《往復書簡》 大崎清夏より③
金川晋吾さま
こんにちは。
これを書いている今日は梅雨の晴れ間です。
だんだん本格的な夏が始まってきた感じがします。
昨日、池袋で「プラータナー 憑依のポートレイト」という演劇を観ました。4時間の大作だったのですが、前半と後半の間に休憩があって、どちらも2時間ずつだったのに、後半は前半に比べてすごくあっという間に過ぎました。
主人公はタイの芸術家の男でした。権力を握ること(男を演じること、見る側に立つこと)とその支配下に置かれること(女を演じること、見られる側に立つこと)がさまざまなレイヤーで複雑に描かれて(政治の移り変わり、性欲のもちかた、芸術家として何が成功なのか…とか)、舞台上の情報量がものすごく多いので、何を読みとるかが観客にすごく委ねられている感じの舞台でした。
政治と自分の表現のかかわりについて、普段自分が考えようとしてもうまく考えられないことが、そのまま(若い俳優たちという、何もうまく考えられない人間の身体として)舞台にぶちまけられている感じがして、どきっとしました。
詩を書くとき、実際の出来事や発話された言葉をどのように取りこむかということをいつも考えます。実際の出来事や発言は、なぜか堂々と書ける感じがします(似たようなことを、いつか俳優のムロツヨシさんがNHKの番組で言っていました)。それは、写真を撮る感覚に、もしかしたら近いのかもしれません。
ここ数年、私はずっと行分け詩を書いていたのですが、最近また散文詩が書きたくなってきました。それは先日訪れたロッテルダムで魅力的な散文詩にたくさん触れたこともあるのですが、散文詩という形式のほうが、実際の出来事や発言を取りいれやすいような気がするせいでもあります。
私の詩に登場する出来事には、私の外側で起こった出来事と、私の内側で起こった出来事の要素があって、どちらも私にとっては「実際にあったこと」なわけですが、客観的に見ると、私の内側で起こった出来事は「フィクション」ということになるのかもしれません。内側の出来事を表現するとき、私は、それを何らかの寓話的な出来事に変換して(暗喩にして)表現するという方法をとることが多いです。ひとつの作品を作るときには、内と外の境界をできるだけなくして、同じ平面上に両方の出来事を乗せようとするので、どうしても寓話っぽくなります。
小説は、初めから「フィクション」を書かなければいけない、という力みが自分のなかにあって、必要以上に構えてしまうような気がします。もっと、詩と同じ気分で書いた方が、いい小説になりそうな予感がしていて、いま書いているものは一度全部捨てたいな、という気分に最近駆られています。
言葉が文字として残ってしまう、ということ。私はどちらかというと安心感を感じます。ただ、あとで読んで恥ずかしくなることはあります。基本的には、自分が昔書いたものを読んで恥ずかしくなるのは、自分が変化できている証拠だから、いいことだ、と考えています。
自分の言葉が残ってしまうということに怖さを感じるのは、何か「態度を決めてしまう」ことへの恐怖なんじゃないかな?と想像します。一度書いても、また後で違うと思ったら、それを否定することを書けばいい、と考えると、少しラクになるんじゃないかな、と思うのですが、どうでしょう。
日記を書くときも、金川さんは時間がかかってしまう系ですか?
昨日の帰りに、二村ヒトシさんの『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』という本を買ってみました。何か軽いものが読みたくなって、本屋さんでふと目について。ふだん読まないタイプの本なのですが、意外といろいろ面白いことが書かれていました。
7月8日、数日ぶりの太陽を浴びながら
大崎清夏