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短編小説「枕の奥で爆ぜるから」

――夢のつづきを上手に見たことがある?
 彼は私の髪を梳きながら、ふいにそう聞くことがあった。私はそのぬるい手のひらに自分の頬を押しつけて、彼の皮膚の奥に自分の体温が染みていくことを願いながら、ない、そう答えた。
 ――僕はいつもくじらのことを探してる。
 彼は幼少期から繰り返し見ている夢がいくつかあった。そのうちのひとつは特に彼のことを惹きつけたらしく、付き合っていた三年間で私は何度もその話を聞いた。
 くじらの話。大きくて真っ黒なくじらなんだ、真夜中の海で会うんだ、いつも僕らは言葉を交わし合っているんだけど、どんな話をしていたのかいつも思いだせない。だから一度目が覚めたらつづきを見ようとする、でもできなくなるんだ。どうしてくじらなんだろうなあ、彼はそう言って、眠そうにあくびをしたあと甘ったるくほほえんで、まあ、いいか、死ぬわけでもない、そう付け足して先に眠るのだった。
 彼は私のはじめての彼氏で、としはひとつ上だった。彼の顔立ちはぼんやりしていて声も思い出せないのだけれど、くじらの話だけ鮮明に覚えている。それから、いつも衣類の奥で香っていたにおいのことも。
 唐突にそれを思いだしたのは、薬が効かずに細切れに目を覚ました午前四時のことだった。
 視界一杯にグレーがあった。カーテンを引かない習慣がいつからか身について、だから部屋はうすぼんやりとしていたのだけど、かといって明るくもなかった。十月も半ばになったワンルームには開けっ放しの窓から冷えた風が滑りこみ、無意識のうちにタオルケットをきつく巻き付けていた。のびきった髪がひとふさ唇のあたりにはりつき、煩わしさにぐしゃぐしゃと掻きまわす。静寂だけが不変のまま、部屋にこびりついていた。
 寝返りをうてば私の命の重さ分マットレスが軋む。セミダブルのベッドをもてあまさないように手足を広げて眠ろうとするくせがまだついたままだ。半身起こす。のどがひどく乾いている。まばたきを繰り返し、窓の外に呆然視線を放った。あと数時間すれば仕事に行かなくてはいけなかった。
 ときどきこうして、自分のこころとからだと、それらが存在する現実というものが数ミリずつ離れていっているような不安を覚える。そのうちそれらは風船が手から空中へ飛ぶように失われていくんじゃないかと。
 私はさっきなんの夢を見ていた?
「彼」のことを思いだしていた。その感覚は残っている。私の記憶なのだろうか、それとも私は彼を夢に見ていたんだろうか。あいまいなそれにあくびが小さくこぼれた。
 くじら。
 くじらだ。
 くじらが、どうしたんだっけ。
 私はまた身体を横たえてタオルケットを巻き付け、夢の続きを見ようとする。それでも意識はすでに釣り針にひっかかっていて、眠ることができない、中途半端な浮遊と寝不足からくる気持ち悪さに泣きたくなる。
 思いだしたい。
 夢の中で「彼」に聞くのがいちばん早かった。そうに違いなかった。
 でも何度目を閉じてもだめだった、呼吸を深くおこなってもだめだった、彼はもう私のものではないし、顔も声も思い出せないほどおぼろげなものになってしまったし、……それでもこの部屋の奥に、彼がおいていったシャツが何枚か残っている。
 思いだせるのはそんなことだった。最後の最後も思い出せないけれど、終わる前に、別れる前に、夢の続きの見方くらい教えてもらえばよかった。
                                 了

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