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亀丼

 はじめて見た夢ではなかった。その夢の光景を今まで見たことがあった。
 夏の終わりの夕方、私は自宅のアパートの部屋で目を覚ました。首をひねってベランダのガラス戸を見上げてみると、太陽の姿はどこにも見あたらず、夕闇がワンルームの部屋の隅々まで染み渡っていた。思わず上布団を口元まで引っ張りあげた。部屋の隅でつけっ放しになっていたテレビの画面がやけに眩しかった。目を細め、テレビの画面を眺めながら、それまで見ていた夢の記憶をたぐり寄せていた。夕方のニュースが大型台風の上陸を知らせていた。防波堤の上でレポーターが大声を出してこちら側に何かを報告していたが、音量が小さすぎて何を言っているのか聞き取れなかった。もう一度ガラス戸の向こうを見上げた。空が不吉なくらい薄暗くなっていた。(おそらく大学で留年していた頃に見た夢だろう)、ぼんやりした頭でふと思い出した。確かにそうだ。そう思い出して、少しの間一人で納得していた。しかしながら、この夢は以前いつ頃見た夢だとか、そんなことを何故私は覚えていたのだろうと不思議にも思った。おそらく今まで一度しか見ていない。亀の夢だ。私は目を閉じ、夢に出てきた光景を頭の中で何度もリプレイしてみた。
 亀の夢。最初、その光景はさっきまで見ていた、ただの夢だった。しかし頭の中で巻き戻し再生すればするほど、光景の中を流れる空気ぜんたいが次第に生々しい温度を持ち始めた。その場所の風の湿り気や木の葉のざわめき、古い材木の匂いや闇の濃さなどを私はありありと思い描き、感じ取ることができた。そしてついに、これは夢などではなく、現実の世界で実際に起こった光景だったかもしれないという疑念が湧き起こった。もしかすると大学五年生のとき、自分の目で実際に見た光景だったかもしれないと。だがしかしどうしても、それは本当に現実の事柄だったというはっきりとした確信は持てなかった。やはりただ、同じ夢を二度見た、という最初の感触が残っていた。私は湿った布団の中で、その光景が夢のものか現実のものだったのか、判断に迷った。迷いながら、枕元に置いているはずの眼鏡を手さぐりで探し始めた。探しながら、あるいは以前自分で書いた小説の一部だったかもしれないとか、他人の小説に出てきた一部だったかもしれないとも思った。その時間帯に目覚めたときの私の脳味噌はいつも愚鈍な働きしかしなかった。

 その夜、電車に乗り街に出て、風俗店へ向かった。
 店に入ると、カウンターの店員から女の顔写真が並べられているパンフレットを渡された。その中から一番髪の長い女を選ぶと、私は三畳ほどの個室に通された。しばらくして部屋に入ってきた女は写真の雰囲気とは少し違っていた。髪は長かったが、重力に引き伸ばされたような顔立ちがラクダに似ていた。やけに礼儀正しい女だった。女ととりとめのない会話を交わした後、私はズボンとトランクスを脱ぎ、フェラチオを受けた。女は男のあらゆる性感帯を熟知しているようだった。私の性器を舐めながらときどきシャツの中に手を伸ばし、私の横腹に浮き出ている肋骨を指先でなぞった。その女の技術のせいだったのか、あるいは私があの夢から目覚めてからずっと勃起し続けていたからなのか、理由はよく分からないが、とにかく私は制限時間よりもずっと早くに射精してしまった。突然の射精だった。そして射精する瞬間、夢の光景がまた頭の中をよぎったのだった。残った時間、私はズボンを穿き直し、その夢か現実かわからない光景を女に話してみた。
「お客さん、変だよ」
 女は歯茎をニカッと出して笑った。私も笑った。
 店を出た。そして大きな深呼吸を一つした後、ひどく空腹なことに気付いた。携帯電話でアルバイト先の先輩に電話をかけてみた。私は飛行場で離着陸する飛行機の騒音を計測するアルバイトをしていて、そこで知り合った人だった。先輩は私よりひと回りほど年上でもう四十近かったが、まだ独身だった。先輩は自宅でテレビゲームをしていたらしく、今から家に行って良いかと訊くと、「暇だしいいよ」と承諾してくれた。そして「新しい無修正のサイト見つけたから」とつけ加えた。私は笑って応え、電話を切った。
 先輩のアパートまで歩いていくことにした。地下鉄で二駅分ほどの距離があったが、さっきの店の代金を払ったせいで財布には少しの小銭しか残っていなかった。カラオケの音が洩れてくる狭い路地を右や左に曲がったりした後、片側三車線の大きな国道に出た。ビルの屋上に掲げられているパナソニックの電光掲示板が21:36を表示しているのが見えた。私は先輩のアパートの方向を確かめ歩き出した。週末の夜だというのに歩道を歩いている人間がやけに少なかった。赤信号で止まっている車も二、三台しかない。タクシーの運転手たちが数人寄りそい、なにか深刻そうな表情をして立ち話をしていた。ときどき辺りを撒き散らすような強風が吹き、街路樹がざわついた。私はテレビの台風情報を思い出した。(東京の近くまで来ているのだろうか)、空を見上げてみると、巨大な夏の雨雲が空に重くのしかかっていた。一瞬どこからか、微かな異臭が生温かい風に混じって鼻をついた。思い出してみると、歯医者で歯を削られているときの匂いだった。先を見ると、十歳前後の子供が二人いた。二人は同じベージュ色をした同じ形のリュックサックを背負っていた。私は二人の側まで近寄った。すると側にあったビルの、地下へと下っている駐車場の入り口から、数多くの子供達が続々と外に出てきた。全員で四十人ぐらいはいた。みんな同じような年齢で、同じリュックサックを背負っていた。子供の団体はさっきの二人を加えると、誰が何を言うともせずに、一斉に同じ方向(私とは逆の進行方向)へ黙って歩き出した。彼らとすれ違うとき、歯医者の匂いがさっきよりも強く鼻をついたので、私は一瞬呼吸を止めた。彼らを見守る大人なり保護者の姿は何処にも見当たらなかった。妙なものだと思った。もちろん、ただ塾の帰りやらで先生にひどく叱られた後だっただけなのかもしれない。恐らくそうなのだろう。駐車場から出てきたのは、ビルの扉がもう閉まっていたから。たぶんそうだ。しかし私の中には、彼らと遭遇したことによって何か妙な気味悪さが残った。夕方に見ていた夢のせいだと思った。もう一度空を見上げた。そこにはもう空はなく、高速道路の裏側が頭上いっぱいに伸びていた。

 私が見たのは奇妙な夢だった。もちろん夢とはもともと奇妙なものだ。奇妙であればあるほど、夢は夢としての現実味を帯びていく。むしろ私達の見ている現実がそのまま夢に映し出されれば、それこそが奇妙な夢だ。
 私がいたのは夜の神社だった。小さく古ぼけた社が目の前にあった。私は石のベンチに座っている。白い月が鎌のように鋭く光っていて、風が暗闇に潜む木の葉を激しく揺さぶっていた。私の横には女が座っていた。見覚えのある女だった。しかし誰だかは思い出せない。思い出せないのは、そもそも私がその女に対して一片の興味も持ち合わせていなかったからだと思う。私の気持ちはただ、その女を抱きたくて仕方がなくなっている。すぐにでもベンチの上で女のスカートをたくし上げ、下着の中に手を入れて、そのぬめりの中に私自身を沈め込ませたいと望んでいる。女の方もそのためにわざわざこの人気のない神社まで私と一緒にやって来た、そのことも私には分かっている。しかし私はなかなか行動にうつらない。社の後ろの方に小さな池があるのが見えた。その池のほとりに乞食が座りこんでいるのだ。乞食は私達に背を向け、何やら熱心に池の水面を見つめているようだった。
 最初、私は乞食に気付かなかった。そんな夜中に他の誰かがその小さな神社にいることはまずないだろうと思っていたのだ。電灯一つない神社だ。横に建っていた民家の明かりによって、やっと女の顔をうっすらと認めることができたぐらいだ。私は女ととりとめのない会話を交わしながら、このベンチでは小さすぎると思った。確かそうだ。二人の大人が抱き合い、寝転がるのには無理な大きさのベンチだった。目の前にあった社に目をやった。社は闇の中でちょうど学校の体育倉庫ぐらいの大きさに見えた。あの中に入れないものだろうか、そう考えた。そう考えながら社を見ていると、そのうしろで小さく反射するものがあった。目を凝らしてみた。私の視線が巨大な闇をゆっくりと分解していき、社のうしろに小さな池が薄暗く浮かび上がった。そしてさらに池から分裂するように、人間が座り込んでいる黒い形が池のほとりにぼんやりと作られていった。
 それは乞食だと私は分かった。乞食だという記憶を持っていた。女の方もどうやら乞食の存在に気付いたみたいだった。池の方をちらちらと見ている。黒い雲がはれ、月がさっきよりも輝きを増していた。そのせいだろうか、社や樹木、池や乞食の姿などがくっきりと浮かび上がってきた。社は実際には体育倉庫よりも大きく、使用されている材木は古く黒ずんでいた。乞食は頭に黒か紺色をした毛糸の帽子を被り、薄汚れたピンク色のシャツを着て、その袖をまくっていた。頭上では強く湿った風が大きな枝を揺さぶっている。そのせいで私は女の声がときどき聞き取れなかった。
 私は乞食が立ち去るのを待った。女に何を話していたのか覚えていないが、とにかく私は乞食がいなくなるまでどんな事でも話した。頭の中に思いつく限りの事を話し続けた。大学にいる知り合いの一人一人の人間性から、前日に買った歯ブラシがあまりにも硬くて歯茎から血が出たことまで話した。同じ事を二度話しさえした。女は適当に相槌を打ちながら、どうでも良いという風に聞き続けた。しかし私がどれだけ喉を枯らせて話してみても、乞食はいっこうにその場を立ち去ろうとはしなかった。同じ格好で池のほとりに座りこみ、ときおり体の重心をずらせては池の中の何かを眺めていた。時折ぴちゃぴちゃと微かな水音が聞こえた。のんきで神経に触る音だった。その音を聞きながら、私は自分の気持ちが急激に乾いていくのが分かった。二つの肺が熱くなり、こめかみに圧力がかかり始めた。私は貧弱そうな乞食の背中をじっと睨んだ。頭の中に乞食の背中を蹴り飛ばす私と、水浸しになってもがき苦しむ乞食のイメージが浮かんだ。イメージが固まると、私は立ち上がり、足早に池へ向かった。手のひらが汗ばんでいた。乞食を全力で蹴り飛ばすタイミングを計りながら、乞食に近づいた。突然、乞食が体勢を変えた。意を決したように乞食は自分の右腕を池の中に勢いよく突っ込んだのだ。静寂を引き裂く大きな水音と共に、乞食の姿はまるで自らの力で池の底を引き上げるような形になった。私は立ち止まった。私はそれまで乞食は何かを探しているのだと思っていた。きっと何か大切なものを池の中に落としてしまったのだろうと思っていた。しかしそれは間違いだった。すぐに水中から引き上げられた乞食の右手には亀が掴まれていた。ちょうどフリスビーぐらいの大きい亀だ。乞食はその亀を月の光に照らし、しばらく眺めていた。水滴がいくつも滴り落ち、乞食の顔にかかった。その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。乞食は右手を下ろし、その手に掴んだ亀を左腕の中に必死に押しこみ始めた。(いったい何なんだ)、私は不審を抱き、再び乞食に恐る恐る近づき始めた。そして小さく黒ずんだ乞食の耳が見える地点に着いたとき、乞食の行為を理解した。乞食は左手にどんぶりを持ち、その中に亀を押し込もうとしていた。どんぶりの中にはちゃんと白飯が入っていた。乞食はどのような角度なら入るかと試行錯誤を繰り返しながら、亀を白飯の入ったどんぶりの中にぎゅうぎゅうと詰め込もうとしていた。亀は乞食の手から逃れようと、長く伸ばした首を必死に反り返し、くねらせていた。私は呼吸するのを忘れていた。乞食の手の中でもがいている亀の姿を見ていた私の頭の中には、一人の男の顔が映されていた。後ろを振り返ってみた。女は何が起こっているのか分かっていないらしく、生気のない表情で私を見つめている。神社の入り口で手水が枯れ果てていたことを私は思い出した。私は視線を元に戻した。戻した瞬間、乞食と目が合った。闇の中でやけに澄み切っている乞食の瞳が私を見ていた。乞食はすでに蓋をしたどんぶりを上下からしっかりと押さえ付けていた。まだ逃げることを諦めていない亀の首が天空に向かって伸びながら、蓋の隙間に挟まっている。乞食はじっと私を見ていた。しかし私を見ているのは乞食だけではなかった。子供達も私を見ていた。池の周りを囲んでいる藪の中から、小学生ぐらいの子供が五、六人白い顔だけを出し、無表情な視線で私を見ていた。突風で藪が激しく揺さぶられ、子供の顔が見えなくなったのとほぼ同時に、私は強く目を閉じた。

 奇妙な夢だった。そして、その夢がやはり現実のものだったと私が確信したのは、コンビニから出てきた男の顔を見たときだった。
 男は背が低く、小太りで、もう何日も家に帰ってないようなよれよれの黒いスーツを着ていた。目が細く、石ころみたいな鼻で、唇はぶ厚く、いやったらしいほどの福耳だった。脂ぎった天然パーマの髪が無造作に伸びていた。そして額の中心にはパチンコ玉ぐらいのいぼがあった。男は右手に赤いナイロン製の旅行用バッグとコンビニのビニール袋を一緒に持って、私の目の前にあったドアから出てきた。そしてわき目もふらずに、歩道を進み出した。目的地を一点に見据えたような力強く、早い歩調だった。
 私は男の揺れ動かない背中を眺めていた。その男は紛れもなく夢に出てきた男だった。乞食が作ろうとしていた亀のどんぶりを見たとき、私の頭の中に出てきた男だ。正確には、コンビニから出てきた男の顔は、夢に出てきた顔から十年ほどの歳月が経っていた。しかし私には同じ人物だという確信があった。顔立ちが十年前とほとんど変わっていなかったし、何よりも額にある大きないぼが証拠だった。私の足は自然に男の後ろを追い始めた。コンビニのガラスの向こうでは、二人の若い女が肩を寄せ合い、一冊の雑誌を二人で読みながら声もなく爆笑していた。片方の女の腰にぶら下げられている携帯電話のランプが激しく点滅していたが、女は全く気づいていないようだった。私は何かに突き動かされるようにその場を去った。
 男の十メートルほど後ろを歩いた。しばらく歩くと、男は信号のある交差点を左に曲がり、姿を消した。どうするか迷った。先輩のアパートへ行くにはさらにその道を直進しなければならなかったからだ。交差点で私は立ち止まった。左に伸びる細い道を覗き込んでみると、先程と変わらない一心不乱に前進する男の後ろ姿があった。一瞬、ビルの間を切り裂くような突風が吹き抜けた。目の前にあった薬局の看板が倒され、プラスチックが砕け散る音と共に何度か回転した。私は素早くビルの陰に身を寄せた。しかし男はまるでまわりを鉄の壁に覆われていてその音が聞こえなかったように、振り向きもせずひたすら道を歩いていた。どこか遠くの空から低い雷の音が微かに聞こえてきた。(やはり台風は東京に向かってきているのだ)、私はそう思った。眼鏡の位置を整え、再び男の後を追うことにした。

 夢の中に出てきた男。その男の名前は亀井といった。亀井と私とは小学校の同級生だった。
 ある地方都市で小学六年生だったとき、亀井は転校生として私のクラスにやって来た。若い女の担任に紹介され、教壇の上に立った亀井はその頃から背が低く、肥満気味の体型をしていた。多くの見知らぬ生徒達の視線に戸惑っている亀井は、どこに自分の視線を向けていいのか分からないような表情を浮かべていた。担任に促された亀井は自分の名前と用意された挨拶をつっかえながら口にした。そのとき、亀井が軽い言語障害を患っていることを私は知った。担任は亀井の障害のことをまるで何か言い訳をするような口調で私達に説明しだした。よく見てみると、亀井の耳の裏には補聴器が付けられていた。補聴器を初めて見た私は、耳の後ろにもう一つ耳が生えてきたみたいだなと頬杖をつきながら思った。
 最初、休み時間になると、五、六人の色白のクラスメイト達は気の弱そうな亀井を暖かく迎え入れた。亀井に気さくに話しかけ、運動場に連れ出したりした。放課後も毎日一緒に下校していたようだった。亀井は戸惑いながらも彼らの好意を受け入れたようで、彼らの差し伸べる手に従順に引かれていった。彼らに何かを訊ねられると、何でも素直に答えた。しかし亀井は患いのせいで発音がはっきりとせず、どもりだった。それに加え難聴のせいで大声だった。クラスメイトは亀井の話を何度も聞き直さなければならなかった。その身なりからは決して裕福ではない家庭環境だと想像できた。小さな額の中心に付いている大きないぼと天然パーマが妙に不均一で、小学生にしては気味悪い風貌だった。亀井に好意的だった五、六人のクラスメイトは、次第に亀井に話しかけなくなった。二週間も経たないうちに亀井と一線を画すように遠ざかり、結局以前のグループに戻っていった。亀井の方もそういう結果に陥るのが初めから分かっていたみたいに、無理に彼らの仲間に加わろうとはしなかった。休み時間になると、亀井は一人で窓の外を眺めていることが多くなった。
 私も元々亀井と同じく転校生だった。私はそのとき市が開発した巨大な団地に住んでいて、父親は全国にチェーン店を持つ大手スーパーマーケットの社員、母親は保険会社で働いており、昼間は誰も家にいなかった。それどころかその団地内では昼間にほとんど人の姿を見かけることはなかった。大人達はみな外へ働きに出ており、残された者達はみなそれぞれの部屋に閉じこもっているようだった。学校からの帰り道、自分の帰るべきその巨大な団地の羅列が見えてくると、私は幼稚園の頃に読んだ童話をよく思い浮かべた。どんな話だったのかは忘れたが、いくつもの王の墓が立ち並んだ不吉な挿絵だけが私の中に残っていた。家のドアを開けても誰もいない。台所のテーブルの上にいつも小遣いが置いてあるだけだった。母親の帰りが遅くなるときはサランラップに包まれた夕飯も一緒に置かれてあった。父親は私が寝た後か寝る直前にしか帰ってこなかった。それまで父親の仕事の都合でよく転校を繰り返していた私は、学校で友達を作ることがなかなか出来ず、家に帰ればテレビゲームをし、小遣いをポケットの中に突っ込んで近所の菓子屋へ一人で通っていたものだった。
 私と亀井が仲良くなったきっかけは、亀井が私の家に夕刊を配達してきたことだった。ある夕方、菓子屋から戻ってくると、家のドアの前に亀井が立っていた。亀井は脇に大量の新聞を抱えながら、ちょうど私の家の郵便受けにその一部を入れようとしていたところだった。亀井は一瞬私と目を合わせた。しかし私に気付かなかったようにすぐにその場を立ち去ろうとした。私は思わず「おい」と声をかけた。亀井はこちらを振り向いた。私の顔を見つめる亀井の表情はどこか不安げだった。しかしその不安を振り切るように、亀井はすぐに階段を登っていってしまった。
 次の日の学校で、私は亀井に何も訊ねなかった。学校では何も訪ねない方が良いと何となく思ったからだ。もちろん亀井も私に何も話しかけず、いつもどおり一人で窓の外を眺めたり、自分の席に座って教科書を読んでいたりした。
 夕方になると、自分の家で亀井が新聞を配達してくるのを待った。玄関にじっと座り、目の前の郵便受けから新聞が突き出てくるのをひたすら待った。友達がいなかった私にとって、そんな風に誰かが来るのをじっと待ったのは初めてのことだった。両親が帰ってくるときでもそんな風に待ったことはなかった。玄関で静かに耳を澄ませていると、コンクリートの階段を行き来する乾いた足音が何度も聞こえてきた。団地では実に多くの人が歩き回っているようだった。その足音の多さに私は不思議な印象を受けた。団地でそれほど多くの人を見かけたことがなかったからだ。姿は見えない。しかしドア越しには無名の足音達がどこからともなく現れ、どこかへ消えていった。私にしてみればまさに実体のない足音だった。もし突然ドアを開ければ、そこにいるはずの人達はふっと消えていなくなるのではないかという気さえした。
 何度目かの足音がドアの前で止まった時、郵便受けに「ことん」と夕刊が落とされた。私はすぐさまドアを開けた。そこには亀井がいた。亀井はもちろん消えていたりはせずに、確かに私の方を振り向いて立っていた。私はしばらく亀井の顔を見ていた。亀井の方もじっと私の顔を見ていた。
 どこか気まずい沈黙が流れた。用意していた言葉は喉の奥からなかなか出てこなかった。なにしろそんな風に亀井と二人きりで対峙したことは一度もなかったのだ。私がまるで初めてのように亀井の不思議な顔立ちをじっと眺めていると、亀井は少し後ずさりをして、またその場を立ち去ろうとした。
「いつ終わる?」、慌てた私は亀井を引き止めるようにそう訊いた。
 亀井の表情は無反応だった。私は亀井の耳に付いている補聴器をあらためて見直すことになった。
「いつ終わる?」、私は少し大きめの声でもう一度訊いた。
「こ、この棟で、お、終わり」と亀井は答えた。
「じゃあ、終わったら遊ぼう」と私は言った。
 亀井は何も答えなかった。ただ少しわけの分からない表情をして、私の顔をずっと見つめていたままだった。そして、ふと我に返ったように私に背を向け、何も言わずに階段を駆け上がっていった。亀井の背中が消え去るのを見送ると、私は諦めてドアを閉めた。
 それから一時間ほどして、私がテレビゲームをしている時にインターフォンが鳴った。ドアを開けてみると、そこにはまた亀井が立っていた。亀井の腕にはもう新聞の束は抱えられてはなかった。心の中では唖然としていたものの、何でもないように亀井を家の中に招き入れた。

 それからというもの、亀井とほとんど毎日一緒に遊んだ。夕刊が落ちる「ことん」という音が、亀井が私の家にやって来る合図になった。家ではテレビゲームをした。亀井はテレビゲームをするのは初めてだったみたいだが、異常とも言えるようなのめり込みようで、すぐに私といい勝負をするようになった。たまに外へ出て、川原で話をしたり、電車に乗って競輪場に行ったりもした。学校でも私は亀井と一緒にいることが多くなった。クラスメイト達は時々私を奇妙な目で見たが、私は気にしないようにした。
 亀井はよく私の部屋にあった本を読んだ。『児童文学全集』や『まんが日本の歴史』や偉人の伝記などだ。それらの本は私の親が、一人でいることが多い私のために買い与えたものだった。それが私には気にくわなかったので、それらの本には一切手をつけなかった。本棚にぎっしりと詰め込まれた手垢の全く付いていない本を、亀井は片っぱしから読んだ。二人でテレビゲームをしていても、途中でコントローラーを離し、一人で読書に耽ってしまうこともよくあった。一旦本のページを開きだすと、それまで大声で話していた亀井は石のように黙りこみ、物語という海の底に自分自身をゆっくりと沈ませていった。日曜の前には何冊かを借りていったりした。亀井の読書好きが意外で面白かった私は、何冊かを余計に足して貸したりした。
 亀井は母親と二人暮しだった。母親は新聞配達で生計を立て、母親が夕方に配達する量の半分を亀井は手伝っていた。父親はいつの日からか家に帰ってこなくなったみたいだった。詳しい話はよく知らないが、どうやらギャンブルで身を崩したらしく、亀井が私を競輪場に連れて行ったのは、幼少のころ父親に連れて行ってもらった記憶があったからだった。母親はその頃から(おそらく父親がいなくなったときからだったと思うが)、新興宗教に入会した。新聞を配達するついでに、その宗教団体のチラシも郵便受けに入れていたみたいで、その一部が私の家にもあった。母親のそのような影響から、亀井は母親が集会場で聴いてきた説法を私にときどき話すことがあった。
 競輪場からの帰りだった。中年の男達が一斉に帰路につくガード下の通りを二人で歩いている途中、亀井は言った。
「ぼ、ぼくって、仏陀の、う、生まれか、変わりなんだって」
 いつも通りの大声で、真面目な口調だった。
「おでこの、こ、このいぼが、その、証な、んだって」
 亀井はまるで小動物の頭を撫でるときのような落ち着いた手つきで額のいぼをさすり、私に向かって微笑んだ。すぐに電車の走り抜ける轟音があたりに鳴り響き、いくつもの長方形の影が亀井の顔の上を素早く通り過ぎた。私は亀井の声が聞こえなかったふりをして何も答えなかった。どうやら亀井は母親にそう何度も教えられているみたいだった。そのときの私は仏陀についてほとんど何も知らなかったが、それでもやはり亀井から奇妙な印象を受けないわけにはいかなかった。まわりを通り過ぎる大人達がチラッとこちらに視線を向けるのを私は気にした。しかし亀井の母親が亀井にそのような事を言うのは、私の親が私に大量の本を買い与えるのとそれほど変わらない事なのかもしれないとも、そのとき思った。
 亀井は私の部屋にある本を読み尽くすと、今度は教団の「教え」が書かれてある本を持ち歩くようになった。母親から譲り受けた本なのだと亀井は言った。その頃から亀井はどうやら母親と同じように教団に本格的に入ったようだった。亀井は「教え」の本を私に読むように勧めたり、学校の休み時間に読んだりしていた。話すことも「教え」に関する話題が多くなった。私はほとんど興味半分で「教え」の本を読んだり、亀井から「教え」の話を聞いたりしていた。しかしだからといって、亀井の話を嫌だと感じたことは一度もなかった。私を亀井に惹き付けたものは、亀井の腹の底から垂直に伸びているような真剣さだった。亀井は話しているとき、確かに発音は聞き取りづらく、大声でどもりもひどかった。しかし目を大きく見開き、私の目を真っ直ぐ見つめながら話した。自分の話に自分自身が揺らいでしまうようなことは全くなく、「教え」が自分の全身に染み渡っていることを私に向かって惜しげもなく開放させていた。少なくとも私はいつもそう感じさせられていた。

 夏休みに入る直前のことだ。
 終業式の日、亀井は学校を休んだ。女の担任は全員に配布しなければならないプリントを亀井の家まで持っていくよう私に言った。亀井の家の近くに住んでいる生徒は他にもいたのだが、「いつも一緒にいるじゃない」と女の担任はごまかすように笑って、私にプリントを手渡した。蝿の羽音が聞こえてきそうな笑い顔だった。
 見覚えのある道を通りながら、亀井の家へ向かった。その辺りは古い木造の民家が密集している地域で、狭い道の両脇にはプラスチックの植木鉢が並び、軒先には洗濯物が干され、野良猫の家族が路地から出たり入ったりしていた。次第に細くなってくる道をくねくねと曲がりながら、私は亀井の家に到着した。トタン屋根の小さな平屋で、外壁が所々ひび割れ、玄関には錆びた自転車が一台置かれていた。亀井の家の前までは何度か来たことがあったが、家の中に入ったことは一度もなかった。少し身を固くし、木の戸にそっと手をかけた。しかし戸には鍵がかけられていた。曇りガラスを覗き込んでみると、部屋の明かりは消されているようで真っ暗だった。何度かノックをして亀井を呼んでみたが、何の返事も返ってこなかった。よく見てみると、表札がどこにも掛けられていなかった。郵便受けらしき物もどこにも見当たらない。しかし、亀井は確かにその家に帰っていくのを私は覚えていた。仕方がないので亀井が帰ってくるのを待ってみることにした。ランドセルを下ろし、玄関の前に座り込んで、亀井が帰ってくるまで道の往来を眺めてみることにした。だが往来と言っても、ほとんど誰も私の前を通り過ぎてはいかなかった。ときどき酒屋の配達のバイクが退屈そうなエンジン音を立てて走り抜けたり、猫が体をくねらせて溝の下をくぐり抜けたりするだけで、そこに生活している人の姿は不思議と何処にも見当たらなかった。ひどく暑い日だった。アスファルトからは熱気が立ちのぼり、蝉達がその短い生を世界中に訴えかけるようにどこかで激しく鳴いていた。歪んだ路上をぼんやり眺めていると、太陽が無人の町をぐにゃぐにゃに溶かそうとしているようにさえ思えた。(何故こんなにも人がいないのだろう)、私は日陰に身を隠しながらそう思っていた。
 長い時間が経ち、ちょうど昼を過ぎた頃だろうか、道の向こうから日傘を差した女と子供が並んで歩いてくるのが見えた。亀井とその母親だった。亀井が私に気付いて、大きく手を振っているのが見えた。私も立ちあがって手を上げた。
「ど、どうしたの」、私に走って近づいてきた亀井はそう訊ねた。
 夏の強い日差しのせいなのか、亀井の目はいつもより生気に溢れ、やけに光り輝いているように思えた。私がいたことに驚いているようで口元もどこか微笑んでいた。プリント持ってきたよ、と私は答えた。
 私と亀井が話している傍らで、亀井の母親は日傘を折りたたみ、「こんにちは」と微笑を浮かべて、私に会釈をした。亀井の母親は目が痛くなるほどの真っ白なワンピースを着ており、袖からは精巧に作られた彫像のように細い腕がすらりと伸びていた。足元は素足に編み上げられたサンダルを履いていた。その印象はどう見ても私の母親とは同年代に見えず、中年の女というよりは年の離れた姉という感じがするほど若々しかった。わたしも思わず「こんにちは」と頭を下げた。
 二人は私を家の中に招き入れた。長い間待たせて申し訳なかったと母親は謝った。わたしは母親に促されるまま靴を脱いで、床に上がった。部屋に入った瞬間、葦草の焦げたような匂いが私の鼻を強くついた。部屋中の空気が生温かく淀んでいるのが分かった。外出中すべての窓とカーテンを閉めきっていたらしく、亀井と母親は急いですべての窓を開放した。家の中は、居間と呼べるような六畳ほどの部屋と小さな台所があるだけの作りだった。しかし物がほとんど置かれておらず、二人で住むにしても特に不便のなさそうな広さだった。亀井の母親は冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注ぎ、居間に腰を下ろした私と亀井にそっと出してくれた。私は一口で飲み干すと、床に置いたランドセルからプリントを取り出して、亀井に渡した。ありがとう、と亀井は言った。
「病院でも行ってたの?」と私は訊ねた。
「う、ううん、違う」と亀井は手元のプリントに目を通しながらそう答えた。「しゅ、集会にい、行ってたんだ」
 亀井がそう言っても、そのときの私はもう特に変な感じは受けなかった。亀井にとっての教団とはもはや生活の一部、自分の一部になっているのだと私は理解していた。亀井が集会に行くことで学校を欠席したとしても、それは私達が風邪で欠席することとあまり変わりないことだと思っていた。
「い、いつもはにち、日曜なんだけど、今日は、教祖さんの、た、誕生日だからさ」
「集会って、話きくの?」と私は訊ねた。
「うん。でもそ、そ、その前に、けがれを落すんだ」と亀井は答えた。「大広間にさ、な、何十人もの信者さんがみんなす、素っ裸になって、一緒にお、教えの文を唱えるんだ。い、一時間ぐらいかな。そうやって、ぞ、俗世で生活してきた、け、けがれを落とすんだ。それが終わってから、やっと、教祖さんがあ、あらわれて、みんなにお話をはじめるんだよ」
 亀井が話した光景を頭の中で想像しようとしても、私にはうまく想像できなかった。何十人もの人間が一緒に全裸になって何かを唱えている、そしてそれに亀井も参加している、そういう状況が本当に現実に存在しているとはどうしても思えなかった。
「い、一度、おいでよ。む、無料体験も、あるからさ」
 亀井はそう言うと、テレビの下の棚から教団のパンフレットを取り出して、私に渡した。表紙には白い作務衣のような服を着た人々が写っており、その下に教団名が書かれていた。私は亀井に何も答えずに、パンフレットをぱらぱらとめくった。
「おなか空いたでしょう」
 台所でずっと立っていた亀井の母親がそう言って、私の前にそうめんを出してくれた。そう言われて私はやっと自分がひどく空腹だったことに気付いた。昼飯も食べずにずっと亀井が帰ってくるのを待っていたのだ。テレビの上に置かれた小さな置時計がもう二時過ぎを示していた。「た、食べなよ。ぼ、ぼくらは、もう、済ませてきたから」と亀井は言った。
 遠慮なくそうめんに箸をつけた。ガラスの鉢に氷が入ったとても冷たいそうめんで、それをつるつると口に流し込んだ。私が食べ始めると、亀井の母親は一息つくように亀井の隣にそっと腰を下ろし、テレビの電源を入れた。昔の型のテレビで、ゆっくりと浮かび上がってくる映像を亀井の母親はガチャガチャと変え、あるチャンネルに切り替えた。画面はまだ薄暗くぼんやりしていた。きっと草食動物の大群が全力で走っている映像でも映っているんだろうと私は思った。しかし違っていた。色と光がはっきりと加わった画面には競輪の中継映像が映し出された。余分な重さのないスマートな自転車に乗った選手達が、重力から抜け出そうとしているかのように巨大な楕円形の中を音もなく走り回っていた。本当に音がなかった。音量が最小限にされているのか、それともテレビが壊れているのか、原因は分からないがテレビからは何の音声も聞こえてこなかった。亀井は私の横で補聴器の位置を調節し、その映像をじっと見つめていた。亀井の母親は何かの準備をするようにそばにあったカセットデッキをテーブルの上に置き、再生ボタンを押した。そして亀井と同じようにテレビ画面を見つめ始めた。カセットデッキからは何やら経文のようなものを唱える男の低い声が流れた。まるで暗い地の底をうねり歩いているような気味悪い声だった。そのテープが流れ始めると、亀井と母親は何の言葉も発さなくなった。二人はテープを聴きながら、無音のテレビ画面をただ黙って見つめ続けていた。私がいることなど全く気にならないかのように、真剣な表情で何かに入り込んでいた。私はそうめんを食べながら、きっとその行為は儀式のようなものだと推測した。そのテープを流しながら音の消えたテレビを見ることが二人にとっての一種の儀式のようなものだと、そうすることによって何か重要なメッセージを受け取っているのだと。それが一体どんな宗教的な意味を持っているのかは分からないが、二人が沈黙を守り、身動きもせず集中している横で、とにかく私も黙ってそうめんを食べ続けた。部屋の中は相変わらず蒸し暑かった。ブラウン管の中では競輪選手たちが抜きつ抜かれつのレースを繰り広げ、カセットデッキからは男の野太い唸り声がずっと流れていた。音を立てたら悪いと思い、私はゆっくりとそうめんを口の中に流し込んだ。しかし、そうめんを静かに食べ終わろうしているときになっても、競輪選手たちは走ることを止めていなかった。ずっと楕円形の中でぐるぐると回転を続けていた。最後の一周を告げる鐘の音がいつまでも鳴らないのだ。しかしそれが本当に鳴っていないのかどうか、私にはもちろん分からなかった。
 テープは三十分程で切れた。私はそのときを見計らって、そろそろ帰ると言った。テレビの方ではまだ競輪選手が走っていたが、亀井の母親が立ちあがって電源を消した。玄関先で亀井はもう一度「きょ、今日は、あ、ありがとう」と礼を言った。亀井の母親は「また遊びにきてね」と微笑み、深々と頭を下げた。そのとき開いた胸元から乳房が見えた。私は気まずくなり、足早にその場を去った。家までの帰り道の間、おそらく初めてと言っていいくらい、私は激しい勃起をしていた。
 私は亀井に誘われて教団の集会に何回か参加してみた。集会場では本当に大人の男女入り混じった五十人近くの人々がみんな全裸になり、巨大な祭壇に向かって正座をしていた。もちろん亀井の母親も一緒に来ていた。私は服を脱ぐことに少し抵抗があったが、そこにいると自分だけが服を着ていることが逆に奇妙に感じられた。裸になって、亀井達と並んで座り、亀井から借りた「教え」の本を読み上げた。そこにいる全員が一斉に経文を唱えている声の集まりは、あのテープの唸り声と少し似ていた。しかし、私は周囲の人達とは違い、「教え」に集中するどころではなかった。名も知らない人々の全裸姿のおかげで、私の頭の中はろくでもない妄想に捕われることになった。集会の終わりの方にはいつも恥ずかしくなって、股間を隠さなければならなかった。亀井と母親はそんな私の姿を見ても笑ったりはせず、最初は仕方ないことなんだよと私を慰めた。誰だってはじめは現実的なものに目を奪われるんだよと。そして、入会してみたらどうかと私に勧めた。しかし、どう考えても自分には向いていないみたいだと断った。
 亀井は私が入会しないことをひどく残念がったが、それでも私と亀井は小学校を卒業するまで疎遠になることなく、多くの時間を共に過ごし、多くの事を語り合った。クラスの中でも、同じ何かを二人だけで共有しているような間柄だった。その学校で初めて出来た私のまともな友達が亀井であり、亀井の初めて出来た友達もまた私だったようだ。
 そして中学に上がって間もなくすると、亀井は本格的ないじめを受けることになった。


 分かれ道に着くと、男は暗く狭い道ばかりを選んでいるように私には思えた。繁華街から住宅街へ、さらにひしめき合って建っている文化住宅へと続く道を男は進んでいった。辺りからはだんだんと人影が消えていった。私は十分な距離をとって、男の後を追わなければならなかった。交差点や分かれ道がいくつもあったが、男はまるで一本道を歩いているように迷うことなく、依然として力強い歩調で歩き続けた。
 暗闇の中で男が持っている赤いバッグだけがやけに目立った。私は男を見失わないようにそれを目印にした。バッグの中には、何やらビデオデッキのような大きくゴツゴツしたものが幾つか入っているみたいだった。ときどき男がバッグを重そうに持ち替えたり肩に担いだりするとき、その中の角張った何かがゆっくり位置をずらし、バッグの形を変えていた。まるで遠くの方で赤い魂が不器用に揺れ動き、それが私を誘導しているみたいだった。
 眼鏡に水滴が一粒落ちた。台風がとうとう雨を降らせようとしていた。空は蓋をされたみたいに真っ暗で、湿度が高く、腋は汗をかいていた。激しい風が鼓膜を震わせ、壁にかかった選挙のポスターを震わせていた。ポスターに写っていたのはテレビによく出ている政治評論家だった。そういえば選挙に一度も行ったことがなかった。行こうと思い立ったことすらなかった。何故だろうか。ポスターがいやにうるさくバタバタとなびいたので、見つからないように道の端を歩いた。しかし男はその音にも動じず、振り向かなかった。大きな雨粒が次々と落ちてきて、視界は魚眼レンズのように歪み始めた。


 私と亀井は中学一年のとき、再び同じクラスになった。中学に上がると、隣の学区の生徒達も加わり、クラス数も多くなるので、亀井と同じクラスになることはないだろうと諦めていた。だからクラス発表の掲示を見たときには驚いた。そして少し安心した気持ちがあった。亀井の方も特に何も言わなかったが、どこか喜んでいる様子があった。
 そのクラスで私は何人かの新しい友達を作ることになった。隣の学区から来た生徒が私に話しかけてくれ、私はそれに快く応対した。内心、小学校では転校生という状況でうまくいかなかった人間関係だったが、中学という新しい環境なら一から新しく築き上げることが出来るかもしれないと思っていたのだ。私は新しい友人と時間を共にするようになり、次第に仲良くなり始めた。くだらない冗談を言い合い、一緒に弁当を食べ、学校が終わると一緒に街をふらついたりした。必然的に亀井と一緒にいる時間が少なくなった。私のそんな様子を察していたのか、亀井が私の家に遊びに来ることも週に一回あるかないかの程度に減った。学校で交わす会話も以前と比べて少なくなった。その頃にはすでに私は以前のように集会に参加することもなくなり、亀井も私を誘ってきたりはしなくなっていた。私と比べて、亀井は学校で誰かに話しかけたりせず、亀井に話しかけてくる新しい人物も誰もいないみたいだった。それよりも亀井は、小学生の時よりも増して宗教に夢中になっていた。休み時間になると自分の席に座ったまま、「教え」の本を集中した表情で何度も読み返していた。弁当を食べるときも片手に持って読んでいた。周りのクラスメイト達はそんな亀井の姿を時々おかしな目で見た。そのときの私には亀井と疎遠になってしまったという感覚はまだなかった。ただ会う時間が少なくなった、それだけのことだと思っていた。
 ある日、体育の授業が終わり、生徒達が教室に戻ってくると、黒板の中央に一枚の紙がセロテープで貼り付けられていた。他の生徒達は何の紙かと不思議がって眺めていたが、私には見覚えがあった。それは亀井が信仰している教団のチラシだった。何かが起こったのだと瞬間的に感じた。遅れて教室に戻ってきた亀井は自分の鞄のチャックが開きっ放しになっているのを不審がっていた。すぐにチャイムが鳴り、それと同時に生真面目な社会科教師が教室に入ってきた。私達は急いで自分の席に戻った。社会科教師は黒板に貼られてあるチラシに気付き、それをじっと読んだ。そして黒板から乱暴に引きちぎり、眉をひそめながらクシャクシャに丸め、ゴミ箱に捨てた。何人かの男子生徒がクスクス笑っている声が聞こえてきた。亀井の方を見てみた。亀井はまだ転校してきたばかりで一人窓の外を眺めていたときのような平坦な目で、前の方をぼんやり見ていた。
 その翌日から五、六人の男子生徒が亀井の周りを取り囲むようになった。その中には、小学生のとき亀井を好意的に迎え入れた色白のクラスメイトも一人いた。彼らは亀井の手から「教え」の本を取り上げると、物珍しそうに見回し、鼻で笑った。そして亀井の信仰を茶化した。亀井のいぼや髪を指先で突いては、「気持ち悪い」だの「でぶ」だの「はっきり喋れ」だのと激しく罵った。亀井は何も言わなかった。ただ虚ろな目つきをしているだけだった。休み時間になると、彼らは亀井の体に打撃を与えるようになった。テレビで見た格闘技の真似だといって、亀井をその技の練習台にさせた。彼らは亀井の腕を殴り、亀井の喉仏の上で腕を十字にして思いっきり締め付け、亀井のみぞおちに回し蹴りを放った。彼らは亀井を玩具のように扱い、技がうまく決まるたびに喜んだ。亀井の顔は徐々に苦痛で歪み始めた。しかし声は一切上げなかった。うめいたり、咳き込んだりもしなかった。ただ静かに耐えていた。声を上げるほどの事でもないという風な感じだった。攻撃を加えている彼らからにすると、それは自分達のことなど最初から相手にしていないというような態度にも見えたようだった。
 それが彼らの神経を逆撫でしたのか、ある日の昼休み、バラバラにちぎられて細かくなった紙片が教室の床中に散りばめられていたことがあった。運動場から帰ってきた私と友人はそれを見て驚いたが、誰かがゴミ箱でも倒してしまったんだろうと推測した。しかしそれは違っていた。教室全体の空気がこわばっているのに私はすぐ気付いた。教室の奥を見ると、亀井が表紙の厚紙だけの姿に変わり果てた「教え」の本を握りしめ、立ち尽くしていた。そんな亀井の姿を五、六人の男子生徒が机の上に座ったりしながら、無表情に眺めていた。まわりのクラスメイト達はしんとしていて、ときおり小声で何かを話し合っていた。亀井は自分の足元と男子生徒たちを交互に激しく睨みつけていた。次第に亀井の体が小刻みに震え始めた。亀井のそんな姿を見るのは初めてだった。止めなければと一瞬思った。しかし私の足は一歩も前に出なかった。私は怖かった。安全地帯の人間でいたかった。私が躊躇していると、突然亀井が男子生徒の一人に突進していった。その相手は小学生のとき同じクラスだった色白の生徒だった。亀井が色白に体当たりをすると、二人の体は床に倒れこんだ。まわりの机や椅子も一緒に倒れた。二人はもみ合いになった。亀井は色白の服を引っ張り、色白は亀井の顔や腹を殴りつけた。加勢すると思われていた他の男子生徒は二人から少し離れ、その取っ組み合いをにやにやしながらただ静かに眺めているだけだった。誰も何も止めなかった。もちろん私もだ。チャイムが鳴った。それとほぼ同時に社会科教師が教室に入ってきた。彼は二人の喧嘩を見るなり、怒声を張り上げ一喝した。生徒達は一斉に席に戻った。亀井と色白も社会科教師に怒鳴られながら、仕方なく互いの体を引き離した。二人とも髪がぼさぼさで、ブレザーのボタンがとれ、シャツがズボンからだらしなくはみ出ていた。色白の片方の目が充血していて、亀井の唇は切れていた。床には補聴器が落ちていた。もみ合いのせいで亀井の耳からはずれ、押し潰されてしまったのか、補聴器は死んだ昆虫のようにその一部が壊れ、中身が見えていた。亀井はそれを拾い上げ、ポケットに入れると、席に戻った。社会科教師はめちゃくちゃになった机や椅子を整頓している途中、「教え」の本の表紙を見つけると、それをゴミ箱に捨てた。授業が終わると、二人は社会科教師に呼び出された。色白の方は五分もしないうちに戻ってきたが、亀井の方は放課後になっても担任の教師に再び呼び出されていた。
 その事件が起こってから、亀井へのいじめがさらに激しくなった。登校から下校まで、そのシーンを私は何度も目にすることができた。休み時間には何のためらいもない暴力が繰り返された。昼休みになると亀井は弁当を食べている途中でも教室の外へ連れ出され、五時間目が始まる頃には学生服を砂まみれにして帰ってきた。体操着に着替えるときには、亀井はそのあざだらけの肉体を露わにした。朝見かけたときには、昨日まではなかった新たな傷が顔面にできていた。教室中の全てのゴミが亀井の机の中に入れられた。亀井の教科書の文字がクロスワードパズルのようにマジックで消されていた。クラスで起こったトラブルの原因は全て亀井のせいにされた。五、六人の男子生徒は亀井を攻撃するありとあらゆる方法を考え、それを施した。しかし亀井は毎日休まず学校に来て、それを苦行のように黙って受けた。もう以前のように刃向かうこともなかった。ただ何処を見ているのか分からないような目付きで何処かを見ていた。そのときにはもう亀井の耳に補聴器は付けられていなかった。

 男子生徒たちは亀井のことを「かめどん」と呼んだ。亀井の額の中心に付いているいぼを「亀井」の「井」に付けたのだ。亀丼。男子生徒たちは何かと言うと「かめどん」と呼んで、亀井を馬鹿にした。何よりも「かめどん」というどん臭そうな響きが、太った亀井の風貌にぴったりだったみたいで、男子生徒たちはそのあだ名を喜んで使った。
 私は「かめどん」を耳にするたび、胸が気持ち悪くなった。それを聞く度、本当に亀のどんぶりを想像していた。炊き立ての白飯の上にまだ生きている亀が乗っかっている。それを食べろという風に自分の前に出されるのだ。亀が白飯の熱さに耐え切れず、首や足をニョキニョキ動かしている。亀に付着している汚水が滴り落ち、白飯の中に濃い緑色の筋が染み通っていく。気持ち悪くなり、たまらずその場から逃げ出す。亀井がいじめられている場面に出くわすと、私は見なかったようにすぐにその場から離れた。気まずかった。私は私でうまくやっていきたかった。なぜ亀井はやり返さないんだろうと私の新しい友人は笑った。その通りだと私も同意した。あいつの事はよく知らないと私は言った。私は亀井をいじめる男子生徒たちに気に入られるようにさえなった。彼らと一緒に行動を共にするようになり、一緒に弁当を食べ、放課後になると肩を並べて街へ出かけた。私は作り笑いが上手くなった。ときどき頬の筋肉が引きつった。
 私は一度、亀井へのいじめに加わったことがあった。
 その日の授業が終わり教室を出ようとすると、一人の男子生徒が私に近寄ってきた。おまえも図書室に来てみろよ、とその男子生徒は言った。男子生徒に連れて行かれるまま廊下に出てみると、亀井がいつもの男子生徒たちに取り囲まれていた。嫌な予感がした。しかしそこで彼らを振り切って一人だけ帰るというわけにはいかなかった。私は彼らと一緒に校舎の隅の方にある図書室へ向かうことにした。
 誰もいない図書室はしんと静まり返っていた。グランドからは運動部の元気な掛け声が微かに聞こえてきた。男子生徒たちは人目に付きにくい一番奥まった場所に亀井を連れ込むと、いつものように暴力を加え始めた。髪の毛を掴んだり、頬に平手打ちをしたり、腹を殴ったりし始めた。男子生徒たちはずっと口の端に笑みを浮かべながら、侮蔑的な言葉を亀井に投げつけた。しかし補聴器のない亀井の耳にはほとんど何の言葉も届かないはずだった。亀井はいつものように何の抵抗もしなかった。ただ立ち尽くし自分の足元をじっと見つめて、彼らの攻撃に耐えていた。私はその様子を一歩下がって見ていた。私のことを亀井はどう思ってるんだろう、そう思った。図書室に着くまでの間に、亀井は私がいることにおそらく気付いているはずだった。私は亀井と視線を合わせないために、男子生徒たちの後ろに隠れた。
 色白が亀井を力強く押し倒した。亀井は床の上にうつ伏せに倒れこんで、そのまま本当に亀のように体を丸めた。色白は書架から一冊の本を抜き取った。そしてその中のページを一枚破ると、手の中でくしゃくしゃに丸めた。
「本が好きなんだろ。かめどん」
 色白はそう言うと、重たそうな亀井の体を裏返しにして、腹の上に座った。そして亀井の口の中に、丸めた紙をねじりこみ始めた。亀井は苦痛な表情を浮かべ、必死に歯を食いしばってしたが、他の男子生徒が亀井の頬を強く押さえて口を開こうとした。
 色白は立ちあがると、また本からページを一枚やぶり、さっき同じく丸めた。そして私の方に近寄ってきて、それを今度は私に渡した。鋭い目つきで、やれという風に顎で合図をした。
 亀井の顔を見てみた。亀井の目は強く閉じられ、瞼の間にうっすらと涙が滲んでいるようにも見えた。口元からは色白がねじりこんだ白い紙がはみ出ていた。私はゆっくりと亀井に近づいた。そして腹の上にのった。亀井の細く開かれた目が私の顔をじっと見ている。体が石のように硬くなっていくようだった。実際、亀井の目は閉じたままだったのかもしれない。しかし私は亀井のまっすぐな視線によって丸裸にされているような気がしてならなかった。それを振り払うかのように、私は丸めた紙を勢いよく亀井の口の中に突っ込んだ。まわりの男子生徒たちはそれを見ながらへらへらと笑っていた。私は恐れた。亀井が私の名前を叫んでしまうのではないかと恐れた。紙を口の奥の方まで強く押し込めた。しかし亀井はとうとう最後まで私の名前どころか、何の言葉も口にすることはなかった。
 それ以来、彼らが亀井に近づき始めると、私は気付かれないようにその場から離れることにした。私と亀井とは、もう小学生の時のような親密な間柄はすっかり消え去り、絶縁状態になっていた。お互いに近寄ることはなく、廊下ですれ違っても言葉も交わさなかった。視線すら合わせなかった。亀井が私の家に来ることもなくなった。授業中ときどき亀井の姿をちらっと見ていたが、いつからかそれすらもなくなった。亀井が男子生徒たちに私との関係を告げないことを心の中で願っていた。その願いどおり亀井は私のことを何も言わなかったのだろうか、私が男子生徒たちに目を付けられることは一度もなかった。亀井が補聴器を失ったその頭の中で一体何を考えているのか、私にはもう何も分からなくなっていた。
 一年が終わる頃には、亀井へのいじめは日常的な風景に化していた。男子生徒は日常的に亀井に暴力を加え、私は日常的にその前を通り過ぎた。二年になると私と亀井は別々のクラスになった。そのおかげで亀井の姿を見かける機会は極端に少なくなった。しかし時々廊下の隅やトイレの中で、亀井が五、六人の男子生徒に取り囲まれているのに遭遇した。いじめはまだ続けられていた。
 夏休みが始まる直前、私はある女から付き合ってほしいと頼まれた。二年になって、私と同じクラスになった時から私のことを好きだったのだが、ずっと声を掛けられなかったと彼女は言った。私は彼女についてほとんど何も知らなかった。同じクラスだというのは知っていたが、ほとんど印象に残っていなかった。顔が特に可愛いわけではなく、フォークソング部で、おとなしそうな女だった。私は彼女の申し込みを受け入れた。それから約一年後に別れるまで、私は彼女と十何回かセックスをした。彼女は私の勃起した性器を長い時間舐め続け、私は挿入してしまうといつもすぐに射精した。将来は中島みゆきみたいな歌手になりたい、と彼女は言った。

 それから一年後のことだ。亀井がすでに転校していたことを聞いて、私は驚かされた。フォークソング部の女と話していて、ふと亀井の話題が出たのだ。
 三年でも亀井と別のクラスになった私は、もう亀井のことを考えないようになっていた。新しい友人達と卑猥な話で笑い合い、フォークソング部の女とデートやセックスをすることで日々を尽くしていた。フォークソング部の女は、亀井を汚いとかでぶとかいう理由で嫌っていて、学校で亀井を見かけるたび汚い言葉を私に聞かせていた。最初はおとなしそうな雰囲気だったが、私と親密な関係になり始めると、本当は自分の周囲にいる様々な人間が憎くて仕方ないことを明らかにした。
 女の話を聞いて、私の頭の中に亀井の顔がぼんやり浮かんだ。なんでも亀井の母親が交通事故で死んだらしく、一人になった亀井は遠い親戚の家に引き取られたようだった。そして亀井が引っ越したのは、その話を聞いた一週間ほど前らしかった。
 その日の帰り、亀井の家に拠ってみることにした。懐かしい道のりだった。路地のような狭い道を歩きながら、私は亀井とのことを思い出していた。一緒にテレビゲームをしたこと、河原に座って話したこと、競輪場に行ったことや集会場に行ったこと、そして亀井の母親のことも思い出していた。思い出しながら、私は亀井に同情していた。それが下劣な行為だとは気付いていたが、亀井が中学で受けてきた仕打ちを考えると、それでも同情せずにはいられなかった。
 亀井の家がある辺りに到着した。しかし、そこにはすでに亀井の家はなかった。亀井の家だけではなく、そこら一帯にあったはずの文化住宅がすべて取り壊されていた。あとに残っていたのは鉄条網に囲まれている野球場ぐらいのだだっ広い更地だけだった。風が砂煙を巻き起こし、地面に突き刺さっていた看板には巨大なマンションのイラストが描かれていた。私は唖然として、その一帯をしばらく眺めていた。眺めていると、だんだんと胃が縮んで、痛み始めた。眉間に皺を寄せ、腹を押さえて必死に我慢した。しかし我慢しきれなくなると、地面に膝を着いてうずくまった。そして足元にあった溝の中へ、昼に食べた弁当を思いきり吐き出した。
 その日の夕方、フォークソング部の女に電話をして、自分の家に招いた。私は何でもいいからとにかくセックスに夢中になりたかった。自分の部屋に女を入れると、すぐさま下着の中に指を入れた。女の性器はすでに濡れていた。私は女の上着を脱がせようとした。その瞬間、玄関の方から聞き慣れた音が私の耳に届いた。郵便受けに夕刊が落ちる音だった。小学生の時に亀井とやっていた合図だ。何かが頭の中を打った。すぐに立ち上がり、足早に玄関に向かった。あの向こうに亀井がいる、そう思いドアを勢いよく開けた。しかしそこに立っていたのは亀井ではなかった。貧相な顔をした五十代ぐらいの男だった。頬がこけ、無精ひげに白髪が混じっていて、黄ばんだ目で私の顔を不思議そうに見ていた。脇には新聞の束が抱えられていた。うしろを振り返ってみた。部屋の奥でスカートをはだけさせ、シャツを胸元まで開かせている女も不思議そうに私を見ていた。私は玄関のドアを閉めると、息を整えて、部屋に戻った。そして何も言わずにベッドにもたれてぼんやりしていた。女も何も言わずに自分の服を整えた。私の中にさっきまであった発作的な性衝動はすっかりその姿を消していた。そのかわり、言葉にならない様々な気持ちがほこりのように心の中を静かに舞っていた。その量があまりにもすぎたので、私はそれをうまくつかみ取ることができなかった。妙な沈黙が流れた。その沈黙を破るように、女が急に喋り出した。それは亀井の悪口だった。女はどこか気まずくなってしまった雰囲気を和らげようとしているみたいだった。女は何度も笑った。亀井はきっといじめられるのが我慢できなくて転校したんだとか、そんな人間をわたしは認めないだとか、亀井の容姿は本当に気持ち悪かっただとか、そんな話を女は続けざまに口にした。女の話を聞いているうちに、だんだんと気分が悪くなった。何度も深呼吸をしたが、心臓の激しい鼓動は収まらなかった。私はついに立ちあがり、女の背中を思いっきり蹴りつけた。女の体がぐらっと傾いた。「帰れよ」、私は小さな声でそう言った。女は顔を上げた。背中に手を回しながら、何が起こったのか分からないような表情でしばらく私の顔を見上げていた。そして急に怒ったような顔をして、自分の鞄を拾い上げ、何も言わずに出て行った。
 次の日から、私はそれまで一緒にいた友達から口をきいてもらえないようになった。何人かの女子からも敬遠されるようになった。一体何が起こったのかよく分からなかった。ある日、学校の便所の中で裸になった二人の男が抱き合っている落書きを見かけた。二人の男の下にはそれぞれ私の名前と亀井の名前が書かれてあった。きっと私と亀井の間に同性愛の関係があるという噂でも流れているんだろうと思った。そしてその噂を流したのはフォークソング部の女だろうと推測した。怒りの感情はなかった。どんな噂が流れていようがどうでもよかった。むしろ私を無視してくれた方が、毎日を落ち着いた気持ちで過ごすことができた。それから卒業するまで、私は一人で窓の外を眺めていることが多くなった。


(男は一体私を何処へ連れて行こうとしているのだろう)
 底が抜けたような激しい雨が降り続いた。濃く変色したシャツとズボンはぐっしょりと重くなり、運動靴の中が水浸しになった。男は雨が降っていることなどどうでもいいみたいに、暗い路地を同じスピードで歩き続けた。黒いスーツや赤いバッグが濡れてしまうのも全然気にしていないみたいだった。私は男を見失わないように注意深くならなければいけなかった。視界を良くするため、水びたしの眼鏡を外し、胸のポケットに入れた。しばらくの間、路地全体に霧がかかったように目の前がぼやけた。自分はまるで深い海底を歩いている、そう想像してみた。そう想像して顔を上げてみると、空がいつもより拡がっているように思えた。
 龍宮城? なぜか『浦島太郎』の話をふと思い出した。
 まさか。私は浦島太郎などではなかった。私は亀井を助けはしなかったのだ。理不尽な暴力に圧倒されている亀井を私は見捨て、そのまま通り過ぎていったのだ。それだけではない。ときには集団に加わり、一緒になって暴力を加えさえしたのだ。誰かに暖かく歓迎してもらう資格など私は持ち合わせていなかった。何もかもが失われた土地を眺めては、激しく嘔吐しているのが相応しい人間だった。


 私は高校に入っても友達と呼べる人間を一人も作らなかった。朝学校に行って、ほとんど誰とも喋らずに過ごし、黙々と弁当を食べ、そのまま家に帰った。私がクラスの誰のことも構おうとしないでいると、クラスの誰も私を構おうとしなかった。家に帰ると親と顔を合わせないために、自分の部屋にこもって本を読んだ。亀井が読み尽くした本だ。それらを短期間のうちに読み尽くしてしまうと、次に自分の小遣いで小説を買い始めた。そうすることで徐々に物語の世界へと引き込まれていった。登下校の電車の中、休み時間、そしてベッドに入り夜遅くまで小説を読み続けた。視力が低下しても読み続けた。そのときの私は自分の周囲にどんな人間がいるのか全く知らなかったし、興味もなかった。現実的な人間関係より創作された物語の方が私の心をはるかに潤したのだ。物語の中の言葉は私の心を優しく解きほぐし、登場人物の感情は私の心を翻弄した。私は物語の中に沈み込み、その深い底で私の視線は私自身という人間にのみ注がれていった。
 大学入試を控えた年、東京の大学に行きたいと両親に言った。私は自分のことを知る人が誰もいない場所へ行きたかった。煩わしさのなさそうな場所へ行きたかった。両親は寂しがった。お前は一人息子なのだから、近くの大学を選んでも良いのではないかと妥協を求めた。しかし私の意思は固かった。両親は私がどういう人間なのかを何も知らないのだろうと私は思った。ちょうど私が両親がどういう人間なのかを何も知らないのと同じように。
 大して勉強もせずに入れる東京の大学に進んだ。安アパートで一人暮らしを始めた私は、自分で小説を書いてみようと何度か試みた。それが東京に出てきた私の唯一の目的らしいことだった。しかし何篇か書いてはみたものの、最後まで書き通せたことは一度もなかった。窓の外の高層マンションや高速道路を眺めていると、何故自分はこんな事を書いているのだろうという無力感に襲われ、いつも途中で原稿用紙をゴミ箱に捨てることになった。いったい何をどういう風に書けばいいのか、全く分からなかった。私の書く小説には指針や枠組みなどといったものは一切なかったし、私という人間にもなかった。そもそも私の中に小説を書きたいという根源的な欲求があるのかどうかさえ疑問だった。私が書こうとした小説は糸が切れた凧のように何処に行き着くところもなく、いつしか大空の中に姿を消した。
 ただ風に吹かれるように、大学生活を送った。ファミリーレストランで深夜のアルバイトを始めた。そこで知り合った人間と一緒に酒を飲みに行ったり、麻雀をしたり、夜中まで大声で笑い合ったりした。彼らに紹介してもらった女とセックスをしたりした。誰かが持ってきた気持ち良くなる薬やらを試したりした。生活のリズムは乱拍子になった。私は次第に授業に出なくなり、単位を一つも取得できなかった年もあった。そのせいで留年することにもなった。大学の知り合いはみんな卒業していき、キャンパスからは私の知る人間は一人もいなくなった。私が大学で学んだのは、怠惰から堕落、そして腐敗への発展は目に見えない小さなところから徐々に増殖するということだけだった。
 大学五年目が終わり、さらにもう一年の留年が決定した。私はもう大学を辞めるしかなった。桜が徐々に咲き始めている坂道を歩いて退学届を提出しにいくとき、一体それまで自分が何をしていたのか、よく思い出せなかった。確かに私の目には何かが映っていたし、私の耳には何かが聞こえていたし、私は少なくない数の人間と出会った。しかし私は何も見ていなかったし、何も聴いていなかったし、誰とも何も語り合わなかった。それまで私の中でひそかに大切し温めてきた物語への想いが、日々を送ることでゆっくりと霧散し、空気中に消えていった。私はそれをときどき東京という街のせいにした。しかしもちろん東京には霧などかかっていなかった。たとえ何処かもっと遠い街へ行っていたとしても、あるいは両親と共に暮らし続けていても、いずれ私は私という人間を見失っていただろうと思った。その霧の中でぼんやり生きることが私には心地良くもあったし、不安でもあった。


 焦点がよく定まらないまま男を追っていると、路地の果てに辿り着いた。そこには小高い丘へと続いている石段があった。石段の左右には樹木が鬱蒼と生い茂っており、枝が激しく揺さぶられていた。その間から一本の細い煙が薄く伸びているのが見えた。東京にもこんな場所があったのかと驚いた。ふと、頭の中が真っ白になった。
 いや、違う。
 その場所に来たのは初めてではなかった。忘れていただけだ。私はそれまでにその場所に来たことがあった。大学で留年していた頃だ。石段の上には神社がある。夢に出てきた古ぼけた神社だ。そこで私は名前もよく覚えていない女とセックスをしようとし、乞食を蹴り飛ばそうとし、結局亀のどんぶりを実際に目にすることになったのだ。
 男は神社の方をしばらく見上げていると、ゆっくりと石段を登り始めた。(いったい何なんだ)、私は濡れた木の塀にもたれながらそう思った。男は一体こんなところで何をしようとしているのだろう。石段を登っても、その先にはただの古ぼけた神社しかない。私がセックスをするために行き、その光景が再び夢に出てきただけの神社だ。やがて男の背中は樹木の影に隠れていった。亀井はまだ信仰を続けているのだろうか、そう思った。


 ちょうど二回目の留年が決定した冬、私は実家に帰ったついでに中学の同窓会に出席することになった。だからと言って特に実家に帰りたかったわけではないし、ましてや同窓会などに出席したかったわけではない。しかしどうしても免許証の更新のため実家に帰らざるをえなくなり、さらに教習所の講習で再会した中学の友達から同窓会に誘われることになったのだ。彼は途中から私と一切口をきかなくなった友達の一人だった。講習の帰り際、彼は同窓会に来るよう執拗に私を誘い続けた。久しぶりじゃないか、酒でも飲もうぜ、と何もかも忘れたように懐かしがった。うまく断る理由が見つからないまま返事をはぐらかしていると、彼は「じゃあ出席者に入れておくから」と、場所と時間を言い残して去っていった。
 同窓会は中堅ホテルの大広間で行われた。それほど大勢の人間は来てないだろうと思って私は会場に向かった。しかし会場の扉を開けてみると、スクランブル交差点のように人が溢れかえり、そこら中を歩き回っていた。ネクタイとスーツを着た者もいれば、皮のジャンパーに半ズボンを着た者もいた。袴を着た者さえいた。それぞれ片手にグラスや皿を持ちながら、大きく口を開けて笑い合っているグループもあれば、なにか深刻な表情で話し合っているグループもあった。私は会場内をゆっくりと一周しながら出席者の顔を見ていったが、一体誰が誰なのかほとんど判別することができなかった。本当に自分はこれらの人々と一緒に時間を過ごしたんだろうかと。
 隅の方でその違和感のある光景を眺めていると、一人の男が私に近寄ってきた。
「ひさしぶりだな」
 男はそう私に話しかけて微笑んだ。
「お前もか」と男は言った。「俺もなんか馴染めなくてな。この空気」
 男は遠い目をしてあたりを見回した。その顔の作りをよく観察してみると、男は色白だった。しかし色白はもう色白ではなかった。肌の色は古い革のように浅黒く変わり果てていて、数多くの皺が顔中に刻まれていた。シャープなラインだった顎のまわりには分厚い贅肉がまとわりついており、額の生え際が驚くほど後退していた。
「どうしてる?」と色白は訊ねた。
「東京に住んでる」と私は答えた。
 ふうん、と色白は言った。色白は自分の身の上を話し始めた。工業高校を卒業した後、不況で仕事がなかなか見つからなかったこと。なんとか小さな設備会社に就職できたが、そこでの労働条件が過酷で残業が多いこと。ナンパした女と知り合って三ヵ月で結婚したが、うまくいかずにすぐ離婚したこと。色白は途中で何回も溜め息を吐きながら、それらの事を続けざまに話した。色白は酔っている様子だった。ネクタイが腹の上にだらりと垂れ下がっている体型は、もはや中年と言っても不自然ではなかった。
 色白は煙草を一本取り出すと、それに火を点けた。
「実はさ俺、高校に入ったとたんにいじめられちゃってさ」と色白は少し小声になって話した。「きつかったよ。卒業するまでの三年間、いじめられっぱなし。いろんな仕打ちを受けてさ。友達も一人もいなくてよ。もう自殺でもしたほうがいいんじゃないかって思うぐらいさ」
 色白は煙草の煙を大きく吸い込み、また溜め息を吐いた。ゆっくりと吐き出された白い煙がいつまでも空中を漂っていた。
「理由がよく分からないんだよ。なんで俺なの? って。でもさ、考えてみれば俺も中学のときはいじめる側だったわけだろ。俺だって理由もなくいじめてわけだ。実際いじめる側にしてみれば、いじめてるっていう意識なんかありゃしないんだよ。なにしろ理由なんかないんだからな、ただ面白いっていうだけで。子供って残酷なもんだよ。そう思うと、自分がした事もされた事も仕方ない事故のようなものなんだって忘れられるよ」
 色白はそう言うと、口の端を曲げて笑った。
 私は、今日中に東京に戻らなくていけないからそろそろ帰ると言った。一刻も早くその場から立ち去りたかった。
 色白が言った。
「ところでさ、この前までニュースに出てた宗教団体ってさ、あいつが入ってたところだろ。ほら、あいつ。全然思い出せないんだよ、そいつの名前がさ。何だったっけ?」
 新聞やニュースと全く関係のない生活を送っていた私はそれを聞いて足を止めた。詳しい話を聞こうとしたが、別の男が懐かしそうに手を振りながらこちらに近づいてきて、色白はその男と夢中になってまた話を始めた。
 実家に戻ると、押入れから新聞を掴めるかぎり取り出し、一つ一つを丁寧に読んだ。新聞では、ある宗教団体が警察から家宅捜査を受けたという記事が数日間一面を飾っていた。その教団は信者から御布施を強制し、教典や壷や銅像などを法外な値段で無理やり売りつけているという容疑がかけられていた。脱退しようとする信者を許さず、地の果てまで追いかけ、それが殺人事件にまで発展している可能性もあった。教団名を読んで私は亀井を思い出した。それは確かに亀井が信仰していた教団だった。捜査によって教団から教祖を含む何人かの逮捕者が出た。マスコミによって実は悪質で組織的な詐欺集団だったということが暴かれた。十数年かけて全国に名を轟かせ、莫大な信者と金を手に入れたその教団は、半年も経たないうちに跡形もなく私達の前から姿を消した。私は亀井のことを考えた。その教団の「教え」を小さな頃から自分の血と肉にしてきた亀井にしたら、自らの基盤を土台から崩された出来事だったのではないかと想像した。


 葉の影がまだらに映されている石段を見上げると、不気味な暗闇が頭上に拡がっていた。電灯一つなく、男の姿ももう見えなくなっていた。空からは限りない雨の連弾が木の葉を打ちつけ、石段を打ちつけ、文化住宅の窓やトタン屋根を打ちつけ、私を打ちつけていた。まるで何千羽の鳩が一斉に羽ばたき続けているような音だった。しかしそれが本当に実際の音量なのか私には分からなかった。大学を辞めた後、定職に就かず、何気なしに飛行場でのアルバイトを始めた私は、難聴気味になっていたのだ。私はずぶ濡れの髪をかき上げ、石段に一歩足をかけてみた。
 その瞬間、ポケットの中の携帯電話が太腿を震わした。取り出すと何かの警告のように電子音が辺りに鳴り響き、赤いランプが激しく点滅している。先輩からだった。私と先輩は、野球の試合が同時に五十試合ぐらい出来るほどの飛行場で、飛行機の騒音を計測した。先輩は初めて会ったとき、私のことを実際の年齢よりも老けてみえると言って笑った。器量は悪いが、嘘は一切言わない男だった。
 飛行場を見渡すと、定規で引いたように地平線がまわりを囲んでいて、地面には短い草が点々と生えていた。滑走路が遠くまで伸び、その上を走る飛行機が私達に迫った。地の底から湧き上がるような轟音が大きくなるにつれて、私は先輩の声が聞こえなくなり、自分の声が聞こえなくなった。巨大なエンジン音に全身を打ちつけられながら、私達は小刻みに震える計測器の針をじっと見つめた。重力から解放された飛行機はやがて青空の中で小さくなり、どこかの国に向かって消え去っていった。一日のうちで何十機もの飛行機が何百人もの人間を乗せて飛び去った。まるで世界中の人間が確固とした目的地をきちんと持ち合わせて生きているみたいだった。私はフォークソング部の女を思い出した。そういえば同窓会で彼女の姿は見当たらなかった。彼女も中島みゆきのような歌手になるため飛行機に乗り、どこか遠くに向かったのだろうか。
 どこにも行きたくない、私は青空を見上げながらそう思った。私は何にもなりたくなかった。自分自身であり続けたいとも思わなかった。身元不明の人間になりたかった。できることなら飛行機の巨大な車輪に轢かれ、真っ二つにしてもらいたかった。横を見てみると、いつの間にか草の上で先輩が気持ち良さそうに眠っていた。
 携帯電話の電源ボタンを押し、電波を切断した。男の後を追うため、私は暗闇の中の石段を再び登り始めた。


「ぼく、て、天国を見たことが、あ、あるんだ」
 いつか二人で川原に座っていたとき、亀井は天国の話をしたことがあった。
「ぼぼ、ぼくらのこのげ、げんじつは、ただの、かりそめにすぎないんだ。目にみえるもの、だだ、だけが、ぜんたいじゃあ、ない。げんじつは、ぜ、ぜんたいの、ほんの、ほんの、一部にすぎないんだ。ぼ、ぼくらは、はやく、か、か、かりそめのせかいを、と、突破しなくちゃあ、い、いけない。そして、ぜんたいの中心にある、て、天国に、行かなくちゃあ、いけないんだ。そ、その方法が、この本にも、書かれてある。で、でもね。ぼ、ぼくは、一瞬だけど、天国を、見たんだ。いっきに、げんじつを、と、飛びこえてしまって、一瞬だ、けど、ぜんたいの中心をみ、見てしまったんだ。それを、か、母さんに言ったら、ぼぼ、ぼ、僕の耳や、口がおかしいのは、そ、そのせいなんだって。か、かみさまが、ぼ、ぼくがまだちゃんと修行を、積んでいないのに、さ、さきに天国を見ちゃったから、その分の、だ、だ、代償を、ぼ、ぼくに課したんだってさ。でもね、それは、誇らしいことだって、じ、自信を持ちなさいって、母さんは言ってた。そ、そんなに若くして、天国をみ、見た人はいないんだからって。お、おまえがもし、その代償を、き、きっちり払い終えることが、で、できると、ときが来れば、また、もう一度、て、天国を、見ることができるって、母さん、言ってた」


 石段を登り終えると、右手の方に手水の桶が見えた。激しい雨のせいで桶からは水が溢れかえり、波打つ水面をさらに大きな雨粒が打ちつけていた。風に飛ばされた杓子が土の上で泥まみれになっていた。前方から風が猛烈に吹きつけ、私は飛ばされてしまわないように一歩一歩踏みしめて前に進まなければならなかった。横殴りの雨が頬を痛めつけた。顎を引き、目を細めて前を見た。
(この台風もただのかりそめにすぎないんだ)、そう思った。私は、亀井があの地獄のような日々の中で何を考え、何を思っていたのか、理解できたような気がした。私は亀井を忘れることなどできなかった。仕方のない事故として忘れることなどできなかった。あの誰もいない図書室で亀井の口の中に紙を突っ込んだ瞬間、私は自分自身の口に紙を突っ込んだのだ。口だけでなく目や耳の中にも突っ込んだ。何も口にしないよう、何も見ないよう、何も聴かないようにして。私は亀井を見捨てたその代償をきっちりと払わなければいけなかった。ちょうど龍宮城の玉手箱のように。
 古ぼけた社を目の前にして立ち止まった。夢に出てきたのと同じ光景だった。社の後ろには池があり、藪がそれを取り囲んでいる。うしろを振り返ると小さな石のベンチもある。すべて夢と同じ光景だった。隣に建っている民家の窓だけがぼんやり光を放っている。ただ、乞食や子供達や女の姿がないだけだった。亀のどんぶりもなかった。そこには誰にもいなかった。男の姿すらいつの間にか消えていた。
 周囲をいくら見回しても、男はどこにも見つからなかった。ただ、空から銀の針が無数に突き刺ささり、神社内を雨ざらしにしているだけだった。私はしばらく唖然としていた。そこは行き止まりのはずだった。そこからはもうどこにも行けない。(男は一体どこへ消えてしまったのだろうか)。耳を澄ましてみても、激しい雨風の音だけが辺りを支配しているだけだ。突然がたがたと体が震え始めた。私はとっさに両腕を抱え、身を固くした。そうだった。私は長い時間傘も差さずに、台風の中を延々と歩き回っていたのだ。自分の体を見回すと、海から這い出てきたみたいにずぶ濡れだった。肉体が私を現実へと強引に引き戻すように震えていた。そのとき、ふと思った。もしかすると男は私が後から追ってくるのに気付いていたのではないかと。その不審がだんだん湧き上がってくると、いつの間にか一歩後ずさりをしていた。泥になった土に靴がぬるっとめり込んだ。ポケットから携帯電話を取り出した。しかし雨水があらゆる隙間から染み込んでいて、電源ボタンをいくら押し続けても携帯電話は何の反応も示さなかった。
 まただ、と私は思った。また私は逃げようとしていた。逃げることとは失うことだった。私はもう何かを失うわけにはいかなかった。失うものなど何もないとしてもだ。私はここで男を見失うわけにはいかない。私は私自身をもう一度失うわけにはいかないのだ。
 社に目をやった。恐らくその中に男がいるはずだった。そこしか考えられなかった。一歩ずつゆっくりと足を進め、社に向かった。泥の地面には足跡が残っていた。私はその足跡と自分の足を重ねるようにして前に進んだ。進みながら、亀のどんぶりのことを考えた。亀のどんぶりは私の現実に現れ、私の夢に現れ、私の心に現れた。亀はいつも首をどんぶりの蓋に挟まれながら、必死に天空を目指していた。亀は果たしてどんぶりから突破することができただろうか。乞食の手から、私の現実から、私の夢から、私の心から、突破することができたのだろうか。社の戸を勢いよく開ける自分の姿を、私は何度もイメージした。
 突然、ブレーカーが落ちたみたいに雨が止んだ。地面を打ちつける雨音が消え、木を揺さぶる風の音が消えた。立ち止まって空を見上げてみると、雨雲の塊は向こうの方に遠ざかっていた。(たぶん台風の目に入ったのだ)、そう思った。あたりは一変して、しんとした静けさに包まれていた。あまりにも静かすぎて、耳を澄ませば世界中の声が聴こえてくる、そんな気さえした。ふと、目の前でオレンジ色の光がぼんやり灯った。毛玉のような微かなオレンジ色の光が、薄暗い障子にぼんやり滲んだ。私は息を呑んでそれを見ていた。見ているうちに、オレンジ色の光は障子一面にじわじわと広がっていった。中からちりちりという音と、焦げ臭い匂いがし始めた。
 社は燃えようとしていた。
 私はただ、内部から燃え始め、やがて朽ち果てていく社を眺めているだけだった。燃える社を眺めながら、飛び散る火の粉一つ一つまで見えるほど、とても静かな気持ちになっていた。
 あの男は本当に亀井だったのだろうか。
 私は確かめたかった。私がここまで追ってきたのが本当に亀井だったのか、あるいはただのそっくりな他人だったのか、社の戸を開けてこの目で確かめたかった。そしてもし本当に亀井だったのなら、話をしたかった。亀井が今までどんな物語を送ってきたのか聴きたかった。しかし、社からは何十本もの煙が立ち昇り、中から材木の倒れ落ちる音が聞こえ、戸はすでに半分焼け崩れていた。もうそれ以上、社に近づくわけにはいかなかった。
 ときどき社の中から陶器が割れるような音や電気がショートするような音が聞こえた。プラスチックが溶け出すような匂いもした。私は赤いバッグのことを考えた。きっと燃やされるべきものが燃えているのだ、そう思った。あともう少ししたら再び激しい雨が降りだし、社を焼き尽くす炎を鎮めるだろう。束の間にできた穏やかな夜空もじきに黒い雲に塞がれる。せめてそれまで、社が燃え終わるのを見届けよう。
 台風はまだ終わってはいないのだ。

(2001年作)

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