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夜行バス⑨(最終回)

 妻が笑っている。携帯電話に耳を傾けて、可笑しそうに話をしている。話をしながら段ボール箱に肘をのせて、捨てるべき本や雑誌を片手で選別している。電話の相手は母親だった。引っ越し先のマンションが決まり、すっかり荷物が整理され、他人の部屋みたいに変わり果てた空間で気持ちが高ぶっているのだろうか。
 最終面接を受けた編集プロダクションから採用の連絡があったことで、履歴書を送っていた他の会社をすべて断り、私と妻は東京へ行くことに決めた。条件はそれほど良くはなかったが、それ以上無職の暮らしを引きのばすわけにもいかなかった。すぐにインターネットで通勤圏の不動産を検索し、二人で実際に現地まで見に行って、三部屋めで決めることにした。よかったね、と妻は言った。ああ、よかった、と私は答えた。そして目を閉じた。
 ß目を閉じると、背中のあたりに微振動がよみがえってきた。高速道路の路面のひずみが背中に伝わり、耳元でディーゼルエンジンがいつまでも回転を続けていた。自分はまだ夜行バスの中に乗っているような気がしてくる。
 ああ、よかった、私はそう答えたように思う。よかった? これでよかったことになるのか。私はこういうことを確かめようとしていたのか。いつのまにかバスは最初の行き先と違う方向に走っている。
「そういえばあの家、売れたって」母親との電話を切った妻が思い出したように言った。
「あの家?」
「あの古い一軒家。なんかどっかの建築デザイナーが買って、自分でリフォームするんだって」
「ああ、あれか。売れないと思ってたけど」
「そう。あんなの誰も買わないって思ってたけどね」
「これでこの街に未練もなくなるな」
「お母さんが心配してたわ。あっちには知り合いがいないしね」
「そりゃあそうだろうね。それで弟は?」
「全然連絡がないって」
「本当に?」
「本当よ」
 彼と東京で会ったことは妻には言わなかった。すでに妻は知っているのかもしれなかったが、私から言うのは止したかった。
「小説の通販はどうしようか」
「まだそんなこと言ってるの」重ねた雑誌をナイロン製の紐でくくりながら妻は笑う。
「書いてみたいことがあるんだよ」
「何よそれ。書いてみたいことって」
「彼のこと」
「彼? 彼って誰」
「それを書かないと、彼にずっと見られているような気がするんだ」
 妻は手を止めて、私を見ていた。何それ? それでどうやって食べていくの? という台詞を待っていたが、妻は何も言わなかった。ただ私の目を見ながら、自分の思う彼と私の言う彼とを合致させようとしているみたいだった。
「冗談だよ」私は沈黙を破った。「そんなことできるわけがない」
「そんなことって?」
「小説を書くこと」
「書かないで、その彼からは逃げられるの?」
 私はズボンのポケットにそっと右手を入れた。その底に隠れている携帯電話を握りしめる。もし何かあれば再び彼から、あるいは他の誰かから連絡があるはずだった。だがあれから一度も着信はない。
 彼はいま、どこにいるのだろう。まだ東京にいるのだろうか。住所も持たずに、何を確かめようというのだろう。私はもう一度彼と会って話がしたかった。彼が確かめようとしているものを少しでもいいから聞かせてほしかった。
 彼の言うとおり、私は私の知らないところで誰かを殺しているかもしれないような気がした。そのことに気づかないようにしているだけかもしれない。無能どころか、闇のようにのっぺりとした無感覚な人間になっているのかもしれない。
 いつも眠ったふりをしている私たち。暗闇を流れていく大きなものに身を任せることでしかない私たち。夜行バスはいつも私たちの知らない場所へ私たちを連れていこうとする。
「彼からは逃げられるの?」妻がもう一度はっきりした声で訊ねた。
「わからない」と私は言った。「でも、たぶん、東京でまた会うことになる」
 そのときはじめて私は鮮明にその街を離れる決意をしていた。

〈了〉
(2009年作)

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