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夢と魔法とみどりのおっさん 第三話

■なにそれ、あやしー

 これは戦争の話である。
 主要な登場人物は烏帽子田さんと組子さん。舞台はもちろん夢と魔法の王国。基本的に今回の件は彼ら二人が抱えている戦争の話である。だがもしかすると少しぐらいは僕の話でもあるかもしれない。僕自身そうひそかに思っている。それならば僕についてのことも少しぐらいは話しておく必要があるだろう。
 まず僕は組子さんに嘘をついた。会社を休んだ理由はもちろん盲腸の手術などではなかった。本当はその日、妻の葬式があった。そのことは他の誰にも言ったことがない。警察キッズはたんなる事故死として処理した。葬式に参列した妻の知り合いキッズはずっとハンカチで口元を覆っていた。田舎から上京してきた妻の両親キッズも涙をこらえながら僕の今後のことを気づかってくれた。妻をとらえた突然の死に対して、葬儀場にいた誰もがそれぞれの想いを寄り添わせていた。ただ、その中でおそらく夫である僕だけが故人に対してどのような想いもうまく寄り添わせることができないでいた。
 生前、妻は何よりも緑色を愛していた。といっても部屋の中に観葉植物を置いたり、ベランダで鉢植えを並べたりすることを趣味としていたわけではない。彼女の理想は部屋の中にあるすべてのものを緑色で統一することだった。
 緑色の冷蔵庫、緑色の食器棚、緑色のソファ、緑色のテーブル、緑色の壁紙、緑色のテレビ、緑色のベッドカバー、緑色の電話……。そういうことだ。いつだったか緑色のトイレットペーパーまで探し回ったことがある。
 完全に緑色に統一された部屋の中にいることで、妻はリラックスでき、平穏な精神状態を維持することができるようだった。口をつく言葉は穏やかで、どんなに理不尽な物事に対しても優しげな微笑を浮かべていた。ただ、彼女のクローゼットには緑色の服は一着も掛かっていなかった。皮肉なことに彼女に緑色の服はまったく似合わなかったのだ。彼女が緑色の洋服を着ると、そこにはまるで何万年も解かれることのない深い呪いが現れたように重苦しい空気が漂った。もちろん彼女自身もそのことを自覚していた。だがそれにもかかわらず、彼女は未来永劫重なり合うことのない恋人を想い続けるように緑色を心の底から愛し、求めていた。
 彼女が緑色の物を徹底的に揃えていく行為に、僕がどこかの時点で少しでもブレーキをかけていたなら、もしかしたら妻は死なずにすんだのかもしれないと思うことがある。ただ僕自身は緑色の物に囲まれていることで何か不快に感じたり、あるいは何かの癒しみたいなものを感じたりすることはなかった。僕にとってそれはただの緑色の部屋でしかなかった。しかし妻にとってそれは自分の幸福なイメージを喚起させるものであり、おそらく生きていく上で切実に必要な色だった。そうである以上、たとえばたまには気分転換に他の色のものに変えてみようかなどと簡単に口にすることはなかなかできなかった。
 現実的に不都合だったことは、たまに友人キッズが部屋を訪れたことだ。彼らは言葉を失い、呆気にとられた表情でしばらく部屋を見回していた。いまうちでは何年かに一度の緑色ブームがきてるんだよと言っても、彼らは不思議そうな、あるいはあまり立ち入ったことは聞かないようにする遠慮深そうな表情をずっと浮かべていた。当然のことだ。いくら個人的な大ブームが到来したからといって、誰が緑色のタンスや緑色のテレビまで買い揃えるだろう。
 彼らが帰ったあとに僕は妻に言った。
「彼らは僕らの話なんか少しも聞いていなかったね」
「仕方ないわ。仕方のないことなの」妻は洗ったばかりの緑色の皿を緑色の布巾で拭きながら言った。
「もうあまり人は呼ばないほうがいいな」
「そうね。ここはあの人たちの部屋じゃないもの。私たちの部屋だものね」
「そう、僕たちの部屋」と僕は言った。でもその言葉は緑色の部屋にどこかよそよそしく響いた。
「ねえ」妻は手をとめて言った。「この部屋にいると、自分の本当の時間を過ごせてるような気がするの。それは私にとってとても大事なことなのよ」
「それはわかるよ。もちろん」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「じゃあ、あなたの普段過ごしている時間はあなたの本当の時間なの?」
「そうだね」僕は鼻の先を触りながらしばらく考えた。「たぶんほとんどは違うね。僕の時間じゃないと思う」
「ほんとに?」
「ほんとだと思う」
「じゃあ誰の時間なの?」
「僕の知らない他の誰かの時間だよ」
「なにそれ、あやしー」と妻は微笑んだ。

 よく晴れた日のことだ。
 窓の向こうの四角い空の中をヘリコプターがぱたぱたと横切っていた。テレビではマラソン中継が放送されていた。妻はベランダで三日分の洗濯物を干していた。残業が連日続いていたせいで、僕はソファの上でテレビに目をやりながらいつのまにか眠ってしまっていた。ふと目を覚ましたのは、妻が短い声を発したからだった。ベランダに目をやると、妻は柵から上半身を大きく乗り出し、熱心に地上を見下ろしていた。ねぇ、ほら、みどりのおじさんよ、と彼女は指をさして言った。ほらほら。
 僕は眠たくて眠たくて仕方がなかった。柔らかく大きな手に全身を温かく包みこまれているみたいにうまく体を動かすことができなかった。みどりのおじさん? 一瞬、部屋中にある緑のどこか一部分におっさんが隠れているんだと錯覚した。でももちろんそんなものは部屋のどこにもいるわけがなかった。何だそれ。そんなものがいったいどこにいるっていうんだ。
 いるのよ。ほらあそこ。彼女は目を大きく見開いて、嬉々とした表情で地上を指さしている。すごい。みどりのおじさんが四つんばいになって歩いているわ。彼女は夢中になって、まるで空に飛び出そうとしているみたいに体を乗り出していた。
 ベランダの柵を支点にして妻の体が危険な角度で傾いていることより、下の道にいったい何があるのかについて、僕は天井をぼんやり見つめながら思い浮かべようとしていた。そのおっさんがどれくらいの身長で、どんな恰好で、どんなふうに歩いているのか。だがどうしてもうまく思い浮かべることができなかった。大きな手はさらに僕の体を包みこみ、抗いようのない眠気に僕は目を閉じてしまった。それがいけなかった。
 何か重たいものが落ちる音がした。瞬間的にベランダに目をやった。
 妻の姿はもうそこになかった。

 僕はまだ、緑色の部屋の中にいる。妻が求めて、残していった緑だ。
 僕はソファにもたれ、頭の後ろで手を組みながら、緑色の壁を見つめる。妻がその緑に囲まれながらいったいどのようなものを感じ取っていたのか、それと同じものを僕も自らの内に呼び起こそうとする。だが今のところ何も返事はない。まるで静かな森の中に一人取り残されてしまったような気持ちになる。そしてときどきみどりのおっさんが木陰からちらちらと覗いているような気がする。みどりのおっさんは誰かをどこかへ連れていこうと様子を窺っている。
「とても長い戦争になるんです」
 誰かの声がそう囁いている。

第4話:https://note.com/osamushinohara/n/nc424673f159f

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