貝殻と姫様
浜の砂は踏みしめるとキュッキュッと不思議な音がした。アキは首にかけたお守り袋を弄びながら浜辺を歩んでいた。海は青にほんの少し緑を混ぜたような色で透き通っている。砂浜も白く輝くようだ。アキがこの間まで住んでいたところも海岸が近くてこうして遊べる浜があったけれど、この浜の方がずっと綺麗だった。しかしアキは音を立てて砂の上を歩きながらずっと浮かない顔をしていた。
先日この街に引っ越してきたばかりで、アキにはまだ一緒に遊ぶ友達もいない。浜で遊ぶときはコトちゃんといつも一緒だったから、ひとりでいるのは落ち着かなかったしひどく寂しかった。
アキが住むことになった家はおばあちゃんの家だ。小さい時に何度か来たことがあったらしいが、うっすらとおばあちゃんのことを覚えているだけだった。縁側で貝殻を鳴らして遊ぶアキを覗き込んで、おばあちゃんは綺麗な貝殻だねと微笑んだ。コトちゃんとの思い出の大切な宝物なんだと話すとおばあちゃんはよくわかってくれて、持って歩ける様にと首から下げられる長い紐のついたお守り袋を縫ってくれたのである。お母さんはアキが大切にしているおもちゃや宝物の価値をいまいち理解してくれない時がある。そんなときは大人ってどうして子供の気持ちがわからないんだとヤキモキした。でもおばあちゃんはすんなり気持ちをわかってくれてアキは嬉しかった。大人がみんなこうだといいのになと思う。
コトちゃんとは小学校に上がってから一年生の時も二年生になってからも同じクラスで、家も近かった。まだ低学年だから子供だけで海に入ることは禁止されていたけれど、田舎の海辺の町には公園なんていう子供のための場所はなくていつも浜辺で遊んでいた。
アキが引っ越してしまう前の日にも二人で手を繋いで砂浜に降りた。貝殻を拾って、特別綺麗なものをそれぞれ二つ選んで片方をお互いに交換した。
「かなしきときは」
「貝殻鳴らそ」
教科書に載っていたその詩を読みながら手の中で貝殻を転がして別れを惜しんだ。
「この近くにも浜があるんだよ。アキちゃん、行ってみたら?」
おばあちゃんに勧められてもアキはあんまり遊びにいく気にはなれなかった。グズグズと立ち上がろうとしないアキにおばあちゃんは急かすことはせず、ゆっくりと隣に腰掛けて浜にまつわる話を聞かせてくれた。
「あの浜はね、姫様の浜なんだよ」
昔、浜にひとりの姫様が流れ着いた。遠くで戦があって、船で逃げる時に波に流されて海に落ちてしまったのだ。琴を抱いていた姫様は沈んでしまわずに陸にたどり着くことができたのである。浜辺の村の人たちの手厚い介抱のおかげで、姫様は元気になっていった。助けてもらったお礼に姫様は毎日村人たちに琴を弾いて聞かせた。村人たちは優しい姫様が大好きで幸せに暮らしていたのだが、そのうち姫様は病気になって亡くなってしまった。村人達は大層悲しんで懇ろに弔ってやった。すると浜の砂が琴の音のように鳴るようになったそうだ。
そんな昔話を聞いてアキは浜に行ってみる気になったのである。
アキが入った浜の入り口から、少し進んだところに姫様の石碑はあった。思ったより大きい。多分大人の身長よりも高い。石碑の前にアキのお腹くらいの高さの石の台があった。お賽銭を供える台のように見えた。しかし、近づいてみると供えられているのは硬貨ではなかった。貝殻。白い貝殻がいくつも置かれている。
かなしきときは 貝殻鳴らそ。
コトちゃんと読んだ詩が思い出される。
「これだけたくさんあったら、悲しいことがあってもきっと大丈夫だね」
アキは知らず石碑に語りかけていた。浜にも石碑の周りにも誰もいなかったからかもしれない。普段のアキなら石碑に話しかけるなんてしなかったから。でも自然とそのときは目の前に姫様がいると思えたのだ。姿は見えず、声も聞こえないけれど、見慣れない子供のアキを興味深げに観察しているような気がしたのである。
「姫様あのね、私、引っ越してきたの。アキっていうの」
この浜綺麗なとこだね。貝殻とね、シーグラスを拾ったんだよ。『貝殻』っていう詩があってね……。
石碑の前に座って夢中で話をした。コトちゃんのこと、おばあちゃんに姫様の話を聞いたこと。『貝殻』の詩も読んで聞かせた。
気がつけば夕方になっていた。海も空も茜色に染まっている。今日はよく晴れているから、もう少しすると水平線に沈む見事な夕陽が見られるだろう。
アキは立ち上がってお尻についた砂を払った。陽が沈めば途端に暗くなってしまう。その前に帰らなければ。
「お話聞いてくれてありがとう姫様」
石碑に近づいて、首にかかっているお守り袋を開けて貝殻を取り出す。アキが拾った真っ白の貝殻と、コトちゃんにもらった一筋ピンク色が入った貝殻。アキは白い方を右手に握って差し出した。
「これね、前にいたところで拾った貝殻なの。姫様にあげるね」
台に握っていた貝殻をそっと置くと他の貝殻と触れ合って清しい音が小さく鳴った。
お守り袋にはコトちゃんの貝殻と今日姫様の浜で拾った貝殻を入れた。大切なお守りがもっと大切なものになった気がする。きっと私も大丈夫だと、そう思えた。
またねと手を振って、アキはまた砂を踏んでいく。来る時よりもキュッキュッの音が弾んで聞こえた。
その夜、アキは夢をみた。とても怖い夢だった。
日が沈んだ暗い道を何かを抱えて歩んでいると、低く恐ろしい声が「壊せ、壊せ」と言うのである。夢の中のアキは抱えているそれを壊さなければいけないことを理解していた。でも、それはとても大切なものだったから壊したくなんかなかった。逃げるように早足で進んでも、声は追いかけてくる。
壊さなくては。壊したくない。
どうしたらいいか分からなくなってアキはとうとう足を止めた。腕の中にあるものを抱え込むようにしゃがみ込む。悲しくて仕方がなくて、泣き出しそうだった。
その時、胸元で何かが揺れた。お守りだ。ひとりでに貝殻がからんと鳴った。もう一度、からん。
座り込むアキの後ろから、両腕が伸ばされて優しく肩を抱かれる。白く細い、柔らかい腕。小さく蹲るアキを、小鳥をそっと抱くように、その掌が掬い上げた。優しい優しい掌。
そうして目が覚めた。貝殻のお守りを握り締めたままだった。
朝、夢のことを話すとおばあちゃんは目を細めて笑った。
「嬉しかったんじゃないかい?お話を聞かせてくれて、貝殻をもらって。助けてくれたんじゃないかな」
そうなのかな、そうだったらいいなとアキは思った。
作中引用:新美南吉『貝殻』、琴ヶ浜 琴姫伝説
北原久仁香さんによる『貝殻』の詩の朗読です。