花火は刹那的だから美しい
今年の夏、4年ぶりに地元の花火大会があった。現地に行ったのは5年ぶりだった。4年前は少し離れたところから当時の彼女と花火を見たが、それまでは毎年のように現地で花火を見ていた。
4年前は直前から腹痛に襲われて起き上がることもままならず、花火をあまり見れていない。世界で一番美しかった花火を見る彼女の横顔も、今はもうほとんど忘れてしまった。記憶とは本当にいい加減なものだ。また夏に帰ってくるから来年も見れる。そう信じきっていた。夏の花火も横にいる彼女も、僕にとって当たり前の存在だった。
次の春には全てが変わっていた。僕は想像の何倍も遠いところにいくことになり、マスクが当たり前になっていた。それでも僕はまだポジティブだった。止まない雨はない。すぐに日常が帰ってくると思っていたし、2人なら遠い距離でもやっていけると思っていた。そして夏が来て、花火大会も祭りもなかった。それでもまた生きて会えたことが嬉しかった。
また秋、冬が来て、春、夏。その年も花火大会はなかった。そのまま秋になり、とうとう彼女は夢から冷めてしまった。もちろん花火大会のせいではない。少しは距離のせいではあるけど、大部分は僕のせい、そしてそういう運命だったと思っている。終わり方は呆気なく、会って話すこともなかった。急に静かな終わりが訪れたことで、2年半の日々が一瞬に感じて、それがとても美しいものだったと気づいた。2年間見てもいないのに、花火みたいだ、なんて思った。
次の夏も花火はなかったが、その1年は僕にとっては空白だった。そして今年の夏、4年ぶりの花火を1人で見た。あの頃の当たり前が、特別なものになって帰ってきた。そして、その間に失ったものがどれほどあるかを実感した。
花火が終わると何も残らなかった。人混みに喧騒がもどり、誰もが日常へ帰っていった。こんなに呆気なかったのかと僕は少し驚いていた。それでも僕や周りの人たちの心には、きっと今日の花火が残っている。そう思った。僅かな煙だけが残る空を見ながら、今僕にあるもの、この4年で得たものを考えてみた。本当に沢山あった。多くの人に支えられて今も生きている。僕は幸せものだ。たとえ1人でも、今日の特別な花火が当たり前なるまで、また何回でも花火を見に来よう。そう決めて僕もまた日常へ帰っていった。
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