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ユグノー戦争とブルボン絶対王政

フランスの絶対王政は、スペインやイギリスに比べて約50年遅れてスタートします。この遅れは、フランス内部でユグノーとカトリックの戦争が続いた結果、他の国よりも遅れて王権が強まったからです。今日は、ユグノーの広がりと、ブルボン朝によるフランス絶対王政について、共有させて頂きます。

今回の教材 / ユーテラ世界史

今回の題材について、学んだ教材は、「ユーテラ世界史 / ユグノー戦争とブルボン絶対王政」です。今回も佐藤幸夫先生が、家系図を使って、分かりやすく解説されています。後半部分に、メディッチ家出身のの二人の王妃について語れています。フランス・イタリアを観光する際の見識が広がります。ぜひご覧ください。

フランスにおけるユグノーの影響

16世紀に始まった宗教改革、特にスイスで広まったカルヴァン派の影響は、フランス国内にも浸透していきました。カルヴァン派は、都市の知識人や中産市民層、さらには地方と宮廷の貴族に支持され、ユグノー(Huguenot)と呼ばれるようになりました。この時期、ユグノーはフランス全体で約1割の人口を占めるに至ります。


カトリーヌ・ド・メディシスによる王権拡大の野望

ユグノーは貴族勢力の支持を受け、フランス国王からも一定の理解を得るようになりました。これに対し、カトリック教徒の中でも強い影響力を持つ貴族、ギーズ公を中心とした勢力との対立が深まります。

当時、フランス王国はヴァロワ朝の時代であり、当時のフランス王妃であるカトリーヌ・ド・メディシス(アンリ2世の妃)は、幼少の国王を補佐する摂政として国政を取り仕切り、両宗教の争いを巧みに煽りながら、王権強化を目指していました。

ユグノー諸侯とカトリック諸侯
ユグノー側の代表的な人物としては、ナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)、アンリ3世、コリニー提督、が挙げられます。
一方、カトリック側では、ギーズ公アンリが中心となり、対立が激化します。

ユグノー戦争/登場人物

カトリックとユグノーの争いの激化と終焉

カトリック派によるユグノー派の虐殺が始まります。

1562年: ヴァシーの虐殺(ギーズ公アンリによる虐殺)
1572年: サン・バルテルミの虐殺(ナヴァール公アンリとマルグリッドの結婚式の日に、カトリックがユグノー派を虐殺)

その後、ギーズ公アンリとアンリ3世がそれぞれ暗殺され(3アンリ戦争)、ブルボン家のナヴァール公アンリ(後のアンリ4世)が新たなフランス王として即位しました。これ以降、ブルボン朝が始まります。

改宗を繰り返したアンリ4世
従来からユグノー派であったアンリ4世は、カトリックに改宗して命を許され、その後再度ユグノーに改宗。しかし、フランス王として即位する際に再度カトリックに改宗しました。この一連の改宗は、アンリ4世の政治的な機転といえます。

ナヴァール公アンリの改宗の歴史

ナントの王令(1598年)

新たに王に即位したアンリ4世は、ユグノー派に信仰の自由を認め、彼らの反発を招かないよう配慮しました。しかし、カトリックの反発を避けるため、ユグノーに対してもカトリックと同じ祝日や税制を適用するという条件付きでした。これにより、ユグノーはカトリックとほぼ同等の権利を享受することが認められました。

ナントの王令後のフランスと絶対王政の始まり

ユグノーに信仰の自由を与えたアンリ4世は、最終的に狂信的なカトリック教徒に暗殺されます。しかし、ユグノー派とカトリック派の対立は続くこととなります。アンリ4世の死後、その王妃であるマリー・ド・メディシスは幼い国王の代わりに摂政となり、フランスの絶対王政の基礎を築くことになります。

フランス古都:ナント

ナントは、ナントの王令が発布された歴史的な都市で、ロワール川沿いに位置し、現在も観光地として知られています。

ローマ時代から川を利用した交易地として栄え、15世紀にはブルターニュ公国の中心地として、ブルターニュ公爵城が現存しています。中世の面影を色濃く残すナントは、歴史を感じさせる魅力的な街です。

また、食文化では、豊富な海産物やフランスワインを楽しむことができ、訪れる人々を魅了しています。次回は、ぜひ思い切り食を堪能したいと思います。

ナント/ロワール川からの眺め

最後に:悲しい宗教の争い

中世以降ヨーロッパの宗教に関わる、虐殺の歴史は事実として受け止めなければなりません。とても悲しい出来事ですが、現在に生きる私たちは、それらを素直に受け止め、過去から学ぶことを続けなければならないと、改めて感じた学習でした。

最後まで読んで頂いてありがとうございます。ヨーロッパの歴史を学び、これからもたくさんの場所を訪ねてみたいと考えます。

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