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いずれ嫌いになる(第3回)

 七月二十七日。待ち合わせ場所は難波にあるファミリーレストランだった。JR線に乗って駅に着いたのは四時。空はうっすらと曇っていたが、雨が降りだしそうな気配はまだない。ミドリカワユウジはバンドメンバー募集のチラシを確かめると、折り畳んで再び尻のポケットに押しこんだ。そしてレスポールの入ったハードケースを手にして、待ち合わせの時間まで通い慣れた楽器店を見てまわることにした。
 新しいバンドをつくったり、他のバンドに入ったりするのはもうやめようとユウジは考えていた。大学生のときに結成して九年ほど続けたバンドを解散してから、もう誰かと一緒に演奏したりすることが嫌になっていた。そのバンドはドラムとギターとベース兼ボーカルの三人編成で、ユウジの担当はギターだった。いつも男臭いパンクロックの曲ばかりを演奏して、学生のときはほぼ毎日ミドリカワ楽器店のスタジオに入り浸っていた。ライブハウスや校内のイベントなどに出演すると、でたらめなギターピッキングをしたり、ドラムセットを床に叩きつけたり、マイクの音が割れるぐらいに叫んだりした。観る者は圧倒されるか、嫌悪感を抱くか、あるいはそのまま見向きもせずに通り過ぎてしまうかのどれかだった。だがドラムもベース兼ボーカルも、そしてギターのユウジもそんなことはかまわなかった。自分たちの好きなことができて、好きな場所にも行くことができて、好きなようにものを考えることができれば、それで満足だった。要するに彼らは女にまったく縁のない三人組だった。
 大学を卒業してからもバンド活動は積極的に続けられた。三人ともアルバイトをしながら、空いた時間に練習をして、毎月一、二回ライブハウスで演奏した。ドラム担当は学生のときから借りている六畳一間のアパートに住み続けていて、その近くの大型レンタルビデオ店でアルバイトをしていた。それもまた学生のときから続けているアルバイトで、真面目に仕事をこなすタイプだったこともあり、店長から気に入られてアルバイトという立場でありながらもチーフの名札をつけることを許された。トラブルが発生するといつもいちばん前に出て対応したし、たまに実家の香川から送られてくるみかんを振る舞ったりして、周囲から頼られる存在になった。そんな彼がときどき暗く狭いステージの上で狂ったようにスティックを打ち下ろしている姿など誰も想像できなかった。
 ベース兼ボーカル担当は天王寺の分譲マンションに両親と一緒に住みながら、ゲームセンターやパチンコ屋で働いていた。父親は健康食品会社の営業で、母親は保険会社の外交員。収入はそれほど良くなかったが、結婚五年目でやっと生まれた一人息子ということもあり、いつまでも就職しようとしない息子を厳しく諭すことはしなかった。毎月いくらかでも家に金を入れているだけましだと思った。そんな両親との暮らしに、ベース兼ボーカルは居心地の悪さを感じていた。マンションを出て一人で暮らしていくには金がいる。金をつくるにはまともに働かなければいけない。そうなると今までのようにはバンドができなくなる。物事が出口のないどうしようもない方向に向かいつつあるように感じられた。
 とりあえずベース兼ボーカルは、雑誌の広告で見つけた文章スクールに通ってみることにした。バンドで作る曲の詞は彼が書いていた。もともと本を読むのは嫌いではなかったし、自分でものを書くことにも興味を持っていた。そこは週一回通うカルチャーセンターのようなもので、エッセイや小説を書いてみたい人たちが集まっており、費用も自分で払える程度の額だった。両親に対して自分が将来のために前向きなことをやろうとしている姿を見せなければならないと彼は思った。そしてひそかに、もしかしたら自分の書くものがそこで大きく認められて、何か道が開けるかもしれないという当てのない希望もわずかに持っていた。
 ユウジは大学を卒業してから毎日家でごろごろしていた。昼ぐらいに起きて、テーブルの上にあるものを食べ、たまに楽器店の仕事を手伝った。バンドのメンバーから連絡があると出かけていき、夜遅くに帰ってきた。七つ離れた姉は、彼が大学生のときに結婚して横浜へ移り住んでいたので、うるさく小言を浴びせられることもなくなった。収入といえば母親から貰う手伝い賃だけだったが、別に派手な遊びをするわけでもない。定期的に買うものといえば古本の文庫本ぐらいだった。彼の選ぶものはほとんど小説で、特に海外のものを多く読んでいた。どこへ行くにもポケットに文庫本を突っこんで、時間があればページをめくった。ベース兼ボーカルのように自分が何かを書くというよりかは、気に入った作家の作品を読みあさって、作家自身の人間性について考えをめぐらすことに興味があった。
 だが、それほどいつも本を読んでいるユウジが自分の将来については何も想像力を働かせていないのだろうと、他のメンバー二人はうすうす感じていた。そうでなければ働く時間を放り出して毎日本ばかり読んでいるはずがない。継ぐ気もない店の手伝いをいつまでも続けているはずがない。ライブが終わったある夜、三人は難波駅のホームで缶コーヒーを飲んでいた。最終電車が到着するまで、ライブを終えた心地よい疲労感をベンチの上で味わっていたときだった。
「俺、就職することにするわ」ベース兼ボーカルがまず切り出した。
 週末ということもあってホームではまだ多くの人々が行き交っていた。ユウジの指に挟まれたマルボロの煙に、ネクタイを緩めた会社員が嫌な顔を向けていた。ユウジはベース兼ボーカルの顔を覗きこんだ。ドラムは太股の上でリズムをとっていた手を空中で止めていた。
「いやまあ、とりあえずまともな仕事に就いた方がええかなと思って」ベース兼ボーカルの声はライブでしゃがれて、聞き取りづらくなっていた。
 しばらく沈黙があった後「そりゃそうやけどな」とドラムが言った。
 ドラムの言葉を聞いて自分は何を言うべきか、ユウジは一瞬迷った。「何かあったんか?」とりあえずマルボロの煙を思いきり吸いこんでから訊ねた。
「まあ、そうかな。あったんかな」ベース兼ボーカルはクリーム色の天井を見つめながら答えた。「実は今、付き合っている子がおってな。文章スクールで知り合ってん。まだ二ヵ月ぐらいしか経ってないねんけど、えらい気が合ってな。好きな本もけっこう共通してて、話が合うんや。それでバンドやってて歌詞を書いてるって言ったら、えらい興味持ってくれて」
「まじかいな。すごいやん」ドラムは組んでいた脚を下ろして、大きな笑顔をつくった。「いくつ?」
「一つ下」
「ちょっと待って。それってどういうことや。それで就職しようと思うって」
「だから、いろいろ話しているうちに、そうせなあかんようになって」
「嘘やろ」ドラムはわざとらしく体をのけ反らせた。「二ヵ月で結婚は早すぎるで!」
「いや、今すぐっていうわけやないけど。とりあえず定職に就いて、金貯めることが先決やから」
「へえ。なんか急に人が変わったみたいやな。びっくりするわ。えげつないな」
 しかしそれほど驚いている様子もなく、ドラムは腕組みをしながら、何かにやにやと思い巡らしていた。
 ユウジは「すごいな」と一言だけ口にして、次の煙草に火をつけた。そして煙を長く吐き出しながら、胸がざわつくのを感じていた。九年のあいだ三人とも童貞だということを三人ともが知っていた。自分以外の二人が過去に女と付き合っていたという話を聞いたことはないし、女と話している場面を見たこともない。そもそも女とまともに話すことができるのか、それさえも怪しかった。少なくともユウジは大学を卒業してから女と話したことはなかった。まわりにいる女といえば母親とたまに帰省する姉ぐらいだが、彼女たちとも口を開けば喧嘩ばかりしていた。
 ベース兼ボーカルが結婚するということよりも、すでにセックスを済ませていることの方がユウジにとっては衝撃だった。三人の中では自分がいちばん見映えがいいだろうと内心思っていたユウジにしたら、ベース兼ボーカルが勃起した自分のペニスを女の股に挿しこんでいる場面を想像することは雪辱以外の何物でもなかった。ベッドの中で肩を並べながら小声で語り合っている場面は吐き気を起こさせた。馬鹿な考えかもしれないが、童貞であることで三人はバンドを続けていられるのだとどこかで思っていた。二人の会話に生返事をしながら煙をくゆらせている彼はあることが気になっていた。
 俺はいつかセックスできるのだろうか? 
 目の焦点が曖昧になっているユウジの肩を駅員が叩いていた。「ホームは禁煙ですので」。少し離れた場所からさっきの会社員がユウジを横目で睨んでいる。ユウジは短くなったマルボロをブーツの底でもみ消した。そして最終電車が近づこうとしている線路に向かって吸い殻を指先ではじいた。
 結局、三人の中で最後に残ったのはユウジだった。農家を営んできた父親が心臓病で倒れた不安もあり、一人息子のドラムは叔母に紹介された年上の女と見合いをした。そしてなんなく結婚することに決めた。もともと親想いだったドラムは、相手の顔がヒラメに似ていると笑っていたにもかかわらず、香川に帰って農家を継ぐことに迷いはなかった。彼は自分が童貞だということを素直にヒラメに打ち明けた。するとヒラメも、自分が処女であることを打ち明けた。童貞のパンクロックドラマーと処女の結婚。恥ずかしくてとても人には言えないが、それでも分相応の幸福をドラムは香川の片田舎で手に入れたような気がした。
 ドラムの結婚で、学生時代から続いていたバンドの継続は難しくなった。ベース兼ボーカルが広告代理店の営業として働き始めてからは、スタジオ練習が二週に一回、ライブは月一回に減った。さらに妊娠したことが判明して予定よりも早く結婚することになった後は、月に一度顔を合わせる程度の練習だけになった。いつのまにか三人はでたらめなギターピッキングをしたり、ドラムセットを床に叩きつけたり、音が割れるぐらいに叫んだりすることはしなくなっていた。ただスタジオで練習する予定があり、ライブハウスに出演する予定があるから、決められた日時に集まっているというぐらいの演奏になっていた。だからドラムが香川に帰ることになっても、三人はあらたまって解散という言葉は口にしなかった。ただ、これから三人が集まる予定がなくなる、その程度の終わり方にしようとした。
「九年か。長いような短いような」とベース兼ボーカル。
「おまえ、客席に降りて暴れたこともあったよな」とドラムは笑う。
「また、なんかあったときは集まろうか」
「せやな。また連絡して」
 空港でドラムを見送る日、人身事故で電車がまったく動かないと電話で嘘をついて、ユウジは自分の部屋でオナニーをしていた。テレビにヘッドフォンを繋ぎ、何十回も見ているアダルトビデオを再生して、フェラチオのシーンが映ると射精するいつものパターンだ。太股についた精液をティッシュで拭きとると、再び抜け殻のように横たわり、萎びたペニスを出したまま、二人のメンバーのことを思い出した。
 二人のことを思い出すと胃が縮まってくる。たとえばベース兼ボーカルはよく責任逃れをした。ライブハウスとの連絡役はベース兼ボーカルが担っていたのだが、伝達ミスで演奏時間が三十分も長かったことに店のマネージャーが怒鳴りこんでくると、彼はもうその場から姿を消していた。あるいは対バンの打ち上げで各バンドの代表が挨拶するときでも、彼はボーカルのくせに極端に恥ずかしがってユウジを無理やり立たせた。ドラムの場合は人を小馬鹿にする癖があった。二人だけのときはそうでもないのだが、三人以上の人数になると、誰か一人を徹底的におとしめて、その場の笑いをとろうとした。それも、おとしめても問題のなさそうな相手ばかりを選ぶ。だってこれが大阪人のやり方やがな、香川人のドラムは得意気にげっぷを放った。ユウジの頭の中にはそんなシーンばかりが思い出された。そんな二人がなぜ自分よりも早くセックスができて、結婚まで至ることができたのか。唾を吐きたくなる。そしてもう二度とあの二人とは顔を合わさないと、ペニスをいじりながら心に決めた。
 待ち合わせのファミリーレストランの階段を上りながら、ユウジはまた二人のことを思い出していた。自分とあの二人がいかに違う種類の人間か、そしていかに自分があの二人を嫌っているのかを再確認していた。階下では派手な服を着た大勢の若者たちが行き交う中、酒屋のバイクが少しずつ前進しては突っかえている。パチンコ屋の自動ドアが開いて、巨大なベース音が一瞬だけ漏れ出てくる。過去を美化する趣味はユウジにはなかった。だが学生のときと何かが変わったのは確かだった。それがいずれ変わってしまうものと昔の自分は知らなかったんだとユウジは反省した。
「お一人様ですか?」店内に入ると女の店員が訊ねてきた。お一人様ってなんや、ユウジは質問を無視してフロアを見回した。客は少なく、いちばん隅のボックス席で三人の若者が身を寄せ合うように座っていた。二人は男で、どちらも黒くさらさらの前髪を眉毛の上で真っすぐ揃えている。野菜ジュースをストローでかき回しながらくすくす笑い合っている。もう一人はニットキャップを被った女で、猫みたいに小さな顔で大きな目を動かしながら、携帯電話を熱心に操作している。耳元からカールした金髪を垂らしている。
 女はふと顔を上げて、入り口の方に目をやった。黒いTシャツに革のパンツを穿いた男がギターケースを持ってこちらを見ている。腕時計を見ると、約束の時間の五分前。店内にギターを弾きそうな男は今のところ彼しかいない。おそらく彼がギター募集の張り紙を見て連絡をしてきた男だろうと悟った。だが女はユウジに気づかなかったふりをした。そして再び携帯電話に視線を落とした。不潔そうな長髪と針金細工のようなO脚が彼女には気に入らなかったようだった。
 ユウジは女の態度を感じとると、踵を返して店を出た。無駄やったと彼は思った。会うまでもないことだった。雑踏に紛れこむ。まるでファミリーレストランから少しでも遠く離れるように人混みを足早にすり抜けていく。前から歩いてきた会社員の脚がギターケースにぶつかった。早く一人になりたかった。彼はすでに知っていたからだ。雑踏に苛立つのと同じように、自分があの三人をすでに嫌いになっていることを。

(4へ続く)

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