝、レゴブロックみたいな粗いドッドで描かれた妻がヨシタケを起こしにきた。
「あさごはんは テーブルに よういしてあるから。ゆうべ はなしたように けさは かいぎがあるの。わたしは もうでるからね」
妻はコマ数の少ないカクカクとした動きで階段を下りていった。それからしばらくは私が操作せずとも、ヨシタケは自動で動いた。ベッドから起き、洋服ダンスの前に立つとパジャマ姿からスーツ姿へとドットの色が変化する。階段を下り、一階のテーブルの前に位置すると、口のあたりがパクパク動く。テーブルの上の朝食は真っ白な皿へと色を失う。ヨシタケは家を出ると、一定のスピードで歩道を進んだ。同じような戸建ての住宅が並ぶ中、CPUの処理計算が追いつかないせいで数少ない通行人たちは立ち止まっているか、自我を失くしたゾンビのように歩行が遅い。地下鉄への階段を下りたヨシタケは自動改札を抜け、電車に揺られる。線路の上を走るエフェクト音が続き、やがて到着した駅からヨシタケは地上に出る。いくつも建ち並ぶ灰色のビルの中の一つにヨシタケの席はあった。ヨシタケは腰を下ろすと、机の前から動かない。まわりの従業員はときどき執務室を出入りするが、ヨシタケはパソコンらしきものをずっと目の前にしたままだ。窓の外がオレンジ色に変わった。ヨシタケは席から離れ、会社を出る。地下鉄への階段を下り、数分前と同じように電車に揺られる。地上に出ると、町は暗いトーンに覆われ、電灯が歩道を照らしていた。ヨシタケは一定のスピードで自宅へ帰る。妻はまだ帰っていなかった。テーブルの席についたまま、微動だにしないヨシタケ。BGMはなく、プログラムが停止してしまったのかと思うほど画面は固定されていた。仕方なく欠伸をしながら床に寝そべると、私の態度を咎めるように「ヨシタケは りょうりを つくろうと おもった」と文章が表示された。やっとヨシタケの操作が可能になった。コントローラーを握って基本操作を確かめた後、別の場所へ移動しようとしたが、二階に上がることや外出することは今のところブロックされていた。ヨシタケは料理を作ろうとしている。私はヨシタケを冷蔵庫の前に移動させて、パスタと鶏肉とトマトソースを取り出し、ガスレンジの前でそれらのアイテムを調理した。ヨシタケはテーブルに戻り、口のあたりをパクパク動かして、トマトソースのパスタを平らげた。一人でテーブルに座ったまま、白い皿を目前にしてもやはり動かない。光量が抜け落ちるように画面が暗転していく。翌朝に切り替わっても、やはり妻の姿はなかった。ヨシタケは昨夜と同じくスーツを着たまま、テーブルの席に着いていた。
自分でゲームを作るといっても、RPGとしてのフォーマットは用意されている。【はなす】【しらべる】【どうぐ】【つかう】といった主人公に指示を与えるコマンド、そして経験値や金といったシステムの枠組みまでは変更することができない。【HP】【MP】【ちから】【たいりょく】といったヨシタケのステータスはすべて1だ。きっと何にも勝てないし、すぐに死ぬ。敵は誰なのか。誰と戦ってレベルを上げていくのか。何の仕事をしているのか。目的だけは今のところ一つ予想される。
ベルの音が響き、私はコントローラーを握りなおした。電話機の前までヨシタケを移動させて【はなす】のコマンドを押す。
「もしもし、ヨシタケさんですね。こんかいのけんは とても おどかれたことでしょう。しんちゅう おさっしします。わたしだって おなじめにあえば、ショックで なんにちも ベッドに かおを うずめてしまいます。だけどいくら めをとじても、げんじつは もとにもどってくれません。ざんねんながら こんかいのけんは げんじつに おこってしまいました。おくさまは ヨシタケさんのもとをはなれ、すでにとおいばしょへ さってしまいました。もうヨシタケさんのもとに もどることはないでしょう」
性別の判断ができない台詞だった。ただヨシタケの妻と知り合いのような言葉づかいでもあった。
「おくさまが どこへ いってしまったのか、わたしにも まるでわかりませんし、てがかりは のこされていません。とにかく おくさまが ヨシタケさんのもとからさり、にどと もどらないということしか わたしは しらないのです。いくら さがしまわったとしても、とろうにおわるのは ひをみるより あきらかでしょう。それでも ヨシタケさんは おくさまを さがしにいきますか?」
【はい】【いいえ】の選択肢が表示される。すみやかに【いいえ】にカーソルを合わせてボタンを押す。ファミコンゲームの目的として、失踪した妻を探しだすことを設定しているぐらいだから【いいえ】を選んだ後の展開ぐらい用意されているはずだと踏んだ。
「わかりました。さかなへんの となりに だれがいるのか、しらなくてもいい ということですね」
電話の相手は言った。台詞のウィンドウが閉じられると、唐突にヨシタケの家のドアが開き、誰かが入ってきた。両肩をあらわにし、タイトな紺色のワンピースを着て、長い髪を揺らせているようなドットで描写されている。
「ヨシタケさん。おくさまは もどらないことですし、わたしと にかいへ いきましょう」
電話をかけてきた女のようだった。いそいそと女は部屋を横切り、後ろにヨシタケを連れて二階へ上がった。ベッドの前で止まると、女はカクカクと揺れた。紺色のワンピースは消え、ベージュの全身があらわれた。「そうよね。さかなへんの となりに だれがいるかなんて、しらなくてもいいことよね」女はカクカクと手を動かした。ヨシタケの体もベージュに変わった。部屋の明かりは落ち、カーテンは閉じられ、ヨシタケと女は奇妙な形のブロックみたいにベッドの上で重なった。
それは確かにただのドットだった。薄めのベージュと濃いめのベージュの場所が入れ替わったり、女の髪らしき黒が点々と表示されては消え、ヨシタケの腰あたりが左右の細かな移動を繰り返している。ほんの数センチ四方の方眼上でプログラムされた性交図画。だけれども私の右手はいつのまにかコントローラーを離して、自らの股間をまさぐっていた。モザイクをかけられた映像に目を細めるように、ヨシタケと女の入り混じるドットに見入りながら、自らの性器に柔らかな刺激を与え続けた。勃起するまで時間がかからなかったのは予想外だった。床に寝そべったまま、下着とパンツを膝まで下ろし、直接握力を加えた上下運動に切り替える。風俗にはずいぶん行っていないし、最近いつマスターベーションをしたのかも憶えていない。それなのに突然8ビットの粗いドットに欲情した。ソファの上でつけまつげを揺らしながら舌で転がされるより、きめ細かい肌を映した精細な無料動画を目前にかざすより、ドット同士による性交が私をかき立てた。知らない誰かにプログラムされた性交が私をかき立てた。正方形の枠にはめられたヨシタケが01の電気信号だけで女に挿入していると思うと、ドットとドットのすきまに向かって、ねっとりとした精液を思いきり発射したくなった。勃起はますます強くなり、伸びていく。射精が近づいているのがわかった。だけど違った。いつもの射精とどこか違う。ティッシュの箱から数枚の紙を引き出し、その中にありったけの精液を放った。溜められていた生臭さが鼻をつく。
モニターではヨシタケと女がまだ揺れ動いている。なにか操作をしなければ次の展開に移らないようだったが、私はしばらく床の上から動かなかった。無理やり他人の靴を履いたときのようなよそよそしい射精感が私を引き止めていた。快感がなかったとはいわない。確かに快感は私の性器を満たそうとした。だけどいくら力をこめて性器を刺激しても、水位は上昇していかなかった。ある一定のレベルに達すると、底に空いた穴から抜け落ちるように快感の上昇はぴたりと止まった。射精することはできた。精液も私のものに違いない。だけど私自身の射精だったとは思えない。射精の瞬間の快感が私のものだとは不思議に実感できなかった。まるで知らない誰かのために準備された代理射精みたいだった。
ゆっくりと上半身を起こした。背中を曲げ、両脚を開き、股のあいだを見下ろしてみた。自分の性器をじっくりと見つめるなんて何年ぶりのことか。空っぽになった睾丸は絞った雑巾のように垂れている。海綿体が収縮した陰茎はだらしなく萎びている。そしてなぜか包皮は元に戻っていなかった。いつものように陰毛を巻きこみながら項垂れた亀頭をくるりと覆うことなく、亀頭の下でとどまっていた。いつもの亀頭の大きさではない。それは私の亀頭ではない。亀頭だけでなく、陰茎も睾丸も陰毛も私のものとは違っている。私の陰茎や睾丸はもう少し小ぶりで、陰毛はもっと薄い。いくら長く点検していなかったとしても、自分の性器ぐらいは憶えている。歳をとって性器が変化するなんて話は聞いたことがなかった。
そこにあるものは他人の性器のように平然としていた。生殖を放棄してしまった私の性器をいつのまにか誰かが乗っとったような不躾さを漂わせている。ふと誰かに部屋を覗かれている感触を覚え、私はすばやく下着を上げてズボンを穿いた。一人で体を固くして構えている自分がつい可笑しくなった。誰の性器だというんだろう。私の快感をかすめ取った誰かがいるとでもいうのか。まさかターゲットマーケティングによるものでもあるまいし。
私はコントローラーを手にし、ドット同士による性交を停止させた。
アルバイト先は女性ばかりだった。はるか昔に結婚をし、産んだ子どもがすでに成人している女性が多かった。サプリメントを必要とするようなシニア層の話に上手に耳を傾けるためにはそれぐらいの女性たちが必要なんですよと、ネクタイを締めたマネージャーはミニマカロンを一人ずつに配り歩いた。ときには一筋縄でいかない相手が電話先の向こうにいる。年金暮らしだから価格をもっと安くしてほしい、ずっと家で待っているのに商品が届かない、血糖値が全然下がらない、こんなの詐欺じゃないか、注文した憶えなんてないのにまた送られてきたぞ、消費者センターに訴えてやるからな──そういったクレームには男性オペレーターが対応することが推奨された。声を低くして、無駄な相槌は打たない。どんなに相手が全方向から言葉を投げつけてきても、大きなカーブを描くブーメランが最後には戻ってくるように、合点のいく終話へと誘導することが何よりも重要だった。八台のデスクが寄せられたチームには男性が一人しかいなかった。話がややこしくなりそうになると、女性たちは決まって保留ボタンを押した。そして苦笑いを浮かべ、会話内容を手短に説明して、男性に行き場のないボールをパスした。彼女たちにとって男性は後輩だったが、チームの中ではいちばん歳下ということもあってどことなく重宝されていた。つまり私は彼女たちが平和に機嫌よく業務を果たすためのペット役を担っていた。
「吉竹さんって、前は何の仕事してたの」
となりの滝乃瀬さんが頬杖をつきながら訊ねてきた。まだ昼ごはんを食べていないせいか、精気のない目でモニターを見つめている。
「派遣社員ですよ」私はマウスのケーブルをまっすぐに直した。
「だからどんな仕事に派遣されたの」
「出版社です。編集部」
「ほお」滝乃瀬さんは切れ長の目を見開いた。「吉竹さんっぽくない」
「派遣ですからね。どこでも行きますよ」
「そういうの好きなの? 出版系が」
「好きってわけじゃないですけど、昔ちょっと書いてたから」
「それがなんで今コールセンターなのよ」滝乃瀬さんは大して可笑しくなさそうな薄い笑顔を浮かべながら、長い髪を何度か手荒くかき上げた。
「もう最前線じゃないですからね」私は答えた。「歳をとると、派遣の契約期間が短くされていくんです。一つの契約が終わっても、次の仕事が決まっていないことも多くなります。たまたまネットで見つけたんですよ。家から近いし、体を動かさなくていいし、こりゃいいわって」
「漢字もよく知ってんだ」
「漢字?」
「物書きだったら、人より漢字知ってるんでしょ。今度読ませてよ。でも難しい漢字のやつは駄目だからね」
電話機の赤いランプが光った。続いて呼び出し音が鳴り響く。水曜日の昼は比較的コール数が少なく、そのときのデスクには私と滝乃瀬さんしか席に着いていなかった。それでも滝乃瀬さんは頬杖を外そうともしないし、ヘッドセットを装着しようともしない。電話が鳴ると、まず後輩から応対していくのが暗黙の了解である。私は椅子の上で背筋を伸ばし、ヘッドセットの位置を調整してから、モニター上の応答ボタンをクリックした。
「お電話ありがとうございます」
「どうなってんのよ」
棘のある高い声に、私は落ち着いたトーンで答えた。「いかがされましたでしょうか」
「いかがも何もないわよ。いつまでも経っても痩せないじゃない」
「痩せる、といいますと」私は一呼吸置いた。「お客様が購入された商品はどちらになりますでしょうか」
「あのね、前にも電話かけて同じこと言ったんだけど、そんときもとにかく飲み続けてくださいの一点張り。個人差がありますし、薬じゃなくて健康食品ですので、気長にゆっくり無理なく体質を変えていってくださいって。でもいくら待っても、ちっとも痩せやしない。逆にストレスで太ってきたわよ。仮に痩せることがあってもね、それはたんなる老化よ」
通常はコールセンターに着電した瞬間、システム内の顧客管理システムと着電番号が紐づき、顧客の個人情報がすぐにモニター上に映し出される。ただしそのままコールセンター側が対話を進めるのは保安上問題があり、電話口の相手に電話番号や顧客番号を述べてもらって本人確認をする必要がある。【顧客登録なし】と表示されているということは登録とは別の番号から発信しているか、新規客だということだ。けれどもその甲高い声の女性はすでに商品を購入している。
「お客様」私は言った。「お客様が以前にどんなお話をされたのか、またはどの商品を購入されたのかをまずは調べますので、お客様の電話番号か会員番号をお伝えいただけますでしょうか」
「なんで言わなきゃいけないのよ。わたしの大事な個人情報」
「もちろんお客様の大事な情報であります。ただお客様から痩せないというお電話を頂きましたので、そのお話を詳しく拝聴するためには必要な情報でもあるのです」
「どうせもうパソコンの画面に出てるんでしょうに」
「まだこちらではお客様を特定できない段階でございます」
「とにかく詐欺まがいの商売してんじゃないわよ。ネットに書きこんでやるからね」
「もちろんお客様の自由意志による行動を止める権利は私どもにはございません。ネットに書きこむことも止めることはできません。ただ一つ確認なのですが、お客様のご希望は商品に対するご返金ではないということでよろしいでしょうか」
「そんな端金どうだっていいのよ。裁判になれば、もっと大きなお金が動くからね。今に派手な広告なんかできなくなるわよ。せいぜい気をつけることだね」
「誠に率直なご意見、しっかり受け取らせていただきます」
電話は切れた。既存の顧客情報に紐づかない電話内容は別のフォーマットを使用して、社内で共有するルールになっている。【痩せない】【立腹】【裁判】といったワードをキーボードで打ちながら、私は対話内容を要約した。
「なんなの」滝乃瀬さんはさっきと同じ姿勢のまま訊ねた。
「たぶん競合他社からの嫌がらせでしょう」私は指の動きを止めずに答えた。「はっきりしたことは何も言わないのに、脅しばかりかけてくる」
「最近多いね」
「健食会社もずいぶん増えましたからね。雨後の筍。足の引っ張り合いですよ」
「うご?」
「雨の後は筍がにょきにょき生えるでしょ」
「娘が好きなんだよね、筍。今日は青椒肉絲にしよ」
「いいですね。家事とか手伝ってくれるんですか」
滝乃瀬さんは頬杖を外し、背筋をすっと伸ばして、ヘッドセットを装着した。そして別のことを考えていたようで「やな世の中になったもんだ」と掠れた声で呟いた。だが電話の呼び出し音が響いた瞬間、滝乃瀬さんはオクターブを高くして、電話をもらった礼を明朗にマイクに向かって述べた。
早めの昼食を終えた何人かがデスクに戻ってきた。それぞれ小さめのバッグを手にして「ほんとそれ」「あれって確かにそうなんだよね」「それわかりすぎるな」と指示代名詞を多用する会話を続けながら席に着いた。
「一件、クレームがありました」私は席を立つ準備を始めた。「顧客は特定できませんが、よくある内容です。他の引き継ぎは特にありませんね」
「オッケ」一人が手鏡で髪を直しながら短く答えた。「今日あそこの日替わりは金目鯛の煮付けだったよ。もう売り切れてるかも。急いで」
彼女がいつも教えてくれるあそこの場所を私はよく知らないが、子どもの頃に見ていた八〇年代のテレビドラマを想起させるピンポン玉のような言葉の軽さに、私はただ微笑んで頷くことにしていた。滝乃瀬さんはまっすぐ引かれた眉のあいだに少しばかりの皺を寄せながら、まだモニターに向かって応対していた。私はリュックを肩に下げ、スマホに視線を落としてオペレーションルームを出た。
昼食へ出る前にトイレで確かめることにした。やはり包皮は戻らず、亀頭があらわになったままだった。四十代後半に差しかかって仮性包茎が自然に解消されることなどあり得るのだろうか。あり得なければ他人の性器としか考えるしかないのか。陰茎をつまんだ感触、睾丸を持ち上げた重さ、放尿中のすうっと通り過ぎていく感覚、透明な膜に覆われたようにあと一手届かない距離がある。小便器の前に立ったまま、手で陰茎を動かしてみた。快感は伝わってくるが、クッションを一つ挟んだようにやはりもどかしい。動きを続けていくと一応勃起する。EDでなければ、脳に原因があるのかもしれない──そうよぎった瞬間、鼓動が早くなった。私は急いで手の動きを早めた。重病の可能性を払拭するように勃起を強固にしようとした。少なくとも今射精まで達することができれば、ひとまず大丈夫かもしれないという思いつきに気を紛らわせようとした。だけど射精の域にはなかなか達することができなかった。粗いドットには欲情するのに、誰もいない男性トイレでは鈍化するのか。さらに手の力を強めようとしたとき、背後のドアが開いた。私は手を止めた。性器を手早く下着におさめ、ズボンのジッパーを上げた。となりの小便器に立ったのはマネージャーだった。おそらく私と変わらない年齢のはずだ。刻まれたほうれい線を柔らかく湾曲させ、こちらに会釈をしただけだった。入れ替わるように私は洗面台へ移り、指先を簡単にゆすぐと、トイレを出た。
エレベーターで一階へ下りている途中、下着が濡れていることに気づいた。かすかな精液のねばつきがあった。射精の快感は少しも覚えなかったのに。これは誰の射精なのか。やはり他人の性器なのか。そもそもクミトトとは誰なのか。クミトトはどこにいるのか。なぜクミトトのことなんて考えているのか。股のあいだにぶらさがるものに気持ち悪さに気を取られながら、私は昼食を何にするのか決めなければならなかった。
小説を読んだり書いたりしなくなってから、ずいぶん経つ。それでもクミトトの作ったゲームに私は惹きつけられた。たんに世界を滅ぼそうとする魔王を倒すのが目的ではなく、失踪した妻を探そうとせずに日常を素知らぬ顔で過ごしていく物語に、私は夜遅くまでコントローラーを操作せずにいられなかった。
二十五年前、地方の三流文学部を卒業した者を雇ってくれる会社はどこにも存在していなかった。食品会社や文房具会社や印刷会社に応募したものの、門前払いともいえる厳しさに打ちのめされ、最終面接に残ることすらなかった。それでもどこかの誰かは就職できたのだろう。たんに私を雇う会社がなかっただけだ。ただしこちらが選ばなければ働く先は多少あった。学校の知り合いが就職先を紹介してくれたからと親に告げて、次男の私は一人で上京することにした。実際は東京に帰る大学の友人から、実家の金属加工会社がアルバイトを募集しているという話を伝手にしただけだった。なけなしの貯金を引き出すと、結局二十年以上住み続けることになる練馬の古いアパートを借りることにした。
それから一度も正社員として就職しなかったのは、小説を書いていたからだった。小説を書くためには多くの時間が必要である。そして自分で小説を書くためには他人の小説を読まなければならない。他人の小説を読むのにも多くの時間が必要だ。私は家計簿をつけ、最低限の生活費を時給に換算して、それ以上の時間を労働に費やそうとしなかった。新人賞へ年二回ほど応募するために小説をひたすら書き、小説をひたすら読むことで、捻出した時間をすべて小説のために費やした。金属加工の会社を三ヵ月で辞めてからは、数えきれないほどのアルバイトを経験した。三十歳を超えると、アルバイト要員として雇われることが少なくなったので、派遣会社に登録することにした。労働先を自ら探す手間はなくなったものの、週五日のフルタイムという旨が就労条件のほとんどに記載されていた。時間は奪われるが、時給はアルバイトよりもはるかに高くなった。三十代になり、自分もこれだけ稼ぐようになったかと阿呆みたいな悦に入って酒を飲んだり、一晩に散財したこともあった。
応募した小説がだんだんと一次選考も通らなくなってきたのはそれからだった。二十代の頃は書けば書くほど一次選考や二次選考を通過することが当たり前になり、地方の文学賞では最終選考に残ったこともあった。だが歳をとるにつれ、一次選考を通過することさえ三年に一度ほどに減り、四十歳を超えると何をも通過することがなくなってしまった。書店で文芸誌のページを開き、予選通過者に自分の名がないことを確かめるたび、自分は一体何に向かって小説を書いていたのかと眼球が落ち窪んだ。鏡を見ると、若い頃よりも頬がこけているのに気づいた。
やがて真夜中までノートパソコンのキーを叩き続けることはなくなった。ネット通販で中古本を検索することも少なくなった。何のために過ごしているのか、よくわからない時間がアパートの部屋でただ過ぎていくことが多くなった。労働で時間を埋めるためには、私は歳をとっていた。二十五年前と同じく私に労働を与えてくれる者はあいかわらず少なかった。確かに一度も就職したことのない四十後半の独身男を誰も雇おうとは考えない。そしてそんな人間が書いた小説に、出版社が晴々しい新人作家の登場として賞を与えるとは思えない。おまけに仮性包茎だ。もちろんどこかにいる仮性包茎の中年男が新人文学賞を授かることだってないとはいえない。仮性包茎という属性が原因ではない。何も授かることのなかった小説を書き続けた私が、たまたま仮性包茎だったというだけだ。ただそんな人間にもターゲットマーケティングは昔の思い出を平等に呼び起こさせてくれた。モニター上を不器用に動きまわる8ビットのドット絵に、私は行くあてのない愛着を持ち始めていた。
ヨシタケは誰とも戦わなかった。街の通行人が敵ではないし、勤め先の上司やライバル会社の社員が敵というわけではない。通常は戦闘を繰り返すことで積み重なるはずの経験値がゼロのままなので、ヨシタケのステータスはすべて1のまま何の成長もみられなかった。それでもヨシタケを電車に乗せて会社に行かせることには何の問題もなく、定期的に振り込まれる給料によってヨシタケの所持金は増えていき、店に入って食材や洋服や家具を購入することができた。
ときどき女が自宅を訪れた。妻の失踪を伝えてきた女だ。やっぱり妻を探しにいくのかとか、心変わりをしたかしらなどと質問をしてきたが、そのたびに私は【いいえ】を選んだ。【はい】を選ぶことで話がどのように展開するのか気にはなったが、結局街を出て、フィールドを駆け回り、どこか暗黒の場所から妻を救い出すみたいな使い古されたパターンに巻きこまれるのは日常以上に退屈だった。
魚へんのことについて、女はときどき口にした。できればヨシタケにも同じように考えてほしいというようなもったいぶった言葉の使い方だった。
「さかなは ぜんぶ さかなのままで いいのにね。それでも さかなの となりに なにかをつけられて わけられる」
「あなただったら さかなの となりに なにをつける? さかなの となりに だれが いてほしい?」
「わたしたちだって わたしのままでいいのに、となりに なにかを くっつけないといけない。そうしないと、わたしとあなたを みわけられないことに なってるのよ」
「わたしたちは けっきょく わたしにわけられて、あなたにわけられる。でもあなたには さかなたちを かいほうして、じゆうに およがせられる のうりょくが そなわってるの。だから わたしは あなたのまえに あらわれた」
女の台詞が何を象徴しているのかは測りかねたが、おそらくヨシタケが魚たちを自由に泳がせる能力を使って、妻を探し出すことを期待していることは伝わってきた。ヨシタケの能力とは、魚へんの漢字からつくりを一つ一つ引き剥がすことができるというものなのか。その能力がどういうふうに妻を探すことと関係しているのか。どこかの魚へんのとなりに妻が捕らえられているということなのか。何度もヨシタケに話しかけさせたが、女の答えは数パターンの繰り返しに限られていて、次の展開につながるフラグはまだプログラムの奥に隠されていた。
一日の会話が終わると、ヨシタケと女は必ずセックスをした。ヨシタケは私の操作から離れ、ベッドの上で女と互いのドットを混じり合わせた。そのたびに私はコントローラーをテーブルの上に置き、床に横たわってズボンと下着を下ろした。すでに勃起している陰茎を無表情のまま握り、自動的に刺激を与える。快感はやはり徐々に満ちていきながらも、その一部は途中で別のルートをたどって漏れ落ちている。どこかにいる知らない誰かのために、ただ私は亀頭の先端から精液を放出する役割を担わされていると思えてくる。自分の性欲が搾取されているかもしれないという不審が募ってくる。
丸めたティッシュをごみ箱に捨てようと上半身を起こしたとき、テーブルの上のスマホが震えた。篠崎からのメッセージだった。
[新しい企画が固まったので、近日中に打ち合わせを願います]
学校を卒業してからもアート活動を続けている篠崎は、内向的なアーティストというより自由人というタイプの男だった。数年前に交差点で交通量を計測するバイトで知り合ったときは、ぺらぺらの服装であらわれた。排気ガスにまみれても瞬きをせずに、手元のカウンターのボタンをリズムよく押し続けていた。私が休憩中に読んでいた文庫本のタイトルを目にして、篠崎は話しかけてきた。それは日本でまったく売れていない海外のSF小説で、自分以外に手にしている人を初めて見かけましたよと、明らかに歳上の風貌の私に対して敬語を使った。
私立美大のデザイン学科を卒業した後も、定まらない仕事で日銭を稼ぎながらアート活動を続けているのだと篠崎は自らについて話した。ラブホテルの店長と交渉して、巨大な皿の石膏像をすべての部屋に置いてもらい、その上で性行為を行うことができるようにした。老人ホームに出向いて入居者一人ずつの人物画をメカニックに描いてみたり、近所の小さなピザ屋の看板をデザインさせてもらったりして、少額だが報酬を受け取ることもあるみたいだった。私が小説を書いていたことを知ると、インターネット動画で物語を作りたいから、ベースとなる筋書きを書いてくれと頼んできた。篠崎による大まかな設定をもとに起承転結のある話を書いてみたが、篠崎は音と映像に置き換えることで原型を留めないほど大幅にアレンジした。再生回数は一〇〇〇を超える程度にしか伸びなかったが、対価のつもりなのか、同じ美術展を観に行くことになったときにペットボトル入りのミルクティーを奢ってくれたことがあった。
そのときの舌にまとわりつく甘ったるさを思い出しながら[また俺はなんかするの?]と返信した。
[主役です]すぐにスマホが震えた。
[主役って、性欲もろくに自分のものにできないやつだぞ]
「なんですかそれ? おもろそう」
私はスマホをテーブルの上に放り投げ、再び床に寝転がった。しばらくじっとしたまま、股間に神経を集中させてみた。だがそこにはすでに何も残っておらず、ぶらさがっているものなどないように何の存在も感じ取ることができなかった。クミトトのことが思い浮かんだ。『魚へんに誰』を制作したクミトト。やはりそのゲームは私の性欲を搾取するためだけに限られた、クミトトによるターゲットマーケティングかもしれない。冷たく重たいものが背筋にじんわりと滲む。反射的に股間に手が伸びた。それはあいかわらず他人の性器みたいな大きさだった。
篠崎に会うときはいつも図書館の一階を待ち合わせ場所にした。互いに電車を乗り継ぎ、JRと私鉄と地下鉄が交差する駅前の図書館まで足を伸ばす。日曜の夕方ということもあり、ショッピングバッグを提げた人たちやイベント帰りで盛り上がっている人たちで街は溢れ返っていた。私はポケットに手を突っこみ、喧騒に絡め取られないように構内をすり抜け、スクランブル交差点を最短経路で渡ると、オフィスビルのような図書館の自動ドアを通過した。一階は広いオープンスペースで、一部を海外資本のカフェがテナントとして借りている。入口付近に並べられたテーブルの一つに篠崎の姿が見えた。目元が隠れるぐらいの深い帽子を被って、辛子色のカーディガンを羽織り、脚を組んで薄いサンダルをいつものようにぺらぺらさせている。「お待たせ」と声をかけると、篠崎は首を上げて、儀礼的な微笑みを見せた。私はそのまま店内のカウンターに向かい、いちばん安いSサイズのアイスコーヒーを注文した。それほど混雑はしていなかったが、篠崎はいつも外のテーブルを選んだ。カップを受け取り、店外へ戻った。篠崎は同じ姿勢のまま、空中のサンダルを揺らし続けている。私が正面に腰を下ろすと、彼はまだ眠そうな厚いまぶたを開き、小さく黒い瞳を反射させた。
「急にすみませんね」篠崎は抑揚のない声で言った。
「全然。最近はゲームばっかしてるから」私はストローに軽く口をつけた。
「え、何のゲームですか」
「昔のファミコンだよ。世代が違うから、言ってもわからないと思う」
「なんていうタイトルですか」
篠崎は変なところで食い下がることがある。面倒くさいので『魚へんに誰』とは言わずに、メタゲームとしてのタイトルを口にした。
「それ知ってますよ。自分でゲームを作れるやつですね。やったことはありませんけど」
「たまたま中古を見つけたから」
「自分で作ってるんですか」
「いや違うよ」
「すでに保存されてたゲームをやってるんですね。どういうものですか」
「いたって普通のRPGだよ。ただおっさんがノスタルジーに浸ってるだけ」
私はそう言ってストロー外し、直接カップに口をつけた。しばらく傾けていると、篠崎も自分のカップに手を伸ばした。アイスコーヒーの量が半分ほどに減ったところで、私はカップをテーブルに置いた。
「主役って何」私は訊ねた。
「主役といっても、吉竹さん以外の出演者は特に考えていないんですけど」篠崎は口元をナプキンで拭った。「一人芝居です。小さなステージを作って、五十人ほどの観客を入れようと思っています」
「内容は」
「一言いえばヒーローものですね。というよりヒーローになろうとするものです。四十代のサラリーマンが子どもの頃にテレビで活躍していたヒーロー像を忘れることができず、誰にも求められていないのに、まわりの見えない敵たちと戦おうとする話です。そう、一人芝居だから実際に敵は見えないんですが、だんだんと本当はそこに敵がいるかもしれないと観客に思わせるのが狙いです」
「悪いけど無理だよ」私は微笑んだ。「芝居なんてやったことないし、しかもそんな高度なことを一人で出来っこないよ」
「心配しないでください。大丈夫、出来ますよ」篠崎は何度か頷いた。「吉竹さんが今イメージしているのは、いわゆる普通の芝居でしょう。役作りとか演出とかが必要なやつ。僕も今、一人芝居っていうワードを便宜的に使ってしまいましたけど、僕の考えているものは役作りとか演出とかがいらない方のやつです」
芝居というものに役作りや演出が不要なパターンがあるのかどうかは知らないが、確かに篠崎は演劇家ではなくアーティストに属することを望む男だ。芝居の一般的な型にはまるものであれば、篠崎が手がける必要はない。とにかく芝居経験を必要としない芝居なのだろう。ただそうだとしても、五十人の観客を前にしてたった一人で何かパフォーマンスをすることにはあまり気が進まなかった。
「もちろんギャラは払いますよ」篠崎は早口で言った。
「いや、ギャラっていうより」私は首をひねった。「一体どういうものなのか、まだよくわからないんだよな」そう言いながら『魚へんに誰』のゲーム画面が思い浮かんだ。「ちょうど俺たちの世代が子どもの頃に流行っていたものが、今けっこうメディアに取り上げられることが多いでしょ。そういうヒーローものや戦隊もの、アニメや漫画やゲーム。そういったことと今回の企画は関連してるの?」
「全然関連してません」篠崎は言い切った。「そもそも吉竹さん世代のカルチャーが取り上げられていることすら僕は知らないですし、そのことに興味もありません」
となりのテーブルに黒のジャケットを着た清潔そうな女性が腰を下ろした。長い髪を首元で束ね、脇に抱えていた分厚い書類をテーブルの上に置くと、一息つくようにカップに口をつけた。そのときちらりと篠崎の方へ視線を向けた。そして、ぺらぺらのカーディガンとぺらぺらのサンダルを身に付けているような男とは共通言語を持つことなんてできないというふうに、すぐに視線を外した。
「差異化」私は呟いた。
「え」篠崎は目を見開いた。
「ヒーローなんだから他の人と違うところがあるわけでしょ。何か特別な能力を持っているとか」
「ありますよ、能力。まさに見えない敵を見ることができる能力です。存在しないはずのない敵を存在させることができる能力です」
篠崎の発言に、となりの女性はやはりちらりと目を向けた。自分には理解できない言語に対して少なからずの興味を持ったように見えた。
「なるほど。ヒーローがいるからこそ敵が浮かび上がってくる」私は腕組みをした。
「つまり自分の能力ゆえに戦わざるを得ないわけです」
「どうなんだろ、それは」私は小声で唸った。
「腑に落ちないですか?」
「もちろん篠崎くんがこの一人芝居を、これからどう具体的に作り上げていくのかはまだわからないけど、その能力はちょっとテーマ的すぎやしないか」
「愉快な設定だとは思いますが」
「ただ作品全体のテーマがヒーローの能力に集約されすぎていて、いつも篠崎くんがやってるものよりも理屈っぽくなる気がするな」
「そうかな。全然関係のない能力の方がいいってことかな」
となりの女性は書類に視線を落としながら、指先はいっこうにページをめくろうとしなかった。他のことに気を取られているように書類の一点をじっと見つめている。私はヨシタケのもとを訪れる女のことを思い出した。もしあの粗いドットの女が現実に登場したら、この女性のような風貌かもしれない。長い髪のまとまり具合と肩のラインがよく似ている。ためしに女性が椅子から立ち上がり、洋服を一枚ずつ脱いでいく姿を想像してみた。そしてテーブルの上で私と抱き合うところを思い浮かべた。下半身にぶら下がる性器が硬くなるのがわかった。だけどその勃起が一体どこから導かれているものなのかは釈然としなかった。
「全然関係のない」私は言ってみた。
「山ほどあります。たとえば?」篠崎はカップに口をつけた。
「ヒーローには魚へんを引き剥がす能力がある」
となりの女性は書類から顔を上げ、私にまっすぐな視線を向けた。
若い頃は射精するとすぐに眠くなった。自らの子孫を世に解き放つ役目を終えた肉体は、生という舞台から退場することをあっさり受け入れるように無意識の波間に落ちていった。目が冴えて眠れないときは、布団の中で簡易的にマスターベーションを執りおこなうことで意識を沈めることができた。睡眠導入剤を服用するよりよっぽど効果的な方法なのだと思う。だが歳を取るにつれて、射精が眠りを伴わないことが多くなってきた。いつからか種の保存という大義は霧散し、それはたんに筋肉が精液を体外に放出する肉体的現象になり果てた。睡眠への下り坂が失われたぶん、射精後はじっと横たわったまま、分別されることのない思い出の海面にいつまでも漂っているだけだった。特に『魚へんに誰』をプレイしながら射精した後は、妙に冷静な気持ちに襲われた。私が覚醒しているぶん、遠い場所にいる他の誰かがベッドの中で温かな眠りに包まれているかもしれないと、妙な考えに覆われることがあった。だがそう考えることで、自分もまだ世の中の1ドットとして信号を発信できているのだと、カーペットのほつれた繊維を凝視しながら自分を落ち着かせてもいた。
ヨシタケと女とのセックスが始まると、画面は途中で必ず暗転した。そして次のシーンではヨシタケはベッドの上で朝を迎え、女の姿は消えていた。私の性欲を搾取している誰かがいるとするなら、きっとヨシタケというキャラクターなのだろうと、私はコントローラーで彼を操作しながら創作のアイデアのように思いついた。自分の性器を私に与え、画面の前で私にマスターベーションをさせて発された快感を、ヨシタケは自分のものとして奪い取る。そしてドットの女の膣に向かって射精する。このゲームが制作された目的はそれなのかもしれない。小説のアイデアとしては悪くなかった。幼稚で観念的だと賞の選者には評されそうだが、ファンタジーと現実的整合性をうまく融合させれば、ある種のリアリティを生むことはできるかもしれない。ただネットワーク機能を持たない8ビットのゲームマシンと中年男の性的快感をどう有機的に結びつけたらよいのか──私は床の上に寝転がったまま下着も穿き直さずに、不毛な思考にしばらく時間を費やした。
『魚へんに誰』のストーリーは進展しないままだった。ヨシタケの勤め先でトラブルは起こらなかったし、地下鉄に乗っているときにテロ事件に巻きこまれることはなかったし、路上で通り魔にナイフで突き刺されることもなかった。仕事の帰りにスーパーで食材を購入し、自宅のキッチンで調理をして夕食をとり、ときどき訪れる女とセックスをして、翌朝は何も変わらず再び会社に向かう。妻が失踪したことはストーリーの要素としてこぼれ落ち、ヨシタケは新しい日常にすっかり馴染んでいた。しかしやがて女は妊娠するかもしれなかった。あるいはヨシタケに対して結婚を迫ってくるかもしれなかった。そのためには妻を探し出して、正式に離婚届に捺印する必要がある。いずれにしても妻を見つけ出さないといけないかもしれない。私に選択肢は与えられているだろうか。女との結婚をも拒否することになったら、今度はヨシタケ自身が家から逃げ出さなければならないだろう。私は画面に向かって同じ操作を毎日繰り返しながら、ヨシタケの行く末を案じた。そういえばヨシタケの能力はまだ発揮されずにいた。女が言った、魚をつくりから解放して自由に泳がせてやる力を具体的に行使する場面はまだ一度も訪れていなかった。
実は誰かが昔に作ったゲームの設定なんだとは篠崎に言わなかった。その案を耳にしたとたん「それ、やりましょ」と篠崎は目を輝かせて即答した。四十代のサラリーマンが魚へんの漢字を一つずつ分解していくイメージが、篠崎の中でどのように広がっていったのかはわからない。彼は腕組みをしながら何度も頷いたり、首をひねったりしていた。そして私がアイスコーヒーを飲み干したぐらいに、篠崎は顔を上げ「じゃあ次回、具体的な設定とストーリー、開催日時と会場を決めてきますんで、そのときまた打ち合わせしましょう」と席から立ち上がり、サンダルをぺたぺたと鳴らして立ち去っていった。おそらく篠崎においてはすでに細かい設計図ができているのであり、そのことで意気揚々と歩調が早くなっていたのであり、勢いある背中を引き止めることは私には憚られた。
結局シャワーを浴びる時間はなく、亀頭の先端を精液で濡らしたまま、私は自転車にまたがってバイト先に向かった。灰色の雲が広がり、絡みつく湿気でペダルがうまく回転していない気がした。下着の奥の股間では染みついた精子が水分を含み、ウイルスのようにじわじわと増殖するような痒みがうごめいていた。会社のビルに着き、エレベーターを上がって、オペレータールームのドアを開ける前に、私はトイレに入った。大便用の個室でズボンと下着を下ろし、巻き取ったトイレットペーパーで亀頭を丁寧に拭いた。やはり一度病院に行かなければならないだろう。快感が充分に高まらないまま射精をし、その瞬間に精液を抜き取られる感覚があるという症状は泌尿器科で診てもらえばいいのか。それとも自分の性器が他人のものにすげ変わり、自分は他人の性器の世話をしているという認識を持っている症状は心療内科で診てもらえばいいのか。あるいは篠崎に打ち明けたら、たぶん気色悪い笑みを浮かべておもしろがるに違いない。電話機のコール音とオペレーターの声が何重にも交差する間をすり抜け、独り言のような挨拶を発すると、私は何事もないように席に着いた。早番出勤ですでに素早くキーボードを打っていたとなりの同僚が一瞬手を止めた。
「滝乃瀬さん、今日出勤しないかもしれない」彼女はモニターの画面に目を向けたまま言った。
「何かあったんですか」私はヘッドセットを装着した。
「なんか、体調不良かな」
私は頷いただけで、何も言わずにいた。リズムを乱した沈黙を突き崩すように、彼女は私の方に身を寄せた。
「家の方で、いろいろあるんだって」
「家」私はモニターに向かって繰り返した。
「旦那さんと大変らしいよ」
「へえ」
彼女はさらに私の反応を欲しがっているみたいだったが、私はただ目の前にある変化のないデスクトップ画面に視線を固定させていた。滝乃瀬さんの夫婦関係に興味がないというより、朝からとなりの誰かと他人の夫婦関係について小声で話すことに興味がないだけだった。電話機のランプが赤く光った瞬間、私はマウスを素早くクリックして、顔の見えない相手との対話を始めることにした。
その日は多くの電話機が鳴り響いた。オペレーターの誰もが席を立つ暇もないほど声を発し続け、キーボードを叩き続けていた。問い合わせ内容にはいろんな種類があった。商品が欲しい。商品をキャンセルしたい。年金生活者だから商品価格を下げてほしいと何度もお願いしているのに聞き入れてくれないから一度うちに来て貧困ぶりを見てほしい。難聴でインターフォンの音に気づかずに商品が受け取れなかったから再送してもらうときは応答するまでインターフォンを鳴らし続けるように宅配会社の人に頼んでほしい。他の会社の商品も買っているのだが支払いがばらばらで面倒だからおたくで全部ひとまとめにして送ってほしい。このサプリを飼い犬に飲ませたら調子が悪くなったけどどうしてくれるのか。今度の選挙は日本の大事な分岐点になるから絶対この党に投票してほしい──世の中にはさまざまな意見があり、主張があり、要望があり、訴えがあり、わがままがあった。声高に叫ばれる何百種類の声は、名も顔も持たない電話線のこちら側に向かって吐き出され続けた。
彼らの声を聞きながら、私はゲーム画面の中で生活をしているヨシタケのことを考えた。彼の生活には敵もおらず、不満を浴びせる者もおらず、噂話をささやく者もいない。妻がいなくなった落とし穴にさえはまることなく、ヨシタケは静かで起伏のない毎日を黙々と進み続けていた。経済的に脅かされる可能性もないようだった。電話が途切れた数分の間、私は背もたれのクッションに身をぐらぐらと預けながら、ヨシタケの単調な生活に溶けこんでいく自分自身を思い浮かべた。なかなか悪くはなさそうだった。地下鉄に乗り、デスクワークを定時で終わらせ、一人分の食事を作り、ときどき正体不明の女とセックスをする。勃起の硬さには申し分なく、溢れんばかりの快感に押し出されるように射精をする。取り残されたものはきれいさっぱり何もなく、冷たいシーツの上でただどっぷりと眠りに落ちていく。たとえそれが誰かを搾取することで成り立っている生活だとしても、たぶんその誰かも別の誰かを搾取しているのだろう。
私は背筋を伸ばした。あらためて顧客との対話内容を打ちこもうとキーボードに指を乗せたとき、滝乃瀬さんが出勤してきた。忙しそうなデスクに向かって軽く会釈をしただけで、滝乃瀬さんは自分の席に着いた。重そうなトートバッグを床に落とし、深めに被ったハットを手荒に脱ぎ、パソコンの電源を入れた、
「大丈夫ですか」私は小さな声で訊ねた。
「あ、うん、よくあることだから」
こちらを振り向こうとしない滝乃瀬さんの横顔は少しむくんでいるように見えた。殴られたとか泣きはらしたほどではないが、どこか暗い場所に押しこまれて、うまく眠ることができなかったような疲労が瞼にのしかかっていた。
「吉竹さんこそ大丈夫?」滝乃瀬さんは声をワントーン上げた。
「私ですか」
「曖昧模糊とした表情してるけど」滝乃瀬さんはやっとこちらを振り向き、何でもないように笑みを浮かべた。「ごめん、憶えたての難しい言葉」
その瞬間、電話機の赤いランプが点滅した。私も何でもないようにマウスをクリックして、どこかの誰かからの呼びかけに応答した。
スマホで検索すると、アパートの近くにも泌尿器科はあった。だがもし定期的に通うことになり、性的な問題を抱えていることが近所の知るところになると、たとえ私としても表を歩きづらくなるだろうという懸念に襲われた。もちろんただの一過性による症状ということもあり得る。ただいくぶんの時間と労力を要するとしても、電車で二駅乗ったところにある泌尿器科を選ぶことにした。
駅の改札を出て五分ほど歩き、商業施設が少なくなったあたりの路地の奥に医院は建っていた。こぢんまりとした古い建物で、重いガラスドアを開けると、窮屈そうな待合室で何人かが座っていた。みんな男で、スマホあるいは雑誌に視線を落としている。私は受付に保険証を差し出し、あらかじめ自覚症状の項目にチェックを入れる用紙を受け取った。ソファの端に腰を下ろし、用紙に目を通してみた。頻尿や残尿感や尿漏れや勃起不全や出血などといった単語が並んでいたが、自分の症状に当てはまる項目はどこにも書かれていなかった。やはり泌尿器科ではなかったかもしれないなと足を組んだ。ただ逆に考えると、私の症状は疾病によるものではない可能性があった。最後のその他という単語の下に「射精の感覚が弱く、性器の形が変化した」と書き添えて、用紙を受付に戻した。受け取った中年女性の看護師はしばらく目を通していたが「じゃあお呼びするので、お掛けになってお待ちください」と私の問題にひとつまみの関心さえも持ち得ないように、ボールペンを握って事務仕事に戻った。
有機的なつながり──その言葉がソファの上でスマホを操作している私の頭の中に漂っていた。もしヨシタケに妻を探しにいく選択をさせていたら、私の性器と射精には何の問題も起きなかったかもしれない。あるいは新人賞の落選にめげることなく小説を書き続けていたら、今さらファミコンの古いカセットなど買わなかったかもしれない。そもそも小説家になることに早々に見切りをつけ、まっとうな仕事に就き、結婚でもしていたら、私の精子は今頃元気な子どもに育っていただろうか。結局これまで通り過ぎてきた人生の道すじによって、私は搾取されるべき場所に導かれただけなのかもしれなかった。自分の人生とはつまり、うらぶれた薄暗い泌尿器科の待合室にたどり着くようにつながっていた。生殖器に問題を抱えた男たちに取り囲まれていると、いつのまにかスマホに向かって前のめりの姿勢になり、舌の根元が粘ついていた。「吉竹さん、どうぞ」との看護師の声に、私は反射的に腰を上げた。自分の名前がまわりの男に知られたことへの羞恥から、足早に診療室へ向かった。
医師は丸眼鏡をかけた小太りの男で、最初から薄ら笑いを浮かべていた。今から落語でも始めるかのように手短な挨拶をして、椅子に座ることを勧めてきた。
「ええっと、射精の感覚……性器の変化……」医師は私が書いた用紙を手にしていた。「すみません、もうちょっと詳しく教えてくれますか」
私は一ヵ月ほど前に症状が始まったことを伝えた。セックスは長くしておらず、風俗店にも訪れておらず、マスターベーションでしか性行為を行なっていないことを伝えた。勃起することはするが、快感が満たされないうちに射精し、そのせいか射精自体も自分のものとは感じられないのだということをできるだけ細かく説明した。ただゲームをしながらマスターベーションをしていることは伏せることにした。私が話しているあいだ、医師は用紙に視線を落としながら赤べこのように頷いていた。
「えっと……おしっこは近い?」医師は顔を上げて訊ねた。
「いえ」
「おしっこが残っている感覚は?」
「ありません」
「なるほど」医師は口角を上げたまま、眉間にやや皺を寄せた。「まあ……疲れでそういうことが起こる場合はあるでしょうな。ストレスの可能性ですね。仕事で疲れているとかは?」
「ほとんどありませんね。椅子に座って電話を受けるだけのアルバイトですし」
「精神的なストレスも?」
「自覚の範囲では思いつかないな」
「加齢が原因ということもありますよ」医師は笑みを大きくした。「ちょうど男性ホルモンのバランスが変化する更年期の年齢ですからね。いずれにせよもう少し様子を見ましょう。疲労あるいは加齢による一過性のものの可能性があります。お酒や煙草はできるだけ控えて、しっかり栄養のあるものを食べて、充分な睡眠を取るように心がけてください。いちおう薬は出しておきます。尿道のまわりの筋肉を柔らかくする薬です。おしっこが漏れやすくなったら、そのときは服用を止めてもオッケーですよ。あっ、性器の変形というのは老化の始まりですね、きっと。ははっ」
私は何も質問せずに診療室を出た。待合室にはもう誰も座っていなかった。金を払い、処方箋を受け取り、外に出た。薬局の看板がすぐ目についたが、そのまま通り過ぎることにした。駅へ向かいながら、私は皮膚科の話を思い出した。皮膚科を訪れる患者の症状の七割は原因がわからないということを何かで読んだことがある。原因がわからないまま、医師はステロイドなどの塗り薬を処方する。それで治ることもあれば、治らないこともある。治らなければ、治るまで別の薬を処方する。落語家みたいだった泌尿器科の医師も同じだ。彼には私のことがわからない。わからないのに、尿が漏れてしまう薬を飲まされるのは馬鹿馬鹿しかった。
おそらく心療内科にでも行ったら話はもっとややこしくなるだろう、私は駅のホームのベンチに深々と身を預けた。たんに健康的な生活を過ごしなさいという話以上に、自己や他者についてしつこく質問されるのだろう。そして結局よく眠れるように睡眠導入剤を処方されるだけだ。電車がホームに到着した。それは自宅と反対方向の電車だったが、私は立ち上がって乗りこんだ。久しぶりにざわざわとした街の空気を吸いたかった。以前によく訪れていた店で試したい気にもなっていた。もしかしたら何かが変わるかもしれない。夕闇に覆われて微小な街灯を点々と放ち始めている車窓からの景色を、私は吊り革を握りながら眺めていた。
湿った夜風に人々は顔を伏せたり、スカートを押さえたりしていた。梅雨前線が日本列島にのしかかろうしていると大型モニターのニュースが伝えたとおり、今にも大量の雨水を放流しそうな分厚い雲が広がっていた。そんなことは構わずに、歩きながら煙草をくわえている若い男たちがいた。スマホのレンズを自分の顔に向けて一人で喋り続けている女がいた。布の前掛けを腰に巻いて全室個室であることを訴えている居酒屋の店員がいた。そんな一人ずつに指をさして声高に文句をつけているスーツ姿の老人がいた。もちろん人々を動かしているCPUは8ビットどころではなく、それぞれの処理速度でそれぞれの欲望を満たそうとしていた。そして私もまた街を構成する不確定要素の一つだった。多くの歩行者と一緒に太い道路を渡り、鮮やかな照明を発する飲食店の前を通り過ぎ、立ち飲み屋の暖簾が長細く垂れている路地に入った。立ち飲み屋の向かいの雑居ビルで、ふざけた店名の看板がピンク色に光っているのは変わっていなかった。私は立ち止まることなく、影に紛れていくような足取りで雑居ビルの階段を上がった。
他に順番を待っている客はおらず、金を払い、指名したい女はいないことを伝えると、店員は二人掛けのソファがいくつも並ぶスペースに私を案内した。首を伸ばして店内を見回すと、空席の方が目立つ。新型ウイルスが蔓延したとき、感染防止のために客足は遠のき、従業員たちは風俗業から離れて、店舗数も減ってしまったと聞いていた。感染者数のピークは過ぎ去ったものの、風俗業を動かす客も店も以前と同じ状況には戻っていないようだった。
となりに座った女は手書きの丸い字で書かれた名刺を渡してきた。目が大きく小さな顔をしていたが、つけ睫毛と厚いファンデーションと赤い唇が成している層の奥底に、長く踏み慣らした土壌のような三十五歳前後の面持ちが垣間見えた。
「ここは初めて?」女は自分の手を私の手に重ねた。
「前に何度か」
「お名前、教えてください」
「クミトト」私は一呼吸置いて答えた。
「え、なに」女は短く笑った。
「SNSとかで使ってて」
「だとしても」女の手は私の股間の上に移動した。「クミトト、なんだ」
「そう」私は頷いた。「男でも女でもない名前が好きで」
時間は二十分しかなく、女は薄いワンピースの肩紐を外して、乳房をあらわにした。そして脚を組んでから、片脚を私の太ももの上に乗せた。「おっぱいは今日痛いんだ。だから乳首はちょっと」と女は舌を交えたキスをしてきた。
勃起へはたやすく導かれた。女はズボンの上から私の性器を撫でて、乳房を私の口元に近づけた。加工されたと思えるほど不自然に張りのある乳房だった。乳首に触れないように注意し、乳輪に沿って舌を回していると、すぐに完全な状態にまで硬くなった性器に女は笑顔を近づけた。
私はソファの上でズボンと下着を脱いだ。開かれた脚のあいだで女は床にひざまずき、私の性器を口に含んだ。最初、快感は順調に満たされつつあった。女の首は前後にゆったりと動き、温かな波のように舌全体が亀頭に絡みついた。プロの技術であり、勃起の硬度は少しも失われなかった。だがそれにもかかわらず一定の水域に達すると、やはり快感はそれ以上を超えなくなった。いくら女が亀頭を吸い上げて陰茎を素早くしごいても、快感は穏やかな水面を湛えていた。やがて射精の予感が穏やかな水面の上を漂い始める。やはりマスターベーションだからというわけではなかった。自慰行為に義務的な倦怠感を覚えて、肉体の反応が磨耗しているわけではなかった。確かに私は女に対して興奮していた。乳房や尻を思いきり揉み、指先で性器を濡らした後に、膣の奥まで挿入したかった。だがそんな欲望と私の快感そのものはうまく連動していなかった。女の揺れ動く頭上を見下ろし、髪の分け目にあるほくろのことをこの女は知っているのだろうかと冷静な視線のまま、結局女の口内に精液を放出することになった。
それと同じ瞬間だった。少し離れたところから男の声が響き渡った。眩しい恍惚の滝から直下に飛び降りたような充足と哀切が入り混じる声が聞こえてきた。他の男が射精する瞬間の喘ぎ声をそれほど生々しく聞いたことはなかった。だが私の心臓が大きく音を立てたわけは別の理由だった。私が射精したタイミングと少しずれもなく、男は声を張り上げた。まるで私が本来享受すべき快感が、その男によって不条理に奪われてしまったみたいに。クミトト──女に告げた名前が頭をよぎった。足元の女は私の精液をティッシュの中に吐き出し、口のまわりの涎を拭うと、再び私のとなりに座った。私は少し腰を浮かし、声が響いたあたりを見渡した。薄暗い照明の中でこちらを背にし、ソファにもたれかかった後頭部が見える。男が被っていたのは中折れ帽だった。となりの女が私の肩を押さえてソファに座らせ、体をすり寄せてキスをしてきた。まだ時間は余っているようだったが、そんなことはもうどうでもよかった。私は下着とズボンを履いて帰る仕度をした。また来てねと女が耳元でささやいたが、返事をせずに再び男の方を振り返った。しかし中折れ帽はすでになかった。出入り口に視線を移すと、中折れ帽の男が通り過ぎた瞬間がちらりと見えた。道路標識に描かれているようなシルエットがすぐに消える。私はとっさに立ち上がり、ソファのあいだをすり抜けて店を出ると、細い階段を足早に降りていった。
人通りは増えていて、立ち飲み屋の暖簾のあいだから炭火焼きによる白い煙が立ち昇っていた。私は左右を何度も見回した。しかし中折れ帽の姿はどちらにも見あたらない。かなり早い歩調だと推測できた。それほど歳を取っていないのかもしれない。とりあえず大きな通りに繋がる方へ足を進めながら、人と人のあいだに男の姿を探った。そしてどこを探してもその影すら目にできないでいると、私の中で一つの直感がじわじわと固まりつつあった。あの中折れ帽の男がクミトトなのかもしれない。あの男がファミコンカセットの裏にクミトトと書き、目的不明の『魚へんに誰』というゲームを作り、ホビーショップに売りにきたのかもしれない。そしてゲームを通して、私の快感を奪い取っている張本人なのかもしれない。私の股にぶら下がっている性器の本当の持ち主なのかもしれない。私が冷静な視線のまま射精した瞬間、男はまったく同じタイミングで愉悦の声を高らかに上げたのだ。
まだ男がいると思われる一帯を何周か歩き回った。それでも中折れ帽を被った男を見つけることはできなかった。首の後ろにはじっとりとした汗が浮かび、次第に空腹を覚えてきた。男はすでに地下鉄にでも乗り、ゲームの主人公と同じように自宅へと戻っているのだろうか。もし再び遭遇できるとすれば、あの路地裏の風俗店しかないだろう。中折れ帽の男があの店を気に入っているとすれば、私もまたそこに行けばいい。
男を探している途中で目にしたハンバーガー店で腹を満たすことにした。暑さと湿気のせいで軽いものしか食べる気がしなかった。多くの人の流れに逆らうように店の方へ向かっていると、少し離れた先に知った顔を見かけた。滝乃瀬さんだった。コンビニの自動ドアが開き、姿をあらわした滝乃瀬さんの手にはレジ袋が提げられていた。弁当をいくつか重ね入れたように長方形に膨らんでいる。化粧をしている横顔ではなく、Tシャツと短パンというラフな格好だ。滝乃瀬さんはこちらを背にして歩道を進んだ。彼女は一人ではなかった。すぐ後にコンビニから出てきた中学生ぐらいの女の子が小走りになって、滝乃瀬さんに近づいた。女の子も同じくTシャツと短パン姿だった。滝乃瀬さんはとなりを歩く女の子になにか言葉をかけた。女の子は小さく頷くと、短パンのポケットから物を取り出した。距離があり、よくは見えなかったが、乾電池らしき小さなものが女の子の手に握られていた。滝乃瀬さんが一瞥すると、女の子はすぐにそれをまたポケットにしまった。私は思わず歩調を緩めた。なにか不正にそれを手に入れたような後ろめたさが二人の背中に漂っているのを認めざるを得なかった。
彼女たちは細い道を曲がった。女の子はおそらく滝乃瀬さんの娘なのだろう。彼女たちを追うつもりは私にはなかった。ハンバーガー店も違う方向にある。それでも私はしばらく距離を置いてから、細い道を覗きこんだ。ビルの影が濃く落ちた地面を二人は歩いていた。滝乃瀬さんが頼れるのは娘しかおらず、娘が頼れるのは滝乃瀬さんしかいないような切実とした身の寄せ合い方をしながら、二人は小さくなっていった。
かすかに頬が濡れた。ビルに区切られた四角い空を見上げてみた。巨大な雲に溜めこまれた大量の水滴たちがようやく夜の街へと注がれ始めた。
たとえ中学生の娘に万引きをさせているとしても、そうせざるを得ない特別な事情があるのだろう──ヘッドセットをつけ、老人の不調に対して深く頷き、親身に応対している滝乃瀬さんの横顔が視界に入るたび、どうしても私の目にはそう映った。私と同じように滝乃瀬さんも週五日の勤務でシフトが組まれている。時給制とはいえ決して安すぎる給料額ではないし、配偶者控除内に収まる数字でもない。共働きで娘との三人家族であれば、経済的に困窮した生活を送っているとは思えなかった。考えられるのは、夫の方にそうせざるを得ない事情があることだった。「旦那さんと大変らしいよ」とささやかれた言葉を思い出す。いつも滝乃瀬さんの髪や首筋や背中や関節から皮膚呼吸のように浮遊してくる疲労感は、確かに経済的要因だけによるものとは簡単に思えなかった。
だがそうといっても、滝乃瀬さんに立ち入ったことを訊ねるわけにはいかなかった。夫や娘とパートをして暮らしている女性が独身の気楽な中年男に向かって身の上話を切り出すはずもない。しかも性器が他人のものに変わり、充分な快感を得ることができない不具を抱えている男だ。私は直前にコールで受けた注文内容を一単語ずつゆっくりとコンピューターに入力していった。そしてミスがないことを確かめると、早めの昼食へ出るために準備をした。
「どこ行くの」滝乃瀬さんがキーボードを叩きながら訊ねてきた。
「たぶん、駅前の立ち食い蕎麦」私は答えた。
「ゆっくりできないじゃん」
「食べた後は公園とか本屋でぷらぷらしてますから」
「今日は雨だよ」滝乃瀬さんは目尻に皺を寄せて、短く笑った。
私はリュックを手にすると、立ち上がって椅子をデスクにおさめた。人のいない雨の公園の方が私は好きだったが、別に口にする必要もなかった。
「ねえ、吉竹さん。駅の向こう側に確かホームセンターがあったよね」
「ああ、はい。ホームセンターのわりには広くないですけど」
「悪いんだけど、買ってきてほしいものがあるんだ」
私は足を止めた。こちらを見上げる滝乃瀬さんの目を見つめた。「何」
「のみ」滝乃瀬さんは答えた。
「あの……大工道具の?」
「そう。金槌はうちにあるんだ。でものみがなくて。普通ないよね。私もそんなもの見たことも触ったこともなくて。男性の吉竹さんならわかるかもって」
二十代の頃に建築現場でアルバイトをしていたとき、先輩がのみと金槌を使って木材を削り出していた場面を思い出した。結局私自身が扱うことはなかったが、先輩は目で憶えろと言って、自分の作業を私に見せていた。
「のみにもサイズはいろいろあるし、刃先にも種類があるはずです。用途によって使い分けられていますよ」
「そんな専門的なことじゃないのよ」滝乃瀬さんは申し訳なさそうに声を小さくした。「とにかくお尻を金槌で打って、刃が先に食いこめばいい。たぶんそれでいいんだと思う。いわゆるオーソドックなのみで構わないの」
私はそれ以上訊ねなかった。わかりました、ただそう頷いた。夜の路上で小さく反射する乾電池──女子中学生のポケットにはまるで似つかわしくない乾電池を目にしたときと同じ違和感を、滝乃瀬さんがのみを握っている場面にも覚えた。だがそんなことは私の勝手な想像だった。私にだって誰もが違和感を覚えるであろう性器の問題がある。誰にだってそういうものはある。
「ごめんね。時間取らせちゃって。どうしても今日帰ってから必要なんだ。よろしくお願いします」
滝乃瀬さんは頭を下げると、モニターに向き直り、新たに着電した顧客に丁寧な挨拶を述べた。
ヨシタケの所持金はかなりの額に達していた。夕飯となる食材はいつも決まったものしか買わなかったし、街のあちこちには書店や文房具店やアパレル店が配置されていたが、売られているリストに目を通すだけで、私はヨシタケに必要な物以外は買わせなかった。その日の夜、仕事を終えて地下鉄の階段から地上に出ると、ホームセンターらしき店へとなんとなくヨシタケを移動させてみた。カウンターの店員に話しかけ、売り物を表示させる。蛍光灯や布団やテントなどは販売されていたが、工具類までは売り物に設定されていなかった。
昼休みの一時間が経過する頃にオペレータールームに戻ると、私は滝乃瀬さんにのみを渡した。自分にとって標準的なのみのイメージに近い、刃先が平らで二センチ幅のものを店の棚から一本選んだ。だが滝乃瀬さんはレジ袋の中身も確かめようともせず、すぐにそれを足元のバッグのそばに置くと、財布を開けて購入にかかった金額を私に手渡そうとした。持ち手がプラスティック製の簡易的なものを選んだので、たいした金額ではなかった。滝乃瀬さんは財布を閉じ、何事もなかったようにバッグを手にして立ち上がって、昼休みの時間を過ごしにオペレータールームから出ていった。足元には、のみが一本入ったレジ袋が残されたままになっていた。まるでそんなものは自分にとって最初から必要のない代物なのだというように、レジ袋の口が捻り曲げられている。それとも、と私はふと思った。もしかしたらのみそのものより、私にのみを買いに行かせることを滝乃瀬さんは果たしたかったのかもしれない。自分が買いに行くのではなく、私に買いに行かせることが目的だったかもしれない。
ヨシタケを自宅へ帰らせながら、そんなことを思い出していた。調理した夕食を食べ終えると、粗いドットの女がドアを開けて、不作法に部屋に入ってくる。いつもの台詞だった。「さかなはぜんぶ さかなのままでいいのに──」「あなただったら さかなの となりに だれがいてほしい?──」「そうしないと、わたしとあなたを みわけられないことになってるのよ──」。それからいつもと変わりなく、女とセックスをすることになる。まもなく私の股間に血液が集まり始め、性器が自動的に硬くなり始めるのだろう。最初から決められていた基本設定のプログラムみたいに。
しかしその夜、私はズボンと下着を下ろす気にはなれなかった。中折れ帽の男の声が鼓膜の奥で響いていた。いくら私が射精をしても、放たれた快感はあの男の喘ぎ声になってどこか知らない空中に散ってしまう。そのことへの反抗みたいに、私の手はファミコンのコントローラーをいつまでも握っていた。そして二十インチのゲームモニターをじっと見つめていた。いくら私の存在がターゲットマーケティングの標的にされる1ドットにすぎないとしても、自動的に自分の快感を知らない誰かに明け渡してしまうわけにはいかなかった。結婚する機会も子どもを作る機会も今度訪れないとしても、私の快感は私自身を満たすことのできる唯一のパラメーターであるはずだった。
「ところで おくさまを さがしにいく おきもちには なりましたか?」
唐突に女の台詞がモニターに表示された。まるで私の心中をあらかじめ見据えていたようなタイミングだった。【はい】と【いいえ】の選択肢が浮かび上がる。
おくさま? 私は点滅するカーソルを見つめていた。夫というものは一体どういった心情で失踪した妻を探しにいくのだろうか。仮に妻を見つけ出せたとしても、夫婦の生活は元に戻るものなのか。私にはうまく想像することができなかった。ただうまく想像できないとしても、取るべき選択肢はもはや【はい】しかないように思われた。中折れ帽の男の後を思わず追いかけていったように、滝乃瀬さんに頼まれてのみを買いに行ったように、私には始めから【はい】に対する物語しか用意されていなかった。【いいえ】を選び続けたとしても、結局それらの選択は【はい】を選ぶ物語の一部にすぎないのだろう。私は音のない溜め息を一つ吐き、コントローラーを操作して【はい】を選んだ。
「わかりました。おくさまを さがしにいくのですね。それでは わたしに ついてきてください」
女は振り返り、ドアを開けて部屋を出ていった。ヨシタケの動きは自動操作に切り替わり、二マスほどの距離を空けて女の後をついていった。夜の路上を進み、地下鉄への階段を降りていき、電車に乗りこんだ。人の姿はまばらだった。いちばん端の座席に腰を下ろしている者、吊り革を握って真っ暗な窓の外を眺めている者、床に座りこんで両足を投げ出している者。女とヨシタケは車両の真ん中あたりで顔を見合わせて立ち尽くしていた。電車が駅に着くたび、乗客が一人ずつ車両を降りていった。やがて他の乗客たちがいなくなり、毎日出勤で降りている駅を通り過ぎても、女とヨシタケは電車の中で互いを見つめ合い続けた。電車の進行はループになっているはずだった。一度駅に降りずにそのまま乗り続けたことがあるが、しばらくすると自宅の最寄り駅に再び到着した。どこにもたどり着かない電車のはずだった。だがそのとき、乗客が女とヨシタケの二人きりになってからというもの、電車は速度を緩めようとせず、どこの駅にも停車しようとしなかった。車内の明かりはゆっくりと落とされ、レールの上を走るエフェクト音は栓を抜かれたように静まっていく。女とヨシタケは一歩も動くことなく、車内は闇に覆われ、モニターは暗転した。
「とうちゃく しましたよ」
女の台詞が浮かんだ。モニターにはオフィスらしき白い空間が映し出された。ヨシタケが勤めている小さな会社とは違って、余計な什器は置かれていなかった。一つの窓さえもなく、ただ長方形のデスクがいくつも整然と並べられている。女とヨシタケは肩を並べて、横一列に並んだ無人のデスクの列に対峙していた。
「ヨシタケさん、まずは あなたに のうりょくが ほんとうに そなわっているのか、たしかめさせてもらいます」
女はヨシタケの方を向いた。その手には白く細長いものが握られている。
「これをつかって さかなを かいほうしてあげて」
白く細長いものはヨシタケに手渡された。その瞬間、細長い先端にまばゆい光が灯り、あたりに輝きが放たれた。そしてオフィス空間の上に重なって、戦闘ウィンドウが開かれた。
そこに鰆があらわれた。鰆という背びれや尾びれのついた魚類のドット絵があらわれたのではなく、鰆という漢字が立ちはだかった。ヨシタケは四つの選択を迫られている。【たたかう】【はなす】【どうぐ】【にげる】。道具といっても、ヨシタケの所持品には料理の食材としての野菜や肉や調味料しかなかった。まさかそれらを駆使して目前の鰆を調理しろというわけでもあるまいし、そんなものがこの場面に役立つとは思えなかった。どうせ戦うことでしか物語が展開しないことは承知していたが、その前に【はなす】を選んでみた。
「ヨシタケは あいさつを してみたが、さわらは はんのうを しめさなかった」
漢字の姿をしたものに一体どんな挨拶をしたのか見当もつかなかったが、どんな言葉であろうと相手が反応を示さないのは当然のことなのだろう。仕方ないので【たたかう】にカーソルを合わせた。私はヨシタケが手渡されたものを想像した。あれはRPGの武器として登場するいわゆる剣なのだろうか。あの剣を振りかざして、鰆と戦うことになるのか。私はコントローラーの決定ボタンを押した。
「ヨシタケは さわらの ちゅうしんに けんをつきさした」
「さらわは はんのうを しめさなかった」
再び四つの選択肢が表示される。私には一つの危惧があった。ヨシタケのパラメーターがゲームスタート時からすべて1のままの状態で、鰆にダメージを与えることができるのだろうか。あるいは鰆からの攻撃によって、あっという間にゲームオーバーになってしまうのではないか。だが戦闘は計算式による数値のやりとりではなさそうだった。「さわらの ちゅうしんに けんをつきさした」というテキストで戦闘内容が表現された。私はもう一度【たたかう】を選んだ。
「ヨシタケは けんを つきさしたまま さわらの うえのほうへ けんを きりあげた。けんが さわらを きりさくと、ヨシタケはもういちど さわらの ちゅうしんに けんを つきさし、こんどは さわらの したのほうへ けんを きりさげた。さわらは さゆう まっぷたつに きりはなされた」
ウィンドウの中の鰆は小刻みに震えだした。そして中心が爆発したかのように、魚と春との二つに勢いよく分離した。春は何が起こったのかわからないように、その場に立ち尽くしたままだった。だが魚は浜に打ち上げられたみたいにびくびくと跳ね上がり、そのままウィンドウの外へと活きのよい姿を消していった。戦闘シーンのウィンドウは閉じられた。
女はまだヨシタケの横顔を見つめていた。「これで さわらは このよから なくなったわ。もちろん かつて さわら とよばれていた さかなは いまも げんきに およぎまわっている。でもそのさかなを さわらとして むすびつけていた はるからは もうかいほうされたのよ。あなたのおかげで」
どこか呆気なさを覚え、私はコントローラーを握る力を弱めた。本当に魚へんの漢字を分離させることがヨシタケの能力なのか。そんなことが妻を探しだすこととどう結びつくのか。ヨシタケはただ手渡された剣で鰆という漢字を分離させただけであり、ヨシタケでなくても剣さえ持てば誰でもできることのように思われた。
「ねんのため もういちど、ためさせてもらうから」
女の台詞があり、再び戦闘ウィンドウが開いた。そこには職場の後輩が立っていた。毎日ヨシタケのとなりの席に座り、一日中パソコンにじっと向かっている人物だ。仕事中に話しかけても台詞は表示されず、性別さえ曖昧だったが、茶髪に紺色のジャケット姿として粗いドットは描かれていた。やはり私はまず【はなす】を選んだ。
「なにしてるんですか ヨシタケさん、こんなところで。かいしゃに もどらなくて いいんですか?」
選択肢が表示され、また【はなす】を選ぶ。
「かいしゃで はたらいてこその ヨシタケさんでしょう。そしてわたしは ヨシタケさんの こうはいです。だいがくへの しんがくで いなかからでてきて そのまま とかいで しゅうしょくした にじゅうだいこうはんの どくしんおとこ。しゅみは まんがとゲーム。やすみのひは カメラをさげて まちのしょうじょを かくしどりしています。ちょきんは200まんほど。じょせいと つきあったことは ありません。たぶん いっしょう つきあえないタイプでしょう。Oがた。てんびんざ。ついでに いっしゅうかんの オナニーのかいすうも おしえましょうか?」
同僚はうっすらと笑っているように見えた。口元のドットは横一直線に引かれていたが、それでも自分自身について長く述べていることに、つい可笑しみが漏れているような表情をしていた。あるいは自分という人間を組み立てている要素はたったこれっぽっちなんだと自嘲しているようでもあった。ためしに私は【どうぐ】を選び、味噌を使った。
「こうはいは なんのはんのうも しめさなかった」
職場の先輩から突然味噌を差し出されて、何の反応も示さないという心理状態を想像しようとした。実際はそんな細分化されたパターンを一つずつ設定してしまうと、データがROMの容量に入りきらないだけなのだろうと思い直した。結局私は【たたかう】ことを選んだ。
「ヨシタケは こうはいの むねを めがけて けんをつきさした。こうはいは なんのていこうも しめさなかった」
続けて【たたかう】を連打する。
「ヨシタケは けんを つきさしたまま こうはいの あたまのほうへ けんを きりあげた。けんが こうはいのあたまを きりさくと、ヨシタケはもういちど こうはいのむねに けんを つきさし、こんどは こうはいのこかんへ けんを きりさげた。こうはいは さゆうまっぷたつに きりさかれた」
「さよなら クミトトさま」後輩は切り裂かれながら言った。
左右に切り裂かれた体のうち、右側の後輩はぴくりとも動かなくなった。髪やジャケットや肌からは徐々に色が褪せていき、モノトーンの様相に覆われた。目は虚ろになって輝きを失い、頭の上から足の先まで塵のようにドットがばらばらに分解し、やがて消滅した。対して左側の後輩は子どものように腕を高く上げ、その場で何度も飛び跳ねていた。
「ありがとうございます、ヨシタケさん。これで かいしゃに いかなくてすみます」
左側の後輩は右側の後輩から解放された喜びを全身にみなぎらせるみたいに、意気揚々と片腕をぐるぐる回し、片足だけで小刻みなジャンプを繰り返しながら、戦闘ウィンドウの外へと退場していった。
「やっぱり あなたには ちゃんとした のうりょくが そなわっているみたいね」
女はヨシタケの方を向いて言った。白いオフィスには変わらず無人のデスクが並んでいる。
「そのけんは あなたが だいじに もっていて」女の台詞が表示された。「おくさんが ここにいないことは わかってる。ここには あなたの のうりょくを たしかめるために きたから。これから このまちを でて おくさんがいるばしょを さがしださないといけない。ここしばらく わたしは おくさんのいばしょを ずっとしらべてきたの。だいたいの ほうがくは けんとうが ついている。そして いったいだれに どんなじょうたいで とらわれているのかも わかってきた」
捕らわれている? 私は女の台詞を次に送るコントローラーの手を止めた。妻は失踪したのではない。もしかしたら自ら望んで家を出ていき、ある者のもとへ向かったものの、何かの事情でその者に捕われる状態になってしまったのか。やはりよくあるRPGの救出劇に化してしまうような流れになり、それまで費やした時間が白けてしまった気分で私はボタンを押した。
女は並んだデスクに近づき、その上に立った。ヨシタケも同じくデスクの上に乗り、女のとなりに立つ。
「さあ このまま このデスクのうえを すすんでいきましょう。いずれ まちをでて おくさんのもとへ たどりつけるはずだから。もうわかっていると おもうけど おくさんを とらえているのは このゲームをつくった クミトトよ」
画面が暗転し【セーブしますか?】とメッセージが表示された。私は【はい】を選び、そのままゲームを中断することにした。中折れ帽を被った男の後ろ姿が頭の中に浮かんでいた。このゲームを作ったクミトトといえば、あの男のイメージしか私は持ち合わせていなかった。私の快感をどこか遠くから搾取している者が、コンピューター上の人妻をも奪い取り、彼女の半分を自分のものとして取りこんでいるのか。ゲームの主人公ヨシタケは手渡された剣を振りかざして、一体になっているクミトトと妻を半分に引き裂かなければならなくなってしまった。
ファミコンの電源を切り、モニターを落として、麦茶を飲もうと立ち上がろうとしたとき、私は軽いめまいを覚えた。左右の脳神経が入り混じり、いるはずのない妻を自分が今から助け出すために、このアパートから出ていかなければいけない気に襲われた。めまいは歳のせいだし、長時間モニターに集中していたから頭がぼうっとしてただけ──そう深呼吸をしてから冷蔵庫のドアを開けようとしたとき、ファミコンのそばでスマホが無作法な音を立てて震えた。私は冷蔵庫のドアから手を離し、吸い寄せられるように戻って、メッセージを開いた。
[企画がぐっと固まりました。あとは行動のみです]
篠崎はそう短く送信していた。
篠崎が待っていた空間は、女とヨシタケが到着したオフィスを思わせた。床も壁も天井も真っ白で、余計な物は何も置かれていない。もちろん大量のデスクも並べられておらず、がらんとした広いスペースだったが、同時に目が痛くなるほどの巨大で清潔な白が空間の奥行きさを失わせていた。あたりを見回し、自分の位置と篠崎の立っている位置をよく掴めないまま、私は靴音を響かせて篠崎の方へ近づいていった。
「たまに使わせてもらうんです。このギャラリー」
いつもどおり帽子を深めに被った篠崎はそう言って、ぺらぺらのカーディガンのポケットに手を突っこんでいた。
「暑くないの?」私は訊ねてみた。
「ああ。ここって、いつもうすら寒くて」
都心のオフィス街にひっそりと佇むそのアートギャラリーは、人目につきにくい場所に位置していた。大通りから外れ、両側を古い雑居ビルに挟まれて、コンクリートを打ちっぱなしにした建物の一階に若いアーティストの作品が展示されているなんて、きっと誰も気づかないまま通り過ぎていくことだろう。
「ここに舞台を作って、吉竹さんにヒーローになってもらいます」篠崎は舞台を設置するであろう方向に手を広げた。
「劇場じゃないんだね」私は素朴な疑問を口にした。
「劇場だと普通の芝居になりますから」
「舞台も自分で作るの?」
「もちろんです。観客の見方は自由です。立ったままでもいいし、椅子に座っても、地べたに胡座をかいても、寝そべっても自由です」
篠崎の手が伸びた方向に、私は腕を組んで思い描いてみた。五十人ほどの観客がそれぞれ好きな体勢で点在し、彼らの視線が集まる舞台の上に自分が立っている景色。一体私はそこで何をしているのか。誰に向けて、何のためにそんな場所に一人で立ち尽くしているのか。そして観客たちは私から一体何を奪い取ろうとしているのか。
「それで」私は訊ねた。
「はい?」篠崎は腕を下ろし、私を見た。
「何をやろうとしているの」
「もちろん、魚へんを引き剥がすことのできるヒーローの話ですよ」篠崎は心の底から愉快そうに口角をにんまりと上げた。「でも魚へんだけじゃないです。あらゆる漢字を分解することができるんです。漢字を構成している部首を木とか山とか川とか人とかにまで分解していきます。もはや漢字ではなく、文字といってもいい。さらにそれらを単純な線にまでばらばらに解きほぐします。ばらばらにすることで文字に内包されていた意味から解放してあげるんですよ。吉竹さんが」
「おれが」私は訊ねた。「意味から何を解放してあげるの? 線?」
「線です。そう、線的なものですね」
「つまり、意味を含んでいる文字が敵っていうこと」
「表面的にはそうなります」篠崎は床に視線を落として頷いた。「何だって誰だって、ちょっとしたことで敵に変わっちゃう可能性は秘めてますよね。会社でも家庭でも上司でも恋人でも。それらはみんな名前を持っています。名前というのは自らの象徴です。それらの名前を吉竹さんが分解して、自らの意味から敵を解放してあげるという設定です」
篠崎は企画内容を説明し始めた。魚へんを引き剥がすという私がつい口にしたアイデア──正しくはクミトトが制作したゲーム設定──を自分なりに広げ、付け足しをし、ある程度の整合性をもって物語の大きな流れを組み立ててきた、そんな自信に満ちた口調だった。すべての漢字や文字まで設定を広げない方が、物語自体は逆に想像が広がるのではと内心首をひねったが、きっと篠崎なりのオリジナリティが含まれているのだろうと黙っていた。
「頭ではわかるよ」私は言った。「でもそれを舞台上でどう表現する? おれが実際に観客の前で、発泡スチロールでできた作り物の文字を引き裂いて、めちゃくちゃに壊していくのか。それってあまりに陳腐な姿だと想像はするけど」
「吉竹さんだって小説を書いているから、創作にとって何が重要かについては考えるでしょう」そう言いながら、篠崎は舞台を設置する予定の場所までゆっくりと足を進めた。「創作にとって重要なことは感じられることです。そこに机があり、そこに風が吹いて、そこで誰かが泣いている。そこでヒーローが武器を持ち、そこで個人の象徴である名前を切り裂こうとしている。実際にそう感じられることが、創作において重要なことだと僕は考えています。そういう意味において、上演当日に吉竹さんが実際に舞台の上にいる必要はありません。そこにヒーローがいると感じることさえできれば、むしろ吉竹さんがそこに立っている必要はないんです。ここの舞台では巨大モニターだけを使います。吉竹さんには別の場所で衣装を着て、一人でヒーローを演じてもらい、それをスマホで生配信します。その映像に対し、僕がこの場所で観客を前にしてパソコンを使って、背景や状況をCG合成します。文字と戦って、文字がばらばらに離れるところもCGで表現します。そうした方が僕のイメージに近いものが作れますから」
篠崎とは気が合うと思っていた。アート活動をしていながらも独善的だったり理屈が先行したりするタイプではなかったし、酒を飲めば低俗な話で笑い合える仲だった。確かにときどきこちらが呆気に取られるアイデアや話題を出して、自分の存在を無理やり突出させようとする痛々しさは持っていた。だけど年齢が離れていることもあって、私はそんな彼を精力の溢れる人間だと好意的に受け入れていたし、小説を書いていた身として少なからず刺激を受けるところもあった。だから以前のネット作品には協力したし、彼の作品展示にも足を向けてきた。ただ今回の、大型モニターを使い、CG合成によって芝居を上演しようとしている篠崎の説明を聞いて、どこかこれまでとは違う別の地帯へと彼が足を踏み入れている気がした。そしてそこへ私自身も連れていこうとしていることに不穏な風向きを感じざるを得なかった。そもそも私はこんなことをしている場合なのか。股のあいだにぶらさがっている性器の持ち主を探し出した方がいいのではないか。
「今言ったこと」私は篠崎の背中へ近づいた。「武器、衣装、それは何?」
「ああ、小道具ですよ」篠崎は振り返り、微笑んだ。「それは吉竹さんが実際に身につけるものですから、僕がリアルで用意しておきます。デザインは思案中」
「やっぱりおれにできるとは思えないな」私は低い声を出し、首をひねった。「何度も言うけど、芝居経験はゼロだぜ」
「吉竹さんはそのままでいいんです」篠崎は帽子のつばをくいっと上げて、鳥のような小さな目を輝かせた。「芝居なんてしなくていい。朝起きて、電車に乗って、会社で電話を受けて、家に帰って、昔のゲームで遊んで、風呂に入って、オナニーして寝るだけ。それをカメラで撮るだけでいいんです。文字をばらばらに分解するシーンにはある程度の下準備をしてもらう必要はありますが、そんな大層なものじゃありませんから。むしろ普段の吉竹さんでいてもらうことの方が、今回の作品にとっては重要なんです」
まるで自分の制作意図が充分に伝わっていることを確信しているみたいに、篠崎の目は直線的に私の目に向けられていた。篠崎の説明を一つ一つ理解することはできた。だが一体それが何のために為されようとしているのか、やはり私は感じとることができずにいた。私は私自身のままでいいと言う。どこの道端でも転がっているような一日を送っていればいい。ただそれでいいというのであれば、私である必要がどこにもない。それはたまたま私だったいうだけのことだ。
私は小さく溜め息をついた。それでも篠崎のイメージがすでに隙間なく固まっているならば、それに任せてみようと思った。意味からの解放というやつが今回の重要なキーワードならば、作品全体に意味を求めることもきっとナンセンスなのだろう。それに篠崎がやろうとしていることは少なからず無条件な好奇心を掻きたてた。小説を書くのをやめてしまった私にとって、篠崎のアート活動には昔を思い出させる懐かしさがあり、彼のそばに近づいてみたい気になった。そしてそういった気持ちは、ターゲットマーケティングによって差し出された昔の流行物を目にしたときの感慨に似ていることに気づいた。私は白い空間の奥の方へ視線をずらした。
「もう日程は押さえているの?」私は咳払いをして訊ねた。
「さっき、ここの責任者に確認しました」篠崎は言った。「秋からの時期はもうどこも埋まってるって言われたんですけど、ちょうど昨日キャンセルが出て、タイミングよく三日間の日幅を取ることができました。四ヵ月後の十月です。時間がたっぷりあるとはあまり言えないですね。急ぎましょう」
「おれはそのときまで今の自分を維持すればいいのかな」
半分冗談のつもりでそう言ったが、篠崎は何の反応も示さなかった。ただカーディガンにポケットに手を突っこんで、何もない白い壁を瞬きもせずにじっと見つめていた。
その日もまた、どこの道端でも転がっている一日だった。真夜中のうちに雨が降ったらしく、アスファルトの地面は色濃く濡れており、それでも雨雲はまだ力をたっぷり残しているように空に鎮座していた。雨が続くうちに、自転車よりも電車で会社に向かうことが多くなった。朝の駅では用心深そうに巻かれた傘を人々は手にし、改札の機械音を忙しなく鳴らしながら行き交っていた。湿度の高い電車に乗りこみ、吊り革を握りしめて、昨夜のことを思い出していた。
仕事の帰りに、中折れ帽の男を見かけた店に行ってみた。前回と違う女がとなりに座った。女と言葉を交わしつつ、私はあたりを見回した。並んだソファの半分ほどは埋まっていたが、中折れ帽のシルエットを見つけることはできなかった。中折れ帽を被った客って来ることある? と私はとなりの女に訊ねてみた。なかおかれぼう? と女は含み笑いを浮かべた。私はスマホで画像検索をして、女に見せた。ああ、これ、なかおれぼうって言うんだ。どうだろ。意外とお客さんってちゃんと帽子脱いでくれるから、と女は私の股間に手を置いた。それでもこの中折れ帽を被ったままの男はいるのかどうかを確かめたいと言ったが、さあそんなのわかんないよと女は分厚い唇を近づけてきた。
私が覚えることのできる快感の量は、わずかだが以前よりも減少していた。女に性器を触れられ、口内に含まれることで勃起には至る。私の体は性欲に満たされていき、女の乳房を揉み、乳首を舐め始める。しかし女によって刺激される性器への快感は上昇の勢いを弱めている。底に開いた穴がいつのまにか大きくなっている。一方で勃起が萎びることはなく、射精は思いがけない瞬間に突然おとずれる。快感が上昇し始めたあたりから到達点である射精までのあいだがごっそりと抜け落ちているのだ。そのブラックアウトの間隔が徐々に大きくなっていることを、私は自覚せずにいられなかった。女は何の予兆もなく発射された精液をティッシュの上に余すことなく吐き出そうとしている。ソファにだらりと垂れた性器は腹を満たした動物のようにふてぶてしい。女は誰のものかわからない性器をもてあそび、私は誰のものかわからない性器で射精をする。そして、それらの行為に対して私は金を払う──吊り革を握る手が緩んだ。一体今自分はどこに向かって電車に乗っているのか、窓を濡らし始めた雨粒の中で私はふと見失ってしまった。窓ガラスに反射した自分のとなりに誰かが立っている。それとなく横を向いてみる。それは当たり前のようにワイシャツにネクタイを締めた会社員ふうの男で、魚へんが私のとなりに立っているのではなかった。
滝乃瀬さんは腕に包帯を巻いていた。包帯を巻いた腕でマウスを操作し、キーボードを打っていたので、うまく飛び立てない鳥のように何度も白色が私の視界に飛びこんできた。早番のメンバーが先に昼食へ席を立ったことを見届けてから私は訊ねてみた。
「火傷」と滝乃瀬さんは答えた。
「包帯を巻くほど?」私は手を止めた。
「やっと青椒肉絲を作ったのよ」滝乃瀬さんは自嘲気味に笑った。「慣れないものを作ると、こういうことが起きるよね。具材を入れるときにフライパンが当たっちゃったのよ」
「意外とひどかったんですね」
「そう。きっと歳のせいもあるよね。肉体の衰え。治癒力の減退。痛みが全然引かなくて、熱した鉄を押し当てられたみたいにだんだん赤黒くなってきて、お風呂に入るとひりひりするし」
私はのみのことを思い出した。青椒肉絲とかフラインパンなんていう言葉はやけに空々しく聞こえた。それよりも本当はあの大量生産された安価なのみによって、滝乃瀬さんは傷ついてしまったのかもしれない。
「滝乃瀬さん、乾電池って必要ですか?」私は思わず訊ねていた。
「乾電池」滝乃瀬さんは小さく繰り返した。
「こないだ量販店のワゴンセールで出されていたものを、貧乏性だからつい大量に買っちゃったんです。場所も取らないし、あって困るものじゃないけど、独り者だから死ぬまでには使い切れないかもしれなくて。もしよければ」
滝乃瀬さんは包帯を巻いた手をマウスにそっと戻した。そしてそこに何もないことがわかっているふうに視線を自分のモニターへ移した。
「ありがとう、大丈夫」滝乃瀬さんはモニターに向かって答えた。「まだ家にあったと思うから」
「そうですか。わかりました。もし困ったらいつでも言ってください。いろんなサイズ揃ってますから」
「ねえ、吉竹さん」滝乃瀬さんはなんとなくあたりを見回してから声をひそめた。「私、もう少ししたら、ここを辞めるかもしんない」
私は何も言わず、曖昧にゆっくりと頷いた。青椒肉絲とかフラインパンという言葉を口にしたときとは違い、はるか遠くの湖面を見渡しているかのような空しい表情を滝乃瀬さんは浮かべていた。「まだ誰にも言ってない」
「辞めてどうするんですか」
「そうよね」滝乃瀬さんはほんの少し口角を上げた。「もうちょっと、割の良い仕事があるかもしれないなって」
「これから娘さんの教育費も必要だし」
「確かに」
「旦那さんには、のみを買ってこいって言われるし」
「はは、なにそれ」
「え、だって」
私の言葉を断ち切るようにコール音が鳴った。滝乃瀬さんは反射的にマウスをクリックし、電話に応答した。背筋を伸ばして、いつものワンオクターブ高い声を出した。
私もやがて鳴るだろう次の電話に対し、体をモニターに向けて準備をすることにした。私の断ち切られた言葉は私の舌に丸めこまれていた。そして誰にも届かないように、唇の隙間から少しずつその言葉を押し出していった。
──だって たきのせさんも となりのだんなさんに とらえられているんでしょう
私がすべての言葉を吐き出しても、滝乃瀬さんは何も気づくことはなかった。モニターに向かって、包帯を巻いた手をぱたぱたと動かしているだけだった。
ヨシタケは町から出ることにした。その前に会社に伝えておく必要があり、執務室の上席に座る部長に話しかけた。
「なるほど。そういうことなら しかたない。きみにも いろいろ あるんだろう。だけど どんなことがあっても おくさんは だいじに するんだぞ。つぎの しょくばでも せいぜい がんばってくれ」
ヨシタケがどんなふうに説明したのかはわからないが、ものわかりのいい上司だった。ものわかりがよすぎた。ヨシタケは会社を辞めるつもりはなかった。妻を探し出すため一週間ほど休暇をとるだけのはずだったのに、話がどう転んだのか、結局ヨシタケは会社を退職することになった。所持金を確かめると、さっそく退職金らしき金額が振り込まれていた。
会社を出ると、その足で女との待ち合わせ場所に向かった。少し歩くと高速バスの停まるロータリーがあり、女はベンチに座っていた。
「けんは ちゃんと もってきた? なくしてないわよね」
【どうぐ】のウィンドウを開くと「さかなけん」とちゃんと表示されている。魚へんと語呂を合わせたクミトトなりの洒落だろうか。一つもおもしろくなく、カーソルを魚剣に合わせて、コマンドウインドウを開く。【つかう】【わたす】【すてる】。普通のRPGでは物語進行に関わる重要なアイテムはどうしても捨てられない設定にされている。だが行方不明になった妻を探さずとも、プレイを進めていけるゲームだ。妻を救い出すために必要な魚剣を捨てたとしても、おそらく物語が進行するようにプログラムは組まれているだろう。クミトトであればその選択肢も用意しているはずだ。ヨシタケは魚剣を捨てた。【どうぐ】のリストから「さかなけん」が消えた。だがそんなことにはまるで気づかなかったように女は言った。「バスが きたわ。さあ、いきましょう」
女とヨシタケはバスに乗りこんだ。十列ほどのシートが左右に分かれている何の変哲もない高速バスだ。乗客は誰もいない。女とヨシタケはいちばん後ろの席に並んで座った。エンジン音が鳴り、車体が小刻みに揺れて、バスは動き出した。だがどこを走っているのかはまるでわからなかった。ただバスの車内だけが映し出されているだけで、それでもエンジン音とかすかな揺れによってバスは走っているのだと認識していた。ヨシタケは車内で行動することができた。女に話しかけても反応はなく、運転手に話しかけても反応はない。なかなか目的地に到着しない退屈な時間で、ヨシタケはしばらく短い通路を行ったり来たりしていた。このゲームを作ったクミトトがラスボスであるならば、最終的にヨシタケはこのゲームの外部へ脱出することになる。だがもちろんそんなことは不可能だった。いくらクミトトが想定していないと思われる行動をとっても、ヨシタケは強固にロックされたプログラムの箱から抜け出すことはできないはずだ。
「ついた みたいね」
女の後についてバスを降りると、空き地が広がっていた。短い雑草が点々と生え、水たまりがあり、これから使われるであろう木材や金属部品が積まれていた。女とヨシタケを乗せてきたバスが走り去ると、空き地を囲んでいる金網の向こうに夕暮れが見えた。その下には瓦屋根の古い民家が並んでいる。こんなところを高速バスの停留所に設定していることに、クミトトのかすかなエゴを感じた。ゲームを始めたときからそんなふしは感じられたが、ここにきて大多数が共感しやすいリアリズムをさらに放棄し、物事の結び目が緩んだ世界へ誘おうとしているように思われた。そしてそんなことは初めから承知の上でしょうというように女は言った。
「とりあえず ここで おりてみた というだけのこと。ここに おくさまがいるという かくしょうは なにもないわ。ただし ほうこうは まちがいない。さあ、いきましょう」
女とヨシタケは民家のあいだの道を進むことにした。マンホールがあり、電信柱が定間隔に立てられ、家々の玄関先には弱々しく痩せた植木の鉢が置かれている。住宅街には細かな道が網のように張り巡らされていたが、女はなにか確信を持っているように歩調を緩めずに右へ左へと曲がっていった。
通り過ぎていく町なみ、そして道同士の繋がり方を目にしていくと、次第に呼び起こされるものがあった。どこかで見たことのある景色だった。かつて自分はこの古びた場所にいたことがあり、女とヨシタケと同じように歩き回ったことがある。そんな既視感が静かな水音のように沸き起こってきた。しかしいつどこの記憶なのかは思い出すことができなかった。どこから水が流れてきたのかわからない。もしかしたら昔に自分が書いた小説の舞台だったかもしれないと思った。いつか自分一人が想像した場所と限りなく似ているのかもしれない。ただそうだとしても、それがどの小説なのかは引き出すことができない。そもそもただの勘違いかもしれない。
刻まれた景色のドットの一つずつに目を追っていくと、唐突に女が足を止めた。
「きたわよ」
戦闘ウィンドウが開かれた。そこには鯉という漢字が立ちはだかっている。「こいが あらわれた」とメッセージが表示され、ヨシタケは行動の選択を迫られる。【たたかう】【はなす】【どうぐ】【にげる】──ヨシタケはその場で立ち尽くすことしかできなかった。すでに魚剣を捨てていることを私は思い出した。
この数日でやっと梅雨が明けるだろうと、動画配信の天気予報士たちは口を揃えていた。それでも私はリュックの底に折りたたみ傘を忍ばせた。気温は上がり、晴れ間がところどころで覗いていたが、まだ雨はすべて降り切っていないような懸念がなんとなく感じられた。重く湿ったものが空の片隅にまだ残っていた。そしておかしな電話は私のもとにかかってきた。
その日、滝乃瀬さんは欠勤していた。体調不良という理由以外は聞かされていなかったが、会社を辞めるかもしれないと私に告げてからというもの、仕事を休む日がぽつぽつと目立つようになった。その日もまたかという空気がメンバーたちに漂い、誰かが私用で持ってきた大きなナイロンバッグが滝乃瀬さんの机の上にだらりと置かれていた。見慣れないナイロンバッグを視界の端に据えながら、私はパソコンを起動し、ヘッドセットを装着して、その日一件めの着電に待機していた。
「あんた、吉竹さんだろ」
マニュアルとして用意された挨拶の言葉など相手にしないように、男の低い声は一言めにそう発した。
「……お客様」私は口にすべき言葉にためらった。
「いきなり名指しされて戸惑うのは仕方ない」男は見透かしたような冷静な口調で言った。「でもな、あんたたちのシステムは電話番号だけで顧客情報を一瞬にして表示できる。平等に考えれば、こっちもあんたたちが一体どこの誰なのかを識別できるシステムを持っていても不思議じゃないよな」
「お客様は」私は咳払いを挟んだ。「お客様は、私が吉竹という名前だと認識されているんですね」
「そんなまわりくどい言い方で、ごまかそうとしなくてもいいじゃねえか」男は短く笑った。「まるで自分が吉竹だとは認めていないみたいな言い方。まあいいや。確かに言うとおり、俺はあんたが吉竹さんだと認識している。間違いない。ただな、そんなことをわざわざ吉竹本人に教えるために、こっちは貴重な時間を費やして電話をかけたわけじゃないからな」
コールセンターに着電したすべての通話内容は基幹システムによって録音されている。男の電話番号は【顧客登録なし】とモニターに表示されているが、あまりに悪質な内容であれば、以後その電話番号を着電拒否することが社内決定される場合もある。たぶん男の言葉はまだそのレベルではない。だが匂いは漂ってくる。まだ空に残っている雨雲が今にも最後の栓を抜こうとしているかのように。
「吉竹さん」男は言った。「あんた一体、何を探してるんだ」
私は間を置いた。「お客様は以前、弊社の商品のご購入いただいたことはございますでしょうか」
「それがあんたの探していることか」
「それとも今回初めてご注文を頂くということでよろしいでしょうか」
「そんなことを本当に知りたいのか」
「お客様がお問い合わせされているのは、本当に弊社で間違いありませんか」
「そんなわけないよな」
「ご用件がないようでしたら、このままお電話を切らせていただきます」
「あの店にはいつまで行くつもりなんだ」
私はマウスを動かしていた手を止めた。男はどこか知らないドアのノブを回そうとしている。
「お客様……ご用件がないようでしたら」
「あんたも用件がないなら、あんな店に行ったりするなよ。あの路地裏の店だよ」
「路地裏」私は思わず繰り返した。
「そう」男は納得したようにはっきりした声を出した。「この一ヵ月で三回は行ってるよな。いくら格安の店だといっても、そこのコールセンターの時給じゃ、それほど余裕があるわけでもないだろう」
私は黙っていた。男の言葉の続きを待っていた。男が一体何者なのか、耳を澄まさなければならないと思った。
「それなのに一ヵ月で三回も通っている」男は私の反応を待たず、得意そうに言った。「目当ての女がいるから? そんな歳でもないよな。四十七歳で風俗嬢に入れこむようなタイプじゃないことは知っている。女ではない。じゃあ客だ。あの店に通っている客の方に、あんたの目当ての人間はいる。あんたはその人間を探している。どうだ、図星だろう」
私は中折れ帽の男を思い浮かべた。確かに裕福な雰囲気はあった。どこかの組織のトップに立っていてもおかしくない格好だった。運転手や秘書、いつもそういった取り巻きの人間を連れていても違和感はない。電話の男は取り巻きの一人なのか。私の素性を調べ上げ、主人の後をつけ回っている男に警告を与えようと電話をかけてきたのか。だが私が中折れ帽の男を見かけたのは最初の一度きりだ。あの日以外、私が彼らの目に認識されていることはないはずだった。そうであれば、中折れ帽の男も私のことをあの日すでに認識していたということになる。あの夜、後をつけてくる私を意識的に振り払った可能性も考えられる。
「仮定の話になります」私は声をひそめた。「お客様が仰る店と、今私が思い浮かべている店が同一だと決めつけることはまだできません。ただ仮に同一だとしたら、私があの店に行くことを咎められる正当な理由を教えていただきたいのですが」
「それはさ」男は咳払いをした。「すでにわかっていることだろう」
「どういうことでしょう。身に覚えがないのですが」
「よく思い出したらいい。すでにあんた自身に起こっていることだろう」
「わからないですね。万が一、私が誰かを探しているとしても、まわりに迷惑をかけるようなことはしていないと自分では思っています。このお電話は、本当に私宛てでよろしいのでしょうか」
「あんたは吉竹だ」男は声を固くした。「四十七歳、独身男性。学生の頃から同じ1Kのアパートに住んでいる。小説の新人賞に応募してきたが、日の目を見ることなく書くのをやめてしまった。ただ今さらまともな職に就くこともできずに、このままふらふらと漂いながら一生を終えていくのに違いないと眠れない夜を過ごしている」
マウスを握る力が強くなった。鼓動が早くなり、喉の奥で唾をごくりと飲みこんだ。この男は誰なんだ。なぜ私について調べ上げているんだ。それも長々と経歴を述べるわけではなく、たった数行にまとめた説明で私を特定している。おまえなど原稿用紙一枚もあれば、充分に語り尽くせる人間なんだというように。頭に血が上ったのは、突きつけられた自分の薄っぺらさにだった。だが私は怒るわけにはいかなかった。たとえ相手が匿名のまま攻撃的な発言をしてこようとも、この会話はクライアントである健康食品会社にかかってきた電話であり、電話業務を受託することでコールセンターは報酬を受け取っており、私はコールセンターと労働契約を結んでいた。個人的な怒りを発露することは、クライアントの看板に傷をつけてしまうことだと私は自分に言い聞かせた。それにまわりにいるメンバーたちに自分の怒声を聞かせたくはなかった。
「正当な理由は教えていただけないんですね」私は息を大きく吸いこんでから言った。
「いいか」男は私の言葉を無視した。「まだこっちは咎めてはいない。ある人間を探しているだろうと確認しただけだよ。探すなとは一言も口にしていない。一度だけ言う。あの人間を探すな。これ以上首を突っこんだら、突っこんだ首はどうなってしまうのか。せいぜいお得意の想像力を働かせることだ」
「正当な理由はないということですね」私は言った。「そうであれば、あるのは不正な理由だけということになります。不正な理由が絡んでいるからこそ、あなたは匿名という立場をとって、脅しをかけるしかない。あなたは私について知っている。だけど、あなたは最近のコールセンターシステムまでは知らないでしょう。いくら電話番号を非通知に設定しても、足跡は必ず残ります。電話回線がたどってきた道筋を細かく可視化できるんです。あなたが私について調べ上げたのと同じように。ちなみにそちらは東京ではない関東地方ではありませんか」
コールセンターのシステムについてははったりだった。たんなる聞きかじりで、莫大な維持費用がかかるハイエンドシステムなどを零細コールセンターに備えられる余裕はなかった。しかし男は黙っていた。受話器を手でふさぎ、近くにいる誰かに確かめているような沈黙だった。
「伝えるべきことは伝えた」男はゆっくりとした口調で言った。「あとはあんた次第だ」
時間切れのように電話は唐突に切られた。私もマウスをクリックして通話状態を解除した。
社内共有用の連絡ファイルを開き、男との会話内容を要約することにした。できるだけ簡潔にまとめたかった。【オペレーター吉竹を個人的に知っていると思われる問い合わせ者が、吉竹のプライベートについて苦情を述べた。やや乱暴な物言い】。そのシンプルな文章を読み返していると、次第に男との会話が大したものではなかったと思えてきた。胸ぐらを強く掴まれたような怒りも自分の未熟さによるものだったんだと、落ち着いてキーボードを打つことができた。そしてふと、電話の男は取り巻きなどではなく、あの店で大きな喘ぎ声を上げた中折れ帽の男本人だったのかもしれないという可能性が頭上を横切った。
昼休みが終わっても、私はあまり電話をとらなかった。他のメンバーの手が空いているときは、他の業務やトイレで席を立ったりして、意識的に受電業務を避けた。メンバーもそんな空気を察知してか、いつもより積極的に受電ボタンをクリックしているような気がした。普段面倒くさい電話を私に回していることへの労りなんかがあったかもしれない。
終業時間が近づいたときだった。マネージャーが声をかけてきた。
「十五分、時間をもらえますか」マネージャーは中腰になって、やけに畏まった表情を近づけた。
私は立ち上がり、マネージャーの後をついていった。オペレータールームを出て、廊下を進んだ突きあたりの応接室に通された。簡単な四人用のソファセットと、山岳風景を写したカレンダーが壁に掛けられているだけの狭い部屋だ。マネージャーと私は向かい合って腰を下ろした。
「業務はスムースに進められていますか」マネージャーは訊ねた。
「問題ありません」私は答えた。「チームのメンバーとは気さくに話していますし、なにか起こったらお互いにフォローできていますから。まあ、私はチームの中でいちばん歳下ですし、唯一の男っていうこともありますから、助けられている部分は多いです」
「そうですか。それなら良かった」マネージャーは私の返事と自分の考えを照らし合わせるように何度か頷いた。そして意を決したのか、上半身を前に傾けて顔の前で手を組んだ。「妙な噂を耳にしたんですよ」
「噂」私は繰り返した。
「もちろん女性の多い職場だし、たんなる噂話はそこらじゅうに溢れている。尾ひれがつくのも承知の上です。だけど会社全体に関わる噂であれば話は別だ。管理者としては看過することはできない。時間がありませんよね。本題に入りましょう。同じチームの滝乃瀬さんが退職することになりました」
「滝乃瀬さんが」私は初めて聞いたような素振りをとった。そうすることで話を早く切り上げられると思った。
「もちろんパートさんが辞めることは日常茶飯事です。こちらもいちいち引き止めはしないし、退職理由を突っこんで訊いたりもしない。ただ滝乃瀬さんの場合は事情が違うみたいなんです」
「会社全体に関わるということですか」
「彼女の旦那さんが犯罪に関わっている可能性があります」
私はマネージャーの顔を見た。もちろんマカロンを配ることだけが彼の仕事だとは考えていなかったが、唇をきつく閉じ、こちらを射抜くように見つめる視線の強さに、私は思わず眉間を寄せた。「噂のレベルではないということですか」
「客観的な証拠は欠けています」マネージャーは静かに答えた。「窃盗集団の一員らしいとか、ネットを使った闇ビジネスで稼いでいるらしいとか、あるいは若い頃から反社組織の組員だったらしいとか。どれも人から人に伝わった話にすぎません。でもどれにも一貫しているのは、滝乃瀬さんの旦那さんはまともな仕事に就いていないということです。そして妻である滝乃瀬さんも、旦那さんの仕事に加担していると思われています」
「加担している」私は言った。「加担させられている、じゃなくて?」
「はっきりとはわかりません。ただ滝乃瀬さんがUSBメモリを席のパソコンに差して、データをコピーしているところを目にした人はいます。コピーするデータといったら、顧客の個人情報しかありません。健康食品の購入歴があるシニア層の個人情報を大量に入手し、別の場所で利用していると考えるのが普通でしょう。個人情報の取扱いについては、入社するときに必ずレクチャーしていますが」
「旦那さんの犯罪行為のために、滝乃瀬さん自身も犯罪に手を染めていると」
「旦那さんを見かけた人もいます」マネージャーは組んでいる手を固くした。「背が高く、がっちりした体格で、夜の歩道を足早に通り過ぎていくところを。そして後ろから滝乃瀬さんが追っかけていったって。旦那さんは帽子を深めに被っていたから、顔がよく見えなかったみたいですけど」
「帽子?」私は反応した。「どんな帽子ですか」
「さあ……そこまでは聞いてないな。でも話によると、近寄りがたいというか、明らかに堅気じゃない雰囲気が漂っていたということです」
夜のコンビニから出てきた滝乃瀬さんの姿を私は思い出していた。Tシャツに短パンという姿で、娘と近くへ買い物にきたという雰囲気だった。滝乃瀬さんはあのあたりに住んでいるのだろうか。それとも、どこへ行くのにもあんな格好をしているのだろうか。
「滝乃瀬さんが辞める理由は、今回の件のせいですか」私は訊ねた。
「辞職は自分から言い出しましたよ」マネージャーは答えた。「彼女の噂はちょくちょく耳に入っていたので、どう対処すべきか頭を悩ませていました。正直、肩の荷が半分降りたと思いました。彼女自身、社内の空気を察知していたかもしれませんが、そこまでは確かめていません。ただもし本当に彼女が顧客の個人情報を外部に持ち出していたとしたら、話はまだ済まない。旦那さんが逮捕されて、犯罪行為の道具に社内の個人情報が使われていたことが明るみに出れば、会社全体が揺るぎかねない」
マネージャーは目の前の手を解くと、背もたれにゆっくりと身をあずけた。「そういう事態になれば、もちろん会社側の責任です。私の責任です。だからこそ、その前に状況を把握しておく必要があります。吉竹さんは滝乃瀬さんと同じチームだ。まわりの女性たちにはなかなか話せないことも、男性の吉竹さんには話せるかもしれない。となり同士の席で、二人でよく話しこんでいたことは聞いていますよ」
目の前でソファに深く沈みこんでいる男は何を探しあてようとしているんだろう。滝乃瀬さんが夫の犯罪を私に打ち明け、彼女が顧客の個人情報を抜き出していることを私は黙認し、管理者に報告するべき義務を怠った──そんな物語を探しているのか。あるはずのない物語を二人きりの狭苦しい応接室で作り上げようとしているのか。
「話は元に戻りましたね」私は微笑んでみせた。「私たちのチームはおかげさまでうまくいっています。私と滝乃瀬さんだけでなく、みんなお互いを頼り合っています。誰かを除け者にしてはいませんし、陰口を言い合ったりもしていません。やりやすいドライな雰囲気で、業務を遂行できています。今のような話が耳に入ったことは一度もありませんよ」
「そうですか」マネージャーは体を動かさずに頷いた。「わかりました。十五分経ちました。時間ですね。もう退社してオーケーですよ」
マネージャーは唇の両端を少しだけ上げた。
魚剣を捨てていたことに対して、女は何も言及しなかった。魚剣を捨てる選択肢が設定されている以上、分岐する台詞も用意されているだろうと予想していたが、ヨシタケの取る選択など初めからわかっていたように、女は夕暮れの町を一定のスピードで歩き続けていた。
鯉は分離することなく、その場に倒れこんだ。魚剣以外の武器を持たないヨシタケには鯉を拳で殴ったり、肘鉄を食らわしたり、ヘッドロックをかけるぐらいしか攻撃の手段がなかった。それでも鯉には充分なダメージを与えたらしく、立てた板が風に煽られるみたいに地面にばたんと倒れた。
「これじゃあ こいは こいのままね」女は言った。「わたしが わたした けんを つかわないと、さかなは じゆうに なれない。ただ こいのまま たおれただけ。きっと こいつは またあらわれるわ。こいという なまえの さかなとしてね。さあ いきましょう」
それからも何匹かの魚たちが行く手を立ちはだかった。鯖や鰹や鯱などの比較的画数が多めの魚が戦闘ウィンドウにあらわれた。ヨシタケはそのたびに自らの肉体を駆使して、彼らを蹴散らした。さすがに鯱を相手にするのは身体能力に差がありすぎると慄いたが、魚たちは一様にヨシタケに反撃せずにいた。ただ目の前に立ち、ヨシタケの攻撃を無抵抗に受けながら、やがて力尽きて地面にひれ伏した。まるでヨシタケに倒されることを自ら求めるように、魚たちは屍に成り果てた。そしてそのたびに女は同じ台詞を吐いた。「これじゃあ さかなは じゆうに なれない」と。
民家のあいだに伸びる道をヨシタケは自由に歩いているように思えた。まっすぐ進んだり、引き返したり、角を曲がったりして、ヨシタケは自分の選択した道を進んだ。しかしどんな道を選んでも、女は常にヨシタケの前を歩いていた。女が煙草屋のある交差点をまっすぐ渡ったのを確かめてから、ヨシタケは左に曲がる。すると交差点を渡っていた女は消えて、ヨシタケが曲がった先の電信柱にあらわれている。ヨシタケが自由に歩きながらも、その先ではいつも女が先導していた。それだけではなかった。どこまで歩いても町は終わりを見せなかった。瓦屋根や公園や工場などの同じ景色が延々と続いた。そして夕暮れもまた夕暮れのままだった。いつまでも太陽が沈もうとしない。クミトトが作ったプログラムからは決して逃れることはできない。プログラムの世界から一歩でも外に出ることは、女は女でなくなり、ヨシタケはヨシタケでなくなることを意味している。
「とまって!」女が言った。
二人は動きを止めた。しばらくして前から歩いてきたのは部長だった。ヨシタケが勤めていた会社の上司であり、ヨシタケの退職を快く見送った男だ。部長の歩みは遅かった。体力をひどく消耗しているのか、年齢による膝の痛みを堪えているのか、それとも人生に染みわたる長い労苦に疲れ果ててしまったのか──処理速度が追いつかず消え入りそうに揺らぎながら、部長は一歩ずつゆっくりと二人のもとに近づいてきた。
「かれよ」女は言った。「かれが クミトトに ちかづくための フラグなの」
滝乃瀬さんが会社を辞めた後、新しいメンバーが補充されることはなかった。ウイルスバブルが下降線をたどり、社内に響くコール音の数は減り始めていた。オペレーターたちはマニュアルのファイルを退屈そうに読み返し、背中を曲げて頬杖をつき、口元をふさいでまわりのメンバーと他愛もないお喋りを交わしていた。マネージャーは変わらずオペレーターたちのデスクを渡り歩いていたが、かつてマカロンの箱を持っていた手は後ろに回され、彼女たちの緩んだ雰囲気を引きしめるように眉間に皺をぎゅっと寄せていた。
滝乃瀬さんが使用していたデスクの上には荷物が積み上げられていた。どこから運ばれれきたのかわからないダンボール箱に入った資料や、未使用のプラスティックケースや、一世代前の古い電話機なんかが雑然と積まれていた。私もまたとなりの席に積まれた荷物の山をぼんやり見つめることが多くなった。なにかの拍子でわずかな振動でも起これば、途端にがらがらと崩れ落ちていきそうだった。
「吉竹さんの小説、読めなかったね」
退職日、滝乃瀬さんは引き出しの中の私物を選り分けながらそう言った。どこかの店のクーポン券や残り少ないガムやUSBケーブルなんかを自分のトートバッグに次々と放りこんでいった。
「最近はまったく書いてませんからね」私はキーボードの手を止めて、滝乃瀬さんの方を振り返った。
「いつか本屋に並んでいるのを見かけたら、買ってあげるよ」
滝乃瀬さんはそう言って、引き出しを閉めた。のみは問題なく使えてますか、と訊ねようとしたが、薄化粧だった滝乃瀬さんの横顔を見ていると、やはりやめることにした。
荷物の整理を終えると、滝乃瀬さんは手が空いたメンバー一人ずつに挨拶をして回った。いつもと変わらない笑顔を浮かべ、相手も呼応して微笑んでみせた。管理者席に座るマネージャーのところへ行って簡単に言葉を交わすと、自分のデスクに戻ってトートバッグを肩に下げた。そして毎日退社するときと同じように、軽く会釈をして会社をふらりと去っていった。滝乃瀬さんのデスクの上には何もなく、蛍光灯の光を余すことなく反射させるほど白かった。
残ったメンバーの顔を、私は気づかれないように一人ずつ窺ってみた。滝乃瀬さんの退職プログラムはすでに処理され終わった業務の一つみたいに、みんなモニターに向かって話したり、注文内容を入力していたりした。この中の誰かが滝乃瀬さんの夫を街で見かけている。滝乃瀬さんの夫が罪を犯していると言い、滝乃瀬さん自身も加担していると言っている。そして私と滝乃瀬さんが同僚以上に親しくしていると上司に告げている。一体それが誰なのかは知りようがなかったし、特に知りたくもなかった。それまでの職場でも似たようなことは何度かあった。結局私たちはそんなふうにしか毎日を暮らしていけないのだ。管理された組織の内側で誰かと仲良くなろうしたり、誰かを貶めたり、誰かに忠誠を尽くしたり、誰かの席を奪おうとすることで時間を費やしているだけなのだ。管理する側も同じだった。マネージャーも、電話で脅しをかけてきた男も、中折れ帽の男も、滝乃瀬さんの夫も、そして『魚へんに誰』を作ったクミトトも──管理するという行為を通じて、彼らも管理されているにすぎなかった。
ただそれでも私は路地裏の風俗店に行くことをやめなかった。
性器はいつのまにか馴染んでいた。毎日トイレに行き、風呂場で体を洗っているうちに、新たな細胞の塊として私の一部に差し代わっていた。大きめだった亀頭や陰茎や陰嚢も、初めからそこにあったように股のあいだにおとなしく収まっている。そもそも一体誰が「その物体はおまえの性器ではない」と指摘することができるだろう。私さえ受け入れれば、それは私の性器になるはずだった。私は私の性器を新しく持つことで、これまで生きてきたとおりの変わりない日常を送ることができるだろう。そのことをときおり仄めかすように性器は勃起し、自らの内に秘めた精液を発射させようとした。こいつは私による認証を待ち続けているのだと思った。
勃起から射精までへの快感はあいかわらず失われ続けていた。だがそのことにもまた私は慣れ始めていた。失われ続けることが当たり前になると、去勢されたような状態になるのかもしれない。ただ以前のように『魚へんに誰』をプレイしながらマスターベーションをすることはなくなった。いつまでも寝つけずに性器を弄ぶこともしなくなった。射精するときは、あの路地裏の店だけにすることに決めていた。
店では毎回違う女が、股のあいだにひざまずいた。女たちは硬くそそり立った性器を私のものと疑わずに手に取り、舌を柔らかく這わせた。名前も知らない女の舌が精液を引きずり出そうとするたび、私は自分が失われていることをいつも自覚させられた。
──この性器はやはり私のものじゃない
そのことを忘れないために私はその店に通っていた。
名前のない女に、滝乃瀬さんの面影を重ねることがあった。滝乃瀬さんが乳房をあらわにして、私を射精に導こうとしているのだと想像した。コールセンターのデスクで私は顧客からの電話に応対している。滝乃瀬さんはデスクの下にもぐりこんで、私の勃起した性器を口に含んでいた。それまで私はマスターベーションの対象として、滝乃瀬さんとのセックスを思い浮かべことはなかった。彼女の裸を想像したことすらなかった。滝乃瀬さんとの関係は私にとってあまりにも日常的なつながりだった。だが彼女が会社を去り、彼女の姿を目にしなくなったことで、彼女がいなくなった壁に私はもたれかかるようになった。電車の吊り革を握りながら彼女との会話を思い出し、スマホを手離して布団に入った後は彼女の顔を思い出そうとした。そして股のあいだに滝乃瀬さんの姿を想像することで、私は私の性器を取り戻せるかもしれないという気がしていた。
だが滝乃瀬さんはいつも途中でやめた。飽きてしまったように性器を口から出し、疲れた表情を隠そうともせずに口元を拭った。そして服を着て、デスクの下から立ち上がると、部屋のドアを開けて出ていった。私は立ち上がり、追いかけなければならなかった。滝乃瀬さんをそのまま失いたくなかった。だが動けなかった。名前のない女が性器を鎖のようにしっかり咥えていた。そして私は快感の失われた射精へと連行される。精液が白い壁を這い上がっているとき、私は思う。たぶん滝乃瀬さんは知っているのだと。これが私の性器でないことを滝乃瀬さんだけが知っているのだ。
男の警告を忘れたわけではなかった。男の話し方は冗談のようには聞こえなかったし、その低い声には骨身を震わせる響きがあった。だが私としても、文句をつけられる筋合いのない脅しに引き下がるわけにはいかなかった。クミトト──と思われる男にもう一度会わなければならなかった。もしクミトトでないとしても、他の誰かであるに違いない男に会わなければならなかった。男からコールセンターに電話があってから、私は三回ほど店を訪れた。曜日を変え、時間帯を変えてみたが、やはり中折れ帽の男を目にすることはできなかった。
店の外から出入り口である階段をしばらく見張ったこともあった。立ち飲み屋の煙と喧騒に紛れて、普段吸わない煙草をくわえてふらふらと歩きながら、路地を通る人たちを窺った。そんな小汚い裏通りに不似合いな中折れ帽があらわれたらすぐに目についたはずだが、通り過ぎていくのは同じように小汚い格好をした者ばかりだった。同時に私自身も見張られている可能性はあった。これ以上首を突っこむなと男は警告した。雑居ビルの階段に視線を注ぎながら、私は自らのまわりにも注意を払った。だが不審な者につけ狙われたり、声をかけられたり、絡まれたりすることは一度もなかった。中折れ帽の男が完全に姿を消した可能性は高かった。自分を探し回る男の行動を制御するより、自分が別の場所へ移動する方が話は早い。男からの電話は、この路地裏の店以外の場所を探そうとするなという意味だったのだろうか。
終電の時間が近づき、煙草の本数も尽きて、そろそろ引き上げようと路地から踵を返そうとしたときだった。知っている男とすれ違った気がした。私は振り返った。そこには毎日目にしているスーツ姿の背中があった。コールセンターのマネージャーだった。広々とした肩のラインは多くの人が交差する飲み屋街でも見間違うことはなかった。私の足は自然にマネージャーの後を追っていた。昼間のオフィスと同じように存在をただ認識できるだけの距離を保ち、同じ歩幅とスピードでマネージャーの後ろを進んだ。彼は変わらず革製の薄っぺらい鞄を手にしていた。店の階段から降りてきた気配はない。酒を飲んだ帰りにたまたまあの路地を通っただけなのだろう。足取りはしっかりしている。向かう方向には地下鉄の駅があった。私と同じ方向に帰るのであれば、同じ最終電車に乗ることになる。それでも構わなかった。どうせなら近づいて話しかけてみようと思いついた。こちらは友だちとカラオケに行っていたなどと適当にごまかせばいい。マネージャーこそこんなところでこんな時間まで何をしてたんですか。滝乃瀬さんは本当に会社を辞めなくちゃいけなかったんですか、と私は訊ねなければいけない。
足取りを早めて、地下鉄へと下る階段が見えたときだった。突然目の前を人の波が押し寄せた。どこかのビルからいきなり何十人もの人間が走り出してきて、地下鉄の階段へと殺到し始めた。なにかの集会が催され、予定よりも終了時刻が延びてしまったのか。誰もが我先に狭い階段を駆け下り、最終電車に乗り遅れまいと必死になっているようだった。私は誰かの腕に押しのけられ、体勢を崩した。それでもマネージャーの姿を見失いはしなかった。階段の出入口でうごめいている人たちの狭間になんとかスーツ姿の広い肩幅を捉えていた。だが人々は押し合い、揺れ膨らみ、上下して、一人一人の境目さえすり潰そうとしているように見えた。それは一瞬だった。人びとの頭が重なり合う一瞬の隙間で、マネージャーがいるはずのところに中折れ帽が見えた。今帽子を被ったところなのか、それとも帽子が脱げるのを防いでいるのか、色濃く日焼けをした太い指が帽子を押さえていた。すぐに人の波が中折れ帽を飲みこみ、階段の奥へと運び、隠していった。まだまだ押し寄せてくる人の力に私はついに跳ねのけられた。彼らの衝動が地下へと吸収されていくのを、しばらくのあいだ見届けるしかなかった。
戦闘ウィンドウにあらわれた部長はぶつぶつと呟いていた。ヨシタケとの対峙に気づいていないようで、地面に視線を落とし、指で顎の先をつまんでいる。売上……スケジュール……コスパ……経費削減……教育費……住宅ローン……老後の趣味……若い頃の自分……部長を包囲している課題にはきりがなかった。彼にできるのはそれらを一つずつ言葉にして整理するぐらいで、突破口をどこかに見出すことはとてもできなさそうだった。ただずっと顎の皮をちびちびと引っ張っている。
ヨシタケが何度話しかけても、部長は同じ呟きしか繰り返さず、こちらに襲いかかってくる気配がなかった。クミトトに近づくためのフラグだと女が言うからには、部長から何かしらのアクションを引き出す必要があるはずだ。仕方がないのでヨシタケは部長に攻撃を加えることにした。体当たりをしたり、腕を掴んで背中へ捻り上げたり、尻を蹴り上げたりした。だが部長はそのたびに面倒くさそうに立ち上がり、また同じ姿勢で顎の皮をちびちびと引っ張るだけだった。やはり魚剣が必要だったのかもしれないとヨシタケは動きを止めた。この町を訪れてから遭遇した敵はただの流動要素で、戦おうが逃げようがプログラムの進行に影響を及ぼすことはない。だがフラグである部長に対しては、魚剣の使用がキーとして設定されているのかもしれない。そうであればヨシタケの妻を探す冒険は、部長を前にしてデッドロックに陥ってしまったと考えられる。
ヨシタケが次の行動に移れずに立ち往生をしていると、部長にかすかな変化が起こった。スーツの下に付けられた低周波治療器の電源が入れられたみたいに、ぷるぷると体を小刻みに震わせ始めた。最初はただの画面のちらつきだろうと気にしなかったが、部長は立っているのもままならずに体勢を崩し始めた。顎をつまんでいた手は弱々しくも必死に空中へ伸ばされていたが、曲げられた膝が体重を支えきれずに地面へと角度を落とした。その姿はまるで全体を締めつけていた箍がはずれて、部品がばらばらに分解していく古い家具を思わせた。ついに部長は両手と両膝を地面につき、土下座をしているような格好になった。
「クミトトさま」部長は言った。「もうしわけ ありませんでした。どうか もういちど、わたしを しょぞくさせてください」
だが部長の願いは聞き入れられなかったようだった。部長を構成しているドット同士にわずかな隙間が生まれた。隙間は次第に広がっていき、細かい網目に組まれたいくつもの刃で裁断されたように、部長のドットは細粒状になって地面に散らばった。
ヨシタケが特別な行動を取ったわけではなかった。素手による攻撃は何の効果も与えていなかったし、戦いに使えそうな道具は何一つ持っていなかった。もしかしたら部長を対峙したことですでにフラグが立ったのかもしれない。ヨシタケがどんな行動を取ろうとも、決定されたプログラムの鍵はすでに回っていたのかもしれない。
よく見ると、部長のドットたちは動いていた。呼吸するほどの間隔で点滅を繰り返し、上下左右へ跳ね回っていた。それらはドットでなく鰯だった。級数の小さな鰯という文字が何十匹と地面に打ち上げられている。死が間近に迫った体を自ら叩き起こして、生き延びるための酸素を懸命に求めている。
「さわったら だめよ」女は言った。「いま さわったら、いわしは ほんとうに しんでしまう。いわしたちは かえるはずよ。クミトトのもとへ」
やがて一匹が空中まですっと浮かび上がった。そして視線ほどの高さで止まった。その一匹に倣って他の鰯たちも一斉に浮かび上がり、同じ向きに体を固定した。海中を大群で移動するときみたいに、鰯たちは大きな一匹の塊となって戦闘ウィンドウの外側へと消えていった。画面が民家の道すじに切り替わった。依然、夕暮れのままだ。鰯の大群は細かい路地の上を泳ぐように進んでいった。
「おうわよ」女が進みだした。「わたしたちは いわしを みうしなうわけにはいかない。クミトトのもとへ いかなくちゃいけない」
ヨシタケは女の後をついていった。ついていきながら私は勃起していた。女が髪を揺らしながら路地を歩く姿を見ていると、彼女の行き先が正しい方向であることを告げるように性器が反応した。きっとヨシタケも勃起しているのだと思った。ヨシタケは自由に行動できる状態であり、女とは別の方向へ進むこともできた。それにもかかわらずヨシタケはクミトトを求めて、勃起を促す女の後をついていかざるを得なかった。
三ヵ月という時間は何もなくとも過ぎていく。ただカレンダー上で三ヵ月だと認識するだけで、それが一ヵ月とか二ヵ月だとしても、大して変わりのない月日の流れ方をしていた。強いて変わったことといえば、毎日の通勤手段をヨシタケと同じように地下鉄に変えたことだった。二駅ほどの距離で、経済的負担は知れていた。あとは滝乃瀬さんがいなくなった後に二人のメンバーが退職したことぐらいだ。家庭上の理由、体力的な理由ということで彼女たちはあっさりと会社を去った。それでもやはり新たなメンバーが補填されることはなかった。空席が目立つチームになり、会話の声はおとなしくなったが、電話が鳴る数も以前より減っていることに、どこか寒々しい空気がデスクのあいだを漂っていた。
滝乃瀬さんの夫が犯罪に関わっていたのか、そして滝乃瀬さんが会社から個人情報を抜き取っていたのかについては誰も何も話さなくなった。少なくとも報道でそのことを連想させるニュースが流れたことはなかったし、警察が会社を訪れているところを見かけたこともなかった。マネージャーはマカロンを配らなくなったかわりに、スマホを耳にあて、深刻そうに眉をひそめながら誰かと金の話をするようになった。着電数の減少によって相対的に人件費が膨れ上がっているらしく、今より賃料が安くて狭い事務所に引っ越す案も検討されているみたいだった。
顧客からの電話に応対するとき以外、私は誰とも話さないで一日を終えることが多くなった。いつまでも電話が鳴らないときは、インターネットで自宅近くの求人情報を検索した。給食センターや高齢者の介護現場での募集があり、コールセンターよりも時給は安く設定されていたが、いざとなれば背に腹は変えられない。一方で私は路地裏の店に行き続けた。中折れ帽の男を見かけることはなかったし、マネージャーの姿を目にすることもなかった。オフィスの向こうでスマホを手にし、低い声で呟いているマネージャーの横顔を私は視界の端にとらえる。あの夜、なぜマネージャーがあの路地を歩いていたのかは確かめようがない。マネージャーと中折れ帽の男とに関連性があるとも考えにくい。だけど私には予感があった。証拠も根拠もないが、どこかの窓の隙間から入ってくるかすかな風のように、私の皮膚はその予感がどの方向から吹いてくるのかを感じていた。
──私はクミトトに近づきつつある。『魚へんに誰』を作ったクミトトが、私を目視で確認できるまでの距離に潜んでいる。窓のわずかな隙間からこちらの様子をこっそり窺っているのを感じることができる。私はそこに行かなければならない。そこに行かなければならないことになっている。
篠崎からメッセージが届いたとき、私は自宅近くのホームセンターにいた。
[衣装合わせをしたいです]
いつもの簡単な文章に、一瞬何のことかわからなかった。久しぶりの篠崎からの連絡に、商品棚をまさぐる手を止めた。十月が近づいていた。衣装や武器はこちらで用意しますからと篠崎は確か言っていた。ネットによる生配信とCGを合成した一人芝居のことなどすっかり忘れていたが、ギャラは支払うとの篠崎の言葉を思い出し、今さらながら助けられた気持ちになった。もしコールセンターから契約を解除されたら、次の職は簡単に見つからないだろう。
[どこで]私は訊ねた。
[吉竹さんの家でお願いします。できれば撮影現場も見ておきたいので]
[どういうこと]
[詳しいことはそのときに説明しますけど、変身前の吉竹さんの生活風景がどうしても必要なんです]
[そんなの聞いてなかった]そう入力しながら、私は別に気にせずに商品をがらがらと物色した。
[今初めて伝えましたから。すみません]
[長袖?]
[何が?]
[衣装。十月ってそろそろ涼しくなる時期だろ。半袖だったらきついかなって]
[大丈夫、長袖ですよ。半袖のヒーローっていないでしょ]
[ヒーローの設定は捨ててなかったんだ]
[文字という敵を分解するためには重要な設定ですから]
衣装合わせの日時を決めると、私は再び陳列された商品を一つずつ確かめていった。そこはDIYのコーナーであり、多様な目的を持った工具が並べられており、私の目の前にはのみがぶら下がっていた。私が手にしたのはよく磨かれた木製の柄のもので、握ってみると手の中へ沈むように収まった。
数日後、大きい紙袋からまず取り出されたのはくすんだベージュの布だった。それを篠崎は洗濯物やティシュの箱やレジ袋などで散らかった床の上に広げた。筒状に縫製された四隅が伸ばされたときに、人の全身を覆う衣装を披露させられているのだと私はやっと理解した。ところどころに薄黒く汚されているのはきめ細かい皺としての表現であり、胸や腹の部分に施されている立体的な筋は血管なのだろう。足元に沿うにしたがって、黒ずみは濃くなった。まるで長年使用し続けた木製工具のように手垢が染みついているようにも見えた。両足の先にそれぞれ付いているドッヂボールほどの球体は睾丸だ。陰毛の代わりに針金が何十本も縫いつけられている。
「あとは」
篠崎は再び紙袋の中に手を突っこんだ。彼が手にしたのは亀頭だった。底に頭を通す穴と、前面に顔を出す穴が開けられていた。頭頂部には尿道口の切りこみが入れられており、そこから首元にかけて二つの段差が作られていた。一つは包皮が途中で剥けきっていない段差であり、もう一つ亀頭の元にあるカリ首の段差。つまり私は仮性包茎を模した全身衣装を着させられて人前に出ようとしていた。
「最後にこれ」篠崎は紙袋とは別に手にしていた緑色の長細い棒も私に差し出した。「スター・ウォーズのライトセーバーみたいなものです」
「なんで」私は篠崎の手にしている丸い方を見つめながら訊ねた。「仮性包茎って」
「ペニス型のヒーロー」篠崎は微笑んだ。「そもそもヒーローって何だろうなって考えたんです。何日か悩んだんですけど、結論としてちんこってヒーローなんだなって。つまりヒーローって何もない場所に生まれるんじゃなくて、俗にまみれた大衆的な地平から周囲からの皺寄せの力で突出してくるものだと思うんです。だからこそ大衆に求められ、愛され、最後には切り捨てられる。その偽善を根源的に象徴しているのが」
「だから」私は篠崎の話を遮った。「なんでその象徴が仮性包茎なんだって」
「最近ろくに勃起しないって、吉竹さん言ってたでしょ。それがヒントになりました。失礼だけど、吉竹さんって仮性包茎っぽいなって」
「俺はそんなこと言っていない」私の声は固くなった。「勃起しないなんて言っていない。性欲を自分のものにできないって言ったんだ。勃起と射精は系統の異なる反応っていうことぐらいは知ってるだろ」
「あ、そうでしたっけ」篠崎はカーディガンのポケットに手を突っこんだ。「すみません、勘違いしてました」
「篠崎くん、もしかして君だったのか」
「え、何ですか」
私は篠崎の顔を見つめてみた。篠崎は細い目でこちらを無表情に見返している。篠崎が『魚へんに誰』を作った者だとしてもおかしくはない。クミトトという名に隠れ、アート作品としてオリジナルのゲームを世に流した。アートとゲームを有機的に結びつけ、プレイヤーから資本家のように快感を搾取していく。経済と性の結びつきを赤裸々に体現させることがテーマといったところだろう。その作品を偶然手に取ったのが私だったのか。それとも最初から私に狙いをつけていたのか。篠崎は唇を結び、揺るがない瞳で私の言葉を待っている。何のことはわらかないが、何かおもしろそうな返事を待っているように唇の端を少しだけ上げている。
「吉竹さん」篠崎は沈黙を破った。「申し訳ないんですけど、これ試着してもらえますか。僕あんまり時間なくて」
クミトトの正体は篠崎だという疑いを捨てたわけじゃなかったが、篠崎は誰かを騙したり嘘をついたりする人間ではないことも知っていた。結局アートしか頭にない男だ。自作の怪しいゲームを世に流すことが、人を騙したり嘘をついたりすることと同等かどうか判断できないまま、私はスウェットを脱ぐことにした。Tシャツとトランクス姿になって、床に広げられたベージュの衣装をつまみ上げた。まさに射精を終えて縮まった性器の姿だった。背中のジッパーを下げ、足を入れて、腕を入れた後にジッパーを上げようとした。だが背中に回した腕が途中までしか届かず、篠崎に首元まで上げてもらった。ひんやりとした生地で、皮膚が濡れているように錯覚したが、ほどなくすると人肌の温かさに衣装内が馴染んできた。それからウレタン製の亀頭を被り、顔の位置がまっすぐ向くように微調整した。最後に緑色の棒を握った。
「ぴったりですね」篠崎は数歩下がって、私の全身を見回した。「さすが」
「さすがってどういうことだよ」私の部屋には姿見がなく、篠崎のスマホで写真を撮ってもらった。
「どこからどう見ても、歩くちんこ。ヒーローちんこの誕生ですよ」
「嬉しくはないな」私は呟いた。「この格好で世の中の文字をばらばらに解体していくわけだ」
「最適な姿ですよ」篠崎はスマホを操作しながら、自信ありげに言った。「ただその前に段取りが必要です。吉竹さんがちんこに変身する前に、普段の吉竹さんを見せなくちゃいけない。じゃないとちんこである意味が伝わりませんから。今から説明しますね」
篠崎は腰を下ろし、ファミコンを置いている机の前で胡座(あぐら)をかいた。机の上で私のスマホが震えた。私も床に座ろうとしたが、足先の睾丸に付いている針金製の陰毛がまわりの物にぶつかったり引っかかったりして、両足を伸ばして座するしかなかった。スマホを手にし、今しがた篠崎から送られた画像を開いてみた。そこに映っていたのは怪人だった。子どもの頃にテレビで見ていたヒーローが戦っていた怪人を思わせる姿だった。昔の怪人よりチープな作りだったが、ただ私が記憶を美化しているだけかもしれない。性器の中に忍びこんでいる者──誰かの性器から快感を盗み取っている者として私の顔が亀頭の中に映っていた。
女の足が止まったのは古ぼけたアパートの前だった。二階建てで、外壁はいたるところでひび割れており、入り口付近で入居者の自転車が乱雑に並べられている。誰が見ても低所得者のために建てられたのだと納得する簡素な作りだった。鰯たちの集団は錆びた階段を上がり、二階のいちばん奥のドアまで空中を泳いだ。そしてそれがただの記号的ドットであることを見せつけるように、閉じたドアを抵抗なくすり抜けて、部屋の中へ入っていった。
「クミトトは あのへやに いるのね」
アパートを見上げて、女は言った。「さかなけんは ちゃんと もってるわよね。あれがないと クミトトを たおすことは できないわよ」
【はい】も【いいえ】も答えられないまま、女は一歩ずつアパートに近づいた。敷地内に侵入し、階段のステップに足をかけ、ヨシタケも同じように息を潜めて自動的に女の背中を追った。
そのアパートはとてもよく似ていた。女とヨシタケを映し出しているモニターが置かれている部屋に──その部屋を建材で仕切り、集合住宅という概念を生み出しているアパートの外観に酷似していた。もちろんアパートに個性などない。デザインはマニュアルに沿って数パターンほど揃っているだけで、マニュアルに沿った工法があり、マニュアルに沿った建材があり、決められた期日で効率よく建てられるだけだ。日本中どこでも目にすることができる賃貸木造アパート。だがそれでもやはり似ていることに変わりはなかった。それは今、自分がいるアパートと同じ場所なんだと共鳴させるデジャヴュのような感覚が起こっていた。プレイヤーにそう感じさせるのも、クミトトのプログラムによるものなのだろう。きっと魚剣が捨てられていることもクミトトの想定内だ。魚剣がないとクミトトを倒せないと女は言った。魚剣を捨ててしまったプレイヤーはひどく落胆し、もう一度最初からゲームをやり直そうとリセットボタンを押すかもしれない。だがヨシタケは構わずにアパートの二階まで上がり、部屋のドアまで近づいていった。ヨシタケにはリセットすべきものなど何もなかった。それまでの人生で何も手に入れてこなかったし、何も失ってこなかった。そんなふうに四十七年を生きてきた。魚剣があろうがなかろうが、たとえクミトトを相手にして勝とうが負けようが、どうなったとしてもそれがヨシタケの人生であることには変わりなかった。
女はドアの前で立ち止まった。注意深くヨシタケの方を振り返る。
「インターフォンは おさない。こえをかけることもしない。このままドアをあける。じゅんびはいい?」
【はい】と【いいえ】の選択肢が浮かび上がる。ヨシタケがゆっくり頷くように【はい】と答えると。女も自分を言い聞かせるようなわずかな沈黙をとった。そしてドアを開け、部屋の中に入った。
画面が切り替わり、部屋の様子が映された。間取りは1K。いくつものごみ袋が積まれた台所の向こうに、六畳ほどの部屋がある。やはりそこには座卓があり、モニターがあり、ケーブルで繋がれたゲーム機があり、その前で胡座をかいている誰かがいた。誰かは中折れ帽を被っていた。コマ数の多い滑らかな動きでこちらへ顔を向ける。
「だれ?」
誰かはそう訊ねた。
篠崎主催の一人芝居は金曜の夜から始まった。残業が発生しなくなってから久しかったので、篠崎が指定した時間に自宅に戻ることはたやすく思えた。電話機のランプがすべて赤く埋まることはめずらしく、オペレーターたちは虚ろな表情で頬杖をついたり、マウスを動かして顧客管理システムの使い方を確認したり、机の下で自分のスマホをこそこそいじったりしていた。定時が過ぎて、荷物をまとめて席を立とうとすると、マネージャーが近づいてきた。
「お疲れさま。今日も早いね」マネージャーは言った。
「早くはないですよ」私は目を合わさずに答えた。「いつもこの時間です」
マネージャーは少し黙った。「そういえばヨシタケさんとは一度も飲みにいったことがないですね。ここでは数少ない男同士なのに」
「そういう慣習はあまりない職場でしょう」
「よければ今からどうですか」
私はマネージャーの顔を見た。まっすぐにこちらを見つめている。口元には柔らかな微笑みが浮かんでいたが、黒い瞳には奥行きがなかった。
「すみません、今日はちょっと」
「誰かと会う約束でもしているの?」
「知り合いとの約束がありますので」
「あ、そう。それじゃ仕方ないですね。今度また時間があるときにでも」
私はリュックを肩に下げると、背を向けてオペレータールームの出口へ向かった。ドアノブを回し、ドアの隙間に体を押しこめるまで一度も振り返らなかった。わかっていた。マネージャーが身動きしないまま、じっと私の背中に視線を投げ続けているのがわかっていた。
なぜ今日のタイミングでマネージャーが誘ってきたのか、私は地下鉄の吊り革を握りながら思い巡らしていた。ネット芝居の上演初日と重なったことはただの偶然なのか。それともやはり誰かのプログラムに仕組まれたとおりの進行なのか。動画配信サイトのアドレスは非公開にすると篠崎は言っていた。あくまでギャラリーに集まった観客のためだけに見せる生配信動画なのだと。ギャラリーへ来場しない限り、マネージャーが閲覧することは不可能だ。いや、と私は溜め息をついた。たとえマネージャーに見られたとしてもかまわないじゃないかと思い直した。誰に見られようとも、私には何も得るものはないし、何も失うものはない。
駅に停車していた電車がゆっくりと動き出したときだった。私は窓の外に目をとられた。そこには滝乃瀬さんがいた。窓ガラスの向こうのホーム上で、となりに立つ背の高い男と向かい合っていた。薄手のジャンパーを着た滝乃瀬さんは怒っているようだった。両手を握り、腰を少しだけかがめ、男を見上げて口元を大きく開けたり閉じたりしていた。滝乃瀬さんの目の前に立つ男は動じずに直立し、肩幅の広いコートの後ろ姿をこちらに向けている。男はなによりも中折れ帽を被っていた。顔は見えないが、怒りをあらわにしている滝乃瀬さんのことを冷静に見下ろしているような背中に見えた。ほんの一瞬の光景だ。電車はあっという間に駅から離れ、速度を上げていった。私の鼓動もまた早くなった。だが緊急停止ボタンを押すわけにはいかなかった。滝乃瀬さんが怒っているふうに私には見えただけかもしれないし、目前に立ちはだかる男が滝乃瀬さんの夫のように見えただけかもしれない。不規則な揺れに身を任せているうちに、降りるべき駅が近づいてきた。電車を降りる前にもう一度、窓の外の光景を思い返した。そしてそれが間違いなく滝乃瀬さんだったことと、対峙する男が被っていたのが中折れ帽だったことだけは確かめた。
アパートの階段を上がってドアの前に立つと、篠崎から受け取っていた自撮り棒をスマホに取り付けた。そして準備はできていると篠崎にメッセージを送信した。時刻は十八時五十分。すぐに篠崎から返信が届いた。指定のアドレスをタップして、動画サイトに接続してください、テストしますからとのこと。指示どおりに操作を進めていくと、篠崎が映し出された。
「えっと、こっちも準備万端です。観客も埋まりつつありますよ」篠崎の顔はスマホの画面からはみ出るぐらいアップになっていた。
「え、ほんと?」私はにわかに信じられなかった。
「SNSを駆使して、宣伝活動にも手を抜きませんでしたから。ほら」
篠崎を映していた画面が一瞬暗くなった。カメラが手元で回転されたようで、白い壁の会場におそらく三十人以上の観客が席に着いている光景が映された。どうやら篠崎は大型モニターのすぐ脇に位置しているらしく、観客の顔や性別までは判断できなかったが、なんとなく二、三十代の若い世代が揃っているように見えた。
「あともう少しは席が埋まる予定です」再び篠崎の顔が映された。
「俺は時間までここで待機しておけばいいんだね」
「はい。十九時になったら合図のメッセージを送ります。そしたらスマホで自分を映しながら、行動を開始してください。台本はちゃんと頭に入っていますよね?」
「ああ」私はかすれた声を出した。「わかってるよ」
「じゃあ一旦通話は切ります。吉竹さんはスマホを自分に向けておいてください」
画面から篠崎の顔が消え、私の顔が映し出された。適当な画角になるように自撮り棒の長さを調節した。ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出して、篠崎から指示を受けられるよう耳にはめた。今回の一人芝居をとおして篠崎が一体どういうことを表そうとしているのか、正直なところ私にはいまいち理解できていなかった。篠崎の中には明確なビジョンがあるのだろうが、彼はそれを私に説明しようとはしなかった。説明することで、私が彼の意図に反する行動を取ってしまうかもしれないと懸念したのかもしれない。だが私にはとっては知ろうが知るまいがどちらでもよかった。私には私の意図があった。私は探し出さなければならなかった。
スマホの画面に着信メッセージが表示された。
[スタートです]
私は大きく息を吐いた。そして左手で自撮り棒を握りながら、右手でズボンのポケットから鍵を出し、ノブに差しこんで、ドアを開けた。壁にある電気のスイッチを点けると、貧乏くさい電球色の光が貧乏くさい台所と廊下を照らし出す。ひととおり部屋の様子にカメラを向けた後、再び自らの顔を映す。敷きっぱなしの布団まで進み、自分の姿がフレームから外れないように洋服棚の上にスマホを置く。リュックを下ろし、上着を脱いだところで少しためらったが、いつもどおりジーパンを脱ぐことにした。ネルシャツとトランクス姿でスマホを持ち、台所に移動する。冷蔵庫には鶏肉と白葱とエノキ茸が入っていた。それらにトマトソースとパスタを合わせて晩飯を作ることにする。自撮り棒を短くし、スマホを換気扇の囲いの引っかかりにねじこんだ。手狭なスペースに薄汚れたまな板を置き、切れ味の悪い包丁で具材を切り刻んでいく。雪平鍋でパスタを茹でているあいだに、フライパンで具材に熱を加え、トマトソースを投下する。ちょうど煮立った頃にパスタを掬いあげて、湯を切り、トマトソースと混ぜ合わせる。アパートに住みつき始めたときから千回以上も繰り返している工程だ。無駄のない動きで、何も考える必要がない。そして誰にでもできる。こんな道端に転がっているような映像を、大事な金曜の夜に見せられている観客たちは一体どんな気持ちで受け止めているのだろう。青信号に変わって人々が歩き出すようなありふれた日常を、わざわざ金を払って見せられていることに怒りださないだろうか。皿に盛ったトマトソースのパスタを座卓テーブルに運び、私は無音で食べ始めた。スマホのカメラは四十七歳の独身男のしがない食生活を正面から映している。ときどきペットボトルの緑茶を口に含み、プラスティックの箸で麺を挟み、くちゃくちゃという咀嚼音をしみったれた六畳に響かせている。私はスマホの向こう側で白い壁に囲まれている人たちのことを想像した。そして彼らの目に映っている自分の姿を想像した。それは今パスタを食べている瞬間の自分とは少し違っているような気がした。一部の光景だけが切り取られ、一部の音声だけが拡大され、ネット回線を通して遠い会場の巨大モニターに映し出されている。それはきっと他の誰かによって成り立っている自分なのだという気がした。モニターに映っているであろう自分は、篠崎か、観客か、あるいはそれ以外の誰かによって一部を捉えられている。だが考えてみると、普段の自分も同じようなものだった。労働契約を交わし、毎日満員電車に乗ってコールセンターで業務を果たしている一部分の自分も大して変わりはしない。そんなことを考えているうちに、皿の上からはパスタがなくなっていた。
それでもやはりいつもと状況が違っていることに肉体は反応しているのか。晩飯を終えると決まってトイレに立っていたが、緊張をはらんだ部屋の様子に対して、下腹部は静かに様子を窺っていた。食器を流しに運んだ後、なるべく普段の姿を維持しようとファミコンの電源を入れ、モニターの前で片膝をつき、床に肘をついて上半身を持ちあげ、半分寝そべる体勢をとった。スマホのカメラをどちらに向けるか一瞬迷ったが、少しでも動きが目立つ方がいいだろうとモニターへ向けることにした。映し出されたのは『魚へんに誰』。私は前回のセーブデータを選択した。
「何ですか、それ」
篠崎の声が耳元のイヤホンから聞こえてきた。答えることはできない。私の声をスマホが集音してしまうし、ワイヤレスイヤホンにマイク機能はない。
それでもモニターの前で座っている中折れ帽は問い続けていた。
「だれだ? おまえは いったい だれなんだ」
怪訝な態度で中折れ帽の男は何度も投げかけてくる。それにもかかわらず少しも体を動かそうとしない。テレビかモニターかの画面の前でどっしり胡座をかいたままだ。この男がクミトトなのか。このゲームを作り、自らをラスボスに仕立てて、プレイヤーと対峙している。ヨシタケから妻を奪い、ヨシタケを通じて、私から快感を搾取してきた男のドット姿。顔はこちらに向けられているが、中折れ帽のつばで濃い影に覆われていた。
女は何の言葉も発さず、ヨシタケのとなりで立ち尽くしていた。踵を返して部屋から出ようとしても、ドアはロックされている。後戻りはできない。クミトトに近づいてゲームを展開していくしか選択肢はないようだった。ヨシタケは一マスずつ足を動かした。狭い台所を横切り、クミトトが座る洋室に一歩侵入した。その瞬間、モニターの中央に戦闘ウィンドウが広がった。
あらわれたのは精細なドットで描かれたクミトトの姿だった。中折れ帽には立体感のある陰影がリアルに描かれている。目元は暗いが、大きい鉤鼻と深いほうれい線と片側をにやりと上げる薄い唇が初老の雰囲気を漂わせている。誰にも似ていない顔だった。マネージャーとも篠崎とも泌尿器科医師とも違う。もしクミトト本人が自分の顔に似せてデザインしたのであれば、それは私の知らない誰かだった。クミトトは白いTシャツにベージュの短パン姿をしている。そして胡座を組んだ膝の上で頬杖をつき、こちらを入念に観察している。
「吉竹さん、そろそろ画を変えてください」
篠崎の指示が耳元で聞こえた。あらかじめ篠崎からは、変身するまでは吉竹さんに任せます、いつもどおりに過ごしてくださいとだけ言われていた。しかしさすがにファミコンのゲーム画面を映しっぱなしにするとは想像していなかったのだろう。だがもう遅かった。篠崎からの指示をかき消すようにクミトトが話し始めた。
「きみは どこかで みたことあるな。そう、みたことがある。たぶん くらく ほそいみちを すすんだところだ。きみは ヨシタケ だね。こんなところまで なにをしにきた? ここは きみのような にんげんがくる ばしょじゃない。ここは しんせいな ばしょなんだ。きみは わたしのことを てきだと かんがえているようだが、それは まちがってるぞ。わたしが いるからこそ、このせかいは せつりに まもられている。ヨシタケが でんしゃにのり、しごとをして、きゅうりゅうをもらい、たまにオナニーをして、それなのにやがて ねんきんが きちんとふりこまれるのも、すべてわたしが このへやで コントロールしているからなんだよ。さあ、それがわかったら、このへやから でていきなさい。いぜんのように そこのおんなと セックスしていなさい」
クミトトの台詞が終わると【たたかう】【はなす】【どうぐ】【にげる】の選択肢が表示された。どれを選んでも、クミトトのプログラム内に用意されている答えに繋がることはわかっていた。プラスティックのカセットによって閉じられた場所を拒絶するには、カセットそのものを破壊するのが手っ取り早い。だが破壊は解放と呼べない。いくらカセットをハンマーで粉々に叩き割ったとしても、ヨシタケはいつまでもプログラムに閉じこめられたままだ。そして私も永遠に搾取されたままなのだ。
ヨシタケは【たたかう】を選んだ。足を開き、反動をつけて、全体重を乗せた拳を思いきりクミトトの顔面へと放った。その瞬間、クミトトの姿は戦闘ウィンドウから消えた。拳は空を切り、クミトトの言葉だけが響いた。
「そうそう、それでいいんだよ、ヨシタケ。きみは そんなふうに そのおんなと セックスをしておれば いいんだよ。そもそも そのおんなを きみに あてがったのは わたしだ。きみの つまの かわりにね」
消えたクミトトの姿に代わりに浮かび上がってきたのは、女とヨシタケだった。裸の女は四つん這いになって、尻をヨシタケに向けている。裸のヨシタケは床に膝をつき、女の腰を掴んで、性器同士を結合させている。ヨシタケの自宅で行なわれていたときのような粗いドットではなく、細やかな色彩で写実的に描かれていた。ヨシタケが腰を前後に動かすたびに、性器の根元が薄暗く姿をあらわす。
「何のゲームですか、吉竹さん」
篠崎の声は愉快そうに揺れている。予期せぬ映像に刺激を受けているのだろう。しかし私はそれ以上に欲情していた。トランクスを膝までずらし、硬くなった性器を素早くしごき始めた。『魚へんに誰』の画面でマスターベーションをすることはずいぶん控えていたが、クミトトから提示された二人の性交シーンによって唐突に性欲が引き出されてしまった。私は精液を放たずにはいられなくなった。
やはり快感は上昇していかなかった。手の動きを少しでも緩めると、快感の水位は下がり、乾いた地面を浮かび上がらせる。手を動かし続けなければいけない。たとえ快感が失われていようとも射精まで導かなければならない。路地裏の風俗店で他人の性器を射精に導くことを役割づけされた女たちのように。それがこの世で生きる私の役割であるかのように。
そして亀頭の尿道口から白い精液が噴き出る瞬間だった。耳元のイヤホンから叫び声が聞こえた。
「あっ、あ、う、ああああっ!」
同じ喘ぎ声だった。あの店で耳にした声とまったく同じ響きだ。タイミングも変わらない。私が射精すると同時に声は発された。中折れ帽の男──クミトトはイヤホンの向こうにいた。白い壁に囲まれた会場で、私が撮影しているゲーム画面をじっと見ている。
手早くティッシュで精液を拭き取ると、トランクスを履き、スマホの自分の顔に向けて、篠崎にメッセージを送った。
[今、そっちで誰か叫んだか?]
[確かに変な声は聞こえました]篠崎は返した。[僕は吉竹さん側から聞こえた気がしましたけど]
こちら側? 私は思わずモニターに視線を移した。変わらずヨシタケは女の尻に向かって腰を前後し続けている。
[こっちは俺一人だけだよ。このゲームがそんなリアルな音声を出せるはずない]
[ですよね。なんだろ]
[会場に中折れ帽を被っている人はいるか?]
[暗くて、よくわからんですね]
私はスマホのカメラを数秒ほど凝視した。カメラの向こうの暗闇で立っているか、胡座をかいているか、寝そべっているはずのクミトトをじっと見つめているつもりだった。巨大モニターには眉間に皺を寄せている私の拡大された顔が映っていることだろう。クミトトを逃すわけにはいかなかった。クミトトを会場に留まらせなければならなかった。
[これから着替えるよ]私はメッセージを送信した。
[わかりました。じゃあ、あとは打ち合わせどおりにお願いします]
私はスマホを再び洋服棚の上に置くと、ネルシャツ脱ぎ、端に寄せていた紙袋から性器姿の衣装を取り出した。ベージュの冷たい生地に両足を入れ、両腕を通し、背中のジッパーはハンガーのフック部分を引っかけて上げることができた。ウレタン製の亀頭を被り、顔の位置を調整して、ちんこヒーローの全身をスマホカメラにさらけ出した。壁に立てかけてあった緑色の棒を忘れずに握りしめる。
[オッケーです。じゃあ向かってください]
篠崎の声を合図に、私はいつものリュックを肩に下げ、部屋の電気を消し、ドアの鍵をかけて、アパートの階段を降りていった。自撮り棒でちんこヒーローの姿を常に映しながら夜道を歩く。自転車に乗ると、人目から逃れやすくはなるが、針金製の陰毛が車輪に引っかかってしまうのは火を見るより明らかだった。人通りが多いわけではないが、それでもマフラーを巻いた会社帰りの女性や、大型犬を散歩させている男性や、タイトなパンツを穿いたジョガーが私の姿を振り返った。地下鉄の駅がある通りでは通行量が増えたが、人々の反応は変わらず薄かった。奇異な存在に何秒か目を見開くものの、しょせん自分とは共通言語を持ち得ないまま通り過ぎていくものとして視線を外していった。あるいはたんに一週間ほど早いハロウィンの仮装なんだろうと自身を納得させたのかもしれない。そんな映像の背景がそのまま会場のモニターに映し出されているのかどうかはわからなかった。私が部屋を出た時点で映像にCG加工を開始すると篠崎は言っていたが、具体的にどのタイミングでどういう加工が施されるのかは何も聞かされていなかった。
篠崎からはとにかく会場に向かってくれと言われていた。それまでの道のりでいくつかの仕掛けを用意しておくからと。私は地下鉄の階段を下る歩調を早めた。陰毛が階段をかちゃかちゃと乱拍子に打つ音が響きわたる。篠崎の指示に従順に従おうという気はなかった。途中で何が起こるかはわからないが、少しでも早く会場に到着し、私の快感を搾取しているクミトトを捕らえなければならなかった。そしておそらくそれがクミトトを捕らえられる最後のチャンスだろうという予感があった。
足元の睾丸にはポケットの機能が備えられていた。そこから財布を取り出し、ICカードをタッチして自動改札を通り過ぎたときだった。
「お客様」
振り向くと、事務室の中に立っている駅員がこちらを見つめていた。次に発すべき適切な言葉を探しているように唇を薄く開けている。
「他のお客様のご迷惑になる物の持ちこみはご遠慮願います」駅員は言った。
「迷惑」私は再び駆け出そうとした。「急いでるんです。終了時間に間に合わない」
「どこまでですか」
「邪魔にならないように隅っこの方で立っときますから」
私はかちゃかちゃと音を鳴らして、ホームへの階段を駆け降りていった。自撮り棒の先のスマホ映像が乱れていることに気を配る余裕はなかった。なにやらいかがわしい衣装を着た男を呼び止めたものの、駅員としてもそれが巨大な性器をあらわしているとは認定しづらいものがあったかもしれない。ただ足元に生えている何本もの針金は他の乗客に危害を及ぼす恐れはある。階段を降りきると、ちょうど出発のベルを鳴らしていた車両へと走りこんだ。すぐにドアが背後で閉まり、振り返る。駅員は追いかけてこない。電車は速度を上げ、ホームの電灯を後ろに流していく。私は呼吸を整えながら、車両の端へ移動することにした。なるべく乗客の顔が映りこまないようにスマホを自分の顔に近づける。行き先が都心ということもあり、車内はがらんとしていた。派手な化粧をした女性が顔を背けたり、ぶかぶかの服を着た若い男たちがにやにや笑ったりしていたが、誰も私を咎めようとはしなかった。空席の優先座席の前で吊り革に掴まりながら、私は真っ暗な窓の外に視線を向けることにした。篠崎がいる会場の最寄り駅までは二十分もかからない。途中の停車駅で乗ってくる人たちは皆、私の姿を認めた瞬間に方向を変え、離れた場所に座ったり立ったりした。おかげで私は吊り革を握る自分の横顔と、窓ガラスに映る自分の暗い顔とを交互に撮影することに集中できた。
篠崎がCG加工している映像では、自分は今どんな場所に立っているのだろうと疑問が起こった。知る由がないことなのに、なぜ気になったのか。それはスマホの画面に映りこんだからだった。自撮り棒を持つ手の角度を交互に変えているうちに、私の顔の向こうに立っている滝乃瀬さんに気づいたからだった。滝乃瀬さんは仕事の帰りに見かけたときと同じ格好をしていた。となりの車両の真ん中あたりで、ジャンパーの袖を手のひらまで引っぱり、私と同じく吊り革を握りながら真っ暗な窓の外をじっと見つめている。となりに中折れ帽の男はいない。ただ一人、まわりの空席などまるで目に入っていないみたいに揺るがず立ち尽くしていた。私は思わず目の前の優先席に腰を下ろし、窓から身を遠ざけて隠れた。そしてスマホのカメラを自分の顔に向けたまま、滝乃瀬さんの右側面を横目でちらちらと窓越しに窺った。微振動が起こるたび、大量の吊り革がすべて同じ方向に揺れる。もちろん今の格好を滝乃瀬さんに見られたくなかった。もし見つかって事情を説明することになると、今回の企画はすべて台無しになってしまうだろう。篠崎にとってはこういうアクシデントも含んだ前提での企画かもしれないが、私は可能な限り避けたかった。そんなことより、私は滝乃瀬さんの行き先が気になった。二時間ほど前に見かけたときも、滝乃瀬さんは地下鉄のホームにいた。あのときからずっと滝乃瀬さんは地下鉄の空間にい続けているのか。延々と路線を往復している電車の揺れに身を任せ続けているのか。怒りを向けていた中折れ帽の男──あるいは夫とのあいだに何かが起こり、そんな行動を取らざるを得ないのだろうか。アナウンスの声が響いた。電車はブレーキ音を立てて、速度を落とし始めた。
滝乃瀬さんは少しも動かなかった。速度の変化は自分にとってまったく無関係の現象なんだという声明を、誰もいない空席に向かって暗に示しているようにも見えた。だが電車が停止し、ドアが開くと、滝乃瀬さんは突然電車から降りた。広い歩幅で、ホームを進みだした。どこか急いでいるようだった。私は反射的に背後の窓から身を隠した。滝乃瀬さんが私の後ろを通り過ぎていくのがわかった。ゆっくり窓から覗くと、滝乃瀬さんが改札口の方へ遠ざかっていくのが見えた。停車駅では誰も降りず、乗ってこない。ただ滝乃瀬さんが一人、去っただけだ。篠崎が待っている会場はまだ先の駅にあった。そんなまったく無関係の駅で私は降りるべきではなかった。篠崎からの指示どおりに会場にたどり着き、そこで然るべき企画のラストを迎え、然るべきギャラを受け取って、アパートでいつもの浅い眠りに浸ればいいはずだった。だがドアが閉まる直前、私は電車を駆け降りていた。
「その駅じゃないですよ、吉竹さん」
すぐに篠崎の声が飛んできた。だが遅かった。電車はすでに線路の向こうへと消えていた。
「間違えたんですか、ぼうっとしてたんですか。まあいいです。そこで待って、次の電車にまた乗ってください」
だが私は待つわけにはいかなかった。篠崎の指示に従っていたら、滝乃瀬さんを見失うことになる。滝乃瀬さんは早足のまま、すでに改札を出ていることだろう。私も足元の針金を大きく揺らしながら、滝乃瀬さんと同じ方向へ駆けだした。「これがクミトトに近づくためのフラグなの」とゲームの女は言っていた。
そういえばファミコンの電源を切っていないことを思い出した。アパートの部屋で腰を下ろすクミトトを前にして、女とヨシタケが性器同士を交じらせている状態にしたまま、私は部屋を出ていってしまったのだ。今でもまだヨシタケは腰を動かし続け、女は絶え間なく長い快感を享受し続けているのだろうか。モニター上で二人が抱き合っているドット姿を思い浮かべると、再び下半身に疼きを覚えた。やはりクミトトが近くに潜んでいる気がしたが、勃起している場合ではなかった。さすがに女とヨシタケの性交描写は終了し、次の展開に話が進んでいるのだろう──私はなるべく別のことを思いながら滝乃瀬さんの後を追った。
階段を上がると、遠く改札口の向こう側に滝乃瀬さんのジャンパーが見えた。滝乃瀬さんは突きあたって左の階段を上がって地上へ出ようとしていた。私は慎重に足を運んだ。たとえ滝乃瀬さんに直接気づかれなくても、他の通行人が私の姿に大声を出したりすると、連鎖的に滝乃瀬さんを振り向かせてしまうかもしれない。だからといってちんこの衣装を脱いでしまうわけにもいかなかった。スマホのカメラを自分の姿から外してしまうわけにはいかなかった。長い準備時間をかけて篠崎が企画してきたものをぶち壊したくはなかったし、一応ギャランティが発生している責任もある。ワイヤレスイヤホンからは篠崎の声が聞こえなくなっていた。もしかしたら頬杖でもついて、モニターの映像をにやにやして見ているのだろうか。自分が予定していなかった筋書きが起こりつつあることに、アートの可能性でも見出しているのだろうか。そしてクミトトらしき男は会場にまだいるかもしれない。私が右往左往している姿を、迷路の箱に入れられたネズミを観察するような気分で悠然と眺めているのだろう。私はクミトトに会わなければいけなかった。しかしその目的を阻止するかのように滝乃瀬さんがあらわれた。私は滝乃瀬さんを追わずにはいられなかった。たとえ自らの快感がこの先も搾取され続けるとしても、私はそれ以上に滝乃瀬さんを求めていた。それは【はい】や【いいえ】などといった選択肢のない、私自身が作り上げた強制プログラムだった。
私は立ち止まり、足元の睾丸のチャックを開け、ICカードを取り出そうとした。そのとき何かが足りないことに気づいた。スマホは自撮り棒から外れていないし、財布はちゃんと睾丸の中にある。足りないのは緑色の棒だった。ヒーローの武器として篠崎から手渡されたクロマキー加工用の棒。部屋を出るときは確かに手にしていたが、滝乃瀬さんを見かけて衝動的に電車を降りたとき、そのまま座席に忘れてきたのだ。他の人があの棒を発見したら、一体何の用途が備わっていると考えるだろう。私は睾丸のチャックを閉めると、改札機にICカードをタッチして、地上への階段に向かった。篠崎には悪いが、あの緑色の棒には最初から重要さが感じられなかった。確かに文字を線に分解する行為自体には逆説的な意味があるとしても、そのための道具が緑色の棒あるいはライトセーバーでなければならない必然はないだろう。私は階段を見上げた。その先に滝乃瀬さんの姿がないことを確かめてから、滑り止めのゴム処理がされた段差を一段飛ばしで駆け上がっていった。
地上に出ると、そこは高速道路の真下だった。首都高の堅固な裏側が頭上をどこまでも覆い、車が通り過ぎていく唸りが重々しく響いていた。どこかから生温かい風が吹いている。人通りは少なく、明かりも少ない。見回すと、遠く離れた歩道を滝乃瀬さんの後ろ姿が小さく歩いていた。私は自撮り棒をなるべく揺らさないようにしてスマホを自分自身に向けながら、横断歩道を渡り、滝乃瀬さんの後を追い始めた。
「吉竹さんは今、ピンク色の洞窟を進んでいます」篠崎の声が聞こえた。「壁面には赤黒い吹き出物のようなのが点々とありますが、全体的にはバカピンクに覆われている洞窟です。血管みたいなでこぼこもあって、ひくひく動いたりしてます。あの棒、どっかで落としちゃったんですね。まあ、いいですよ。そのまま進んでください。いずれ誰かの名前があらわれますから」
ピンク色の洞窟? 私はスマホの画面を確かめた。背景には暗いコンクリートの塊が広がっている。CG加工された映像は篠崎のいる会場でしか目にできない設定になっていたが、あたかもちんこヒーローが巨大な肉の中を歩いているイメージをできるだけ維持しながら足を進めた。
滝乃瀬さんの歩調は早かった。ジャンパーのポケットに手を突っこみ、長い髪を揺らして、まっすぐ前を向いていた。目的地までの道順を熟知しているみたいで、効率的に角を曲がり、効率的な立ち位置で信号を待ち、一秒でも早く到着しなければいけないような切迫感で風を切っていた。滝乃瀬さんと長い距離を保っていた私は彼女の姿を見失わないようにじっと集中しなければならなかった。まわりの景色に目を向けている余裕はなく、同時にスマホのカメラが自分の姿からずれないよう手元に注意しながら、滝乃瀬さんの素早い背中の動きだけをひたすら追い続けた。滝乃瀬さんはまるで本当に追われているみたいだった。夫から逃げているのか。それとも夫のもとへ向かっているのか。そこにはやはり滝乃瀬さんにとって選びようのないプログラムが進行しているように思われた。
「篠崎があらわれました」耳元で篠崎が言った。
「は」私は思わず声を出した。
「今、吉竹さんの目の前には篠崎という名前があらわれています」
一瞬、篠崎にも滝乃瀬さんの姿が見えているのかと勘違いしたが、篠崎が設定していたCG上の文字だということをすぐに思い出した。現実の目の前には電信柱とシャッターが閉じられた小さな町工場があるだけだ。
「ライトセーバーがないのはもう仕方ありません。手足を思いきり動かして、篠崎を分解していってください」
篠崎の声は固くなっていた。この場面こそが今回の企画の核であることは違いなかった。篠崎に言わせれば、微細に分解して意味をばらばらに失くしていくことで、新たな意味を生むことができる。だがその主張は今の私に意味がなかった。そして立ち止まっている時間もなかった。この瞬間の私にとって唯一の意味を内包しているのは、ただ遠くで揺れ動く滝乃瀬さんの背中だけだった。電信柱の前を通り過ぎるとき、そして町工場の前を通り過ぎるとき、せめて両腕を大きく振り回すことで篠崎をばらばらに分解している演技をした。
「ちょっと、そんなんじゃ駄目ですよ! そこは打ち合わせどおりしてください!」
苛立っている篠崎の言葉を私は無視した。滝乃瀬さんは進み続けることをやめない。ガソリンスタンドの角を曲がったことで、私の視界から滝乃瀬さんの姿が消えた。私は針金の陰毛をかちゃかちゃと鳴らしながら、小走りに後を追った。スタンドの店員がこちらを見ている。髪を金に染め、胸元のボタンを開け放して、ノズルを元の場所に戻そうとしたまま、視線を私から外そうとしない。他に店員の姿は見えなかった。彼はノズルから手を離すと、ポケットからスマホを取り出した。いくつかの操作をし、スマホを耳にあてて、会話を始めるような素振りを見せているあいだ、店員はずっと私を注視していた。警察に電話をかけているのだろうかと私は思った。人通りの少ない夜のオフィス街で、巨大なちんこ姿をした中年男が駆けている姿に一ミリの真っ当さなどないことは当然のことだ。だが私は立ち止まるわけにはいかなかったし、警察に逮捕されるわけにもいかなかった。店員のつきまとう視線に圧迫されながらも、私はスピードを落とさずにガソリンスタンドの角を曲がった。
滝乃瀬さんもスピードを緩めずに夜の闇を歩き続けていた。人気のない歩道で、ときおり弱々しい街灯が滝乃瀬さんを浮かび上がらせる。どこに向かっているのだ。徒歩での距離にしては遠い。どこに向かうにせよ、タクシーを拾った方がいいんじゃないか。あるいはあのまま電車に乗っていた方が早かったのではないのか。だが滝乃瀬さんは疲れた様子を見せることなく、プログラムどおりに進行を決められたドット絵のキャラクターのように一心不乱に前進を続ける。そして赤信号のたびに律儀に足を止め、そのたびに私は物陰に身を潜めなければならなかった。いつまでもこんなふざけた追跡劇が許されるわけはなかった。いつか警官に呼び止められ、職務質問をされて、交番で詳しい話を聴取されることになるはずだ。その前に私は篠崎の一人芝居へと道筋を戻すべきなのか。それともかしゃかしゃと音を立てて駆け寄り、思いきって滝乃瀬さんに声をかけるべきなのだろうか。
青信号に変わり、滝乃瀬さんは歩きだした。私も間を置いて進み出したとき、ふとコールセンターに電話をかけてきた男のことを思い出した。路地裏の風俗店にはもう近づくなと警告を与えてきた男。やはりあの男も私に警告を与えろという指示を受けていたのだろう。きっと電話だけではない。あの男は常に薄暗い物陰から──今の私と同じように──私の行動を監視しているのだ。それが男の役割だ。私という人間を熟知していた男。これまでの人生で私が他人のことに首を突っこむことなどしてこなかったこともきっと知っているのだろう。そんな私がちんこの衣装を着て、元同僚の年上女性をストーキングするなんて予想していなかったに違いない。そう思うと、たとえ快感が彼らに搾取されているとしても、私はほんの少し自由になれた気がした。誰も予想がつかない、自分自身ですら予想つかない私が今、夜の路上に潜んでいた。
「次はちゃんとしてください」篠崎の声が聞こえた。「今度は吉竹が目の前にあらわれています」
篠崎との打ち合わせどおりなら、同じ背丈ほどの名前が立っている鳩尾あたりに緑色の棒をまっすぐ突き刺す。そしてそのまま棒を頭のてっぺんまで引き上げる。同じ場所に緑の棒を再び突き刺し、今度は股の下まで棒を引き下げる。そんな一連の動作によって篠崎が設定した名前はばらばらに分解されることになっていた。緑色の棒を失くした今、右腕でも代用できるはずだった。しかし滝乃瀬さんは歩みを止めず、私にも立ち止まって右手を振り回している時間などなかった。それに吉竹なんて名前はわざわざ分解してなくても、最初から意味など形成されていない。何本もの線で構成された形態がたまたま吉竹だっただけで、その集合形態を目にする人々に喚起される共通イメージなどどこにも存在していないのだ。私は構わず滝乃瀬さんの後を追った。
「おい、おっさん!」篠崎が叫んだ。「いい加減にしろよ!」
私は反射的に両耳からワイヤレスイヤホンを外した。道端の排水溝に投げ捨ててやろうと思ったが、篠崎からの借り物だということが頭をよぎり、そのまま手の中に握りしめた。音声は遮断したとしても、映像は送信してやった方がいいだろうとスマホのカメラは自分に向け続けることにした。
会場では今どんな映像が流れているのだろう。篠崎はどのようなCG加工を施しているのか。ピンク色の洞窟と篠崎は言っていた。その言葉は私に尿道を連想させた。ちんこ姿の自分が巨大な尿道の奥へと進んでいる。確かに今回の篠崎の企画には最初から無理があった。設定は支離滅裂だし、衣装はナンセンスで、表現内容を偶発性に委ねすぎている。支離滅裂でナンセンスで偶発的なものが篠崎のやりたかったことだとしても、受け手側には困惑と疑問が残るだけだ。ただし、困惑と疑問に満ちているとしても、もし本当に私が尿道の中を歩いているとしたら、それは私にとって作品理解への唯一の光となる。やはり彼は有能なクリエイターなのかもしれない。
私は性器のことを考えた。数ヵ月前に形を変え、股のあいだにぶら下がっている他人の性器。それを通じて搾取されてきた性的快感。私は今、他人の性器の中を歩いていた。そして失われた自らの快感を探し求めようとしていた。たとえ他の誰のことも幸せにしないとしても、あるいは私の書いた小説が結局誰にも受け入れなかったとしても、私の快感は私を幸せにするためだけに存在していた。予測されたターゲットマーケティングによって与えられるものなんかより、私の快感さえあれば私は幸せであるはずであり、やはり他の誰にも明け渡すべきものではなかった。
やがて滝乃瀬さんは大きな道路に出た。片側二車線の国道沿いをやはり歩調を緩めずに進み続けている。交通量は少なく、ときおりヘッドライトが私の姿を照らし出した。私はまわりの様子を窺いながら物陰から物陰へと移動しなければならなかった。そして電信柱の影から目を細めて道路を見渡したとき、私は一瞬息を止めた。それは見たことのある景色だった。染み一つない新しいビルが並んでいるが、それらの裏側には昭和の時代から建っているであろう古い雑居ビルが身を寄せ合っていることを私は知っていた。そしてそんなどこにでもある大衆的町並みに紛れるようにして、アートギャラリーの建物はひっそりと佇んでいる。滝乃瀬さんの足取りは間違いなく、今篠崎が観客を前にして私の映像を生配信しているであろうアートギャラリーの方角へと向かっていた。
滝乃瀬さんを追うスピードが無意識に早くなっていた。舌の根元が乾き、粘ついた唾液が喉の奥で絡まっている。滝乃瀬さんは角を曲がり、細い道へと姿を消した。私は駆け足になって曲がり角まで近づき、道の奥を覗きこんだ。声が届くほどの距離まで滝乃瀬さんの背中が近づいている。あと数十メートル進めば、アートギャラリーにたどり着くはずだ。私は呼吸を整え、できるだけ物音を立てずに、滝乃瀬さんの進んだ足跡と自分の足跡を重ねるようにして歩を進めた。
一つの疑念が私の心を重くしていた。結局私はプログラムされたとおりにここまで連れてこられたのだろうか。いずれ私が会場に向かわざるを得ないように、篠崎は私の前に滝乃瀬さんを用意して、餌のついた釣り針をゆっくりと巻き戻していくように私をここまで導いてきたのか。そして私が追っていることを滝乃瀬さんは最初から気づいていたというのか。もしそうであれば篠崎はいつ滝乃瀬さんと知り合いになったのだろう。となりの席に座る私からそれとない好意を持たれていることを滝乃瀬さんから聞き、彼女に協力を仰いだのかもしれない。篠崎は私についてどこまで知っているのか。コールセンターに電話をかけてきた男と同じように、篠崎はいつのまにか私のことを調べて上げていたのか。違う。あの男は篠崎だったのかもしれない。やはり篠崎自身が『魚へんに誰』を作ったクミトトの正体であるのかもしれない。
私が追ってきたのは滝乃瀬さんであると同時に、滝乃瀬さんの夫でもあるのだと心の底で思っていた。滝乃瀬さんの夫が中折れ帽を被り、クミトトとして『魚へんに誰』を作り、私の快感を吸い上げ、滝乃瀬さんを犯罪によって束縛している者だろうとひそかに予測していた。何の確証もない妄想だが、そう考えればすべての辻褄を合わせることができた。ただいくら頭でそのとおりに思いこもうとしても、今私の前に立ちはだかっているのは篠崎だった。篠崎の巨大な足が複雑に絡んだ路地の網目をどうでもいいように踏みつけていた。あるいは篠崎こそが滝乃瀬さんの夫であるのかもしれない。篠崎の詳しいプライベートの話はほとんど聞いたことがなかった。特に新型ウイルスが流行してからは一度も酒を飲んだりしていない。篠崎はあるときに子持ちの滝乃瀬さんと結婚し、滝乃瀬さんは娘の気持ちを汲んで旧姓を使い続けている。篠崎は最初から私のスマホに懐かしいファミコンのネット記事を送りつけたり、花柄の魔法瓶や古代拳法の伝承者や巻貝衣装のアイドルやプロレスラーのフィギュアの画像なんかを表示させたりしてきた。なぜ私でなければならなかったのか。いや、そうではなかった。たまたま私だっただけだ。仮性包茎で、誰からも見向きもされない小説を書いていた私と篠崎が偶発的に接触しただけなのだ。私が個人であることの必然などどこにもない。そして自分のとなりに一体誰がいるのか、私にはわからない。私をここまで導き、私を搾取してきたものが何者なのか、情けないことに私にはまったく判別がつかなかった。誰が敵で、誰が味方なのかがわからない。わからなければ、切り離したくても切り離せない。
それでも滝乃瀬さんはアートギャラリーの前に到着した。少しもためらうことなく重々しいガラスドアを開けて、その中に身をするりと隠した。ガラスの向こうは蛍光灯の明かりがかすかに滲んでいる。その奥には滝乃瀬さんがいるはずだった。篠崎がいて、射精する瞬間の喘ぎ声を出した男がいて、ちんこの衣装を着ている私自身が大画面に映し出されているはずだった。粘ついた唾液を飲みこむと、喉の音が夜の路上にやけに大きく響いた。私は腰をかがめ、足元の睾丸のファスナーを開けた。そして近所のホームセンターで買ったのみを取り出した。手の中で握る感触を確かめてみると、街灯の明かりに刃先が白くきらめいた。生身を切り裂けば、容赦なく現実の血が流れる光だった。もし何者かと何者かを切り離さなければならないなら、こののみしかないと思っていた。CG加工されたまやかしの棒なんかでは何も切り裂くことはできない。私にとっての魚剣は、滝乃瀬さんが示唆してくれたのみでなければならなかった。
私は左手でスマホの自撮り棒を握り、右手でのみを握りしめながら、アートギャラリーのガラスドアへ近づいた。肩でドアに体重をかけ、なんとか押し開いたスペースに全身を滑りこませた。針金の陰毛がドアに何本も引っかかって、甲高い金属音が乱暴に響き渡った。だがそんなことはもうどうでもよかった。今私がここにいることはすでに誰もが承知しているはずなのだ。エントランスホールにはひんやりとした空気が漂っていた。余計なものは一つも置かれておらず、電気はきっちりと消されている。手がかりになるのは、廊下の先の展示室から漏れている白い明かりだけだった。いつか篠崎と私が下見をした場所だ。その白い壁の部屋に、今は五十人ほどの人間が集まっている。篠崎との打ち合わせでは、とにかく会場に向かってくれとしか伝えてられていなかった。何が用意されているのかは篠崎しか知らず、実際に何が起こるか誰にもわからない。私は足元でかしゃかしゃと秋の虫のような音を立てながら、展示室へと一歩ずつ向かった。蛍光灯の白い光が現実の重さをもって迫ってきた。
仕切りのない入り口から、会場の中を覗きこんでみた。鮮明な光に照らされた部屋には何もなかった。椅子もテーブルもなければ、床に寝転べるラグも敷かれていない。そして五十人の観客どころか、誰一人として存在していなかった。篠崎さえも見あたらない。直前まで誰かがいたような空気の生ぬるさも残っていない。そこはただ白い壁と蛍光灯の光に囲まれたもぬけの部屋だった。
一つだけ、壁際に設置された巨大なモニターの映像だけが微妙な変化を繰り返していた。私は足を出し、何もない会場をゆっくりと横切って、モニターに近づこうとした。私の体が動くたび、モニターの映像を構成する何百万ものドットがわずかに色合いを変えた。全体として映し出されているのは私自身だった。ウレタン製の亀頭を頭に被り、強張った表情で斜め上を見上げている。目は落ちくぼみ、頬はこけ、唇からは血色が失われている。私の背景には、私の部屋が映っていた。学生時代から二十年以上住み続けているアパートの部屋。今夜、衣装に着替えて外へ出るまでに過ごしていた、あのくだらない部屋だ。どうやって合成しているのだろうと私は思った。篠崎が部屋を訪れたときに、私にばれないように撮影していたのだろうか。それとも隠しカメラを設置していて、今も私の部屋を撮り続けているのだろうか。
疑問を振り払うように私は自撮り棒を投げ捨てた。鈍い音を立て、死んで硬直した尻尾つきのスマホは壁の隅の方を向いて無様に横たわった。モニターを見上げてみる。それでもまだ私はそこに映し出されていた。精気を失くし、世のすべてを恨んでいるような黒く平板な目で斜め上を見上げたままだった。ここに映っているのは誰なんだろう、私は思わずのみを握る力を緩めた。汗ばんだ手のひらが冷えていく。私のアパートの部屋にいて、私のような顔をしている──そんな映像を微小で無限のドットたちが構成している。誰かの意図によって、誰かの指示によって、誰かのプログラムによって。もしモニターに映っている私が私自身だとしたら、この白い壁に囲まれている私は一体誰だというんだろう。ちんこ姿のまま外に出て、自分で自分を撮影しながら滝乃瀬さんの後を追い回してきた自分とは一体何者だったのか。そしておそらく、そんなふうにモニターに映る私も疑っているに違いなかった。私たちは互いを疑うと同時に、それぞれ自分自身についても疑わざるを得なかった。
やがて視線の先を変えたのは、モニターに映っている私の方だった。モニターの私は筆で清書をするようなゆったりとした流れで顔を正面に向けた。そしてわずかに遅れて、二つの瞳を真正面に据えた。
「誰」
モニターの私はそう訊ねた。私の声のようにも聞こえた。同時に私以外の声も混じっていた。電話の男の声にも聞こえたし、マネージャーの声にも聞こえたし、篠崎の声にも聞こえたし、泌尿器科医師の声にも聞こえたし、喘ぎ声をあげた中折れ帽の男の声にも聞こえた。いろんな声をコンピューターで合成したときの人工的な繋ぎ目のようなものが耳に引っかかった。
「お前は一体誰なんだ」
モニターの私は再び訊ねた。声と唇の動きを注意深く見てみたが、合成ゆえの不自然なずれはなかった。顔の表情も強張っていない。とても精巧に作られたCG動画だとしても、それを暴く綻びを見つけることはできない。
「君のことはどこかで見たことあるな」モニターの私は続けた。「そう、見たことがある。たぶん暗く細い路地を進んだ行き止まりに立っていた。君は吉竹だね。こんなところまで何をしにきた? ここは君のような人間がくる場所じゃない。ここは神聖な場所なんだ。君は私のことを敵だと捉えているようだが、その認識は間違ってるぞ。私がいるからこそ、この世は摂理に守られている。吉竹が電車に乗り、誰にでも出来るアルバイトをして、給料をもらい、たまにオナニーをして、それなのにやがて年金がきちんと振り込まれるのも、すべて私がこの部屋でコントロールしているからなんだよ。さあ、それがわかったら、この場所から出ていきなさい。そこにいる女とセックスでもしていなさい」
私は、モニターの私の目をじっと捉えていた。やはり奥行きがなく、のっぺりとしたドットのような小さな瞳だった。怒っているわけでもなく、哀しんでいるわけでもなく、喜んでいるわけでもなく、冷めているわけでもない。誰かから与えられた状況を整然と組みかえて、自分の都合の良い形にただ一人頷いているような独善的な目だった。それは私の人生そのものだった。『魚へんに誰』であれば、私はこのモニターに映る私と戦わなければならない。私自身を破壊することで、私というプログラムから脱出することができる。そうでなければ私は永遠に私自身から搾取され続けるだろう。
「そんなことを言っても仕方ないか」モニターの私は少しだけ口の端を上げた。「吉竹のとなりには誰もいなかったな」
私はのみの柄を強く握りしめた。胃が収縮し、呼吸の間隔が短くなった。モニターの近くまで躊躇なく歩を進めると、足を開き、反動をつけ、全体重を乗せたのみを画面に突き刺した。
「そうそう、それでいいんだよ、吉竹」モニターの私は微笑みを浮かべた。「君はそんなふうにその女とセックスをしておればいいんだよ。そもそもその女を君にあてがったのは私だ。君のとなりに立つかもしれないと考えてね」
小さく角張った穴が画面の隅に開いただけだった。ひびが走ることもない。私は何度も繰り返し、のみをモニターの画面に突き刺した。鈍い音が連続して響き渡り、穴の範囲は広がっていく。しかしいくら力をこめていくつもの配線を断ち切ろうとしても、モニターの私はいつまでも微笑みを浮かべ続けていた。
「どうしたんですか」
背後で小さな声がした。私は反射的に振り向いた。展示室の出入口から半身を出し、こちらを警戒している人が覗きこんでいる。私は不審を払拭するため、出入口に対して全身を正面に向けた。その人は自分の責務を果たさなければいけないとでもいうような重い足取りでこちらにゆっくり近づいてきた。薄手のジャンパーに長い髪。それは私がずっと追いかけてきた姿だ。滝乃瀬さんだった。
「使用者の方ですか」滝乃瀬さんは私の全身を見回した。
「滝乃瀬さん」私は言った。
「はい?」
「私ですよ。吉竹です」
「吉竹、さん?」
滝乃瀬さんは目を見開いて私の顔を見つめ、視線の先を細かく変えた。演技であるのかないのか、いずれにしても自然な振る舞いようには見えた。
「久しぶりだから気づかなかった」滝乃瀬さんは肩の力を抜いた。「顔がちょっと変わった感じがあるし、そんな格好してるからね。え、吉竹さんもここで活動してるの?」
滝乃瀬さんは私の背後へ少し顔を上げた。私も彼女の視線の先を振り返った。そこにはまだモニターの私が映し出されていた。微笑みを浮かべたまま微動だにしない。映像が停止しているのか、それとも本当に微笑を湛えたまま動かずにいるのかは判断がつかなかった。
「そういうわけじゃないですよ」私は滝乃瀬さんの方へ向き直した。「いろんな事情が絡み合って、ちょうど今ここにいるだけです」
「ここにはよくわからない、変なことをする人がいっぱい集まってくるからね」滝乃瀬さんは笑みをこぼした。「吉竹さんもコールセンターを辞めて、こっちの方へ来たのかと思っちゃった」
私は言葉を返さなかった。そのぶん目の前に立つ滝乃瀬さんのことを想像した。髪の毛のかき上げ方や、目尻の皺の波打ち方や、指先の折れ曲がり方なんかを観察した。確かに滝乃瀬さんはこのアートギャラリーにずいぶんと馴染んでいるような身のこなしをしていた。
「こっちも驚きましたよ」私は言ってみた。「まさか滝乃瀬さんがいるなんて。滝乃瀬さんこそ何をしてるんですか」
「わたし?」滝乃瀬さんは髪をかき上げた。「今、ここで働いてるの。歳も歳だから、コールセンターより楽な仕事がないかなって探してたら、ちょうどここが募集しててね。人と接することは少ないし、事務仕事がほとんどだから、ここでのんびり働かせてもらおうと思って」
本当にそうだとしてもこんな夜中に? という疑問を私は飲みこんだ。それよりも体のどこかで小さく硬いものが疼いているのを感じた。それがびくびくと疼くたびに血液が熱くなり、血管が波を打った。首の後ろで汗が粘つき、胃が空っぽであることに気づかされた。滝乃瀬さんの目は怯えていた。いくら気軽そうになんでもなく振る舞っていても、いつも自分のとなりの立っている、巨大で威圧的な存在によって自分が支配されていることに怯えていた。彼女の目の奥が小刻みに震えるたびに、私の疼きは感応した。彼女の怯えは私の体を熱くし、ますます硬くさせた。私はゲームの画面でヨシタケと女がセックスしている場面を思い出した。あのように今ここで、自分のドットと滝乃瀬さんのドットを混じり合わせたくなってきた。ちんこの衣装を脱ぎ捨て、滝乃瀬さんを裸にして、互いの体を境目なく同じドットで塗り潰したくなった。そしてそれは同時にモニター側の私が導こうとしている状態だということに気づいた。私は少しのあいだ目を閉じ、音を立てずに深呼吸をした。
「手伝いますよ」私は滝乃瀬さんを見て言った。
「え、何」滝乃瀬さんは戸惑いの笑みを浮かべた。「仕事を?」
「滝乃瀬さん、わかってます」私は考えてきたことを言葉にした。「滝乃瀬さんがここで働き始めたのは、旦那さんにそうしろと指示されたからでしょう。コールセンターでは足がつきそうになったから、新たなターゲットとして次はここに行けと命令されたんでしょう。信頼され、いつでも出入りできるように鍵を受け取ることができた。今夜わざわざ遠い駅で電車を降りて、後で足取りを調べられないように目立たない道を歩いてきた。コールセンターでは大量の個人情報を抜き取ることが目的だった。ここでも同じように何かを抜き取ろうとしている。旦那さんの支配のもとで」
滝乃瀬さんは立ち尽くしていた。まるで自分の言語がまったく通じない場所へ放りこまれたみたいに、ただ唇をかすかに緩ませて、ちんこ姿の私を見つめていた。自分の考えに完全な確証があるわけではなかった。それでも私が考えられる限りの滝乃瀬さんについて、今が言葉にするべきだ瞬間だという確信だけはあった。
「責めているわけじゃありません」私は言った。「最初に言ったように、私は手伝いたいんです。滝乃瀬さんは本心では拒んでいる。旦那さんによって犯罪行為の片棒を担がされていることを。中学生の娘にも手伝わせていることを。そして旦那さんとこの先も夫婦として暮らしていくことを拒んでいる。そうでなければ地下鉄のホームで旦那さんと言い合ったりなんかしないはずだ。だけどどうしても拒むことができない。できない理由が奥底にこびりついている。それが一体何なのか、私にはわかりません。結婚したことのない私にはまったく想像もつかないけれど、それでも私にできることはある。滝乃瀬さんの代わりに私が罪を犯すことです。旦那さんによって押しつけられた犯罪行為を私が請け負うんです。犠牲心なんかじゃありません。そのことによって私が私自身から解放されることになるからです」
私は滝乃瀬さんに向かって思いつく限りの言葉を伝えた。だが自分の声の響きは、滝乃瀬さんに向かうというより、自分自身を奮い立たせているように思われた。喉がひどく渇いていたが、唾をうまく飲みこむことができなかった。全身の血液が股間に集まっている。激しい血流は海綿体を膨張させ、亀頭を巨大にしようとしている。そして快感が勢いよく立ち昇ってこようとしていた。性器に指一本触れていないにもかかわらず、快感は睾丸の奥から出発し、暗く細い通路をたどって、陰茎の根元に顔を出した。あとは尿道を駆け上がり、亀頭の先端から発射されるだけだ。それは精液の動きであると同時に快感そのものの動きでもあった。決して他人の性器ではなく、私の性器を私自身の性器として足らしめている動きだ。そして快感は今、誰にもどこにも搾取されることなく、こぼれそうな水位に満たされた状態で放たれようとしていた。
「何言ってんの」
滝乃瀬さんの一言は冷たかった。先ほどと変わらず腕をぶらりと下げたまま、道端に集め捨てられた泥のたまりを見下すような半開きの目で私を眺めていた。「は? わたしが犯罪行為をしている? 旦那に犯罪行為をさせられている? 何わけわかんないこと言ってんの。人前でそんな格好を平気でしてる変態のあんたに、なんでそんなこと言われなきゃいけないのよ! まじキモい。ちょっとあんた……なんで股間を膨らましてんだよ!」
滝乃瀬さんの言うとおり、ぴたりとした肌色の生地が股間のあたりで隆起していた。二つの睾丸に支えられてまっすぐに伸びる陰茎、そしてはるか天空をめざしているような亀頭、そんな生々しい姿が肌色の生地によってはっきりと形取られていた。
「滝乃瀬さん」私はできるだけ落ち着いた声を出した。「隠したい気持ちはわかります。そう簡単に他人に打ち明けることでないことは私にだってわかります。でもここには私たちしかいません。コールセンターで働いていたとき、ずっととなり同士の席でしたよね。毎日朝から晩まで滝乃瀬さんのとなりにいた私にはなんとなく伝わってきました。いつも目に見えない鎖に繋がれていることへの疲れが滝乃瀬さんには漂っていましたから。細かいことは訊きません。さあ、一体何をしろと命じられているんですか? それを私にやらせてください。私がそれをやるんです」
それは私にとって最良の選択であり、おそらくこの場を観察している誰かも想定していない行為のはずだった。そのことに私は興奮し、欲情していた。今尿道を駆け上がっているのは紛れもなく私自身の快感だった。同時にモニターの向こう側の誰かは冷や汗をかいていることだろう。私をターゲットにしている誰かを私は凌駕しようとしている。私の欲望は誰かのコントロールから解放されようとしている。ただしかし、滝乃瀬さんは目の前で深い溜め息をついた。
「やっぱりあんたも同じね、吉竹さん」滝乃瀬さんの声は落胆していた。「コールセンターで私のことが噂になっているのはもちろん知ってたわ。表向きにはみんな仲良くしながらも、裏側ではそれぞれ勝手に出鱈目なことを言っているのはわかっていた。職場ってそんなものよ。そんなことはわかってる。でもわたしだってもう歳だし、だんだん疲れてきた。噂が本当のことで、ばれそうになったから辞めたんじゃない。むしろ完全な嘘だったから、わたしはあの場所から逃げ出したのよ。何重にも塗り固められた嘘の上で、泥にはまらないよう爪先立ちで仕事していくなんてまっぴらごめんだから。吉竹さん、あんたが何を見て、何を聞いて、何と何を結びつけているのかはあんたの勝手だよ。でもね、わたしから言わせりゃ、あんたも同じ穴のムジナ。偉そうに小説を書いてるって言ってたけど、中身はコールセンターの妄想キチガイ連中と大して変わらないよ。え? わたしとずっととなり同士だったから? それがどうした? それだけでわたしの何がわかるっていうの? あんた、他人を軽く見てんじゃないの。自分の組み立てたルールの中に他人を当てはめて、一人で納得しているだけじゃないの。たぶんそんな奴が一人で勝手に自分の感情を昂ぶらせて、ニュースになるようなことをしちゃうのよ。犯罪者はわたしじゃなくてあんたよ。まあ、すでにそんな格好で外を歩いていること自体が犯罪だろうけどね。まじで狂ってる。そんな奴の書いた小説なんか、やっぱ読みたくもないわ」
滝乃瀬さんは両手をジャンパーのポケットに突っこみ、顎を少し上げて、平板な目でしばらく私を観察していた。そして自分の吐いた唾が土の中に染みこむのを見届けたみたいに、くるりと背中を向け、スニーカーのゴム底をきゅきゅっと鳴らしながら、展示室を出ていった。
勃起はすっかりおさまっていた。思いきり発射されるべきだった私の快感は、寸前のところで首を絞められ、そのまま空中へと放り投げられて、何もなかったように霧散してしまった。股間部分の生地は皺一つない、穏やかな平面を取り戻している。私は目を閉じ、肩の力を抜いた。やはりこのまま他人の性器をぶら下げて生きていくことになるのだろうか。滝乃瀬さんに言わせれば、これは私にかけられた呪いなのだろう。呪われた者はどこにも行くことができないのか。とりあえず私はこの展示室からどこへ向かうべきなのか、まるで見当がつかなかった。
「はい、オーケーです」
聞こえてきたのは篠崎の声だった。私はモニターを振り返った。そこには中折れ帽の男が映っていた。大きく傾いたつばが目元を覆っているために顔がよくわからない。篠崎の声はモニターから聞こえてきたが、中折れ帽を被っているのが篠崎であるのかは確信が持てなかった。よく見ると、頬のあたりがやけにつるつるしている。中折れ帽の表面もプラスティックのような光沢をしている。たんに画像の解像度が低いだけなのか、それともこの男もまたCG合成であるのか。
「生配信の上映はさっき終了しました」篠崎の声は事務的な調子で続けた。「吉竹さんが一人になった瞬間をラストとして配信をストップさせました。お客さんも帰ろうとしているところです。みんな満足そうにしていますよ」
やはり中折れ帽の男は口元を少しも動かしていない。たんにインサートされた画像だ。このタイミングでわざわざ篠崎が関係のない画像を差しこむ意図がわからなかった。あるいは篠崎とは別の人間が画像を差しこんでいることも考えられた。おそらく私に中折れ帽の男を見せるために──いずれにしても、みんな満足そうにしていたと篠崎は言った。満足だと? この夜、私が目にし、行動し、起こった出来事の一体何が観客を満足させたというのか。ふと釣り堀の景色が思い起こされた。水中で泳いでいる魚のことを想像した。見上げれば、不均一に揺らめいている水面がこちらと陸側を分けている。水面の向こうで誰かがこちらを覗いている。だけど光の乱反射で像が歪んでいる。笑っているのか、泣いているのか、無表情なのか、よくわからない。私は苛立っている。頭上の乱れた水面を突破して、陸の方へ顔を出し、そこに誰がいるのかを確かめてやりたい。たとえ顔を出した瞬間に私自身が掬い上げられることになっていたとしてもだ。私は右手の中ののみをつよく握りしめた。
「今日、会場で流した映像はもちろん記録してありますから」篠崎の声は言った。「明日以降のことをこれから打ち合わせしましょう。まず吉竹さんに今日の映像を確認してもらいます。再現可能なものもあれば、不可能なものもありますから、ひとまず明日の公演でそれらをどういうふうに組み立てるのかを考えたいです。でもまあ、結局言っちゃえば、すべてが再現不可能なものなんですけど、あくまで抽象の部分ということです」
「おれも打ち合わせをしたいよ」私はモニターに向かって言った。「おれはこれからどこに行けばいい?」
「えっとね……」と篠崎の声は少し途切れた。「……あ、今日はすみませんね。なんかドッキリみたいになっちゃって。でもあらかじめ場所を教えちゃうと、今夜みたいな迫真性のある映像は撮れなかったと思いますから……えっとじゃあ……僕が今いる場所はあらためて送信しますよ」
そう言い終わった瞬間、モニターは真っ暗になった。映像と音声は断ち切られ、画面の端に私がくり抜いた小さな穴を湛えるただの黒い板になった。モニターが発していた低く小さな稼働音もぷつんと切れた。白い壁に取り囲まれた空間に無機質な静寂が染み渡っていく。そこに私が一人で立っていることがさらに無機質さを強調していた。だがそれでも、自分は一体こんなところで何をしているのか、というような自己に立ち戻る感慨には陥らなかった。私には行くべき場所があり、為すべき行動があった。それは可能性として確かに存在しながらも、決して会議室のテーブルに並べられて検討分析されるものではないものだった。
私は壁際まで進み、床に転がっている自撮り棒付きのスマホを拾い上げた。篠崎からのメッセージが確かに届いている。入力されている住所は、アートギャラリーから歩いて数分の場所だった。[衣装はもう脱いできて構いませんから(笑)]と篠崎は書き添えていた。こいつは何もわかっていないと私は思った。私が今ちんこの衣装を脱げば、本当に裸になってしまうじゃないか。だがもし着替えを持っていたとしても、私はちんこ姿のまま篠崎のもとへ向かうことにしただろう。自撮り棒の長さを調節し、カメラを自分に向けて、私はビデオ機能の録画ボタンを押した。やはりちんこ姿の方が象徴的なのは違いない。クミトトがどこにいるのか、中折れ帽の男が誰なのか、滝乃瀬さんの夫は犯罪者なのか、結局私には何もわからなかった。何もわからなければ、プログラムを超えることはできない。自分のとなりに誰もいなければ、誰かを切り離すことができないのと同じだ。
しかしそれでも私の快感はむくむくと甦ろうとしていた。再び金属ほどに陰茎を硬くし、破裂させんばかりに亀頭を膨らませている。搾取装置である他人の性器から私の快感がなんとかしてはみ出そうとしていた。股間部分の生地は勃起のラインに沿って隆起し始めている。性器を返すべき相手がわからない以上、私が向かうべき場所は篠崎がにやにやと笑みを浮かべている住所だった。そして私が為すべき行動は、篠崎の胸深くまでのみを突き刺すことだった。ゲームのように脳天まで引き裂き、股間まで引き裂き、篠崎の全身を左右に引き裂くことは現実的に困難だろう。もちろん私の相手が篠崎である必然性はない。それはたまたま篠崎であるだけだ。必然を持ち得るのはいつも片側だけだ。そして今、必然の側に立つ私はやらなければならない。自分の快感を搾取されることがないまま、すべて放出することで、他人の性器を返上しなければならないのだ。
私は右手でのみを握りなおした。左手ではスマホの位置を何度かずらし、自分の姿が映る角度を整えた。もはや誰も私を見ていなくても、このスマホだけは私を見ていた。針金製の陰毛をかちゃかちゃと鳴らして、股間に激しい勃起を携えながら、私は白く殺風景な展示室から出ていくことにした。
〈了〉2023年作
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?