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僕の経歴について

今日は、自分語りをしてみることにしよう。
そのままnoteのプロフィールにする。
けっこう、「どんな人間が書いているのか」は重要だと思うので、きっと長期的にも意味のある記事になることを信じて。

経歴は、あえて現在から遡る形で書いていく。
たぶんここを見てくれた人は「今どんな人か」の情報をまずは知りたいだろうし、あとはなんとなくその方が珍しいかな、と思ったからだ。

時系列のほうがいい場合は、下から読んでもらえればOKである。

また、プライベートの内容もちょっとだけれど織り交ぜていくことにする。

追伸:
思ったよりもゴリゴリのプロフィールというか、ガチガチの自己紹介というか、ガツガツの経歴というか、そんなものになってしまった。
すげぇ長い。
たまーに見返して、書き加えたり、書き換えたりしていこうと思う。

【基本情報】

名前(本名):廣江 和也(ひろえ かずや)
生年月日:1989年(平成元年)2月24日
出身&居住地:愛知県(生まれてからずっと愛知県民)
家族構成:妻、長男

〈Web制作会社 UXプランナー時代/2021年〜〉

2021年の7月より、名古屋のWeb制作会社でUX領域を担う部署のメンバーとして勤務。

肩書きは「プランナー」。
企画営業とディレクターを兼ねるという点では、前職の立ち位置にとても近い。

副業もまったく問題なくOKなので、本格的にフリーのライター・編集者・ディレクターとしても活動を開始できることになった。

〈広告代理店 ディレクター時代/2017年〜2021年〉

2017年より、豊田市の広告代理店にディレクターとして勤務。

地元のフリーペーパーを中心として事業展開している会社ではあるが、僕自身は主に一般企業や行政機関の各種制作物(Web、冊子、パンフレット、チラシなど)を担当。

単なる制作だけでなく、クライアント製品のプロモーションやブランディングも担当しており、マーケターとしての側面を強化している。

どんな場合も、関係者全員がwinnerになる企画をつくる。
的なことをモットーにしているが、もう少しいい感じの言い回しを募集中である。

ディレクターとして働く傍らで、ちまちまではあるがライターとしても活動。
Web系、広告系のネット記事を中心に執筆している。

仕事内容もさることながら、ここで人生の伴侶(古い?)を見つけたという点で、大きなターニングポイントになったといえるだろう。
要するに、社内結婚だ。
隠して付き合っていたので、発表したときはみんな驚いていた。
けっこうばれないものである。

2019年の5月には、長男が生まれた。
子どもってこんなにかわいいのか、と月並みなことを思いながらじゃれ合う日々である。

2020年、お世話になっていた上司が辞めていったことと、そろそろここでやれることにも限界が見えてきたことなどがあり、転職することに。

より上流のところから、クライアントに踏み込んで制作や企画のできる会社・ポジションを求めて、エージェントに相談する。

コロナの影響もあって(?)、夏〜秋は停滞気味だったが、11月から本格化。受けた先の事情もあって翌年までずれこんだが、2021年4月、無事に内定。

2021年6月末をもって、退職。

〈出版社勤務 編集者時代/2014〜2017年〉

2014年12月から2年半ほど、名古屋の出版社で編集者として勤務。

ビジネス書、家事やらお金やらの実用書、ライトな仏教ものなどの人文書、教養系の児童書などの一般書籍を手がける。

業務の幅としては、企画から進行管理、本によっては取材とライティング、校正・校閲と、一通り受けもっていた。

作り方は様々で、世間のイメージどおり著者を立てて書いてもらった原稿を編集していくこともあれば、1から10まで自分で調べて書いていくこともあった。

実用書や児童書の中に盛り込むマンガの構想とネームまでかいたことも数回あって、それはそれでいい経験になった。
自分でストーリーを作ってきた経験はここで生きたと言えるだろう。

パブリシティの作り方の流れとノウハウは概ねこの時代に学べた。

本づくりは面白い仕事だったが、この会社でできる仕事(本のジャンル)の幅と業界的な面で限界を感じたことと、代表の旧態依然のスタイルが合わず、以前より興味のあった広告業界への転職を決めた。

〈信用金庫勤務 融資担当/2011〜2014年〉

2011年4月、新卒で地元の信用金庫に入庫。

家からほど近い支店にて、融資係として勤務した。
具体的な仕事内容としては、得意先係がとってきた案件の融資稟議申請書作成、事業者決算書の管理、住宅ローンや個人ローンの受付と審査、申請など。

男性職員はだいたい2〜4年くらいで外回りに出るのだが、僕の場合は結局辞めるまでの3年半ほど、ずっと融資係にいることになった。
支店長は早く営業に出したがっていたが、人事の流れ的に「いま融資を離れるとこの支店の融資を担当できる人間がいなくなる」ということが多く、タイミングを逸し続けていた感じだ。

ここで営業経験を詰めなかったことは少々残念ではあったものの、代わりに融資関係のことはそこそこプロフェッショナルになったし、原付で町を走り回るのも嫌だったから結果的には良かったと思っている。

もともと「この先どこの業界に行くにしても、とりあえず金融の知識は今後も役に立つだろう」という思いで就職を決めていた背景もあるが、3年やってやはり仕事に興味を持てなかったことと、業界的な将来性のなさもあって、少しずつ転職を検討するようになった。

学生の頃から本好きで、自分自身もそれなりにきれいな文章をつくることにも自信があったので、ちょくちょく出版社の求人をチェックしていた。

ある時、何度か見ていた名古屋の出版社のサイトで、編集者を募集していることを発見し、ダメ元で受けてみたところ、なぜかあっさり受かってしまう。
(後で聞くと編集部は経験者を求めていたようだが、まぁ未経験にしては最初からそこそこできたと思っている。きっと)

辞める旨を伝えると支店長やら人事部長やらに相当引き止められた。
ありがたい話ではあったが、当然その時点でひっくり返せるわけもなく、退職。

元金融機関職員という肩書きは、稀有というほどではないがこの業界ではわりと珍しがられる(信金だから地元では知られているし)ので、悪くない選択だったと思っている。

なお、「金融」のジャンルにも「教育」のジャンルにもそれほど強い興味があるわけではないが、「金融教育」のプロジェクトは将来的に何かしらやりたいと思っている。
これは、実は信金職員時代からずっと思っていることである。

〈大学生 2007年〜2011年〉

何を隠そう、教育大学出身なのである。
ただ、教員になりたいと思っていたわけでは全くない。

行こうと思っていた大学が別にあったのだが、センター試験で失敗して断念することになった。

経済的な面も考慮したが、それよりも「行く大学よりも、自分がそこで何をするかだし、まぁ浪人するほどでもないか」という思いが勝って、家からある程度近い国公立を検討した結果、ここになった、というだけのことだ。

ただ、自分の思い描いていた、学問にどっぷり浸かるという大学生活の可能性は、ここで実質完全に途絶えたといえるかもしれない。

間違いなく一生の付き合いになる二人の友人に出会ったという点だけでも、この選択は間違っていなかったと思っている。

別の道に行けば別の出会いがあったことは確かだろうが、少なくともこの友人たちは、出会っているのと出会っていないのでは人生が大きく変わっていただろうというレベルの人たちである(たぶんお互いに)。

彼らとは映像作品つくったりドッキリをやったりと、色々なことをしたので、もしかしたらそのうち記事にするようなこともあるかもしれない。
(思えば、やることが派手になったのは社会人になってからだ)

ほかにも、とある行事の実行委員会に入って組織のことを学んだ、みたいな就活生みたいなエピソードもたくさんあるが、大学のハイライトは圧倒的にその二人とのことになるので、まあこのくらいにしておこう。

あとは、「お金をつくる」という概念を学んだのは大学時代だったように思う。

やや怪しげな人も含め、自分でお金を稼いでいる人と会ったり話したりという経験をした。
今でもまだまだ未完成ではあるが、お金に対しての価値観の大枠をつかめたことで、「将来は一生同じ会社に勤め上げる」という考え方を早めに消せたのは大きかった。

〈高校生 2004〜2007年〉

それなりにがんばって入った進学校だったが、この3年間は正直何もしなかった。
今でもずっと付き合いのある友人もできたし、そこそこ楽しんだし、有意義でなかったわけではないが、サボった。
と思う。

人生のどこかの3年間をやり直せるなら?
と聞かれたら、真っ先に思い浮かぶ時期だろう。
(でも、たぶん最終的にはほかの3年間を選ぶ)

一番悔やまれるのは、数学でつまづきまくったこと。
あれだけつまづきまくった以上、おそらく適正がなかったということなので仕方ないと思っているが、高2あたりで完全に理系の道を諦めた。

世界史と現代文が得意だった(楽しんでいた)ことを考えれば、周りから見てもわかりやすく文系人間だったことだろう。

〈小学生〜中学生 1995〜2004年)

基本的には、いい子だった。と思う。

全体的にちょうどそういう世代だったこともあるだろうけれど、特に先生を困らせることもなく、友達もいたし、中学時代は部活も頑張ったし、お勉強も特に問題なくできていたので、どこのクラスにいても楽な生徒だったのではないだろうか。

小学5年生で嫌われがちな先生が担任になったこともあってちょっとした反抗期が到来。
小学6年生のときにクラスで団結してちょっと授業をサボったりした。

こういうのがドキドキワクワクして、すごくいい思い出になっていたりする。
ただ、「不良」という感じのクラスではなく、みんな根はまじめだった(というか、成績だけで言うと僕のいたクラスはずば抜けていた)ので、意外とそんなに問題にならなかった気がする。

当時の先生には非常に申し訳なかったと思うけれど、あの経験をしたおかげで、あのクラスの子たちはもう先生に反抗したりする時期があれでほとんど終わったんじゃないかと思う。

中学時代は、わりと充実した3年間だった。

部活(テニス部)も人並みにはゴリゴリやったし、受験勉強もしっかり経験できた。

そして何より、僕の今の仕事や考え方、あるいは趣味などの土台は、中学2年生くらいのときにできあがったものがとても大きい。

まず、本格的に読書を始めたのが中学2年生だった。
最初にのめり込んだのはミステリー作家の森博嗣先生だ。
これが決定的だった。

今回は詳しくは書かないけれど、僕の現在の文章のあり方、思考方法、そして学問への憧れは、森先生から始まっていると言っていいだろう。

もうひとつ、中学2年生のときにサッカーを見始めた。
バルセロナのファンになり、それから15年以上にわたって動向を追い続けているので、趣味の領域ではあるものの、特筆に値するポイントだ。

〈幼少期 1989〜1994年〉

1989年2月24日、愛知県名古屋市に生まれた。
昭和天皇の大喪の礼(天皇の葬儀のこと)の日で、ほとんどの国民が喪に服し、店もほぼ開いていない1日だったと聞いている。

待望された一人っ子で、いとこも軒並み年が離れていた(ほとんどが10歳ほど年上)こともあり、親にも親戚にもこれでもかというくらい可愛がられて育った。

たぶんほかの子より怒られることが少なくて、褒められることが多かったと思う。
結果的に今のこの性格になったと思うと、それなりに納得感がある。

この時期に最も苦労をかけたことといえば、間違いなく身体のことだ。
よくある話なのだろうが、小児喘息持ちだった。

生後10ヶ月頃で発覚して、幼稚園の年長になるくらいまではかなりの頻度(1ヶ月に1回くらい)で入院していた。
1〜2日で退院できることもあれば1週間以上の入院になることもあって、親には相当な負担だっただろうと思う。

それでも、前向きに病院に通い、病室で一緒に泊まって、家では常に喘息の要因になるハウスダストなどに気を配り(ほぼ毎日欠かさず家じゅう掃除してくれていた)、徹底的にケアをしてくれた。

今までの僕の人生でいちばん大変だったのはたぶんこの時期だが、親のほうがよっぽど大変だったと思う。

必死の闘病(?)生活の甲斐もあってか、次第に体も強くなっていって、年長の9月に名古屋から郊外の田舎に引っ越したのを機に、喘息はだんだん出なくなっていった。
(都会と郊外の空気の違いを本当に実感した)

お陰さまで、小学生になるころは他の子たちと変わらず健康な毎日を過ごせるようになっていた。



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