『未来への大分岐』読了ーうっすらと気づいていることについて

昨日書いた通り、こちらの本を読了しました!

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(画像は集英社HPより引用です。)

中身のご紹介や解説は割愛します。調べればすぐ出てきますので!

さて、本書を読み通して痛切に感じたことは、(就活性の分際なのであまりにも思い切ったことをいうのには恐怖が伴いますが、)「大胆な変革にしり込みしている場合では、もはやないのかもしれない」ということでした。かいつまんで書いてみます。

斎藤氏と、その対談相手である3人はいずれも気候変動という大問題に正面から向き合っています。ちょうど昨今のコロナ禍で経済活動が停止したことにより、大気汚染などの状況が改善されたという報告があちこちから聞こえてきていますが、「改善しようと思えば改善できる」ことが半ば不幸なかたちで証明されてしまっているような気がしています。ヴェネツィアの運河の水は澄み、中国の大気汚染指数は低下し、インドのパンジャブ州からは200km離れたヒマラヤの峰々が見渡せるようになったという記事を目にしました(たとえばこちらを参照)。今回のウイルス騒動によって減少する一酸化炭素量や二酸化炭素量は、これまで、そしてこれからの気候変動の中では微々たる存在かもしれませんが、やはり、経済活動が気候変動に関与しているという事実は、私たちの目の前に突き付けられてしまいました…。

さて、こういった、破壊ともいうべき気候変動を引き起こしながら「成長」を目指してきた経済ですが、どうやら「どんなことも7世代先まで考えて決めなければならない」というイロコイ族のような発想とは真逆のところから生まれたもののように、改めて感じさせられます。本書の掲げる、短絡的な「成長」にメスを入れつつ、かといって「脱成長」を目論むわけでもない、という点は読者それぞれの胸に刻み込まれるべき教えです。私たちの次世代、さらにその後の世代の幸せと繁栄を願うがゆえのラディカルな思想の提示という側面を見逃して、本書を「危険思想だ」「左派は怖い」などとシャットアウトしてしまう読者もいるのではないかな、と推察しますが、それはもったいないスタンスに思えます。

また、この本を読んでパッと思い出したのはウルリッヒ・ベックの「リスク社会論」です。前近代的な紐帯がほどかれ、今や(ネットワーク上の)点として存在するようになった個々人を再びつなぎとめるものはリスク、あるいはそこからもたらされる不安感だという主張です。まさしく今、ウイルスのもたらす不安に対し「みんなで打ち勝とう」というスローガンが掲げられていますよね。なーーんだ、どうせ上からの連帯か、つまらん…と思っていましたが、イタリア在住の知人が紹介してくれたのは「ある街の飲食店経営者は”死んだら美味しいものも食べられなくなってしまう”という思いで政府の命令が下りる前に文字通りの営業”自”粛をした」という事実です。これは確かにリスクが連帯を作り出している…不謹慎ながら感動してしまいました。。。
ちょっと話がそれましたが、なぜ「リスク社会論」を思い出したのかというと、ベックのいう「リスク」は主に環境リスクを想定したものだからです。私たちには、全地球市民(いや、全生物・植物を含めてもいいかもしれません)の共有財産である地球の危機を前に、私たちの連帯が求められ…。はてさて、連帯してしまうのか、連帯を求められるのか、どっちなんでしょう。今のところの私の予想では、経済力という単一のものさしで測った場合の「弱い立場」にあるもの(者)は連帯してしまい、「強い立場」にあるもの(者)は連帯することを求められるようになっていくのかな…と。あなたはどうお考えですか。あるいはリスク社会論に真っ向から反対するでしょうか。


さて、あまり深堀するのも、ね…ここはゼミではないので。

オンライン飲み会の準備に入ろうと思います。

次は 浜名優美,2000,『ブローデル「地中海」入門』藤原書店.が手元にあるのですがこれを取り上げるかは未定です…。

読書に文脈を持たせるために定常型経済について語っている本に手を出してみようかなとも思いますが、大学の図書館が実質閉鎖+バイトのシフトが削られ本をバカスカ買えない、というところもあり。。。文脈のない読書ができる贅沢に浸ろうかとも思います。


では!



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