「何かをするには、コストがかかる」という、当たり前のはなし
今日は、「何かを達成しようと思ったら、必ずコスト(=時間、労力、お金)がかかる」という、当たり前の話をする。
至極当たり前なのだが、これをわかっていない人が多いんだな、という思いをすることがこの数日で立て続けにあったので、今回はとにかく当たり前の話を終始する。
ひとつ目の例は、「身内以外の他人に作業をしてもらう場合」だ。
Web制作なんかをやっている人だと、けっこうあるあるなのかもしれないが、過去に作ったWebサイトの修正に、料金がかからないと思っているクライアントがときどきいる。
もちろん、保守管理契約を結んでいて、毎月あるいは毎年費用が発生しているならその中で修正対応をすることは可能だが、サイトを作って納品して売り切りという場合には、後々の修正費用は当然ながら必要になる。
(日常的に仕事を請けていたりして、「まとめてやっときますね」みたいなことはあるけれど、そういうのはまた話が別である。要はそこは関係性の問題)
Webサイトだろうがなんだろうが、何かに手を加えるとなれば作業をすることになるし、さらに言えば「どんな修正をしたいのか」ということをヒアリングする必要もある。
ビジネスにおいて、「何かを依頼する」というのは「時間や技術を買う」ということであり、そこに費用が発生するのは当然のことなのだ。
「コスト意識の欠如によるズレ」はひとつの会社内でも起こる。
社内で何かプロジェクトを進めていくにあたって、特に決裁権を持つような立場の人から「この仕事はコストをかけられないから社内でやる」という発言が出ることがある。
プロジェクトに使える予算が決まっていて、あらゆるタスクを外注していては予算オーバーになるので、社内でできることは社内でやりたい、というのはわかる。
その考え方は間違ってはいない。
しかし、社内でやるからといって「コストがかからない」という認識は、経営の観点からいうと非常に危険であるといえる。
ものすごく単純に考えれば、従業員の仕事が増えるのだから、その分報酬も増えるはず、となる。
そこで追加された仕事に従事する人の基本給を上げたり、賞与に反映するという方法をとるのであれば、これはわかりやすくコストとして捉えることができるだろう。
では、直接的には給与に反映されない場合、つまりほとんどの日本企業に見られる「月給◯◯円」という時間給の場合はどうか。
タスクが増えることで、そのまま残業が増えて残業代に反映されるなら、これもまたコストとして換算しやすい。
残業代も変わらないケース(なんやかんや就業時間中に収まる、あるいはみなし残業代制など)になると、仕事は増えるが給与には反映されない、ということになる。
「トータルの能力や経験に応じて月払いしているんだから、その時間内に何を指示してやらせてもいいはずだ」と考える人もいるかもしれない。
それは間違っていない。
ただ、「そこにはコストがかからない」と考えるのは間違いである。
従業員側が納得してその仕事を受け入れるのなら良い(それでも、体力的な消耗は発生する)のだが仮に「同じ給料なのに仕事だけが増えていく」という不満になれば、モチベーション低下や、離職リスクもコストになりうる。
それを防ぐためには、従業員への納得感(評価につながるという確信やその仕事へのやりがいなど)を設計しなければならず、そこにも当然労力が発生する。
この認識を誤ったまま経営を続けていると、必ずどこかで歪みが生まれたり、空中分解することになる。
最後の例は、少し毛色が変わる。
「成功するためには」みたいなノウハウ本とかコンテンツは、巷にあふれている。
だいたいは、何かしらで結果を残した人が「自分はこれこれをこんなふうにやってきた」ということを書いている(たまに、何の成功もしていない人が書いているひどいものもあるが)ものだ。
そういう本は全然いいと思うのだが、勘違いしている人が多いのは、「その本に書いてあることの背景には、死ぬほどの努力が隠れている」ということだ。
毎週必ず作品を公開したとか、毎日素振りを1000回やったとか、5年間ひたすら足で営業しまくったとか、大きな成功を収める根底には、99%そういう地味な努力があるはずだ。
こういう話は、ノンフィクションとかドキュメンタリーだったら目玉エピソードになるが、ノウハウ本ではあまり語られないし、触れられることはあってもクローズアップされることはない。
ノウハウ本の読者が求めていないからだ。
「ひとつのアイデアでトップに上り詰めた」みたいなサクセスストーリーもあるけれど、ではその「ひとつのアイデア」をひねり出すためにどれだけ学んで、どれだけ色々なところに足を運んで、どれだけ頭を捻ったか、ということはなかなか言及されない。
僕自身は「楽に、楽しく過ごしたい」というのが根底にある、そこそこの怠け者だとは自認しているけれど、それはあくまでも「この水準で十分」と思える範囲の物事での話だ。
仕事でも遊びでも「本気でこの商品を売りたい」「これを成功させたい」と思ったら、しっかり時間と労力をかけて取り組むようにしているし、それをやったことに対してはそこそこ結果も残してきたと思っている。
反対に、そこそこサボったものの結果は、小手先であれこれやってもせいぜい「そこそこ」だ。
繰り返しになるが、これは当たり前のことで、何かを成し遂げようと思ったら、それ相応の時間、労力、あるいはお金を注ぎ込まないといけない。
さらに言うと、「時間」と「労力」はかなり多くの人が安く見積もりすぎている印象がある。
だから、今回触れたような「このくらいやってもらう分にはお金かからないでしょ」という感覚になってしまう。
本当に本当に当たり前だけれど、僕たちは忘れがちな事実である。
何かをするには、コストはかかる。
コストを本当にかけないなら、かけないなりの成果しか得られないし、仮にそのときだけある程度うまくいったとしても、それは必ずツケになって後から返ってくるのだ。
「なぜかうまくいかない」と思ったら、コストのかけ方を見直す前に「そもそもかけるコストはたりているのか?」を考えてみる必要があるかもしれない。