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夢と魔法とみどりのおっさん 第七話

■みどりのおっさんがガキだというんかい

 おそらく一つの毛根も残っていないであろう頭頂部から顔面にかけてのすべての皮膚が緑色のペンキで塗られていた。塗り残しはどこにもない。側頭部と後頭部にしがみついているわずかな髪の毛も緑に染められている。緑のジャージを着て、緑色の手袋をはめ、緑の作業ズボンを穿いて、緑のスニーカーを履いている。濃淡の差は多少あるものの、頭の先から足の先まで緑で統一されていることには違いなかった。露出している肌もすべて緑のペンキで塗られている。もしかしたら裸の肉体にあらかじめ緑のペンキを塗っているのかもしれない。いずれにせよどこからどう見ても、彼は緑の国からやってきた住人だった。
「さあ、一緒に行こう」
 四つんばいのみどりのおっさんは僕の顔を見上げながら言った。明らかに見覚えのある顔だった。
「烏帽子田さん、ですよね」僕は恐る恐る言った。
「これでも着ぐるみ師だよ」みどりのおっさんは首を横に振った。「今のこの状態で、その名前を持ち出すのは無粋だね」
「いったいこんなところで何を」
「そっちこそ」みどりのおっさんは四本の手足を伸ばしたり縮めたりした。「言ったじゃないか。ずっとタイミングを待ってたんだ。攻撃するタイミングを」
「攻撃って、その恰好で攻撃するんですか」
「当たり前じゃないか。この恰好が重要なんじゃないか。その後ろの娘さんも連中と戦わなければいけない子なんだな。可哀そうに。でもある意味では救われるのかもしれん」
 みどりのおっさんはかさかさと床の上を動いて、トイレの入り口まで移動した。その動きはカーペットコロコロ男と通じるものがあったが、もちろんみどりのおっさんの手にコロコロはなかった。「さあ、行こう」とみどりのおっさんは言った。
 トイレから出ると、やはり異常な数のカーペットコロコロ男が集まっていた。彼らは現場を包囲する警官みたいに円になってトイレを囲んでいた。そしてあいかわらずアスファルトの地面をコロコロしていた。夜空には分厚い雲が集まっていて、空気を温かく湿らせていた。おそらく連中の目的は僕ら三人をコロコロすることなのだろう。粘着テープに僕らをくっつけて、びりっと引き剥がし、そのままくしゃくしゃに丸めて、ごみ箱に捨てるのだ。
「コロコロされたいか」みどりのおっさんは言った。
「されたくないですね、かなり」僕は言った。
「やっぱりされたくないよな」
 みどりのおっさんは何の合図もなしに、四つんばいのままカーペットコロコロ男たちの群れに突っこんでいった。相手を突き刺す槍のように禿げ頭を正面にして、かさかさと突進していった。彼の突進に対抗しようと、カーペットコロコロ男たちはコロコロを地面から離して、みどりのおっさんの方に向かって突き出した。やはり連中の目的はコロコロなのだ。みどりのおっさんは一人。カーペットコロコロ男たちは目の前にいるだけでも五十人以上はいる。そして奈良公園の鹿のようにどんどん増え続けている。どうみても僕らに勝ちめはなかった。
 だが連中はミスを犯していた。
 みどりのおっさんの頭には何もなかった。ただつるりとした頭皮が生々しく緑色に反射しているだけだ。先陣にいたカーペットコロコロ男が見事なタイミングでみどりのおっさんの頭にコロコロをぴたりとくっつけた。だがつるつるとしたところにコロコロをしてもつるつると滑っていくだけだった。みどりのおっさんは無力になったコロコロを振り払い、さらにそのままカーペットコロコロ男たちの群れへ勢いよく突進を続けていった。その姿はスペインの細い路地を走りぬける闘牛を思わせた。カーペットコロコロ男たちは悪趣味な花火みたいに次々と夜空の彼方へ吹き飛ばされていく。
 組子さんは眠ったままだったが、顔色はだいぶ赤みを取り戻し、呼吸も穏やかになっていた。僕は彼女を離さないようにしっかりと彼女の両脚を掴んでいた。だがいつのまにか一人のカーペットコロコロ男が後ろに回りこんでいた。そして組子さんの足を引っぱり、彼女の靴の裏側をコロコロしようとしていた。僕は素早く体を翻し、反射的にカーペットコロコロ男の肩のあたりを蹴り上げた。だけどやはり何の効果も与えなかった。ぐにゃりと肩がめりこんだだけで、カーペットコロコロ男の前進を止めることはできない。彼らは一つのプログラムしか組まれていない一方通行の機械なのだ。
「こっちだ!」
 みどりのおっさんの大きな声が聞こえた。振り返ると、彼は四つんばいのまま頭をこちらに向けている。「後についてこい!」
 みどりのおっさんの後ろには一本の道ができていた。両側には何十人ものカーペットコロコロ男たちが無残に倒れている。僕はみどりのおっさんの後ろを全力で追っていった。みどりのおっさんはかさかさと氷の上を滑るように地面の上を移動している。少しも息が乱れていない。
「すいません」僕はぜえぜえ息を切らしながら訊ねた。「いったいあなたの目的は何なんですか。こうやって逃げ回っていても仕方ないと思いますが」
「そりゃもちろん」みどりのおっさんは前方から視線をそらさずに答えた。「どんな戦争にも必ず敵というものがおって、そいつと戦うことが宿命づけられている。ただ逃げ回ってるだけじゃない。探してるんだ」
「誰を」
「鼠だよ」みどりのおっさんは言った。
 どれだけの時間と距離を走ったのか、どこをどう走ったのかまるでわからない。電灯の光だけを頼りに走り回っていると、ただ同じところをぐるぐる回っているだけのような気がした。みどりのおっさんの歩調はいっこうに乱れない。何の迷いもなく角を曲がり、暗闇を突き進んでいった。僕は再び思い出さずにいられなかった。妻が見たのはこのみどりのおっさんなのだろうか。もしそうでなければ、他にみどりのおっさんなどいるだろうか。妻は言った。みどりのおじさんだ。四つんばいで歩いている。そして彼女は引きこまれるようにベランダから姿を消してしまった。
 みどりのおっさんはあるトイレの前で止まった。さっきのトイレじゃない。もっと小さく飾り気のない、コンクリート打ちっぱなしの従業員用のトイレだ。顔を上げると、アップライトに照らされているシンデレラの城がすぐ近くに見えた。
 みどりのおっさんは身動きひとつしなかった。トイレから何かが出てくるのをじっと待っていた。僕も何も言わなかった。ただ二人並んでトイレの入り口にまっすぐ目を向けていた。五分ほど経った。トイレから出てきたのは、手袋をはめ直しながら大股に歩く鼠だった。黒いタキシードに赤いズボン。大きく丸い耳。三日月が張りついたような笑顔。この世には夢と魔法しかないと固く信じているような愛くるしい瞳。たしかにテレビで見たとおりの姿だ。だがどこか妙な違和感があった。人間のモデル写真を実寸大のパネルに印刷したときのような微妙なスケールのずれが、鼠の存在を嘘臭くさせていた。
 鼠は僕らの姿を目にすると、芝居掛かったふうに少し後ずさりした。そして僕とみどりのおっさんの顔を不思議そうに何度も交互に見ていた。だが状況を察すると、アメリカ人の俳優がするように手のひらを上にして、肩をすくめた。何もかもがわざとらしい仕草だった。
「みどりのおっさんが鼠の体を取り押さえる」みどりのおっさんは囁いた。「そのすきにおまえさんは鼠の頭を引っこ抜くんだ」
「なんでそんなことを」
「そりゃあ大将の首をとることが戦争の目的だろう」
「それで終わりなんですか」
「そりゃあ鼠はただの鼠で本当の大将じゃないかもしれん。ただ、鼠の首をとることは極めて象徴的なことなんだ。それでこの国の何かは崩れ落ちる」
「でもかつてはあなたも頭を引っこ抜かれた立場でしょう。自分がやられたことをやり返すってことですか」
「そうじゃない」みどりのおっさんは手足をじりじり先に進めていく。「そうじゃないけど、戦争というものはそういうもんでもある」
「あなたはキッズなんですか」僕は組子さんを起こさないように地面にそっと横たわらせた。
「キッズ?」みどりのおっさんはこちらをちらりと見た。「みどりのおっさんがガキだというんかい」
 やはりみどりのおっさんは何の合図もなく突然ダッシュした。そして蛙のようにジャンプし、鼠の上に飛びかかった。鼠は右足を前に出して、みどりのおっさんの腹部に思いきり蹴りを入れた。みどりのおっさんは地面に叩きつけられたが、すぐに体勢を戻し、鼠の後方へ素早く回りこんで、鼠の両脚にしがみついた。脚をとられた鼠はなんとか踏ん張ろうとしたものの、そのアンバランスな体形のせいで地面にたやすく崩れ落ちた。鼠が防御の姿勢をとる前に、みどりのおっさんは素早く横四方固めを決めた。
「早く!」
 みどりのおっさんの叫び声を聞いて、僕は駆け出そうとした。だが足がうまく動かない。いつのまにかカーペットコロコロ男が僕の足にしっかりとしがみついているのだ。いくら蹴り飛ばそうとしてもびくともしない。そうしているうちに何人ものカーペットコロコロ男が物陰から現れて、僕の体に飛びかかってきた。まるで修学旅行の夜に布団を何枚も重ねられていくみたいに僕は地面に倒れこむ。何人も重なったカーペットコロコロ男の隙間から、組子さんの姿が見えた。ぐったりと地面に倒れている彼女の白く小さな手をカーペットコロコロ男がコロコロしていた。彼女の手はコロコロの粘着テープに張りつき、あっというまに彼女そのものがコロコロされてしまった。
 これはやっぱりひどい夢だ、僕はそう思った。ひどい夢が何日も何ヵ月も何年も何十年も続いているだけなんだ。これが夢でなければひどすぎる。こんなひどすぎる現実などありはしない。カーペットコロコロ男が積み重なっていくうちに、僕は次第にある不快感を覚えた。自分の中のどこかにある憎しみの種が生長しようとしていた。何に対しての憎しみなのかはよくわからない。カーペットコロコロ男や鼠や夢と魔法の王国、そしてそこに集まる大勢のキッズ。そんなものをひとまとめにしたものに対しての憎しみかもしれない。
 僕の足首を掴んでいたカーペットコロコロ男がついにコロコロを始めた。親指の先から丁寧にコロコロしている。痛みはなかった。ただきついメンソール入りのガムを噛んだときのような冷たさが全身を突き抜ける。そして何かが確実に消え去っていくような感覚が残る。もう一方の足もしっかり捕まえられてコロコロが始まっている。全身のいたるところでコロコロが始まっている。おそらく僕も結局のところコロコロされることになるのだ。どこかからみどりのおっさんの叫び声が聞こえる。「諦めるな」だけど相手はあまりにも巨大すぎた。それに手ごたえがなさすぎる。「もがき続けるんだ!」

第八話:https://note.com/osamushinohara/n/n2f3a891b7d00


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