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夢と魔法とみどりのおっさん 第八話(最終回)

■いつもどおり会社に行った方がいいですよ

 最初に聞こえてきたのは雨の音だった。窓が開いていて、ときどき冷たい風が吹きこんでくる。湿度は高く、腋の下や膝の裏にはじっとりと汗が滲んでいた。
 僕が横たわっていたのは古い皮のソファの上だった。蛍光灯の明かりがやけに眩しい。となりには救護用のちゃんとしたベッドがあって、組子さんが目を閉じて横たわっていた。部屋の隅に灰色の事務机があって、警備員の制服を着た男が書きものをしている。上半身を起こした僕に気づくと、男はくるりと椅子ごと体をこちらに向けて、信号が変わるのを待つような無機的な目で僕の顔をしばらく見つめていた。そして膝を押さえながら辛そうに椅子から立ちあがり、こちらにゆっくりと近づいてきた。顔中に深い皺が刻まれている。
「気づきましたか」男は掠れた声で言った。
「どこですか、ここは」自分の声が他人の声みたいに聞こえる。
「まだ中にいますよ。あなたがたが侵入したところの」
「捕まってしまったんですね」
「捕まる?」男は一瞬天井を見上げた。「まあ、そうですな。ゲームオーバー。あなたがたの果敢な挑戦はもろくも散ってしまった」
「コロコロ男がたくさん出てきた」
「いいですかい」男は咳払いをした。「余計なことは言いません。今夜のことは忘れるんです。全部です。その方がいい。いいですな」
「どういうふうにいいのわからない」
「いいですか。みんなグルなんです。右手と左手が戦っているようなもんで、頭は同じなんですよ。たとえばもしあのまま鼠の頭を外していればあなたの顔が出てきたかもしれない、そういうことです。あなたたちはもうここを訪れることはない。あなたはもう来たくもないと思うかもしれないが、もしあなたに子供ができて、その子供が来たいとねだっても絶対に来ることはできない。それが世の中というもんです」
「烏帽子田さんはどこにいるんだろう」
「烏帽子田? ああ、あのおっさんですか」
「みどりのおっさん」
「あの男は港まで連れて行かれましたよ。たぶん今ごろ漁船に乗せられているところでしょう。しばらく帰ってこられないと思います。あるいはすでに鮫の餌にでもなっているかもしれません」
「漁船」
「あのおっさんはどうしようもなかった。悪質すぎる。でもあなたたちはラッキーなことにまだ少しだけ許されています。でもまたこんなことが起これば、今度こそ容赦はしない。毎日電車に乗って給料をもらってくるような日常生活はもう送れなくなります」
「脅しですね、それは」
「違います。ただのルール説明です。さあ、もう夜が明けた。いつもどおり会社に行った方がいいですよ」
 ベッドの上では組子さんがずっと眠り続けていた。まるでその夜に起こったすべての出来事が彼女の見ている夢であるかのように。

 組子さんを背負いながら早朝のJR線に乗り、自宅近くの駅に向かった。乗客キッズはまだ数えるほどしかいなかったが、僕と組子さんの状況を探るようにちらちらと視線をこちらに向けていた。マンションに着くと、組子さんの部屋のドアの前で彼女を降ろし、インターホンを押して、ドアが開かれる前に自分の部屋に戻った。
 雨はいっこうに止む気配がなかった。僕は結局警備員の男が言ったとおりに会社に行くことにした。ひどく疲れていたが、眠ってしまうよりも、誰でもいいから誰かと会って普段の自分を取り戻したかった。
 デスクの内線が鳴ったのは十時を過ぎていた。「小さな女の子みたいな声だけど」と取り次いだキッズが言った。予想どおり相手は組子さんだった。
「何、いまの対応の人。最悪です」
「どうしたの」
「あなたの会社ってキッズだらけなんですね」
「どうしてここの番号がわかったの」
「そんなものちょちょいって調べればすぐにわかることなんです。そんなことより昨夜のことよ。いったいどうなったっていうんですか。わたし途中から全然意識がなくて、目が覚めたら自分のベッドの上で寝てたんです。ねぇ、説明してくれます? 結局何が起こって、何があったのか」
「昨夜って何のことだろう」
「は」
「何かあったかな」
「何言ってるんですか。王国のことよ。カーペットコロコロ男が追いかけてきたじゃない」
「よくわからないな。僕は昨夜、友達と遅くまで飲んでたんだよ。コロコロ男って何のことだろう」
「ねえ、あなた、頭おかしくなっちゃったんですか。それともからかってるの? たしかに途中で意識は失っちゃったけど、それまでははっきり覚えてるんですよ」
「きっと君は夢を見ていたんだ」
「何それ。すぐばれるような嘘ついちゃって。遅くまで飲むような友達なんてあなたにいないことぐらい知ってるんだから」
「僕にだって友達ぐらいいる。君の言ってるのはたんなる夢だよ」
「ねえ、ちょっと待って」
「もう忘れるんだ」
「馬鹿みたい!」
 電話は激しく切られた。
 僕は受話器を置いて、コンピュータの画面を何事もなかったように見つめていた。まわりのキッズも何事もないようにぱちぱちとキーボードを叩いている。組子さんは幼すぎた。おそらく彼女のような女の子がこれから成長していくには辛いことが多くあるだろうと思う。彼女が闘い、勝ち取ろうとしているものはこの世界には存在していないかもしれない。彼女の求めているものはこの世の誰も持ち合わせていないものかもしれない。それでも彼女は自分のことをしっかり守ってくれる誰かを見つけることができるのだろうか。
 僕は机の脇に置いていたリュックサックを手に取り、席を立つ。隣の席の女子社員キッズが不審そうな目つきでこちらを見ている。額の生え際に汗が滲んでいた女キッズだ。彼女の黒い瞳はライフル銃の銃口のように鈍く光る。だが気にすることはない。編集室を出て、湿った廊下を進む。誰もが駱駝みたいなあくびをしながら歩いている。
 僕はトイレに入る。そしていちばん奥の個室に入り、鍵を閉める。リュックサックの中には出勤途中のホームセンターで買った緑色のペンキ缶が入っている。それを取り出し、脱いだ服をリュックにつめこんでいく。僕だってもうおっさんと呼ばれてもいい年代だろう。お腹も結構たるんでいる。ビニール袋から新品の刷毛を出して、有機溶剤の匂いが漂うペンキの中に浸す。そしてパンツ一枚になった全身を丁寧に緑色に塗っていく。頭の先から足の先まで。腋の下から股のあいだまで。血の色まで緑に染まったような気がする。リュックの中には蛙の卵が入った瓶がある。組子さんが持っていたものだ。僕はうまく四つんばいになって、歩き回ることができるだろうか。だがやらなければならない。かつて妻が求めていたものに僕はなろうとしている。妻が本当に求めていたものがいま自分の中にある、僕はそう感じる。四つんばいになって、この卵を孵化させなければならない。今日、このときから僕の長い戦争が始まるのだ。

〈了〉

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