デザイナーは社会の「必要」を嗅ぎまわる
「デザインも広告も水物商売だからね。」
10年以上前でしょうか。クライアントとの打ち合わせの帰り道、一緒に動いていたクリエイティブディレクターが発した言葉です。「デザイン」は私の仕事、「広告」はそのクリエイティブディレクターの仕事を象徴してのコメントです。シニカルな自虐とも取れるし、覚悟の現れとも取れる複雑な言葉でした。
水物商売というのは、市場の潮流や景気に依存するような商売。見通しが立ちづらく収入が不安定な仕事のこと。
水物商売。実際に当時の私はまったく同じ考えを持っていて、その言葉に同意したことを覚えています。デザイナーであることの不安と決意が、奇しくも水物商売という言葉にピタッと当てはまる。そんな感覚でした。
デザインの仕事は必要か?
クリエイティブディレクターは続けました。
「デザインがなくても一応社会は回る。広告がなくても生活は回る。」
医師不足も、教員不足も。深刻な社会課題として報道される。農業の担い手がいない。保育士の数が足りない。ドライバーが足りない。誰もが知るところの課題です。
でも、デザイナー不足が社会課題として取り沙汰されることはありません。デザイナーがいないから製品を作れない。広告を出せない。社会にとって損失だ。こんな話は聞いたことがありません。
また、私が所属するデザイン会社コンセントの当時の業績を見ても、デザインが水物商売であると示すように、景気の影響をもろに受ける構図となっていました。
多くの企業は業績が落ち込むと広報や広告の費用を削りました。新規事業への投資も鈍りました。景気が下降気味になると真っ先に削減されるのが広告やデザインの領域でした。
景気のあおりを受ける形で、デザイン会社は営業努力とは無関係に業績が落ち込むこともありました。デザイナー個人の収入が変動することはありませんでしたが、会社の売上の波を見ていると個人のキャリアに不安を感じることもありました。
デザインは「なくても良いもの」だから、都合が悪くなったらお金がササっと引いていく。デザインは「あったら良いもの」だけれども、「なくてはならないもの」ではない。不本意ながらも、社会からのそんな無言のメッセージが、目に見える数字として私を圧迫していました。
水物商売ではなくなった
現在は状況が変わりました。デジタル化をひとつの起点に、デザインは企業にとって常に不可欠なものになりました。デジタル接点での体験や印象の巧拙が、企業の業績に強い影響を与えることになりました。
デザインへの投資は、景気動向によって調整される付随的な費用というものから、事業経営に欠かすことのできない固定費としての役割に変化していきました。
業績に応じた調整弁のような外部費用として、デザイン会社に依存するのではなく、企業はデザインを内製化し、その力の蓄積によって競争力を高めようとする動きが活発になりました。
デザイン会社の視点から見ても、企業のデザイン内製化により需要が減退することもなく、むしろ内製化した組織を下支えするような新たな需要が伸長し、業績の安定性は大きく改善されました。デザイン需要そのものが増えたことも相まって、かつての売上の不安定さは消えていきました。
デザインは水物商売ではなくなったように見えます。
必要を探すこと、未来に敏感であること
念のために言いますが、私は「水物商売」を否定的には捉えていません。人間の生存に直接影響がないような、たとえば芸術文化に関わるような仕事は多分に水物商売的でありますし、だからこそ込められる美学が存在します。むしろ畏敬の念を抱くほどです。
クリエイティブディレクターはさらに続けました。
「デザインも広告も水物商売だからこそ、突出しなければ仕事はない。もしくは、社会に必ずしも必要ではないからこそ、今の時代に何が必要なのかを常に嗅ぎまわっていなければいけない。ふわふわと漂う不安定な存在だからこそ、次なる未来に敏感でなければいけない。」
デザインは水物商売ではなくなったと言いました。企業と生活者の間にデジタルが介在する以上、そこにデザインが不可欠であることは今後も変わらないことと思います。デザインが、企業にとってなくてはならないものになったというのは不可逆な変化だと思います。
ただ、ここで言うデザインとは、テクノロジーと人間との間を調整するような概念であって、UIデザインやグラフィックデザインというような具体的なスキルのことではありません。人を起点に企業と生活者の関係を構想する手段であって、それを叶える個別のアクションのことではありません。
個別のデサインスキルは発展と陳腐化のサイクルを繰り返します。今もてはやされるスキルもだんだんと価値が落ち、いずれは必要とされなくなる。現代のデザインスキルが終生必要とされるということはまずありえません。デザイナーはテクノロジーの変化に漂いながら、今の時代にどんなスキルが必要なのかを常に嗅ぎ回っていなければいけません。
デザインする者が経済的に安定したからと言って、そこにあぐらをかいて未来に対して感度を鈍らせてはいけない。眼前の仕事から時代の意義を見出し、そこから未来に繋げていく実感を忘れてしまっては、もはやデザイナーではないのかもしれません。
自分を無価値へ放り投げる
商売としての水物の感覚は、デザイナーの中ではほとんど薄れたものかもしれません。まったくそんな感覚はないという人も多いでしょう。
「デザインも広告も水物商売だからね。」
クリエイティブディレクターの発話は、表面上は浮世に対する諦観のようでありながらも、芯においては「自分たちは必ずしも必要ではないからこそ、社会の必要を見つけ出す」という強い意志が込められたものでした。デザインを取り巻く状況が変われど、今でも噛みしめるべき矜持と言えるものです。
「自分は必要なのか」という問いを自分の頭上に掲げる。「デザインは必要ないのではないか」と鋭角に自分へ突きつける。その姿勢から初めて見えてくる視野と感性がある。
自分の存在意義をふらふらと不安的にするからこそ感じられる未来の視点がある。現代に対する鋭敏な嗅覚を獲得できる。自分をいったん無価値へ放り投げることで、社会への観察力と無限の吸収力を得られる。自らをアウトサイダーと置いてみることで、逆に自分独自の必要性に気づき、言葉にして訴えることができる。
私自身は、デザイナーが持続的に働ける環境を目指し活動をしてきました。人生には安定も必要です。デザイナーが水物商売から脱するというのは喜ばしいことです。ただ、人間というのは矛盾の生き物。水物商売の、水物根性なる感覚は忘れてはいけないなとも思い、その感覚が薄れる前に書き残しておきたい。そう思い、今回は記事を書きました。
※今回は、過去と現在のデザイン需要の変遷から見えてくる、デザイナーの考え方の変化に思いを寄せ、記事を書きました。下記の記事では、ビジネス視点からデザイナーが自分を相対視する方法について紹介しています。