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ミモザの日

【看護記録】****年**月**日 病日2日目 記載者:〇〇
(翻訳機使用しての会話にて)
「僕は囚人なんかじゃなかったんだね。昨日の看護師に謝りたい」
彼の母国語で挨拶すると驚いたような顔の後、嬉しそうに笑った。翻訳機を使用して発音が間違ってなかったか尋ねると「惜しい」とのこと。正しい発音を教えてもらう。少し肩の力が抜けて安心できた様子。会話の中で当看護師と患者が同じ歳である話題になる。検温や検査のときは看護師と患者という立場であるが、こうして雑談するときには異国の同じ歳の者として仲良くしたいと伝えると、少し罰が悪そうに上記発言あり。昨日「無実の罪で収監されている囚人のようだ」と言ったことを悔いているらしい。彼が入院生活に希望を持ってくれたのは喜ばしいが、我々医療者が、この国が、彼をこの部屋に閉じ込めていることは事実である。彼にとって少しでも明るい入院生活になればと思う。

【看護記録】****年**月**日 病日3日目 記載者:〇〇
(翻訳機使用しての会話にて)
「あなたの名前を教えてください。僕のことはトトって呼んで欲しい」
勤務交代時、担当が交代したことを伝えに挨拶のため訪室すると上記発言。本名は長いからあだ名で呼んで欲しいとのこと。当看護師の名前も教えるが彼には発音が難しいらしい。こちらも呼びやすいあだ名でいいことを伝える。嬉しそうに何度か繰り返して練習している。メモ用紙として渡している紙に何か単語を書き連ねている。何を書いているのかと聞くと、教えてもらった名前とほくろの位置や声の印象などの特徴だという。嘆いていても何にもならないから、楽しくするための努力をすることにしたとのこと。仲良くなるために部屋に来るドクターとナース全員をナンパするつもりだと笑う。空元気のようにも窺えるが、気持ちは前向きな様子であり、精神状態はひとまず良好と判断する。

【看護記録】****年**月**日 病日10日目 記載者:〇〇
(翻訳機使用しての会話にて)
「あの木はなんという名前ですか?随分たくさんあるようだ。あっちの木も同じ木に見える。蕾がたくさんついている。花が咲くのですか?」
桜の樹を指して上記発言あり。桜という名前の木であることを伝えると興味を持った様子。母親がガーデニング好きで植物には詳しいとのこと。葉が出るより先に花が一斉に咲くこと、この国で昔から愛されている花で公園や街路、学校など様々な場所に植えられていることを説明する。久々の楽しそうな顔。我々看護師と話す時間と窓からの狭い景色を眺める以外には特にすることもなく退屈なのであろう。
メモ:次勤務者へ 桜の写真が見たいそうなのでプリントアウトして渡してください。

【看護記録】****年**月**日 病日11日目 記載者:〇〇
(翻訳機使用しての会話にて)
「僕の国で春を告げる花はミモザです。黄色い花。春になると女性に感謝を込めてプレゼントします。僕の家の庭にもミモザがありますが、その世話だけは父と僕の仕事です。母にプレゼントするためのものなので」
何枚か桜の写真を持っていって渡すと喜んで眺めていた。花見の写真を見て何のパーティーかと聞かれたので、桜の花を愛で春の訪れを喜ぶ宴会であることを説明する。楽しそうなイベントとの感想。桜が咲くと春が来たと感じると話すと彼の母国の花について話してくれた。寂しそうに薄く笑う。家族や故郷の街が恋しいと話す。本来の予定であれば日本でのツアーを終え、船は彼の母国に帰還しているはずである。感染が確認されなければ、この部屋に閉じ込められることもなく、彼は家族や友人に3日後の誕生日を祝ってもらっていたのだろう。本日の検査結果も陽性。誕生日はこの国で迎えることになる。
メモ:臨時病床用控室にメッセージカード設置しました。回診時、医師にも記載依頼をお願いします。

【看護記録】****年**月**日 病日14日目 記載者:〇〇
(翻訳機使用しての会話にて)
「嬉しい。驚いた。誕生日を祝ってもらえるなんて。ありがとう。本当にありがとう」
本日誕生日のため看護部よりケーキとメッセージのプレゼント。室内のものは退院時焼却処分となり持ち帰ることができないため、メッセージカードを貼った色紙は原本ではなくカラーコピーしたもの。メッセージは英語で書かれたものは何とか本人で翻訳できる様子。日本語のものは翻訳機使用し口頭にて伝える。ケーキを食べる間部屋にいて欲しいと話される。感染対策上、防護具は脱げないのでケーキを分け合って食べることはできない。一緒に食べているつもりになるから、味や香りを教えて欲しいと伝えると嬉しそうに破顔した。

【看護記録】****年**月**日 病日20日目 記載者:〇〇
(翻訳機使用しての会話にて)
「あの白い花はこの間言っていた桜ですか?まだ他の樹は花が開いていないようですが」
窓の真下で白梅が満開となっていた。梅という名前の樹で桜とは違うこと、桜はあと十日後くらいが開花時期であることを説明する。少しほっとしたような様子。「桜も綺麗だと思うけど、やっぱりミモザが咲く春が恋しい」と。誕生日の後くらいから少し気分が落ちているような印象。憂鬱そうに桜の蕾を眺めている。

【看護記録】****年**月**日 病日24日目 記載者:〇〇
(翻訳機使用しての会話にて)
「母親とはあんまり仲良くなかったんだ。でも僕が船に乗る仕事がしたいって言ったときに喜んで応援してくれた。反対されると思ってたんだ。僕は愛されていた。でも言葉とか行動にして伝えなきゃ思っていることなんて伝えられないことの方が多い」
退院して家族に会ったら何をしたいかについての会話より。ミモザを贈る日は過ぎてしまったが、遅れてでも今年も贈りたいとのこと。母親は患者が小さい頃から厳しくて怒っているイメージしかなかったが、心配ゆえだったのかもしれないと言う。彼の母国で今年のミモザは遅咲きだといい。長く咲いているといい。

【看護記録】****年**月**日 病日26日目 記載者:〇〇
桜の開花が始まっている。患者の病室の窓から見える位置の桜はまだの様子。
本日の検査で2回目の陰性が確認される。医師とともに患者に報告。大使館にも連絡し、4日後に退院、1週間のホテル滞在ののち帰国となるとのこと。

【看護記録】****年**月**日 病日27日目 記載者:〇〇
(翻訳機使用しての会話にて)
「病院の人にお礼が言いたい。手紙を書きたいけれど、部屋から持ち出せないし、どうしたらいいだろうか」
本人より上記希望あり。感謝の意を代わりに伝えると申し出るが、どうしても自分の言葉で伝えたいと。
患者と相談の上、下記方法にて手紙作成
・病室で書いた手紙を翻訳機にて口頭で日本語訳
・看護師が入室時に日本語訳した文章を記憶(覚えられる範囲で可)
・隔離区域外にて文書に記録する
・数回に分けて記憶・記録を行い、手紙の完成を目指す



 退院の日はよく晴れた日だった。風が少し吹いていた。P H Sに師長から大使館の職員が到着したと連絡が入る。トトの病室の前で防護具を着ていないのは何となく変な感じがする。ノックをしていつも通り扉を開ける。
「オハヨウ」
トトが笑う。やはり病室のそとに出られるのが嬉しいのだろう。色素の薄い瞳がいつもよりキラキラと輝いて見える。トトの国の言葉で挨拶を返す。
−−迎えが到着しました
翻訳機に話しかけてボタンを押すと異国語が流れる。
掌を上にして手招きをする。『ついてきて』の意味。
−−君はそんな髪の色をしていたんだね。
廊下を歩きながら話す。機械越しの会話はいつもと同じなのに、トトが廊下にいて、自分は防護具を来ていない。二人とも何だか少し緊張している。
業務用のエレベーターで地下まで降りる。正面玄関ではなく、業者用の出入口が大使館の職員との待ち合わせ場所である。見送りは今日の受け持ち看護師である彼女一人である。
−−君たちは本当に親切だった。優しくて、暖かくて、安心する。閉じ込められて不安だったことも、寂しかったこともあったけれど、楽しかったことも嬉しかったこともたくさんあった。忘れないよ。
彼女は他の看護師や医師にも必ず伝えると言って、大判の封筒をトトに渡した。
−−メッセージボードです。よければ持って帰ってください。
−−誕生日の時のかい?ありがとう。
トトは受け取って早速封筒から色紙を取り出した。
−−もう全部覚えたよ。これがアヤので“素晴らしい一年を過ごせますように”って書いてある。その隣がユキ、“私が選んだケーキを気に入ってくれると嬉しい”。こっちはドクターヒロ、……
メッセージはほとんどが日本語で書かれている。英語で書いてあるのは医師のものくらいであった。それなのにトトは貼られたメッセージカードを指差しながら一つ一つ読み上げる。毎日看護師にねだって口頭で訳してもらっては暗記したらしい。読み終わって訳が間違ってないか尋ねられる。彼女は頷いてから色紙をひっくり返した。
“トト 退院おめでとう お元気で”
裏面には退院のメッセージと桜の樹の絵が描かれている。桜の花びらは看護師や医師みんなで描いたから大きさが違ったり歪なものもある。メッセージの意味と絵をみんなで描いたことを説明するとトトは殊更嬉しそうに笑って色紙を撫でた。
車が入ってきて、大使館の職員であろう人がトトに声をかける。もう出発らしい。船から持ってきて、院内で保管していたトトのスーツケースがトランクに積み込まれた。
トトが手を差し出す。握手がしたいらしい。掌を重ねるとギュッと思ったよりも強い力で握られた。
「ア、リ、ガ、ト、ウ」
その後、彼は母国語で短い言葉を話した。機械を介していないから正確な意味はわからないが、挨拶だろうか。
「さようなら、トト。元気でね」
車の出て行った通用口の桜は満開だった。



僕に親切にしてくれた病院の人たちへ
最初、言葉が通じなくて不安だった。病気がどうなるのかわからなくて怖かった。
たくさん話しかけてくれて、言葉は通じないのに仲良くなれて嬉しかった。
誕生日を祝ってもらったのはびっくりした。最高に楽しい日だった。
みんな“外国人の患者”じゃなくて、“トト”として僕を見てくれて。それが一番嬉しかった。
僕の国では春に感謝を込めてミモザを贈る。ここの国では桜の春だけど、僕はミモザの春の国の人なので、ミモザを贈りたいと思った。
いつかまた世界が繋がることができたら、僕が日本に行けたなら、みんなに会えたなら、きっとミモザを渡しに行きます。
優しい皆さんへ感謝を込めて
トト

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