朗読劇『朝彦と夜彦1987』 感想


観劇したのが12月18日。クリスマスを過ぎてもなお、気づけば朝彦と夜彦のことを考えてしまう。

noteの過去記事を参照頂ければおわかりのように、私はメサイアシリーズをきっかけとして菊池修司くんの出演作品を観てきたのだが、今回も菊池くんがなんだか面白そうな作品に出ているから、という理由で当日券を取った。
本作品は初演が2015年であり、これまでに再演を重ね、またさまざまなキャストが朗読を行っているのだという。ひとくちに『朝彦と夜彦』といっても、物語の結末、雰囲気は演じた方達の数だけ形があるそうだ。私は、菊池くんと吉村さんが出演されていたBチームのものしか観ていない。なので私にとっての『朝彦と夜彦』は、12/18の『朝彦と夜彦』であることをはじめに断り、朗読劇の感想を記しておきたい。

◆過ぎ去りし青春の物語

タイトルに1987と年号を冠し、また劇中で何度も強調されるとおり、本作品は1980年代と2000年代を舞台としており、この設定は特に80年代に青春時代を送った者に対して強烈なノスタルジーを呼び起こすだろうが、そうでなくともこの物語が、「過ぎ去っていく青春」の物語であることを強く訴えかける。
ロックンロールを聴き、ムウを読み、好きなアイドルの話をし、包茎だ無毛だと下ネタで騒ぐ。そんなどこにでもある、ありふれた男子校生活。
それから約12年後、彼らが30歳になったとき、容赦なく押し寄せる時代の波。彼らが青春を過ごした男子校は共学校に変わり、アイドルだった女の子はヌードの写真集を出し、宅配のおやじは現代のシステムに馴染むことができず、クビになる。
時はひとところに留まらず、かつてそこにあったものは失われ、新たなものに生まれ変わる。その無常さのなかで高校生活を振り返った時、夜彦から「俺たちの青春ってなんだったんだろうな」という言葉が飛び出す。
この、なんだったんだろうな、という儚さこそが、『朝彦と夜彦』の物語における救いであろう。
十代の頃の世界は、狭い。しかもインターネットの発達していない80年代の田舎ならばなおさら、高校生にとっての世界は自分と、家族と、友達だけだ。万引きして捕まるくらいで人生が終わるはずがないのに、そんなことも知らずに音楽室の窓から飛び降りてしまうくらいには。
だけれどどうだろう、大人になってしまうと、あの頃あんなに思い詰めていたこと、傷ついていたこと、深い傷跡になっていたことが、「なんだったんだろうな」と思えるようになる。決して忘れたわけじゃない。無駄なことだったわけでもない。今では些細な問題に思えることでも、それこそ死にたくなるくらい確かに、真剣に取り組むべき問題だった。だけど「それだけがすべてじゃない」と、大人になればわかるのだ。
人生に挫折はつきものだし、罪は償えばいいし、鬱は薬を投与すれば治る時代になる。視野が広がり、固定概念が覆され、人生の正解はひとつでないと知ることができる。

失われた青春。

悩み、苦しみ、死のうとまで思い詰めた若者にとって、時が流れ、自分の上にもその時が積み重なり、凡庸な大人になり、あの頃思い描いていたことだけがすべてじゃないのだと知れたことは、救いに違いない。
「俺たちの青春ってなんだったんだろうな」
これは、己の青春時代の虚しさを嘆く台詞ではない。自分たちが青春時代に抱えた傷がゆっくりと快復に向かっていくこと、あの頃の傷を抱えた自分を少しだけでも好きになれること、まるで瘡蓋が剥がれて落ちるように、大人として過去から未来へと歩き始めるのだということ、そんなことを感じさせる台詞なのである。

朝彦は予定調和の凡庸な大人となった。結婚し、三人目の子どもが生まれる、ささやかな幸せに溢れたありふれた生活。
そして夜彦もなんとか生きて、三十という歳を迎える。躁鬱が激しく、例えるならば0と10の両極端でしかいられなかった夜彦が、自分の人生を「普通だよ」と言えることはどんなに凄いことだろう。あの頃どんなに手を伸ばしても手が届きそうもなかった朝彦の、茶を濁して3をつけるような健やかな人生を、夜彦も(朝彦ほどではないだろうが)送れているのかもしれない。生きていてよかったと、思える朝が少しずつ増えていると良いなと思う。
もしも、この朗読劇を今まさに青春を送る若者が観たとしたら、この結論にどんな感想を抱くだろう。つまらない退屈なオトナの意見だと怒るだろうか。自分の「死にたさ」が特別で、重たくて、もう自殺にしか自分のゴールはないのだと思っている人にとって、それがいかに自分で自分を檻に閉じ込めるような行為であるかを突きつけるのは、残酷なことだろうか。それとも、今抱える苦しみにも、いつか終わりが来るのだと思ってもらえるのだろうか。
いずれにせよ、これだけは知って欲しいと思う。今、この世に生きている大人達の多くは十代の頃に「窓から飛びおりるドサリという音を聴いた」。朝彦側の人間にしろ夜彦側の人間にしろ、狭い世界の中で追い詰められて、悩んで苦しんだ若者だったのだ。


◆朝彦が「他者」であることの救い

"お前を見てると、みんなが俺じゃないと知る。(中略)そういうのもあり得ると、知る、かな"

劇中、最も心に残った台詞をあげよと言われたら、私はこれを挙げたい。

冒頭、私は本作を「過ぎ去りし青春の物語」であるとし、十代の頃の彼らを取り巻く世界がいかに閉塞し、狭いものであるかを述べた。
つまり朝彦と夜彦が少年から大人へと成長するとき、その閉塞を打ち破るきっかけに出会えることが重要になってくる。

夜彦はもう何年も、自分の中に巣食う「父親」に囚われ、死の影に怯えている。今まで自分のことを愛していると言ってくれた父親が、子どものことなんかなにひとつ顧みずに自殺してしまうことがどれほどの衝撃だったか。自分の中に大きく育っていく生きることの空虚さを、父の死と結びつけてこれは不死の病だと嘯くことは、私にはとても自然なことにすら感じた。
そのくらい、親の血の呪縛というものは恐ろしい。十代も後半になり、親をひとりの人間として客観的に捉えると、ぞっとするほど自分と似ているところが見つかるものだ。どんなに父親のようにはなるまいと思っても、気づけば自分が「父親の若い頃」のような行動をとっているのではないかと疑心暗鬼になることがある。だから自分より20〜30年近く先の未来を生きている親が、自分の未来像のように思えても仕方がない。
そんなふうにして夜彦は鬱を深刻化させ、終わらない夜の中で生きていた。
そこに、運命でも何でもない一人の男が、夜彦の人生に現れる。

朝彦は朝を希望と共に迎えるし、夜はすぐに眠れる。夜彦とはまったく正反対の人間だ。だけれど、彼らがまったく正反対の人間であることは、彼らに断絶ではなく救いをもたらしたと思っている。
朝と名付けられたい、俺はお前になりたいという夜彦に、朝彦は言う。
「父母がどうとか関係ない」
「おまえは、おまえだ」
これは、夜彦にとってちょっとした衝撃だったのではないだろうか?自分が毎日狂ったように父親の死のことを考えているというのに、自分の在り方と父親の死には関係ないとあっさり断言してしまえる朝彦。夜彦にとってそれは、初めて触れる価値観だった。
朝彦と夜彦、同じ場所に立っているのに見えているものはまるで違う。朝彦には夜彦の死にたさがどうしたって理解できない。だって彼は面倒見が良いだけの、やはり同じく自分の価値観のなかだけで生きている学生だから病院に引っ張っていくという発想すら生まれない。それでも朝彦はなんとか夜彦のことを救いたいと想う。そして夜彦はそれこそ父親が死んだときにいじめっ子と嘘のない会話をしたあの時以来、朝彦になにひとつ嘘をつかずにすべてを打ち明けた。助けて欲しいと言えた。
二人の立つ場所は希望の朝と絶望の夜。交わるはずのない場所だ。だけど互いが互いの方を向いていた。朝彦は朝彦らしくなく、死ぬのに付き合おうと言った。それは彼が夜彦にしてやれる最大限の優しさだった。「あの時は本気だった」という言葉に嘘はない。あの朝彦は、本気の本気で、夜彦を救おうとしていた。若者にありがちないっときのテンションだったのかもしれないけれど、確かにそこに優しさはあった。だが、朝彦はやはり、死ねなかった。その時の「死にたくなかったんだ」と吐露する朝彦の姿がそこで初めて、夜彦と同一化する。朝を希望と共に迎えていた朝彦が、夜彦のように死の恐怖とともに夜明けの中で震えていた。朝と夜が同じになる、劇中で唯一の瞬間であるかと思う。本物の死への恐怖を目の前にして、怯えて、踏みとどまろうとする朝彦。それは、決して「死にたい」と言うまいと耐えて耐えて耐え抜いてきた自分自身とどこか同じだと、夜彦は思ったのではないだろうか。だから夜彦は、死にたくなかったんだと、本当の本音を口にすることができた。
朝彦という他人が、自分の中にも潜む同じ「死にたくなさ」を抱えて、しっかりと踏みとどまった。私は、夜彦にとって真に救いとなったきっかけが、そこにあるのではないかと考えている。自分には決して見えない景色を見ている人。自分には考えもつかないようなことを考えている、心根の健やかな、朝彦。そんな、自分とはまるで違う人間が夜彦に、この世の中にはいろんな人がいて、自分の考え方だけがすべてではないと教えたし、みんなひとりひとり他人かもしれないけれど、みんな死にたくなくて必死に生きていることも教えてくれた。
夜彦は、彼の言葉通り、きっと朝彦のことをめちゃくちゃ恨んだだろう。なぜ自分を裏切ったのだと思っただろう。でも同時に、朝彦が生に踏みとどまってくれたことが、夜彦を生に繋ぎとめ続けたことも間違いないのだ。そして、朝彦が夜彦を想って手を伸ばし続けた気持ちもまた、本当は夜彦には届いているのだ。
「よく、恥ずかしげもなく親友だと言えるな」
このセリフを発する30歳の夜彦に、憎しみや恨みの気持ちは薄いように思う。恥ずかしげもなく親友、と言えてしまう朝彦のことが、きっと本当はずっとずっと大好きなのだ。夜彦はネクラなので、親友、なんて言葉は怖くて使えないのかもしれないけれど、親友と言ってもらえるのが嬉しくて仕方ないような気がしている。


◆朝彦にとっての贖罪

本作は、17歳の夜彦が30歳の朝彦のもとに訪れてくるという筋書きになっている。そのため、17歳の夜彦の言動は、朝彦が思い描く夜彦であり、どうしても朝彦風夜彦になってしまっている部分がある。また朝彦が、今の自分に夜彦から言って欲しいことを言わせている、という側面も持つ。

そもそも、なぜ朝彦のもとに17歳の夜彦が訪れたのか?そのきっかけは通知表に「死にたい」と書いた生徒がいたからだと思う。そこにかつての夜彦を見出し、自分が親友を裏切った罪を思い出し、いつまでも通知表になんと書いたらいいのかわからず学校に居残っていた。
いや、朝彦はずっと、夜彦との約束を破ったことを後悔しながら生きてきたのだ。親友が助けを求めているときにいつもの自分らしく、お茶を濁すようにしてあの場を逃げ去ってしまったこと。それはずっとずっと、彼の中に残っていた。「犯人は犯行現場に残るものだ」という台詞が印象的だったが、もしかしたら教師という仕事を選んだのも心のどこかに、夜彦への贖罪の気持ちがあったからかもしれない。
通知表に「死にたい」と書いてきた生徒に対し、夜彦に一緒に死ぬか生きるか選ばせたように、とことんまで付き合ってやれるのか、彼は葛藤している。自分はどこまでいっても「朝彦」なので、きっとまた夜彦を裏切った時のようにこの生徒をも裏切ってしまうかもしれない。だけれど、死にたいと思う人間を放っておくほど、残酷な人間でもない。ある意味トラウマを抉るような時間の中で、朝彦は幻想の夜彦を生み出し、夜彦と対話をする。
「どうして約束を破った」、そういって迫る夜彦。罪悪感に苛まれ続けてきた朝彦が生み出した夜彦として、あの態度は正しい。朝彦は自分を責める夜彦に真実を打ち明ける。どうしても死にたくなかったのだと。
屋上で飛び降りることができなかったあの日から、一度も夜彦と顔を合わせることもなかった朝彦はようやく、夜彦にきちんとおまえのことを恨んでいたと言ってもらえた。そして、自分は決して夜彦を見捨てるつもりはなかったと告げることもできた。ずっと胸に抱えてきた想いを吐露した時、夜彦は子どものことを聞く。おまえは幸せか、ネズミの前で死んだりしないか、子どもに死にたい朝を残したりしないか、と。朝彦はハッキリと告げる。しない、と。
よかった、と安堵した夜彦の微笑みは印象的だ。朝彦が朝彦のまま、健やかで幸せであることを赦す夜彦。そんな夜彦であることを誰より望み、幻想にまで見たのは、朝彦自身であろう。子どもとともに健やかな小さな幸せを大切に生きていく。朝彦はそんな自分自身にすら、夜彦に対して罪悪感を抱いていたかもしれない。しかし、かつて夜彦とともに死んでやれなかった朝彦だが、朝彦には朝彦の人生があり、彼なりの夜彦の救い方がある、それを夜彦に認めてもらうことで、朝彦は自分の中の罪悪感を整理したのだと考えている。
さて、そのあと現れた30歳の夜彦は、通知表の付け方に悩む朝彦に、3をつけて茶を濁せと皮肉を言う。しかし朝彦は死にたいと書いた生徒に対し、きちんと向き合おうと腹を括る。かつての自分は夜彦に向き合い続けることができなかったけれど、大人になった自分にはやるべきことが見えている。
朝彦は過去を乗り越え、大人になる。まさに1980年代という青春が、彼の中でもようやく、過ぎ去ろうとしていた。とある冬の日、もう一人の夜彦である死にたい生徒に手を伸ばそうと決意したとき、ようやく朝彦の中での贖罪が完了する。通知表に「死にたいと思うくらいなら殺してやると思いなさい」とでも書くのだろうか。すべてに諦め、空虚に囚われ、自ら命をたつよりも、誰かを憎んだり恨んだりしながらでも生きる、その先に人生は、いかようにでも続いてるのだ。30歳の夜彦が、それを朝彦に教えてくれる。
果たせなかった約束があった。でもそれよりずっと前、いつしたのか覚えていないくらいの古い約束を、大人になった朝彦と夜彦は守ることができた。生きることは苦しくて、つらいことも多いけれど、共に生きてくれる人がいるなら悪いものじゃない。そう思わせてくれる、ラストシーンだった。

◆菊池修司くんの夜彦

ここからは菊池くんにただ発狂しているだけの文章になるのですが、これまで観てきた舞台が『メサイア』『熱海殺人事件』『富豪刑事』『HELI-X』だったせいか、彼に対して「光」や「人情味」のイメージがあり、意外なキャスティングかな?とも思っていました。
が、今回はそんな彼の持ち味がこの朗読劇に、これまでにない余韻をもたらしたのだろうなと受け止めています。
これまでも何度か書いてきたように、菊池修司という役者は、はじめは頑なで冷たいような印象がある役に彼自身の純粋さ、熱さ、優しさが滲み出たときの演技の破壊力が凄まじい。特に、周りの役者の演技を受け取って、それに返す時の情感の溢れ方がとても好きなんです。
『朝彦と夜彦』においても、躁鬱が激しく、死の影に囚われ続けるという、普通からは遠くかけ離れたキャラクター設定でありながら、朝彦の助けを一心に求め、拠り所にする無垢さ、朝彦の優しさに夜彦なりの優しさで呼応しようとする愛情深さが、際立っていたように感じました。また、吉村さんの「手のかかる人間の面倒を見ずにはいられない」朝彦のゆるぎない光っぷりも素晴らしかったので、まさにこの二人は、希望の朝というゴールに向かって共に、一直線に進んでいった二人だったかと思います。
と、菊池くんの夜彦の健やかぶりについて書いたところで、とはいえ私は「菊池修司の闇の演技」というものを初めて観たのでなかなかそこも楽しかった。暗闇のなかにぼんやりと、今にも消えてしまいそうな儚い表情でたたずむ姿、死にたさという感情をグッと耐えて耐えて壊れそうになっている姿とか…あんな大きな瞳からハイライト、消すことできたんですね?!って思っちゃった!菊池くんの舞台、成長を、また観させていただきたいと思えました。

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