見出し画像

日本酒の歴史を簡単にまとめてみました

こんにちは。OSAKANAです。

私は今、日本酒一杯一杯をより深く、より美味しく楽しむための方法を模索しています。日本には1,500を超える酒蔵があり、各蔵が毎年新たな銘柄を生み出している現実を前に、全てを味わい尽くすのは困難です。しかし、それこそが日本酒の魅力を高め、特別な体験を与えてくれるのです。

では、どうすれば一杯一杯を最高の状態で楽しむことができるのでしょうか?保管環境や飲む温度、お猪口の形、最適な肴、さらには飲む人の体調やロケーションといった要因は、確かにその味わいを左右します。しかし、それ以上に重要なものがあるのです。それは、「日本酒に対する知識と経験」――すなわち、感受性です。

「美味しい」と感じるのは舌だけではなく、脳であり、心です。知識を深め、経験を重ねることで、ただの一滴が物語となり、歴史が広がり、そしてその味わいが豊かに響き渡るようになるのです。

これからの人生で私が目指すべきは、単なる飲み方の追求ではなく、人生を彩るドラマティックな物語を紡ぐことです。日本酒に込められた歴史や文化、そしてその背景にある人々の思いを知り、感じることによって、一滴一滴が生きた歴史として蘇り、より深く心に刻まれることでしょう。

その第一歩を踏み出すために、日本酒の歴史を簡単にまとめてみました。


プロローグ:一滴に宿る歴史と魂

朝の光がまだ薄暗い酒蔵の中を満たし、空気は冷たく、どこか厳粛な静けさが漂っています。木桶の中で静かに発酵が進むもろみの香りが蔵全体を包み込み、古びた柱や梁にまで染み渡っているようです。杜氏たちは早朝から仕込みに取り掛かり、まるで一心に祈りを捧げるかのように、丁寧に米を蒸し、麹を混ぜ、そして待ちます。彼らの手には、代々受け継がれてきた技と知恵、そして魂が宿っているのです。

「一滴一滴に意味があるんだ」

そう呟きながら、杜氏は小さな柄杓で酒の一滴をすくい、静かに味を確かめます。その顔には安堵と緊張、そして何百年にもわたる伝統を守り続ける誇りが表れています。彼らが造り上げる酒は、単なる飲み物ではありません。それは、遥かなる過去から受け継がれてきた歴史そのもの、そして日本人の心に深く根付いた文化の象徴なのです。

今、あなたが手にしているこの一滴の日本酒にも、古代から続く長い物語が宿っています。須佐之男命が神々と共に戦った神話の時代から、平安貴族が華やかな宴を彩った雅な時代、そして江戸の町人が笑い合いながら酒を酌み交わした時代まで。日本酒は、時代を超えて人々の生活の中に息づき、喜びや悲しみ、そして希望を分かち合ってきたのです。

しかし、この酒が辿ってきた道のりは決して平坦なものではありません。戦乱や災害、そして時代の変化に翻弄されながらも、日本酒はその姿を変え、進化を遂げてきました。伝統を守りながらも新たな技術を取り入れ、今では世界中で愛される銘酒へと成長しています。

さあ、これから始まるのは、日本酒が辿ってきた悠久の旅路の物語です。神話から現代へと続くその歩みを共に辿り、そこに込められた人々の情熱と創意工夫を感じていただければと思います。一滴の酒が、あなたを遥か昔の物語へと誘い、そして未来への希望を語りかけてくれることでしょう。

今、手にしたこの一杯の中に、どんな物語が詰まっているのか。さあ、その物語に耳を傾けてみてください。

第一章:神話の幕開け – 弥生時代 日本酒の誕生

八塩折之酒 – 須佐之男命の勇壮な物語

はるか昔、まだ神々が地上を歩き、人々と共に暮らしていた時代。日本の神話には、勇猛な神々と恐ろしい怪物との戦いが数多く語られています。その中でも、最も有名な物語の一つに、須佐之男命(スサノオノミコト)と八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の戦いがあります。この物語は、単なる勇者の冒険譚ではなく、日本酒の誕生に深く関わるエピソードとして知られています。

須佐之男命は、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟であり、荒ぶる神として恐れられていました。彼の激しい性格と行動は高天原(タカマガハラ)に混乱をもたらし、遂には追放され、地上に降り立ちます。彼が辿り着いたのは、現在の出雲地方。そこで彼は、悲しみに沈む老夫婦と美しい娘、櫛名田比売(クシナダヒメ)に出会いました。

老夫婦の語る悲劇は、八岐大蛇という巨大な怪物が毎年、一人の娘を生贄として要求し、すでに七人の娘が犠牲になっているというものでした。今度は末娘である櫛名田比売がその生贄となる番でした。須佐之男命は、この悲惨な運命を断ち切るため、八岐大蛇と戦うことを決意します。

しかし、八岐大蛇はただの怪物ではなく、八つの頭と尾を持つ巨大で恐ろしい存在でした。普通の手段では太刀打ちできないことを悟った須佐之男命は、知恵を絞り、ある策略を立てました。それが、「八塩折之酒(ヤシオリノサケ)」という特別な酒を作り、大蛇を酔わせて倒すという作戦です。

須佐之男命は、八つの大きな桶に強い酒を満たし、それを八つの門に配置しました。八岐大蛇はその香りに惹かれ、やがて酒を一滴残らず飲み干しました。酔いにより力を失った大蛇は、そのまま眠り込んでしまいます。その瞬間を見計らい、須佐之男命は剣を振り下ろし、大蛇を討ち取ることに成功したのです。

この時に生まれた「八塩折之酒」は、ただの酒ではありませんでした。それは神々の知恵と力が宿る特別なものであり、この物語は日本酒の神聖さとその起源を象徴するものとして語り継がれてきました。

この神話は、単なる古代の伝説ではなく、日本酒がどのようにして人々の生活に入り込み、信仰と共に歩んできたのかを示す重要な物語です。須佐之男命が八岐大蛇を退治した勇壮なエピソードは、日本酒が持つ力と、その背後にある深い歴史を物語っています。酒が神々と人間を繋ぐ神聖なものとして尊ばれてきた理由が、ここにあるのです。

御神酒 – 神々と人間を繋ぐ酒

古代の日本列島において、酒造りの技術は神秘的な力を宿すと信じられ、人々の生活と深く結びついていました。その中でも、特に注目すべきは、応神天皇の時代に百済から渡来した須須許理(ススコリ)の登場です。

この須須許理という人物は、朝鮮半島の言葉で「スルコリ」と呼ばれる、酒造りを生業とする者を指す名前に由来すると伝えられています。彼が醸した「大御酒」は、まさにこの時代における酒造りの技術の集大成であり、朝鮮半島から伝えられた技法を駆使して造られたものであったと考えられます。この大御酒は、発芽米(糵)を用いたものであったと推測され、その芳醇な香りと味わいは、天皇をも魅了したことでしょう。

一方で、『日本書紀』には、応神天皇が吉野を訪れた際、地元の氏族である国主(国樔・くず)が「醴酒(こざけ)」を献上したという記述が残されています。この醴酒は、たった一夜で仕込まれる「一夜酒」や「甘酒」であったとされています。すでにこの時代、朝鮮半島からの技術が都を超えて広まりつつあり、各地で独自の酒造りが行われていたことがうかがえます。また、これが日本国内で発展した酒造りの技法である可能性も考えられ、古代の酒造りにおける多様性が垣間見えます。

新嘗祭という神聖な農耕儀礼においても、酒は重要な役割を果たしました。『日本書紀』には、「その田の稲をもって、天甜酒(あまのたむさけ)を醸みて…」という記述があり、この天甜酒も一夜酒の一種であったと考えられます。若干のアルコール分を含むこの酒は、神々への供物として捧げられ、その神秘的な力で人々を守護すると信じられていました。

このような一夜酒が発酵し、「御神酒(おみき)」へと進化していったのかもしれません。『古事記』には、「御綱柏の葉に大御酒を盛る」という描写があり、当時の酒がどれほど粘り強く、濃厚であったかを物語っています。

古代の日本酒は、現代人が想像する姿かたちとはかけ離れていましたが、その文化は現代まで脈々と受け継がれているのです。

口噛み酒 – 古代人と自然(神々)の調和

御神酒の歴史を遡ると、その原初の形は驚くべき方法で作られていました。古代の日本人は、現代のような精密な酒造りの技術を持っていませんでしたが、それでも自然の力と人間の知恵を駆使して、酒を生み出していました。その中でも特に注目すべきは、「口噛み酒」という非常に独特な製法です。この口噛み酒は、古代の祭りや儀式で重要な役割を果たし、人々と自然、そして神々を繋ぐ神聖な飲み物として存在していました。

口噛み酒は、その名の通り、口で噛んで作られる酒です。古代の集落では、若い女性たちが集まり、神聖な儀式の一環としてこの酒を作りました。彼女たちはまず、米や雑穀を口に含み、しっかりと噛んで唾液と混ぜ合わせます。唾液にはアミラーゼという酵素が含まれており、これがデンプンを糖に分解します。噛んだ後、その米や雑穀を器に吐き出し、自然に発酵させることでアルコールが生成されるのです。

このプロセスは、まさに人間の身体と自然の力が一体となって生まれるものであり、口噛み酒が持つ神秘性を象徴しています。噛む行為自体が、米や穀物に命を吹き込むような儀式的な意味を持っていたのです。

口噛み酒は、古代の祭りや神事で非常に重要な役割を果たしていました。収穫の感謝を捧げる秋の祭りや、新たな生命の誕生を祝う春の祭りなど、季節の移り変わりと共に行われる儀式で、この酒は神々への供物として捧げられました。また、村人たちが口噛み酒を分かち合うことで、共同体の絆を深め、自然と共に生きる感覚を共有しました。

口噛み酒を作る際には、特定の女性たちが選ばれました。彼女たちは神聖な存在とされ、酒造りの儀式を通じて、村全体が神々の加護を得ることを祈願しました。噛んで作られた酒は、神聖な力を宿すものとして扱われ、これを飲むことで神々との交流が図られると信じられていたのです。

口噛み酒は、古代人にとって自然と調和する象徴的な行為でした。彼らは、自然の恵みを最大限に活用しながら、その力を神聖なものと見なしていました。米や穀物は自然から与えられた貴重な資源であり、それを噛むことで人間の身体が自然の一部となり、神聖なエネルギーを生み出すと考えられていたのです。

また、口噛み酒を通じて、古代の人々は自然と人間が共生する世界観を具現化していました。自然の循環に感謝し、その恩恵を尊重することで、彼らは平和で豊かな生活を築くことを目指していたのです。

日本酒を造ることを「醸(かも)す」と呼ぶのは「噛す(かみす)」に由来するとも言われているほか、「かむ・かもす」は「神」にも語感が似ており、古代の人々は、米の収穫や、自然の作用による発酵を、神からの恵みとして感謝し、「口噛み酒」を神様に捧げていたのでしょう。

現代において口噛み酒は、実際に作られることはほとんどありませんが、その歴史的・文化的な意義は再評価されており、「君の名は」という映画でも象徴的に表現されています。

口噛み酒という原始的な酒造りの方法は、日本酒がどれほど古くから日本の文化や宗教に根付いていたかを示す象徴的な存在です。古代人が自然を敬い、その力を借りて生み出したこの酒は、現代に生きる私たちにも、自然との調和と感謝の心を思い起こさせてくれることでしょう。

第二章:麹との出会い – 飛鳥・奈良時代の革新

稲作の普及 – 日本酒と国家

飛鳥時代、日本列島に大きな変革が訪れました。それは、稲作の普及と米による徴税という歴史的な出来事です。稲作の普及は、日本人の生活様式を根本から変えただけでなく、日本酒の進化にも大きな影響を与えました。

稲作は縄文時代に、中国大陸から朝鮮半島を経て、日本に伝わったとされています。この新たな農耕技術は、九州地方を中心に急速に広まり、徐々に日本全土に広がっていき、日本社会に大きな変革をもたらしました。それまでの狩猟採集や雑穀栽培に依存していた生活が、稲作の導入によって劇的に変わりました。

稲作の導入は、豊かな穀物を安定して供給する基盤を築き、日本社会を農耕を中心とする定住型社会へと進化させました。米は次第に人々の主食となり、社会の中心的な役割を果たすようになりました。この変革は、社会構造の変化だけでなく、文化や信仰にも大きな影響を与えました。

米が主食として定着すると、それに伴って米を使った酒造りが発展しました。古代の日本人は、米を発酵させて作る酒が、以前の雑穀を使った酒よりも豊かな香りと深い味わいを持つことに気付きました。こうして、米を原料とした酒造りが本格的に始まり、やがて日本酒の基礎が築かれていったのです。

「班田収授の法」という、米による国家統制が確立した飛鳥時代においては、宮内省という国家の中枢に酒造りを生業とする役所を作り、朝廷内のための酒造り体制を整えることで、朝廷で行われる酒宴が増え、政(まつりごと)と酒のつながりはより強まっていきました。

必然的に酒造りに多くのリソースを注ぎ込むこととなり、革新的な技術が生まれていく様になります。

日本酒の革新 – 麹を使った酒造り

日本酒の原型とも言える「米麹(こめこうじ)」を使った酒造りの最初の記録は、奈良時代、8世紀前半の『播磨国風土記』に見ることができます。716年(霊亀2年)に編纂されたこの書物には、「大神の御粮(みかれい)沽(ぬ)れて糆(かび)生えき、すなわち酒を醸さしめて庭酒(にわき)を献りて宴しき」とあります。ここで語られるのは、大神へのお供え物として用意された蒸米が乾燥し、そこにカビが生えたことで、酒が生み出されたという神秘的なエピソードです。

この記述は、当時の日本において、カビが生えた米、すなわち「麹」の原型が既に広く知られ、酒造りに用いられていたことを示しています。麹の使用による酒造りの技術は、水稲耕作と共に日本に伝来したとされ、その技術がいかにして定着したかを物語っています。

米麹は、米に「麹菌(こうじきん)」を繁殖させたもので、酒造りにおいて非常に重要な役割を果たします。麹菌は、米のでんぷんを糖に分解する酵素を生成し、この糖が発酵によってアルコールに変わることで、日本酒が生まれます。米麹の導入によって、発酵が計画的に管理できるようになり、安定した品質の酒が作れるようになりました。

奈良時代には、各地で編纂された「正税帳」という公文書に、様々な種類の酒が記録されています。この正税帳には、清酒(すみさけ)が滓(おり)と対比して記載されており、これは上澄みや布で濾過された酒であったと考えられます。また、濁酒、白酒、粉酒、辛酒、醴酒(あまざけ)など、多種多様な酒が記録されていますが、仕込みの配合や詳細な製法は残されていません。

飛鳥時代から奈良時代にかけての酒造りの道具としては、奈良県桜井市の山ノ神祭祀遺跡から出土した竪臼・竪杵、米を蒸すための甑(こしき)、須恵器の壺や甕(かめ)などが考えられています。これらの道具を使い、蒸した米に適した水分条件でこうじ菌を育てる技術が発展したのです。

しかし、この時代、農民に対して度々禁酒令が発令され、庶民、特に農民が自由に酒を飲むことは許されていませんでした。庶民が手作りの酒を飲むことができたのは、農耕儀礼や神への供物、特定の市場の開設時、官衙(かんが)での給酒など、限られた機会に限られていました。基本的に庶民が飲む酒は濁酒であったとされています。

7~8世紀に編纂された『万葉集』には、酒を題材にした歌がいくつか収録されています。その中の一つ、大伴旅人が詠んだ「君が為醸(か)みし待酒安の野に独りや飲まむ友無しにして」という歌は、旅人が親しい部下が都へ赴任する際に詠んだ惜別の歌です。この待酒は来訪者のために造られた酒を意味しており、家庭で手作りされた酒だったと考えられます。

また、山上憶良が詠んだ『貧窮問答歌』には、「雪降る夜は術もなく 寒くしあれば堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒…」とあり、ここでの糟湯酒(かすゆざけ)は、ざるや布で濾された酒の糟を湯で溶いたものとされています。これは、貧しい農民が厳しい税の取り立てに苦しみ、上等な酒に手が届かないことを示しており、当時の社会の厳しい現実を反映しています。

この時代はまだ、日本酒は上流階級が嗜むものであったのです。

第三章:朝廷と酒 – 平安・戦国時代の深化

朝廷の酒造り – 国策としての日本酒

奈良時代から平安時代にかけて、日本の朝廷は律令制度のもとで、独自の酒造りを行っていました。これは、当時の朝廷が必要とする様々な物品、例えば紙や筆、染織や漆工と同じように、酒もまた朝廷内の工房で製作されていたことを意味します。

『令集解』という文書には、酒、醴(あまざけ)、そして酢を造る役所として「造酒司(みきのつかさ・さけのつかさ)」の存在が記載されています。ここで造られる酒は、ただの飲み物ではなく、朝廷の儀式や高貴な人々のために醸された特別なものでした。砂糖がまだ極めて貴重であった時代、醴(あまざけ)は甘味料としても使われており、甘さと芳醇な香りが漂うその味わいは、まさに貴族の贅沢品であったことでしょう。

造酒司の中で実際に酒造りを担当する「酒部(さかべ)」という役職には、60人もの職人が従事し、その技術と労力を結集していました。さらに、造酒司のトップである「造酒正(みきのかみ・さけのかみ)」は、正六位上という高い官位を持つ者でなければ務めることができない、まさにエリート中のエリート職であったのです。

平安時代に編纂された『延喜式』には、宮中で造られた酒の製造方法が細かく記録されています。白酒(しろき)、黒酒(くろき)をはじめとして、13種類もの酒が造られており、そのほとんどが天皇や朝廷のためのものでした。

天皇や高級官人のために造られた酒には、何度も仕込みを行う「醞(しおり)」方式や、糵(こうじ)の割合が高く、汲水に酒を使う「醴酒」、さらに、糵(こうじ)と小麦萌(こむぎもやし)を使って造る「三種糟」など、様々な製造方法が用いられていました。

これらの酒は、それぞれの特徴を持ち、甘口で酸味の少ない「御酒」や、甘酒やみりんのような風味を持つ「醴酒」、そして発酵を抑えて糖化を促進させた「三種糟」など、いずれも独自の味わいを持っていました。また、下級役人には「頓酒(とんしゅ)」や「汁糟(じゅうそう)」といった、比較的水の割合が多い酒が提供されていましたが、これらも多くの種類が記録されています。

糵(こうじ)の造り方についても、『延喜式』には「米一石白米ニ糵一斗ヲ加フ」と記されており、「友こうじ」法で製造されたことが伺えます。このように、こうじを用いた酒造りが発展していったものの、現在の酒母に相当する工程はまだなく、その多くはどぶろくと同様の一段仕込みであったと考えられます。

奈良市佐紀町で発掘された平城京の造酒司跡では、甕を土間に埋めて酒造りが行われていたことが確認されており、古代の酒造りの風景が蘇ります。また、平安京の造酒司跡からは、高床式の倉庫跡が発掘されており、当時の酒造りの規模や重要性を物語っています。

こうして、朝廷の酒造りは時代を超えて洗練され、やがて日本酒の基盤を築いていくこととなるのです。

酒造りの民主化– 酒造業の形成と酒税の萌芽

平安時代初期まで、酒造りは朝廷の役所である「造酒司」がその中心となって行われていました。しかし、貴族同士の争いが激化し、国が混乱する中で、造酒司で働いていた技術者たちは次第に流出し、彼らの手による酒造りが市中の酒屋(造り酒屋)や大きな権力を持つ寺院や神社に広がっていきました。

その背景には、地域社会を支えるために、農民が作った米の価値を高めようとする動きがありました。茨城県笠間市の酒蔵である須藤本家株式会社の第55代当主、須藤源右衛門氏は、祖先が酒造りを始めた動機について、「当時のこの辺りの地域の農民が作った米を酒とすることでその米の価値を高め、地域社会を支えるためであった」と語っています。この言葉は、地域の人々が自らの手で未来を切り開こうとした情熱を物語っています。

12世紀末の平安後期、商業が盛んになるにつれて、中世的な酒屋は安定した商人として成長していきました。特に13世紀に入り、鎌倉時代には貨幣経済が広まり、酒は米と同等の経済価値を持つ商品として流通するようになりました。当時の造り酒屋は資本力を持ち、しばしば金融業を兼ねる「土倉(どそう)」としても活動していました。京都をはじめ、奈良、大和、紀伊といった地域にも酒屋が存在し、その勢力は全国に広がっていきました。

鎌倉幕府は1252年(建長4年)に「沽酒(こしゅ)の禁」を発令し、一軒につき一個のみを残して醸造・保管用の甕・壺を破壊させました。鎌倉市内では、37,000個もの甕が破壊されたとされています。しかし、室町時代に入ると、幕府は財源不足を補うために再び酒屋を認め、代わりに壷銭(つぼせん)と呼ばれる税金を徴収するようになりました。1425年(応永32年)には、平安京の京域内外に342軒もの酒屋が存在していた記録が残されています。

その中でも五条西洞院にあった柳酒屋は、規模と酒質の両面で群を抜く存在であり、その名声は広く知られていました。酒屋たちは借金の取り立てや財産を守るために用心棒を雇い、時には武力で自らの地位を守ることもありました。

さらに、造り酒屋はこうじ造りにも進出し、従来のこうじ屋と対立するようになりました。この対立は1444年(文安元年)の「文安の麴騒動」という武力衝突にまで発展し、最終的には京都におけるこうじ屋の衰退と、こうじ座の解散を招く結果となりました。これにより、こうじ造りは酒屋業の一工程として取り込まれ、日本酒造りが一層発展していくこととなりました。

第四章:技術の飛躍 – 室町・戦国時代の革新

寺院の酒造り– 僧坊酒の興隆と技術革新

仏教において、酒の摂取は基本的に戒律によって禁じられています。仏教の「五戒」の中には、「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」と呼ばれる戒律があり、これが酒を飲むことを禁じています。これは、酒が人間の心を乱し、煩悩を増幅させると考えられたためです。

仏教がインドから中国を経て日本に伝わる過程で、その教義は時代や地域の文化に合わせて柔軟に適応されていきました。日本においても、仏教は神道との共存や、日本独自の文化との融合を図りながら浸透していきます。この過程で、酒に対する戒律も一部が緩和されていきます。

中世の日本、神仏習合の時代において、寺院での酒造りは新たな光を浴び始めました。寺院の境内にある鎮守社に捧げる神聖な神酒として、僧侶たちは酒を醸し始めたのです。当初は自家用や贈答用に限られていましたが、15世紀半ば、室町時代の初め頃から次第に商業的規模へと拡大し始めたのです。

特に近畿地方の大寺院で醸造された酒は「僧坊酒」と呼ばれ、その品質と風味は極めて高く評価されました。奈良の興福寺、菩提山正暦寺、中川寺、そして河内(大阪府)の天野山金剛寺や観心寺、近江の百済寺、越前の豊原寺など、数々の名だたる寺院がこの名声を支えました。16世紀、戦国時代に至って、僧坊酒はその最盛期を迎え、日本酒造りの歴史に深く刻まれることとなります。

中世における造り酒屋の技術資料はほとんど残されていませんが、僧坊酒の記録から、この時代に現在の日本酒造りの原型とも言える段仕込みや火入れといった技術が開発されたことが明らかになっています。その一例が『御酒之日記(ごしゅのにっき)』です。この書物は、南北朝時代から室町初期にかけての酒造りの口伝を覚書として書き留めたもので、その冒頭には「能々口伝秘すべし、秘すべし」と、秘密厳守を求める記述がされています。

『御酒之日記』には、天野酒や菩提泉といった酒の製造法が記載されており、これらは酒母造りや火入れが行われていたことを示す貴重な資料となっています。この時代、僧侶たちは冬の厳しい気候の中で、こうじと掛米、汲水を慎重に2回に分けて仕込み、独自の手法で酒を醸していたのです。これは、延喜式で見られる古い醞方式から、新たに酘方式へと進化した、日本酒の三段仕込みの原型とも言えるものでした。

また、「天野酒」と呼ばれる酒は、冬の仕込み方法を特徴としており、玄米を原料に、二段仕込みの手法で醸造されました。この方法では、1回目の仕込みに続いて、2回目、3回目と段階的に仕込みを行い、最終的には甕を2つに分けるという独自の技術が用いられていました。

さらに「菩提泉」は、生酛系酒母の原形とも言える醸造法で、乳酸発酵を利用して酸性条件下で酵母の増殖を促し、アルコール発酵を進めるという手法でした。この複雑な工程は、中国の臥漿(乳酸発酵液)を用いた酒造りに類似しており、留学僧によってもたらされた技術であると推測されています。

『御酒之日記』には、酒を燗するための「飲み燗」「手引き燗」として火入れを行う記述もあり、当時の技術がいかに高度であったかが伺えます。戦国時代から江戸時代初期にかけての奈良の興福寺の塔頭である多門院の僧侶たちが記した『多聞院日記』にも、16世紀後半の酒造りについての記録が残されています。

1568年(永禄11年)や1569年(永禄12年)の記録では、夏酒と正月酒の二種類が造られており、2回または3回の仕込みが行われていたことが示されています。また、こうじ米にも白米を使用する「諸白(もろはく)」の手法が確立され、これが後に「南都諸白」として高く評価され、僧坊酒から奈良の造り酒屋に広まりました。

これらの技術革新と共に、僧坊酒は日本酒造りの伝統を築き上げ、その技術は現代にも引き継がれています。この時代の僧侶たちが試行錯誤の中で生み出した技法が、今もなお日本酒の品質を高め続けているのです。

地方の酒造り– 日本酒戦国時代

1467年、応仁の乱が勃発し、10年にも及ぶ戦乱によって京都全域は甚大な被害を受けました。幕府や朝廷の権威が揺らぎ、信頼が失墜する中、地方の大名たちは自らの勢力を維持し、拡大するために動き始めました。こうして戦国時代が幕を開けたのです。

この時代、全国各地で群雄割拠の状態が続き、地方の文化が独自の色彩を帯びるようになりました。そして、酒造りもまた、その地方ごとに特色を持ち、発展していきました。

それまで京都からは「田舎酒」と軽んじられていた地方の酒が、次第にその存在感を強め、ついには京都にも進出するようになったのです。これを象徴する酒が「西宮の旨酒」、「加賀の菊酒」、「伊豆の江川酒」、「河内の平野酒」、「博多の練貫酒」などでした。

特に「練貫酒」は、もち米を使い、もろみを石臼ですり潰して造られる酒で、その仕上がりは練り絹のような照りを持ち、トロリとしたペースト状の甘口酒でした。この酒は京都の貴族たちに珍重され、戦国大名たちの間でも高い人気を誇りました。

やがて戦国時代後期には、児島(備前)、三原、道後、小倉、伏見、唐津、島原など、大名たちの城下町が次々と名醸地として登場し、日本酒の名声を広めていきました。

しかし、織田信長による「比叡山延暦寺の焼き討ち」に象徴される寺院勢力の弱体化により、それまで高い評価を誇っていた僧坊酒は衰退の一途を辿ります。信長が推進した「楽市楽座」の政策、すなわち関所や通行料の廃止によって商業活動は活発化し、酒の流通も大いに促進されました。経済が動き出す中で、各地の酒が全国に流通し、その評判が広がっていきました。

1552年、安土桃山時代の最中、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、イエズス会の上司へ宛てた手紙の中で、「酒は米より造れるが、そのほかの酒はなく、その量はすくなくして価は高し」と日本酒について報告しています。この一言は、異国の地から見た日本酒の独自性とその価値を如実に物語っています。

さらに1581年、宣教師ルイス・フロイスも「我々は酒を冷やすが、日本では酒を温める」と本国へ書き送っており、この時代から、日本酒がヨーロッパをはじめとする外国でも認知され始めました。

イエズス会の宣教師たちが編纂した『日葡辞書』には、日本酒に関する多くの語彙が解説されており、新酒、古酒、清酒、濁り酒、白酒、練酒、こうじ室、酛、もろみ、添え、酒袋、酒槽など、当時の日本酒文化が詳細に記録されています。

戦国時代は、日本酒が地方で花開き、その多様性と独自性が全国に広がっていった時代でした。

第五章:商業と文化の花開く – 江戸時代の繁栄

酒蔵の興隆– 庶民酒文化の開花

江戸時代は、日本酒が全国的に広まり、商業的にも文化的にも大きな発展を遂げた時代でした。江戸時代初期、幕府は社会の安定と経済発展を目的に、農業や商業の発展を奨励しました。この政策の一環として、酒造りも大いに推奨され、各地で酒蔵が次々と誕生しました。特に、大名や寺院が所有する広大な土地で生産された米を利用した酒造りが盛んに行われました。

酒蔵は、単なる酒の製造場所としてだけでなく、地域の経済を支える重要な拠点となりました。酒造りは農業と密接に結びついており、米の収穫量や品質が酒の生産に直結していました。そのため、良質な米が取れる地域では、酒造りが特に盛んであり、有名な酒蔵が次々と誕生しました。

江戸時代に入ると、酒の流通は劇的な進化を遂げました。かつて酒を入れる容器は壺や甕が主流でしたが、これが木桶や樽へと変わり、より安全かつ効率的に輸送できるようになりました。特に、上方の「摂泉十二郷」と呼ばれる地域は、当時の主要な酒の生産地であり、ここから江戸へと運ばれる「下り酒」は、江戸の酒文化を形作る重要な存在となっていったのです。

初めは馬による陸上輸送が主流でしたが、やがて大量輸送に適した船が登場します。最初は、酒樽を含む様々な物資を積んだ「菱垣廻船」が使われていましたが、次第に酒樽だけを積む「樽廻船」が現れました。これにより、大坂から江戸までの輸送時間は劇的に短縮され、17世紀後半には早くても2週間、平均1か月を要した行程が、幕末には平均10日から2週間にまで縮まりました。この迅速な輸送は、江戸の酒市場を潤し、酒文化の発展に大きく貢献しました。

江戸の街では、江戸酒問屋、酒仲買、小売酒屋といった流通業者が発展し、彼らが酒の流通を支えました。当初、江戸では伊丹や池田の酒が主流でしたが、18世紀半ばを過ぎると、新興の灘、今津、西宮の酒が台頭し、次第にその地位を確立していきました。江戸の街では、これらの「下り酒」だけでなく、地元の地酒や信州の上田酒、尾張の名古屋諸白なども販売され、消費者の嗜好を満たしていました。

一方、関東地方の酒は「地廻り酒」と呼ばれ、灘酒に比べて安価に取引されました。松平定信が寛政の改革の一環として、関東の酒蔵を優遇し、「御免関東上酒」と呼ばれる優良な酒造りを推奨しましたが、期待された結果には至りませんでした。

また、京都においては、室町時代に発展した造り酒屋が技術革新の遅れから衰退し、伏見の一部を除いて徐々に減少していきました。洛中洛外の造り酒屋には、他所から入ってくる近江や伊丹の酒が競合し、京都の地酒の勢力を押しのけていったのです。

江戸時代に一般に販売されていた酒には、清酒(諸白で造られた澄んだ酒)、濁酒(片白で造られたどぶろく)、そして清酒の滓を集めた中汲みがありました。また、江戸中期には、料理茶屋が発展し、武家社会を中心とした飲酒文化が広がりました。同時に、酒の小売店の一角で飲酒できる「居酒屋」が誕生し、庶民も冠婚葬祭に限らず、日常的に酒を楽しむことができるようになりました。

特に、江戸の町では、飲み屋や酒場が賑わい、仕事帰りの人々が集まって酒を酌み交わしながら、日々の疲れを癒していました。こうした酒の場は、情報交換の場としても機能し、町人文化を育む重要な役割を果たしました。

さらに、酒は芸術や娯楽とも結びつきました。江戸時代には、歌舞伎や落語などの娯楽が庶民の間で大いに流行しましたが、これらの芸能の舞台裏でも酒が欠かせない存在でした。役者や芸人たちが酒を飲み交わし、芸の磨きをかけるためのコミュニケーションツールとして活用されました。また、俳句や短歌、浮世絵などの芸術分野でも、酒がインスピレーションの源として重宝されました。

江戸時代の日本酒文化は、庶民の生活にとどまらず、社会全体にも大きな影響を与えました。酒を囲んでの宴会や祭りは、地域社会の結束を強め、社会的なコミュニケーションを促進する場となりました。酒が振る舞われる場は、単なる飲み会ではなく、地域の問題を話し合ったり、助け合いの精神を育んだりする重要な機会でもあったのです。

また、酒は贈り物や社交の場でも重要な役割を果たしました。江戸時代には、商人や武士たちが取引先や上司に酒を贈ることで、信頼関係を築く習慣が広まりました。このように、日本酒は社会的な潤滑油として、さまざまな場面で活用されました。

さらに、貝原益軒が著した『養生訓』において、「酒は、夏冬ともに、冷飲熱飲は宜しからず、温酒を飲むべし」と記され、これが広まったことで、燗をする道具や猪口が一般に普及しました。これにより、庶民もまた、酒を温めて楽しむ文化が根付いたのです。

こうして、江戸時代には酒の流通と消費が大きく発展し、日本の酒文化が一層深まっていきました。江戸の町人たちは、下り酒や地酒を楽しみながら、時に温かく、時に冷たく、酒と共に日々を彩り豊かに過ごしていたのです。

幕府による統制– 杜氏の誕生

幕府は社会の安定と経済の発展を目指して様々な政策を実施しました。その一環として、農業や商業の奨励に力を入れ、特に米を基盤とする経済体制を強化しました。米は江戸時代の経済基盤であり、その生産や流通は厳密に管理されていました。

米から作られる日本酒も、経済的に重要な商品となっていました。日本酒の需要が増加するにつれ、幕府はその商業的価値に目を付け、酒造業を規制しつつ、酒から得られる収益を国家財政に取り入れることを考えるようになりました。

当時、幕藩体制の下で米価の調節は国家財政において極めて重要な課題でした。そのため、大量の米を使用する酒造業は、特に注意深く監視されました。1657年(明暦3年)、幕府は酒造りを免許制とする「酒株(酒造株)制度」を導入し、酒税を徴収しつつ酒造業を統制しました。

酒株制度とは、特定の酒造人にのみ酒を造る権利を与え、その使用する米の量に上限を設けるもので、この上限が「酒造株高」と呼ばれました。しかし、現実には酒造株高を超えて酒を造ることが頻繁に行われており、幕府は「酒株改め」と称して実際の米使用量を調査し、課税を強化することとなりました。

幕府はまた、米が不作の年には「減醸令」や「三分の一造り令」などを発令して酒造りを制限し、豊作の年には「勝手造り令」として制限を緩め、酒造株高の範囲内での酒造りを認め、新規の酒造業者も届け出によって酒造りを許可しました。1698年(元禄11年)には、全国で27,251の酒蔵が記録されており、酒造業の規模がいかに広がっていたかを物語っています。

酒税は、江戸幕府にとって非常に重要な財源となり、国家財政の安定に大きく寄与しました。酒税収入は、公共事業や軍事費、また幕府の運営に必要な経費の一部を賄うために使われました。特に、享保の改革以降、酒税の収入は大幅に増加し、幕府の財政を支える重要な要素となりました。

また、酒税は幕府が経済を統制し、全国的な経済政策を実行するための手段としても機能しました。幕府は、酒税を通じて酒造業者を直接管理し、製造量や品質を統制することで、酒の市場を安定させることができました。この統制は、過剰生産による米の浪費を防ぎ、また市場価格の急激な変動を抑える効果もありました。

さらに、酒税は地方財政にも影響を与えました。各藩は独自の酒税を徴収し、その収入を藩財政に充てました。これにより、藩は酒造業を保護・育成し、地域経済の発展を図ることができました。酒税は、藩の財政を支えるだけでなく、地域社会における酒文化の発展にも寄与しました。

酒税の制度により、酒造業者は幕府からの保護を受けることもできました。免許制の下で、許可を得た酒造業者は市場での競争力を強めることができ、全国的に知られる酒蔵が生まれるきっかけともなりました。特に、灘や伏見などの酒造地域では、幕府の統制と保護のもとで高品質な酒が作られ、これが全国に広まることで地域経済の発展にも繋がりました。

しかし、一方で酒税の重圧に耐えられず、廃業に追い込まれる酒造業者も少なくありませんでした。特に小規模な酒蔵にとっては、酒税の負担が大きく、経営を圧迫する要因となりました。このため、江戸時代後期には酒造業者の淘汰が進み、より大規模で経済力のある酒蔵が生き残り、酒造業界の集中化が進んでいきました。

さらに、1667年(寛文7年)、幕府は秋彼岸頃からの新酒造りを禁止する御触書を出しました。この禁令は何度も出され、次第に寒造りへの集中化が進んでいったと考えられます。寒造りが推奨された理由は、単に酒質が優れるからではなく、その年の米価が安定してから酒造りを行い、必要に応じて減醸令を出すためでもあったのです。

寒造りの普及に伴い、造り酒屋は冬の農閑期や漁業ができない時期に農村や漁村からの出稼ぎ労働者を確保することができるようになり、これが「杜氏制度」の誕生へとつながりました。杜氏とは、酒造りにおける最高の技術者であり、その技術は地域ごとに独自の発展を遂げていきました。

延宝年間(1673〜1681年)には、池田や伊丹などの本場の造り酒屋で、すでに酒造り専門の職人が雇われていた記録が残されています。また、大坂では元禄年間(1688〜1704年)に、越前や越中、越後など北国路筋の農民を出稼ぎ労働者として酒蔵に斡旋する「口入れ屋」が存在していました。

やがて、これら本場で技術を磨いた杜氏や蔵人たちは、地方の造り酒屋に招かれ、技術指導を行うようになりました。こうして、上方流の酒造法が各地に浸透し、それぞれの気候風土に合った独自の酒造りの流儀を持つ「杜氏集団」が次々と形成されていったのです。

例えば、山内杜氏(秋田県山内村)、南部杜氏(岩手県全域)、越後杜氏(新潟県全域)、能登杜氏(石川県能登半島)、諏訪杜氏(長野県諏訪地方)、丹後杜氏(京都府丹後町周辺)、越前杜氏(福井県全域)、備中杜氏(岡山県西部地域)、城崎杜氏(兵庫県城崎郡)、丹波杜氏(兵庫県多紀郡周辺)、但馬杜氏(兵庫県美方郡周辺)、石見杜氏(島根県浜田市周辺)、秋鹿杜氏(出雲杜氏ともいう、島根県松江市周辺)、三津杜氏(広島県安芸津町三津)、熊毛杜氏(山口県熊毛郡周辺)、越智杜氏(愛媛県越智郡周辺)、伊方杜氏(愛媛県伊方町)、芥屋(けや)杜氏(糸島杜氏ともいう、福岡県糸島郡志摩村芥屋)、柳川杜氏(福岡県柳川市周辺)といった各地の杜氏集団は、それぞれの地で個性豊かな酒造りを展開していきました。

江戸の酒造り–現代日本酒の原点

江戸時代前半、日本各地では名醸地が競い合うように酒造りが発展しました。特に大阪から兵庫にかけての伊丹、池田、鴻池などがその中心地となり、これらの地から出荷された酒は、江戸の町でも高い評価を受けました。その中でも、特に伊丹酒は「伊丹諸白」や「丹醸(たんじょう)」と呼ばれ、その品質の高さで名を馳せました。

この時代の酒造りの技術を解説した書物が、『童蒙酒造記』です。この書物は、鴻池で行われていた酒造りの詳細を記録した貴重な技術書であり、当時の酒造りの全貌を明らかにしています。

まず、精米は唐臼を使った足踏み式で行われており、精米歩合は94〜95%と、現在の飯米よりも高い値が計算されています。洗米は半切りで行われ、糠が残ることが品質に悪影響を与えると記されています。蒸しの工程では、三段に分かれた甑で計11石(約1.65トン)の米が蒸され、蒸し米が十分に蒸せたかを確認するために「ひねり餅」を作るという独特の手法が用いられていました。

こうじ室は、保温のために地面を掘り下げて造られた「地室(じむろ)」と呼ばれるもので、蓆(むしろ)が使用されていました。切り返しやこうじ蓋への盛り、こうじの撹拌など、現在のこうじ造りとほぼ同様の作業が行われていたことが記されています。

『童蒙酒造記』には、さまざまな仕込み方法が記載されていますが、その中でも「菩提性仕込み」や「煮酛仕込み」、「寒造り仕込み」といった手法が詳述されています。

「菩提性仕込み」は、旧暦の7〜8月の酷暑でも安定した酒造りが可能な方法で、9月、10月にかけても酒造りが行えるとされています。これは、菩提泉を酒母とし、二段掛けを行う製造法であり、その名の通り、当時の技術革新の象徴といえるものでした。

「煮酛仕込み」は、中秋から秋の末頃にかけて行われ、蒸米とこうじを半切りに仕込み、泡が出始めたら釜で煮続けるという手法です。煮酛を用いたこの方法は、現在の高温糖化酒母の原形とされ、乳酸発酵を行わずに酒を造る技術の一例です。

「寒造り仕込み」は、11月から立春までの間に行われた三段掛けの手法で、低温で仕込んだ後、櫂入れ(山卸)を行い、20日ほど経過した後に壺代に移して暖気樽を用いて酵母を増殖させました。この方法は”生酛”の原形と考えられ、添、中分(仲)、掛留(留)と仕込みを段階的に進める三段仕込みが行われました。

また、『童蒙酒造記』や『本朝食鑑』には、酸味を和らげるため、上槽前にもろみに少量の灰を加える技術が記されています。これは、酸敗したもろみに限らず、通常のもろみでも行われており、当時の酒造りにおける知恵が感じられます。

江戸時代中期、全国の鉱業、農業、軽工業を網羅した図説が出版されました。その名は『日本山海名産図会』。この書物は、当時の日本各地の産業を鮮やかなイラストと共に紹介し、その中にはもちろん、日本酒の製造についても詳述されています。図会には、新酒、間酒、寒前酒、寒酒、春酒といった季節ごとの酒造りが紹介されており、それぞれの製造工程が伊丹流の酒造りとして描かれています。

こうじ造り、酛(もと)づくり、もろみの仕込みなど、伊丹酒の製造工程が絵入りで説明され、こうじ室が一階にあり(岡室)、壁は厚い土で造られていたことが記録されています。さらに、仕込み桶や槽といった大型の設備が使われていたことが確認できます。伊丹酒はその仕込み配合から、江戸前期と同様に甘口であったと考えられます。当時は砂糖がほとんど流通しておらず、甘い酒が貴重であり、広く好まれていました。

特筆すべきは、上槽の5日から3日前に焼酎を1割ほどもろみに加えることで、酒の風味が「しゃんとし」、日持ちが良くなるという記述です。この手法は「柱焼酎」と呼ばれ、酒質の安定に一役買いました。また、もろみに灰を加えるのは下等酒とされ、上級酒では灰の使用が廃止され、より洗練された製造技術が確立されていきました。

天明年間(1781〜1789年)以降、灘地方では六甲山系から流れる急流を利用した水車精米が導入され、精米率が80%程度まで向上しました。この技術革新により、酒造りの品質がさらに向上し、日本酒の新たな時代を切り開く礎が築かれたのです。

江戸時代も後期に入ると、元禄(1688〜1704年)から文化・文政(1804〜1818年)にかけて、江戸での酒の消費量が急増しました。その結果、港に面した灘五郷が酒造りの一大拠点として発展していきました。灘地方の酒は、江戸末期(1848年(嘉永元年))にかけてその地位を確固たるものにしました。

この頃の灘の仕込み配合は、酒母歩合やこうじ歩合に大きな変化はないものの、汲水歩合が120%と高くなり、より辛口の酒が造られるようになったことが推察されます。これにより、仕込み配合は現在のものに非常に近い形となり、酒質の進化を遂げました。

灘酒が辛口へと進化した理由は、ミネラル分の多い「宮水」を使用することで発酵が旺盛になった技術的要因や、当時、砂糖が普及し、料理が甘くなったことで、辛口の酒がより好まれるようになった嗜好の変化と言われています。

江戸時代、日本酒の製造技術は飛躍的に進歩し、その結果として誕生した灘の辛口酒は、後の日本酒文化に大きな影響を与えることとなりました。

第六章:近代化への挑戦 – 明治時代の変革

日本酒の近代化 – 生産性と品質の向上

明治時代、日本は激動の時代を迎えました。明治維新により、国家の近代化が急速に進み、西洋の技術や科学が積極的に導入されました。これに伴い、日本酒の製造方法にも大きな変革の波が押し寄せ、伝統的な酒造りに革命がもたらされました。蒸気機関や温度管理技術、分析化学の進展が酒造りを変革し、品質と生産性が飛躍的に向上したのです。

明治維新後、日本政府は欧米の技術と知識を積極的に取り入れ、国内の産業を近代化するための改革を進めました。この動きは、日本酒造りにも大きな影響を与えました。それまで日本酒の製造は、経験と勘に頼る部分が大きく、自然の条件に左右されることが多かったのですが、西洋の技術導入により、製造プロセスが科学的に管理されるようになったのです。

当時の日本酒造りは依然として経験と勘に頼る部分が多く、もろみや酒が腐敗することも珍しくありませんでした。これを解決すべく、1904年に「醸造試験所」(現在の酒類総合研究所)が設立されました。醸造試験所では、製造工程の合理化・安定化を目指して研究を進めました。

伝統的な製法である「生もと造り」は、職人たちにとって時間と労力を要するものでしたが、その一方でその技術は長年にわたり受け継がれてきたものであり、酒造りにおいて重要な位置を占めていました。

「生もと造り」とは、米を蒸し、種麹を植えた麹を造り、それを冷水に漬けて水麹を作るという工程から始まります。その後、蒸し米を山のように積み上げ、職人たちが擢(こしき)を使って摺り潰し、山の形を崩しながら酒母を仕上げていく作業、これが「山卸し」と呼ばれるものでした。酵母や乳酸菌が空気中から自然に入ってくるのを待ちながら、発酵が進むのを見守るこのプロセスは、広い場所と多くの人手を必要とするものでした。

しかし、こうした手間と時間のかかる工程は時代の要請にそぐわないものとなり、効率化が強く求められるようになりました。そして、1909年(明治42年)、日本酒醸造の歴史に新たな一章が刻まれることとなります。醸造試験所において「山卸し」を廃止し、より簡潔に酒母を造る「山卸廃止もと」が開発されたのです。この技術革新は「山廃」と略され、伝統を守りながらも現代のニーズに応える画期的な方法として広まりました。「山廃」により、酒母造りにかかる労力が大幅に削減され、酒造りの現場において大きな革新をもたらしました。

しかし、時代はさらにスピードを求めました。「山廃」でも酒母造りには約30日を要し、職人たちの手間も依然として大きかったのです。そこで、空気中の酵母や乳酸菌が自然に入ってくるのを待つのではなく、これらを直接添加することで発酵を促進し、わずか2週間ほどで酒母を造り上げる「速醸もと」という方法が考案されました。この技術も同じく1909年に醸造試験所において開発され、現代の酒造りの大半で採用されるようになりました。

優良酵母の単離・頒布も始まり、品質の安定性が向上し、全国各地で均一な品質の日本酒を造ることが可能となりました。

明治時代には、火落ち(酒が腐敗する現象)も大きな問題となっていました。東京大学に招かれた外国人教師たち、アトキンソン、コルシェルトらは、日本酒の醸造法を科学的に解析し、火落ち対策の発展に貢献しました。

アトキンソンは、1881年に発表した論文『日本酒醸造の化学』の中で、「日本酒では糖化とアルコール発酵がビールのように二段階に分かれず、常に並行して行われる。この巧妙な醸造法は世界に類を見ない」と称賛し、従来から行われていた火入れの改良に取り組みました。

コルシェルトは防腐剤としてサリチル酸の使用を勧めましたが、昭和30年代後半には食品添加物としての有害性が問題視され、1969年に使用が中止されました。

その後、火落ちがほとんど見られなくなったのは、火入れの徹底だけでなく、製造工程全般の衛生管理が進んだ成果です。

日本酒の盛衰 – 日本酒の制度改革

1871年、明治維新によって廃藩置県が実施され、これまで各地で異なっていた酒造政策が全国的に統一されました。これにより、長らく続いていた酒株制度が実質的に廃止され、新たに「酒造免許(新鑑札)」を取得することが可能となり、全国各地で地主などによる酒造場の創立が相次ぎました。1881年には、全国で27,702もの酒造場が存在していたと記録されています。

日本は欧米諸国との貿易を拡大し、国内産業の海外進出を目指しました。こうした動きの中で、日本酒も海外に紹介されるようになり、国際博覧会などでその品質が評価される機会が増えました。

特に1873年のウィーン万国博覧会では、日本酒が世界に紹介され、大きな注目を集めました。日本酒の独特な風味や製造技術は、ヨーロッパの人々に新鮮な驚きを与え、高い評価を受けました。この成功は、日本酒が国際市場で通用する商品としての地位を確立するきっかけとなり、日本酒の輸出が増加しました。

また、これを機に日本酒は国際的な評価を得て、輸出が拡大し、世界の舞台で日本の文化を象徴する製品として位置付けられるようになりました。日本酒が海外で高く評価されることで、国内の酒蔵はさらに品質向上に努め、日本酒の国際化が進むとともに、伝統と革新が融合した新たなステージへと進化していきました。

しかし、酒造業には厳しい現実が待ち受けていました。当初、免許料は一律毎年5円、醸造税は売価の5%とされていましたが、インフレの影響で地租の割合が減少し、財政の柱として酒税が強化されることとなります。1877年には醸造税が20%に引き上げられ、翌年には確実に課税するために造石税が導入されました。その後も増税が続き、1902年には酒税が国税収入の36%にも達するまでになりました。

この重税は酒造業者にとって大きな負担となり、廃業が相次ぎました。1904年には酒造場の数が11,438場にまで減少してしまいました。

酒造所が減少していく中でも酒造業者の研鑽は続いていきます。日本酒の世界において、「吟醸」という言葉が初めて世に現れたのは、1894年(明治27年)のことで、新潟県の酒造家、岸五郎氏が著した『酒造のともしび』で用いられたこの言葉は、当時「吟味して醸造された」という意味を持ち、特別な酒を表すものでした。

第七章:試練と復興 – 昭和時代の波乱

戦争の足音 – 醸造技術の革新と経済発展

大正時代から昭和にかけて、日本酒醸造の世界は技術革新の波に包まれていました。大正時代には温度計の使用が広まり、発酵管理の精度が飛躍的に向上しました。そして昭和に入ると、1930年(昭和5年)頃、広島の佐竹利一が開発した竪型精米機が登場します。この精米機は、現在でも日本酒業界で広く使用されており、高度な精白が可能となったことで、日本酒の品質が大きく向上しました。

さらに1935年(昭和10年)には、現在の代表的な清酒酵母のグループに属する「きょうかい六号酵母」の頒布が開始されました。この酵母は、新政酒造の五代目佐藤卯兵衛が、その酒造技術を完成させつつあった頃、大阪大学の後輩であった国税庁技術者・小穴富司雄(おあな・ふじお)氏の手により、新政のもろみから採取されたもので、酒の発酵を安定させ、品質を一貫して保つことに大きく貢献しました。

そして翌年、1936年(昭和11年)には、現在の日本酒の主力品種である「山田錦」が奨励品種に指定され、最高品質の日本酒を生み出すための基盤が築かれました。

このように、現代の日本酒醸造に直結する技術が次々と開発され、業界は大きな進歩を遂げましたが、1937年からの日中戦争と1939年からの第二次世界大戦によって、日本酒醸造は一転して困難な状況に追い込まれていきます。

三増酒の誕生 – 日本酒と戦争

第二次世界大戦中、日本国内では米をはじめとする農産物が極端に不足していました。食糧は軍需産業や国民の食糧供給に優先的に回され、酒造りに使える米も大幅に制限されました。その結果、酒造りに必要な原料が手に入らなくなり、日本酒の生産は困難を極めました。

酒類の販売は免許制となり、原料米の割当制度が導入されました。これにより、酒の生産と販売価格が厳しく統制され、酒造場の整理・統合が進められました。その結果、日本酒は深刻な不足状態に陥り、量り売りの酒を水で薄めて販売する業者が現れました。この薄い酒は「金魚酒」と揶揄されるほどでした。この状況に対処するため、日本酒のアルコール濃度や品質を規定する級別制度が導入されました。

また、酒不足を補うため、清酒もろみへのアルコール添加試験がまず満州国で行われ、1943年(昭和18年)には国内でもアルコール添加が正式に始まりました。同年、日本酒とビールは公定価格で割当量を購入する配給制となり、日本酒の生産はさらに制約を受けました。

終戦後、食糧事情が悪化する中で、密造酒が社会問題となりました。この問題に対処するため、1949年(昭和24年)には、清酒もろみに大量のアルコールとともに糖類や有機酸を添加する「増醸法(三倍増醸)」が導入されました。この方法によって製造されたアルコール添加酒は、品質を維持しながら日本酒の供給を支えることになりました。

三増酒の製造は、酒造業者にとって苦渋の選択でした。伝統的な酒造りに誇りを持っていた職人たちは、アルコールを混ぜることで本来の日本酒の味わいが失われることに強い抵抗感を抱いていました。しかし、戦後の厳しい物資不足の中で、伝統を守ることが困難であったため、職人たちは苦悩しながらも三増酒の製造に取り組まざるを得ませんでした。

それでも、酒造りの伝統を絶やさないために、職人たちはできる限りの努力を惜しまず、少しでも品質の良い三増酒を作ろうと懸命に働きました。この時期の酒造業者たちは、戦後という困難な状況の中でも、日本酒の文化を守り続けるために、あらゆる手段を模索し続けたのです。

1950年(昭和25年)の朝鮮戦争による特需景気で、日本経済は回復の兆しを見せ、ようやく密造酒からの脱却が可能となりました。そして1952年(昭和27年)、酒類の配給制度が廃止されましたが、戦後の食糧事情から米を原料とする日本酒の生産は低迷し、多くの合成清酒が製造・消費されることとなりました。1951年には、合成清酒が日本酒全体の6割に相当する量を占めるまでになっていたのです。

三増酒は依然として広く消費されていましたが、人々の中には本来の日本酒の味わいを懐かしむ声も次第に高まっていきました。酒造業者たちは、再び伝統的な日本酒を取り戻すために、困難な状況の中で復興への努力を始めることになります。

1964年(昭和39年)には、ようやく酒類の基準販売価格制度が廃止され、日本酒業界は新たな時代を迎えることとなりました。戦争と経済の激動の中で、技術と工夫を駆使しながら、日本酒はその存在を守り続け、現代へとつながる道を切り拓いていったのです。

日本酒の復興 – 現代日本酒への転換期

昭和30年代、日本は高度経済成長期に突入し、国全体が活気づいていました。1955年、テレビ放送が開始され、1964年には東海道新幹線が開通するなど、次々と明るいニュースが国民を沸かせました。この時期、酒も徐々に市場に出回り始め、人々の生活に再び彩りを与えました。

しかし、昭和40年代に入っても、酒の供給量は依然として十分ではなく、その品質もまだ改善の余地がありました。そんな中、灘や伏見の大手メーカー(「白鶴」や「月桂冠」など)は毎年何万石もの増産を行い、市場でのシェアを拡大していましたが、地方の中小メーカーたちは異なる道を選びました。彼らは、ただ量を増やすのではなく、地道に酒質の向上に取り組み、全国新酒鑑評会などの競技会に挑戦し、その努力が実を結ぶようになりました。

地方の酒蔵たちは、一つ一つの仕込みに情熱を注ぎ、地元の気候や風土に根ざした酒造りを追求しました。その結果、彼らの酒は次第に愛飲家たちの間で評判となり、その名声が広まっていったのです。昭和40年代後半から50年代、60年代にかけて、日本全国で「地酒ブーム」が巻き起こりました。人々は地方の酒蔵が造る個性豊かな酒に魅了され、次第にその魅力に取り憑かれていきました。

この地酒ブームは、日本酒文化の再興と多様化を促し、日本各地の酒蔵が再び注目を浴びるきっかけとなりました。地酒を愛する人々の情熱が、日本酒の新たな時代を切り拓いたのです。それは、ただの流行にとどまらず、日本酒が再び人々の心に深く根付き、愛される存在となった瞬間でした。戦後、日本は復興期に入り、経済が徐々に回復する中で、酒造業界も再建の道を歩み始めました。戦時中に失われた伝統的な酒造りの技術を取り戻し、品質を向上させるための努力が各地で行われました。

昭和時代の日本酒業界は、戦争という未曾有の試練を乗り越え、復興と新たな挑戦を通じて再び輝きを取り戻しました。三増酒という苦渋の選択を余儀なくされながらも、酒造りの伝統を守り続けた職人たちの努力と情熱は、日本酒文化の復活に大きく貢献しました。

第八章:新時代への躍進 – 平成・令和時代の日本酒

地酒の隆盛 – 品質向上と個性の輝き

平成から令和にかけて、各地域の特色を活かした「地酒」がより注目される様になり、大きなムーブメントが起こります。全国各地の酒蔵が、地元の風土や文化に根差した独自の酒造りを行い、地酒としてのブランドを確立していきました。これにより、日本酒は再び多くの人々の関心を集め、特に若者や女性を中心に新たなファン層が広がり、日本酒の多様性が改めて注目されるようになりました。

特に吟醸酒の登場は、日本酒の多様化の象徴とも言えます。全国清酒品評会や全国新酒鑑評会においては、吟醸香と呼ばれる華やかな香りと淡麗な味わいを持つ酒が次々と高評価を得るようになり、「吟醸造り」という技術が開花します。この技術の核心にあるのは、高精白米を用いた「突き破精(はぜ)」と呼ばれる特殊なこうじの作り方と、香りを高めるための低温発酵です。こうして生まれた吟醸酒は、果物のような芳香と、耽美的なほどに綺麗で繊細な味わいを持ち、瞬く間に日本酒の世界を変えていきました。

そして1990年(平成2年)からは、純米酒、吟醸酒、本醸造酒に関する法的な表示ルールが適用されるようになり、日本酒は新たな時代を迎えました。戦中に始まった級別制度も、1989年(平成元年)には特級が廃止され、1992年(平成4年)には完全に廃止されました。それ以降、日本酒は特定名称酒と一般酒(普通酒)に分類され、消費者にとって分かりやすい形で提供されるようになったのです。

また、2006年(平成18年)の酒税法改正により、戦時中から続いていた増醸法は清酒の定義から外れ、製造が終了しました。このように、吟醸酒の誕生から始まった技術革新は、日本酒の品質とバラエティを飛躍的に向上させ、日本酒文化の新たな地平を切り開いていきました。

このような制度改正の動きと並行して、小規模な酒蔵が独自の製法やブランド戦略で成功を収め、地方の活性化にも貢献しました。これまで大手メーカーに押されがちだった地方の酒蔵が、個性を武器にした酒造りで再評価され、全国から注目を集めるようになったのです。

例えば、獺祭で有名な旭酒造(山口県岩国市)では、伝統的な手法に最新の技術を取り入れた酒造りが話題を呼びました。職人の技と最新技術が融合したその地酒は、国内外で高い評価を受け、多くのファンを獲得しました。また、その酒蔵が主催する地域イベントや酒蔵見学ツアーが、観光資源としても注目され、地域経済の活性化に大きく寄与することとなりました。

平成・令和時代の日本酒は、その多様性と創造性が新たな楽しみ方を生み出しました。フードペアリングがその一例です。日本酒は、和食だけでなく、イタリアンやフレンチなどの洋食、さらにはエスニック料理とも絶妙な相性を見せることが広まり、料理との組み合わせを楽しむ文化が浸透しました。これにより、日本酒の可能性がさらに広がり、国内外のレストランで日本酒が提供される機会が増えました。

また、日本酒の品質が回復するにつれ、国内市場だけでなく、海外市場への進出も再び注目されるようになりました。特に、純米酒や吟醸酒など、高品質な日本酒が国際的なコンテストで賞を受賞し、日本酒のブランド力が向上しました。

海外への輸出も活発化し、特にアメリカやヨーロッパで日本酒の需要が拡大しました。日本酒は、伝統的な和食文化の普及とともに、世界中の人々に愛されるようになり、国際的な飲み物としての地位を確立しました。

伝統的な技術を守りながらも、新しい製法やデザイン、マーケティング手法を取り入れることで、日本酒は単なる伝統的な飲み物にとどまらず、現代のライフスタイルにもマッチする製品として進化していきました。

変化への適応 – 伝統的な杜氏の減少と技術の伝承

時代の変化は、日本酒の技術者である杜氏にも大きな影響を与えました。戦後、伝統的な季節雇用の杜氏や蔵人の数は次第に減少し、代わりに社員や経営者自らが製造を担当する「社員杜氏」や「蔵元杜氏」と呼ばれる新たな形態が広がり始めました。

伝統的な杜氏制度では、師弟関係の中で技術が伝承され、製造元の枠を超えて技術が共有される場が存在していました。しかし、その機会が減少する中で、技術の伝承は新たな挑戦を必要とする時代に突入しました。こうした状況を受けて、酒類総合研究所や各地の工業技術センター、酒造組合などが開催する講習会が、醸造技術の維持・強化に重要な役割を果たすようになりました。

新潟県では1984年(昭和59年)に新潟清酒学校が、福島県では1992年(平成4年)に清酒アカデミーが開設され、新たな杜氏や技術者の育成に努めています。また、東京農業大学の卒業生たちも、日本酒業界での活躍を広げ、技術革新の一翼を担っています。

さらに、日本酒が再び見直される中、地元の杜氏を育てる機運が全国各地で高まりました。1989年(平成元年)には福島県で会津杜氏、2006年(平成18年)には栃木県で下野杜氏、2013年(平成25年)には富山県で富山杜氏の団体が旗揚げされ、それぞれの地域の気候や風土に根ざした酒造りが進められています。

歴史ある杜氏団体もまた、技術の研鑽と伝承に力を入れています。例えば、岩手県の南部杜氏協会は、夏期酒造講習会や自醸清酒鑑評会の実施、他県の蔵人への講習会の開放、県外者を準会員として受け入れ、南部杜氏資格を授与するなどの取り組みを行っています。こうした努力の結果、外国籍を持つ杜氏も誕生し、日本酒の技術は新たな国際的な広がりを見せています。

新時代の日本酒業界を牽引するのは、若い世代の杜氏や女性醸造家たちです。彼らは、伝統的な酒造りの技術を学びながらも、新たな視点と情熱を持ち込み、日本酒文化に新しい風を吹き込んでいます。

若い杜氏たちは、世界中を旅して得た知識や経験を活かし、グローバルな視点で酒造りを行っています。また、女性醸造家の増加も、日本酒業界に新たな息吹をもたらしています。彼女たちは、繊細で独自の感性を活かした酒造りを行い、新しいブランドや製品を次々と生み出しています。こうした新しい才能の登場が、日本酒の未来をさらに明るくしています。

日本酒業界は、伝統を大切にしながらも、常に新たな挑戦を続けています。グローバルな市場での成功や、新しい飲み方の提案など、日本酒の可能性はますます広がっています。今後も日本酒は、国内外でその魅力を発信し続け、世界中の人々の生活を豊かに彩る存在であり続けるでしょう。

時代を超えて進化し続ける日本酒。その背後には、伝統を守りつつも、常に革新を追い求める杜氏たちの情熱と努力が息づいているのです。

エピローグ:「続く物語、未来への一献」

薄暗い酒蔵の静寂の中、もろみが発酵する香りに包まれながら造られた一滴の日本酒。そこに込められた歴史と魂は、今もあなたの手の中で息づいています。遥か昔、神話の時代に始まり、幾多の試練と変革を乗り越えながら、日本酒は常に人々の生活と共に歩んできました。そして、その一滴一滴が、時代を超えて語り継がれる物語を紡いでいます。

あなたが手にするこの一杯には、杜氏たちの祈りと努力、そして何百年にもわたる伝統が凝縮されています。須佐之男命が八岐大蛇を退治した勇壮な神話から、平安の貴族たちが雅な宴を開き、江戸の町人たちが日々の疲れを癒す酒を楽しんだあの日まで。日本酒は常に人々の喜びや悲しみ、そして希望を受け止め、分かち合ってきました。

戦乱の時代も、戦後の混乱期も、そして現代の変わりゆく社会の中でも、日本酒はその姿を変えながらも、常に人々の心に寄り添い続けてきました。伝統を守りつつも、革新を取り入れることで、今や世界中で愛される銘酒へと成長を遂げました。その一杯には、これからも続く物語が秘められているのです。

これからあなたが手にする一杯は、ただの飲み物ではありません。それは過去から現在、そして未来へと続く物語の一部であり、あなたもその物語の紡ぎ手の一人です。日本酒を味わうことは、歴史と文化、そして人々の情熱に触れることであり、その一滴に込められた思いを共有することです。

これからも、日本酒が持つ深い物語を感じながら、共にその未来を紡いでいきましょう。次の一献が、あなたと日本酒の新たな物語の始まりとなることを願って。過去の遺産を大切にしながら、未来への希望を胸に、共に歩んでいきましょう。

さあ、この一杯を手に取り、その物語を味わいながら、未来への一献を捧げましょう。



最後まで読んでいただきありがとうございました。この記事は今後もブラッシュアップしていく予定ですので、引き続きご愛読のほどよろしくお願いいたします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?