4月23日(金)
また面接があった。昨日は気がつかなかったが、30分もあると途中から「えー……」「あー……」等の声が自分の口から漏れていることがわかってくる。面接においてそれは良くないのは明白であり、自分としてはそれがなぜいけないのかはわからない。普通、自分がする質問に、用意した答えを頭に刷り込んでハキハキ答える奴と遭遇した場合、よほどポジティブな人間でない限り「用意した答えを頭に刷り込んでハキハキ答えてんな」と認識すると思うのだが、世の中の多くの総務部人事課採用係様方はそうではないらしい。お仕事たいへんそうですね。とにかく見てくれの誠実っぽさだけで判断した方が効率的なのだということで、他人に即答を求める。手探りで言葉を紡ぐことは悪であるとされる。効率性を突き詰めると人は人ではなくなっていくのは常識だと思うのだが、人ではなくなった人たちのためにつくる効率的な社会は、いったいどこへ向かうのだろうか。
──死へ向かうのだ。だからそれまで頑張れという人たちが多くいるが、その態度を、カッコいいとでも思っているのだろうか。少なくとも楽しくはない。奴らの頭のなかには正しさが犇めいている。
緊急事態宣言が一都二府一県で発令される。全部オリンピックのためだ。史上最高レベルで馬鹿馬鹿しい。Twitterでは当然反発の声が上がる。声は金とバカどもの支持でつくられた耳栓で遮断され届かない。バカどもの支持というのは上述の、「何かを我慢して死に向かうのがカッコいい」と思っている少年漫画脳の連中で、決められたことを守ることのみが美徳であるという奴隷根性を極めている。あるいは、「一度決められてしまったものはポジティブに乗りきろう」とかいう少年漫画脳の変形版の似非社会人的奴隷仕草で、小池都知事の夜8時以降の店への消灯発言を「ヤシマ作戦だ」とか言ってはしゃいでいる、オタクの皮を被ったパリピ的大馬鹿者共がそれに該当する。いやおかしい、それじゃ権力の思う壺だぞ、正気に戻れと他のオタクたちが諭しても「人生楽しくなさそう~」「文句ばっかし」「批判じゃなくて対案を~」とかいった、空気を読め、水を差すなというクソリプのような反発ばかりで、奴らは市民社会や公共性を閉塞的な教室の延長だと捉えていることがよくわかる。奴らは今やオタクではない。あるいは、オタクは今やオタクではない。コンテンツの有名性やわかりやすいイメージや用語ばかりが独り歩きして、率先的に空気を読む、原理的にはオタクではない馬鹿共の頭のなかにもたまたまそれが情報として了解されているだけだ。正直言って、Twitterのトレンドにオタクのワードが毎日何かしら入っているのは、自由なので好きにしたらいいが、それでもオタク文化の本来の価値を落とし続けていると感じる。今やオタクもまた社会だ。個人を守るものではなくなって、権力者のお達しにみんなでどう適応するかという、その「適応」ではなく「みんな」に気をつかうためのミームでしかない。これは人文学の知識や教養や想像力をすべてポリコレ的に収斂しようとするリベラル知識人も同じであり、その劣化版として今回のような似非オタク共がいる。80年代末頃に立川談志が、時事ネタで笑いを取る、映画監督になる前のビートたけしに「現象ばっかり追いかけてたら何も残らねぇよ」と苦言を呈しているが(談志はその後の十年でたけしへの評価を「あいつにはジャンルがないから」と言い訳しながらも改めるが)、全くその通りで、目に見える現象、表象みたいなものを正しさを追いかけたい欲望のみが、今の自称オタクたちを駆り立てる。これはこの日発表されたSouとChinozoの、KAI-YOUでの対談(https://kai-you.net/amp/article/80105?__twitter_impression=true)における話題からも見てとれる。
一見楽しさであるというものも、自分がそれを一見しかしていないことに気がつかない限りは、中途半端で、水を差されると「その場の空気」という正しさを持ち出して周囲に頼るしかない脆弱なものでしかない。楽しさに根拠はいらない。実は根拠でさえ楽しいものにできるからである。または楽しさを回避するネガティブさに楽しさを見つけることも可能で、中二病的であり突き詰めるとメンヘラになってしまうが、それでも権力者の横暴をすぐにオタクの文脈に入れ込んで安直に当事者性を許容する万年少年漫画脳よりはマシだとわかる。中二病・メンヘラで止まるのは中途半端で楽しさを突き詰める信仰がまだまだ足りない。そんなことだからパリピに負ける。ヤンキーに負ける。夜からは光がなくなっていく。あなたの手首の傷も、吐く言葉も、オタク文化の源泉である想像力の往来も、それが夜であることですら、みんなわからなくなっていくのが、光の消滅し尽くした後の夜の光景である。夜は味方ではない。夜は、正しさからの逃避と静けさのためにある道具、引きこもるための空間であり中立なものであり、平衡はすぐに失われ得るものだということは失われてから気がつきはじめる。あるいはそれでも気がつかない。
これからどうなってしまうのだろう……と、まさか就浪である自分の身のみならず社会全体に懸念する事態になるとは想像もつかなかった。一見狂っていないように見える社会に、いーやおめえらは狂ってる、とあの手この手で横槍を入れる80年代の談志的な精神性が私のような就浪の醍醐味であるが、今や社会の方が明確に狂っていて、それを隠そうともしない。大多数の個人の認知がそれ以上に狂っていて、社会の狂気でさえホームルーム的なノリと空気で許容しようとしている。面接で言葉が手探りになるようなネガティブさを否定しつくした先には、光のない夜が待っている。暗闇のなかで狂ってみても誰にもわからないまま死んでいくだけである。せめて言葉は、暗闇のなかの狂気を遺すことができるのだろうか。