《往復書簡》 大崎清夏より②

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金川晋吾さま

 先日は真鶴での取材、お疲れさまでした!

 私のいま住んでいる部屋には1階と2階があります。寝室は2階ですが、泥棒的なものが入ってくる可能性は想像力を活用すれば十分あるし、つい先日も昼間の仕事中に大きなむかでが2階の書斎に侵入してきて、難儀しました。

 物撮りのお仕事のこと。
 ある「物」を「正しく」「写す」というとき、何が「正しさ」なのか、がまず難しそうです。自分の内側でも刻々と正しさというものは変化していそうだし、陶器なんて、どこから見るかによってまったく違う形に見えるし、どの角度からどういう光量で撮影することが「正しい」のかなんて、原理的には誰にも決められない気がします。
 なんとなく、デジタルで細かくデータを補正できるようになればなるほど、正しさを決めるのが難しくなりそうだなと思いました。

 いろんな表現方法があるなかで、金川さんにとってはなぜ、写真だったのでしょうか? そして、文章を書くとき(たとえば日記や、Web連載の文章)は、どんなことを考えながら書いていますか?

 私も常に、自分が何に囚われているのか気になります。いつも、その何かを無理にでも見つけだして、そこからどう逃げようかと画策している気がします。自分の状況を変えるような行動の始まりに、いつも、囚われから逃げることが置かれているような気もします。
 状況が変われば自由になれるのかというと、全然そうでもないけれど、普段とは違う筋肉を動かして身体が伸びるような、清々しい気持ちになることはあります。

 私にとっては、自分を取り囲む状況もまるごと含めて「自分」という感じがするのだけど、金川さんは「自分を取り囲む状況」は「自分」の外側にあると捉えているのかもしれませんね。
 金川さんにとっての「自分」は、どういうものなんだろう?
 「自分」って、どこからどこまでだと思いますか?

 お返事はどうぞゆっくり、必要なだけの時間をとってください。
 もちろん全部の質問に答えなくても大丈夫です。
 私も焦るのがいちばん苦手で、書くのは話すのと違って読み手がいつまでも待ってくれるところが気に入っています。

2019.6.3
海辺より
大崎清夏

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