いずれ嫌いになる(第4回)
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何かを思い出そうとするとき、ワタルにはまず日付を思い浮かべる癖があった。その出来事が何月何日の何曜日に起こったのか、資料ファイルのインデックスを探るように思い出していく。開かれたページにはその日に起こったことが憶えている限り書きとめられている。日付という捉え方を中心に置いて生活を送ることに、ワタルは幼いときから馴染んでいた。母親のアルバイトの勤務時間が不規則だったため、壁掛けカレンダーにはいろんな数字が赤いペンでいくつも書きこまれていた。ワタルはそれを見ながら、晩御飯の予定や鍵の開け閉めのタイミングを図らなければならず、いつしか毎月のカレンダーの数字の配置が頭の中に自然と入りこむようになった。
ギター教室は一週間ごとのスケジュールだったので、比較的簡単に思い出すことができた。四月二十六日から始まって八月三十日まで続き、約四ヵ月で十九回のレッスン。その過程でワタルは『アルハンブラの思い出』を一通りは弾けるようになった。彼が受けたレッスンの中でいちばんに思い出すのは七月二十六日のことだった。ミドリカワユウジが大音量でレスポールを弾きまくった二時間。そのあいだワタルはほとんど耳を塞いでいたが、ユウジは何も目に入らないように自分の演奏に陶酔しきっていた。この人が翌週の八月二日も、あるいはそれから先も自分のレッスンを頻繁に受け持つことになったらどうしようとワタルは不安になった。だが七月二十六日を境に、ユウジがワタルの前に現れることは二度となかった。レジの横で文庫本を読みながら座っていることもなくなった。いつものようにドレッドヘアの店長がワタルの目の前に腰を下ろして、彼の指使いを細かく注意していた。
「ええか。自分で自分を批判しすぎないこと。自分の下手さにはある程度は目をつぶるんやで。それが前に進むコツやわ」
店長はユウジのことを何も話さなかったし、ワタルも何も訊ねなかった。あれは七月二十六日の自分に起こったことだったんだ、そう思うことにした。そして突然ミドリカワ楽器店は閉店になった。ワタルがやっと『アルハンブラの思い出』を最後まで弾けるようになった翌日の八月三十一日のことだった。
二学期に入ってからも、ワタルはときどき阿倍野筋を通ってみた。だがミドリカワ楽器店のシャッターは閉じられたままだった。何度かノックしてみたが、何の返事もない。
「急に決まったことで申し訳ないんやけど、ギター教室は今日で終わりになったんや」
八月三十日、店長は肩を落としてワタルに言った。突然のことでほとんどわけがわからなかったが、もしかするとあの痩せた息子のせいかもしれないとワタルは一瞬思った。店長は詳しいことを何も言わない。最後にドレッドヘアに触ってみたくなったが、やっぱりそうするのはためらわれた。
「潰れたんか。はは、良かったやん。これで金の無駄がなくなった」
テレビの前で寝転がりながら、ワタルの父親は言った。ランニングシャツにすね毛だらけの脚を露にしたパンツ姿を見ながら、七月二十六日にユウジの言っていたことをワタルはこっそり思い出す。父親の嘘。本当は母親を殴るみたいに他人を痛めつけて、無理やりギターを奪ってきたのだ。そこには何の意味もない。たまたま喧嘩をして、たまたまギターを奪ってきただけの話だ。ユウジから聞いたことは母親にも父親本人にも話さなかった。ただ、父親の酔っ払った姿を目にすると、それまで続けてきたギターの練習に後ろめたさと恥ずかしさを感じずにはいられなかった。ギターを弾きたい気持ちも以前よりは薄れてきた。しかし本当に後ろめたさと恥ずかしさを感じなければならないのは父親自身のはずだろうとワタルはテレビを睨んだ。父親のような大阪人は大抵後ろめたさとか恥ずかしさといったものとまともに取り合おうとしないのだ。
休み時間、ワタルは何回かとなりのクラスを何気なく覗いた。七月二十二日に土手のベンチで話しかけてきた女の子の姿はどこにも見つけることができなかった。彼は自分によく話しかけてくる背の高いショートヘアの女の子に訊ねてみた。
「ああ、あの子やったらもう転校したらしいよ。よく知らんけど、お父さんの仕事のせいみたい。でもたった一学期だけって短すぎるね。今はもう誰もあの子のことなんか話せへんよ」
女子と話していると、大抵その日の放課後には連中がワタルを取り囲むことになる。だが夏休みが終わってからというもの、流行が過ぎ去ったみたいに連中はワタルのことをほとんど構わなくなった。ワタルは相変わらず大阪弁を使わずにいたが、そんなことは相手にするまでもないというような表情で連中はワタルを無視していた。もしかしたら連中の内に私立の中学を受験する奴がいて教師の心証を気にしているのかもしれない。あるいは夏休みという四十日間の空白が連中の仲間意識を違うものに変えたのかもしれない。いずれにせよそんなものなんだとワタルは思った。一緒に行動しようとする連中同士の繋がりなんてその程度のものなのだ。
中学校に上がると、となりの学区の小学校の生徒も加わり、知らない顔がまわりに多くなった。連中の何人かはやはり別の中学に進んだようで、そのぶん新しい面子が加わっていたり、あるいは何人かは別のグループに移ったりしていた。ワタルが大阪弁を使わないことに対して学年のほとんど誰もが気にしなくなっていた。かといって彼に親しく声をかけてくる者も──彼に好意を持っている女子を除いては──ほとんどいなかった。
新しいクラスに入って少し経った頃、ワタルはフォークソング部を見学しにいった。ミドリカワ楽器店に代わるギター教室は見つからなかったし、とりあえずはまだ誰かに教えてもらっておいた方がいいだろうと思ったのだ。しかし彼が気になるのは歌だった。彼が通う中学で楽器を演奏するクラブはフォークソング部か吹奏楽部しかなく、ガットギターしか弾いてこなかった彼は必然的に前者を選んだ。だが歌うことは彼の属さない世界の行為だった。おそるおそる音楽室のドアを開けてみると、重なり合った歌声が聞こえてきた。どうやら部員は女子だけのようで、十人ぐらいがそれぞれフォークギターを弾きながら歌っていた。一人はピアノを弾いていた。演奏しているのはテレビCMで流れている若い男性デュオの曲だった。赤面してしまうような歌詞と作為的で強引なメロディライン。ワタルは溜め息をついて、気づかれないように扉を閉めた。
自分には無理だ、そう首を振りながらワタルは階段を下りていった。『アルハンブラの思い出』とは違いすぎる。やっぱり土手のベンチに座って一人で練習するしかないと諦めて、校門を出ようとしたときだった。
「ちょっと待って」
一人の女の子が駆け寄ってきた。急いで走ってきたようで肩が上下に激しく揺れている。白い手がワタルのシャツを掴んだ。
「さっき覗いてたやろ」
「ちょっと見学してただけだよ」ワタルは相手の手にむかって言った。
「見学なら堂々と入ってこればええやん」女の子は口を尖らす。
「堂々と入る前にやめようって思ったから」
「なんやそれ」
女の子の顔を注意深く眺めたが、ワタルには見覚えのない顔だった。上級生にしては制服が綺麗すぎるし、たぶんとなりの学区から入ってきた子だろうと思った。さわやかに切りこまれた髪の毛はワタルよりも短い。そんなに短い髪の女の子はそれまで見たことがなかった。
「じゃあ入部せえへんつもり?」女の子は息を落ち着かせてから訊ねた。
「たぶん。僕の弾くものとちょっと違う感じだったから」できるだけ言葉を選んでワタルは答えた。
「ちょっと待って」別にどこにも立ち去ろうとしていないワタルの服を引っ張って、女の子は塀の陰へ移動した。そしてまわりをきょろきょろと確認した。「なぁ、もしかしてミドリカワ楽器店に通ってたやろ?」
ワタルはふたたび女の子の顔をじっと見た。だがいくらミドリカワ楽器店に通った日付を探っても、記憶のページには書き留められていない顔だった。
「うん」ワタルは頷いた。「でも今はもう」
「何回か見かけたことあるよ。私もあそこに通ってたから」女の子は両手の指をマッサージするように絡み合わせていた。「毎週火曜日に習いに行ってた。ねぇ、何弾いてた?」
「いつも弾いてたのは『雨だれ』だけど、たまに『アルハンブラの思い出』とか」
「ふうん。入ったのはけっこう最近やったんやね」女の子はまた窓の方を見上げて、さらに陰の奥へ移動した。どうやら歌声が漏れてくる音楽室の窓から死角になっている場所に行きたがっている様子だった。
「私もね、どうせなら演奏できるクラブに入ろうと思ったんやけどね」彼女は声をひそめた。「でもやっぱり全然違うかった。だってみんなで声合わせて真面目な顔しながら、好きとか愛してるとか、やっぱり私、ようでけへんわ」
「恥ずかしいし、後ろめたい」ワタルは言ってみた。
「映画はよく観る?」
「いや、あんまり」
「私は映画のサントラをよく聴くから、よく一人で観に行ったりするんやけどね。たまにすっごくしょうもない映画を観たときの感じに似てるねん。音楽室で歌ってるときの感じが。脚本も俳優も音楽もすべてがしょうもなくて、スタッフロールが全部終わって、照明がついたときのあの恥ずかしさ。まわりの人の顔をまともに見られへん。だってこんなしょうもない映画のために、真っ暗な中で一言も口をきかずに真面目な表情で、二時間も費やしたことをお互いに知ってるから。もう二度と顔を合わせたくない、そう思いながら足早に映画館を出るねんけどね」
「なんとなく想像できるよ」
「でもたまに横の席で感動してる人がおるんよ。目も当てられへん。もうそんな人は嫌いになるしかないわね」
「じゃあどうするの? フォークソング部は」
「もちろん辞める」女の子は自分の前髪に触れた。彼女が触れると短い髪は嬉しがっているみたいにぴょんとはねた。「きっとあの人たちと一緒に映画は観に行かれへんと思うわ」
「でも」ワタルは阿倍野筋を思い浮かべた。「ミドリカワ楽器店はもうないだろう」
「でもボウリング場があるから」
「ボウリング場?」
「しあさって、昭和町のカスタムボウルね」
明々後日は五月十日の月曜日だ、とワタルは思った。
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