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短編小説「洗濯機とリップ」

「洗濯機とリップ」

 それは車庫にあった。
 コンクリートの壁や床には雨風でついた汚れがあって、誰かがスプレー缶で爪痕残してった無名のアート、空き缶、吸い殻と潰れたマールボロの箱、コンビニのパンの空袋、とかいろいろごみが散っていて、動かなくなったほこりまみれの赤いバイクと、そのとなりにあったドラム洗濯機。
 洗濯機はコインランドリーから持ってきたんだと思う。あのぎっしり並んでいる馬鹿でかいやつと、おんなじものだった。雨風でシールがべろべろに剥がれていた。
 その横には、がきんちょたちが貼っていったポケモンシールがあった。
 ドラム洗濯機の中身はあんまり汚れていなくて、アタシときおり、中に入って目を閉じた。
 海が近くにあった町だから、耳をすませばさざ波の音がかずかに聞こえるような気もした。いつだってそこの夜は静かで冷えきっていて、誰にも邪魔されない、アタシの小宇宙みたいな空間が、洗濯機の中だったのだ。
 いよいよ町を離れるというときまで、夜中、そこへ入っていた。
 車庫は誰かの所有地のはずだった。けど、子どもたちの遊び場としてずいぶん好き勝手使われていたし、ヤンキーもたむろってたし、そこそこ大人たちからクレーム入ってたけど、不思議と消えることもなかったし、立ち入り禁止になることもなかった。
 アタシはあの場所が好きで、今は、怖い。
 それで、そんなことを思い出したのは、ポケットにいれっぱなしだったリップが、ひどく無残な姿で洗濯機の底に転がっていたからだった。

 井上陽水の「リバーサイドホテル」は、アタシのお気に入り。
 自分が店番だと、一番目にかけるのはこれだ。針を落とした瞬間はじまるイントロ。
 今朝は雨が降っていた。くすぶったような汚れのついた、年季の入ったドアの向こう、誰もが神経質そうに、それでいて足早に、雨粒を蹴っ飛ばしながら駅の方向に歩いていく。
 都会に来てみて、アタシはずいぶん苛立つようになった、と思う。よくドラマや小説で言われる、都会の人間は冷たい、というのを、じわじわと実感している。
 都会の人間は時間に蹂躙されている。駅なんか、いちばん人間を醜くする。急いでいる人に肩を押されたり、満員電車でうんざりしたり、アタシたち、生き急ぐことを社会に強要されているのだ。
 カウンターに頬杖ついて、回るレコードを見下ろしながら、アタシはそんなことを心の中で呟いていた。なんかこう、もっと、放たれたサカナみたいに生きることが当たり前だったら、いいのに。
 でもこういう本音を、アタシはまわりの大人たちに言わない。年下にも言わない。恥ずかしいこと、っていうのをどこかで自覚しているから。
 高校出てすぐレコードショップの店員して、そんであっという間に二十三、社会に組み込まれていくのはいやだからとかいう理由でフリーターやってて、別に後悔してないんだけど、でも正直なところ、ちょいちょい恥ずかしくなるのだ。
 だって逃げ出そうとしても生きてるせいでそれは不可能で、中途半端に社会に所属しちゃってるもんで、アタシがえらそうに自由でいたいからとかほざいたって、そんなの、だらしないやつ、でしかないのだから。
 アタシのまわりの子は、仕事して、あとセックスと男の心配事、婚期、そんなことにぐるぐる悩んで、なにかにとらわれていて、話すたび、会うたび、アタシは彼女たちのそういう部分ではっと指先やけどしちゃって、で、アタシって随分女の子らしくない、若者らしくない、人間らしくもない、なんて呆然と思うのだ。
 マンガ読んだりネット見たりしても、みんなそういうことで凝り固まっていて、実際、話してみたら、なんかあれね、マリって自由でいいね、かっこいいね、みたいな半分捨て台詞じみた言葉を投げられて、なんだかうんざりするだけ。
 アタシだって別になんにも感じないわけじゃないけど、女という仕事に関しては最も不感症なのかもしれない。かといってフェミニストでもないし男なんかにとらわれるなんてごめんだわとも思ってない。
 女として生きる喜びはあんまり知らない。
 でもなんか、漠然としたいだけなんだとは思う。ただ思いきれないから、アタシは世間一般の女じゃないかもしれない、なんてことを気にしてしまうのだろう。
 アタシだって、好きでもない男と簡単に寝る図太い神経持ってみたかったし、所帯持ちの男と不倫して奥さんにマウントとって勝手に悦に入ってみたかったし、流行必死で追いかけてたっかいデパコス無理して買ってみたり、うわべだけの魔法の言葉、かわいいかわいい言いふらして八方美人にもなりたい。で、反対に、誰にもつかまらないような、ぬるぬる逃げる女になってみたいし、うんなんか、すっごくむずい。
 頬杖をついてずるずる、そのままカウンターに突っ伏した。
 この店は朝早くから開くんだけど、そもそもお客さんがほとんど来ない。だから好きなレコード流して、気分が乗ればモップかけて、で、あとはレコードに値段シールはったり(この前調べたら、あれ、値段シールを張るやつ、ハンドラベラーというらしい)、プレーヤーの手入れして、針とか変えてみたり、あとはすぐ近くにあるスタバでお気に入りのホワイトモカ買ってきて、そうやって時間を潰している。
 仕事、というけど、こうやって、アタシの意識の存在も許される仕事場で、よかった、と思う。アタシの弟は社会のせいで死んじゃったから。

 マリねえちゃん、ずるい。
 かくれんぼしてたとき、それとあの日、そうやってぐちゃぐちゃ笑った弟を思い出した。
 弟はアタシのふたつ下。だから生きてたら今年で二十一。アタシと一緒で、高校出たらすぐに就職した。うちにお金がなかっただけで、弟は勉強できる子だった。だから優秀で社会の玩具。会社で馴染めなくて、でもまじめだから頑張りすぎて、でも弟のことだから、それだけだったら耐えてたと思う。
 弟は優秀だった。
 馬鹿じゃない。馬鹿じゃないから、仕事できる。仕事できる子なのに、だんだん同期に嫌われだして、まあそんなの嫉妬だけど、でも、……弟がずうっと大事に大事に守って、アタシにだけちょっこり見せてくれたたまごみたいなひみつ。それをさらされて、弟の呼吸、それで止まっちゃった。
 あいつらはテンプレの、凝り固まった古い偏見の言葉で、弟の背中をひとり一突きずつ強く押してって、ただでさえ足場のぎりぎりにいた弟はそれで落っこっちゃったのだ。

 マリねえちゃん、ずるい。
 かくれんぼはいつもあの例の車庫で、アタシは洗濯機の中に閉じこもって、内側からドアを閉めると不安になる閉塞感、弟の駆け回る足音とアタシのこもった荒い呼吸。目を閉じて、弟を待ち続ける。
 弟は探すのがへたくそ、へにょへにょした声でアタシを呼ぶ。マリねえちゃああん、マリちゃああん、ねえちゃああん。ぺたぺたした足音と、ぶらぶら、脱力して揺れる腕。ママお気に入りのキノコカットがかわいくて、アタシより色白くてすぐ泣いて、
「いた」
 鼻水ずびずび垂れ流して、そんな顔が視界の悪い窓から見えて、アタシは面白くなっちゃって笑う。弟はきったなく鼻水をシャツでずりずり拭きながらドアを開けてくれる。
 吹き込んでくる外の風はちょっと冷たくて、閉塞感はそれで消えて、アタシの目をじっとみる弟の大きなびいどろみたいな目、そんで、マリねえちゃん、ずるい、とあいつは言う。
「ずるくないよ」アタシはよいしょと身体をよじって洗濯機から出るのだ。「探すのがへたくそなんだべ」
「こんなとこいたら見つけられん」
 そうやってびいびい泣くのだ。ママにしかられるのはアタシだから、アタシはあわてて泣き止ませようとする。家に帰るまでに泣き止ませたくて、手を引いてふたりで歩いて帰りながら、途中の店やら自動販売機でなにか買ってやって、それをふたりで半分こしながら帰って、でもあいつ泣き虫だから全然泣き止まなくって、結局アタシいつも怒られてたっけ。

 マリねえちゃん、ずるい、っていうのは、去年聞いたので最後。
 夜中、急に電話かかってきて、死ぬ、死ぬ、死んでやる、死ななきゃだめだ、そうやって言ってきた弟の呼吸は台風みたいに荒れていて、言葉はうわごとみたいで、ひどく泣いていて、うるせえ泣くな、そこでまってろ、始発までまってろって怒鳴って、電車飛び乗ってアパートまで行った。
 生きてろよ、いいか、死んだら殺す。
 そう言ってラインのトークルームずっと繋いでやって、やっとアパート着いた頃、弟はベッドにくるまってまだ泣いていた。
 弟の部屋はむちゃくちゃに汚くて、女の子みたいに綺麗だった弟の肌は荒れていて、髪もぐちゃぐちゃ、アタシは必死になってあいつの布団引きはがして、よかった、死んでない、よかったと繰り返した。
 アタシの顔を見た瞬間、あいつはよけいに泣き出して、声はうまく出てなくて、ただとぎれとぎれにアタシを呼んでいた。
 ねえちゃん、ねえちゃん、おれ、おれもうだめ、だめだ。
 アタシは弟が大好きだった。弟がアタシの弟で、本当に幸せだったのだ。いっぱいいじめたし泣かせたし、でもかわいくてしょうがなかった。
 だからアタシは弟のぜんぶを好きだった。弟は弟だし、世界になんにも迷惑かけてないのだし、アタシ、あの日からずっと、弟を許さなかった社会を許せないでいる。
 やっと泣き止んだ弟は真っ赤な顔でぐしゃぐしゃ笑って、ごめん、ごめん、ねえちゃんごめん、と言った。
 アタシはほっとしながらあいつの髪をぐしゃぐしゃかき回して、なんか食べよう、食べればまだ大丈夫、そう言ってコンビニのものたくさん買ってきてテーブルじゅうに並べて、閉まってたシャッター開けて窓もカーテンも全部開けて、明るくなった早朝のワンルーム、あいつはアタシを見た。アタシを見て、ほっとした、ほっとしたんだ、マリねえちゃんはずるい、優しいからずるいなあと言った。

 ぼうっとそんなこと思い出しているうちに、「リバーサイドホテル」は終わっていた。
 立ち上がり、オーナーの鉛筆伝言に目を通して、奥の中古品の整理にとりかかる。
 あ、と思って、松田聖子のレコードに取り換える。「渚のバルコニー」が流れ出す。アタシはいつもなにか、水、に焦がれているような気がしている。サカナになりたいから、だろうか。
 ビニールかけたレコードにぱたんぱたんと値段を貼っていく。
 アタシの手がレバーを引いて、ハンドラベラーから飛び出すシール、アタシのこの、いっこの動きで価値を決められていくレコードたち。名前見てもぴんとこない、でもかわいい、アイドルの笑顔。へんてこなタイトル。昭和ですって感じのフォント。
 アタシはこの時代に生まれたかったなあとぼんやり思う。平成生まれのアタシからしたら、これからの長い人生真っ暗で寒々しい。昭和はうらやましい。生きづらそうだけど生きやすそうで。アタシ、伝言板に書き留めてそこでずっと彼氏待つような恋愛してみたい。喫茶店の待ち合わせで電話もらってみたいし、聖子ちゃんカットにしてかわいいワンピース着て、ちょっとおっきいイヤリングして歩いてみたい。
 今のアタシはえりあし伸ばした黒いウルフカットにインナーはグレーで、どこにでもいるような、まあダサくはないよねって感じのファッションしてる。そんな恰好でなにかをごまかしている。
 量産型なのだ。それで、アタシの中身は薄っぺらいというか、軽いというか。発砲スチロールそっくりだ。みんなが勘違いしてるアタシの自由は、自由じゃない。真っ白ってだけだ。
 ラベンダーの夜明けの海が見たいの、と聖子ちゃんの甘ったるい声が響いている。この町は都会だけど、海を見るためには、ちょっと遠くへ行かなきゃ、ならない。

 ところで、弟が死んだのは真冬のことだった。寒かった。あの日は。
 弟はあのアパートでドアノブ使って首を吊った。段ボールまとめるあのビニールひもをくくって、ドアを一枚使って死んでいた。
 アタシは死体を見られなかった。やけに穏やかな顔した葬式の顔だけしか知らなかった。寝てる、と思ったのを覚えている。
 死んでるようには見えなかった。首周りに綺麗な花がぎっしり詰まっていて、こいつら隠しやがって、と思ったけど、見る勇気だってもともとなかった。
 弟が死んだ事実がすとんと下りてくる日を、アタシはずっと求めている。本当は一年経った今だって、ときおり、いるもんだと思っちゃうのだから。 
 そう、アタシがあの電話の日駆けつけたのは、弟のいっときの気休めにしかならなくて、アタシおんなじ血を貰った唯一の姉のくせに、家族のくせに、救えなかった。
 あのとき濡らした顔をくしゃくしゃにして笑いながら、ぼろぼろ米粒こぼしておにぎり頬張った顔は、嘘だったのかも、とか、思う。
 アタシを安心させたくて、自分もどっかでとりあえず安心しようとして、あの顔してたのかもしれない。
 だって死んじゃったんだもん。あの数か月後に。
 ああむかつく。アタシ自身に。平然と葬式に来ようとした弟の会社のやつらに。汚されても困るんだわとかほざきやがった大家に。線香のにおいに。嘘っぽい笑顔の遺影に。むっとする花のにおいに。喋りもしない遺骨に。
 アタシやパパやママを潰してまですがりついてこなかった弟に。

 ニューデイズで買ったカリカリ梅を齧りながら、寒さに身を縮めて電車を待つ。バイトが終わるころ、駅は騒々しく、落ち着かない。カリカリ梅齧りながら電車を待っているアタシのことなんて、誰も、見ていないくらいに。
 アタシはカリカリ梅が好きだ。小気味いい音がするし、酸っぱい味はなにかをごまかしていそうでごまかしていないし、こうやってちまちま齧って食べていると、なんかよくわからないけど、落ち着くから。
 吐き出す息は梅くさくって、真っ白で、生あったかい。
 やがて電車が滑りこんできて、あわてて最後のかけらを放りこんだ。かり、ぶちぶち、と口の中で梅が潰れていく。ごく、と汁を飲みこんで、電車のドアが開く前に飲みこんで、細く長い息を吐き出しながら乗りこんだ。
 次で停まる新宿まで、圧迫感と体温と体臭がみちみちと充満していてはちきれそうで、アタシはうんざりしながら吊革にも届かず、誰かと誰かに寄りかかりながら目を閉じた。
 弟は梅嫌いだったなあ、と思い出す。
 アタシがいつまでもカリカリ梅齧ってると、なんだか失礼に、心底嫌そうな顔したのだ。
 よく食べられるねえ、そんなまずいもの。
 まずいわけあるか、とアタシはいつも言い返していた。かぼちゃの煮物で白米食うあんたのほうがきもい、なんて言うと、弟はかぼちゃの煮物のほうがうまいよ、と面白そうに笑って返してきた。 
 ……だめだ、アタシの命、なんかすっからかんだ。
 生きるために這いつくばって泥啜って、泣きながらへらへら一生懸命生きていた命とは、違う。
 そのくせアタシ、このごろ自分の命のこととか人生のことばっか考えてる。ご立派なふりして。それでずっと弟のことばっかり考えて、疲れて、寂しくて、もうやだな。
 洗濯機――アタシが夜中にあそこへ入っていたのは、弟とのかくれんぼを待っていたからだった。よくある話。お涙頂戴の創作ストーリーみたいな動機。
 だって幽霊は朝には出ないから。アタシが洗濯機へ隠れる、というのは、弟だけが知ってることだったから。
 アタシがいくら家中町中世界中探したって、とっくに死んじゃった弟は見つけることができなくて、でも死んじゃった幽霊が生きている人間にちょっかいかけるのはよく知ってるから、そうたとえば心霊写真とか心霊現象とかいろいろ、だから弟からだったらアタシたちもう一度くらい会えるんじゃないかと本気で思っていたのだ。
 アタシはママみたいにあの会社のやつらを殺したいとは言ったことなかったし、パパみたいに、葬式にノコノコ来たやつらへ手をあげようともしなかった。そういう衝動は湧き出てこなかったから。
 でも許せなかったし、本当は、ずっと、本当は、アタシの傷みたいなものは海くらい深くてでかかった。
 そうだ、弟が死ぬ前の話。
 高校卒業して、明日町を出るわなんて夜中にも、アタシは洗濯機の中に隠れていた。手には弟からもらった誕生日プレゼントのリップを持ったまま。ポルジョのリップをチョイスするなんて、こいつやるじゃんと思いながら。
 春生まれのアタシのためか、単に色味まではわからなかったのか、リップカラーは桜色だった。アタシは東京着いたらこれを引こうと決めていた。   
 ただ反対に、ああ、これからどんどん女にしかなれないのだな、なんてことも同時に思っていた。
「もういいって」
 声変わりした弟の声は低いけどやわっこくて、夜中にはよく染みわたった。
 アタシがいつまでも洗濯機の中から出てこないから、あきれたようにその前で両足投げ出して地べたに座りこんでいた。そろそろきついでしょ、そこ入るの。そりゃでかくなったから。アタシはそう返事しながら、真っ暗な小宇宙の中、リップの箱を指先でなぞっていた。  
 弟はいい加減飽きたのか、もう帰るから、明日電車早いんだからねえちゃんも帰れよ、と言っていなくなってしまった。鼻水垂らして泣いてたくせに、いつの間にか薄情になっていた。
 アタシが洗濯機を開けると、もうすっかりいなくなっていた。

 ――電車が止まった。
 寂しいこと考えるから、よけいに寒くなる。アタシ早く帰らなきゃいけないのに。

 鍵を回してドアを開けて、靴を脱ぐ。あがる。
 真っ暗なワンルームに少しずつ明かりをつけていって、進む。しんとした冷気。時間がなくって部屋干ししたままの洗濯物のにおいが、ふあふあ部屋中を漂っている。
 アタシはずんずん部屋を進み、奥、窓辺に手を伸ばした。アタシのひびわれて乾燥した手の中、ごろりと転がる擦れた銀色。
 あのリップは、やっぱり、なんだかじんわり、洗剤くさかった。
 今朝、久しぶりに引っ張り出して気まぐれに洗濯機で洗ったコート。たんぽぽカラーのかわいいやつ。もうすぐ春になるから、いまのうちに洗ってしまえと思ったのだ。
 それで、そのポケットにあのリップが入っていて、大事でたまらなくって探し回ったくせに、ここに入れたのを忘れていて、それがどうしようもなく悔しくて嫌になって、その場にべちゃんと座ってしまった。
 涙と鼻水垂らしながらまだ湿った洗濯機の中に頭と手つっこんで、必死に拾い上げて、窓辺で乾かそうとしたのだ。ひとり暮らしの、他にだあれもいないこの狭いアパートで、ごめん、ごめん、なんで、なんでここにあんの、とか言いながら。
 それで、その朝からずーっと、弟や洗濯機のことばっかり考えていた。
 ほんの少し、毛先くらい、日常に染まりだしたアタシの生活はそこでまた一気に引き上げられて、今日ひどく鬱々としていたのは、このせいだったのだ。
 手の中で銀色を見つめながら、生きてるのって苦しい、唐突に、思う。
 こんなにいっぱいのこと、抱えきれるわけない。アタシの世界は小規模で、言っちゃえば友だちみたいにくっだらないことで悩むような余裕なんか、ない。弟のことでいっぱい。自分のことでいっぱい。
 男もセックスも結婚も出産も介護も葬式も墓もなにもかもしらん。
 考えられない。考えたくない。
 くだらないことで笑えたらどんなに楽だろう。あいつらみたいにやれ彼氏から連絡こないだの知り合いと寝ちゃっただの○〇ちゃんが最近どうだの、……。
 弟が一足先に人間やめたのは、かしこい、とも思う。壊れちゃう前にやめたのだ。壊れることをずっと怖がっていたから、がんばれ死ぬなというのは、実は一番言っちゃいけないことだった。
 弟の危なっかしい背中を一番強くどついてしまったのはアタシで、それで、その瞬間が、あの早朝だったかもしれない。
 タイツと靴下を一緒に脱ぎながらキッチンのほうに行って、換気扇と小さな照明を点けた。
 半分になったウィンストンのボックスから一本出して、ライターで火をつけて、吸う。白い煙とくさいにおいが混ざって、上へ上へ、死体を焼くときの煙のように。
 弟が死んでから、アタシはリップを使わなくなった。メンソレータムのハッカくさいやつだけ塗りたくっている。だからいっつも顔色が最悪。
 でもいいんだけど、別にね。だって、アタシがリップ塗ったってかわいくはなれないわけだし。
 友だちの、てかてかしている赤やピンクの唇は、女であることを主張している。かわいい。
 女の子の唇の色はかわいいけど、アタシの心は身体をほっぽってあそこでずーっと止まっちゃってるから、色気づく、ということが、大人の女であることを認めるみたいで、できない。
 弟はまだまだ大人になりきれずに死んだのに、アタシだけ淡々と先に進むのがつらい。本当は。
 きょうだいとして、アタシがいつでも先に行くのはあたりまえだけど、そうなんだけど、でも、弟はアタシのことをもう二度と追っかけてはこないのだから、それがどうしようもなくむなしいのだ。アタシだけばあちゃんになっていくのもつらい。
 パパとママが順番に死んでいったら、アタシいよいよひとりぼっちじゃないか。
 カチ、とカプセルが弾けた。メロンフレーバーが煙草のきつい煙の奥で香る。煙草は好きだけど好きじゃない。アタシは肺に入れられないで、口に溜めて吐き出すだけだから、なんだかかっこわるい。
 頭上の換気扇が少し耳障り。薄暗いキッチンの照明は青白く、アタシは生気のないまま煙草を咥えている。
 春ものの黄色いコートは、カーテンレールにひっかけたハンガーにぶらさがっている。夜風に吹かれて、カーテンと一緒になってわずかに揺れている。
 もう冬が終わってしまう。
 コンロの近くにぼろりと灰が落ちた。……アタシ二十四歳?あとちょっとで?なんだよすぐにオバちゃんになって、すぐにばあちゃんになっちゃうじゃん。
 二本吸ってやめた。口中すうすうしていて、まだ冬が残ってるみたいだった。ごろりとベッドに転がって、窓辺に置いたリップを拾う。
 メッキの剥がれたケース。折れた、猫。顔を叩いた、夜風に揺れる春色のコート。潔癖っぽい洗剤のにおい。
 口に残る煙草の味が、苦しい。

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