日記

2024年09月29日

 主治医である津田彷徨先生と共に神戸ワールド記念ホールへ新日本プロレスの観戦に行く。何を隠そう、人生で初のプロレス観戦である。
 ライトノベル作家にして内視鏡医である津田先生は大のプロレスファンとして知られており、最近はグレート-O-カーン選手を贔屓にしている。

 会場の熱気は凄まじく、これが音に聞くプロレス観戦かと大いに興奮したのであるが、一番感心したのはそのエンターテイメント性の高さである。
 ぶつかり合う選手たちの戦いには一戦一戦ごとにアトモスフィアがあり、観る者を飽きさせない工夫と汗に満ちている。いうなれば、一作ごとに文体の異なる、それでいてテーマには一貫性のある優れたオムニバスを読むかのような満足感がある。
 そして、一選手一選手ごとに積み重ねてきた歴史があり、関係性があり、もちろん磨き上げられた技と肉体とがある。
 これは確かに、夢中になるのも頷ける。よい経験を積ませて頂いた。
 ぜひまた、見に行きたい。(社交辞令ではなく)

2024年09月30日

 鬱である。
 これはもう季節性のものであり、毎年、夏の声が遠ざかると覿面に心身の均衡が崩れ、失踪したくなり、仕事も進まなくなる。
 名前が名前だけにツクツクボウシの如く夏の終わりには妙に元気になってこれまでの遅れを取り戻そうと仕事を入れまくるので、それもメンタルに鈍く重い連打を加え、精神がズタボロになる。

 不調の原因は、仕事量と経済面、健康面と、人間関係。つまりこの世の全てである。如何ともしがたい。ランプの魔人も裸足で逃げ出すほどであろう。
 
 皆々様には本当にご迷惑をおかけして申し訳ない。
 消えてしまいたい。
 それでも、こうやって客観視できるようになっただけマシなのかもしれないのだけれども。

2024年10月01日

 ビッグイシューを売る人を見つけたので、一冊贖い、ペットボトルの麦茶を進呈した。情けは人の為ならず、というほどのこともなく、全く独善的に自分が気持ちよくなりたいからである。見下げ果てた人間の屑である。

 かつての欧州キリスト教圏では、街に乞食がいなくなったら、どこかから連れてこなければならないという強迫観念があった。何故ならば、喜捨することができなければ、心の清さを示す機会がないからである。もちろん、そんな考え方に嫌悪感を示すものもいたであろうが、人間にとって、誰かに何かを施したいという欲求は自然なものであって、それをすることでしか得られないものがある。

 私が人間の屑であることは論を俟たず、その為にビッグイシューの販売員は欲しいかどうかも分からないペットボトルの麦茶を押し付けられる。
 贈与の輪は回る。
 そして私は地獄へ堕ちるだろう。いや、煉獄か辺獄か。
 

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