3月28日(日)
オンライン入社試験があった。通るはずがないと思っていたESが通らないのはいつものことだが、通るときもまたいつも通るはずがないと思っている。けれど、そのどっちに転んでも予想外といういつものパターンのわりには、その後にやれ面接しますだの試験しますだのお祈りしますだのと言われるのにはいつも慣れないまま、いつもたじろぐ。慣れとは一つの物事に本当に集中すればすぐにやってくるもので、たとえば一つの家に住むとか、バイトをするとかだったら身体は半年くらいで慣れてしまう。就活には一年かけても慣れなかった。集中していないからである。
となると他の、ちゃんと社会人になれた人たちは、ちゃんとその集中力を持っていることになるのだろうか。
この立場になってから、不思議に思うことがある。私はこれまで、時間の流れに沿って幼稚園→小学校→中学校→高校→大学と特に滞ることなく過ごしてきて、今それがはじめて滞り、にっちもさっちもいかなくなっている。確かに、この矢印の連なりのなかで幾度となく躓きかけたことはある。勉強はしなかったし、課題の提出も全部忘れたフリと土下座と涙で済まして、サボってきた。人にはたくさん迷惑をかけ、高校のときは停学になったりもした。だが、それでも本格的に人生でドツボにはまることはない、もしはまった場合は世界が通常よりおかしいか、自分が通常の人間よりおかしいのだと思っていた。さらに言えば私の人生は、いたって健常である私にとって最適なものであると思っていた。
だが、最近その常識は覆りつつある。確かに今世界はコロナでおかしい。外気のなかで誰も素顔の下半分を見せられない、人と人とが触れあうことを躊躇われる──これは明らかにおかしい。だが、それ以上に自分に通常の人や社会人たちと違う、社会人たちよりはるかに劣る部分があるのではないかと思えてきている。
私は今でも自分が普通で健常でハッピーだと信じて止まない/病まないが、たとえばオンライン入社試験での、「常識」を勝手に自称する難しい(と私は思っている)計算問題やひねくれた(と私は思っている)論理問題などを、果たして他の社会人はあの赤文字の制限時間内で、プレッシャーのなかで全て解き終わることができるのか、私には甚だ疑わしいのだ。「常識」とは何か。私は普通に生きてきたはずなのだが、どう生きてたらあんなん解けるようになるのだろうか。数字が順不同にからまり合うのを「論理」とかいう規範で統率することへの素早さは、どういう「常識」の中で生活すれば身につくのか。
何度も言うが、私はこの22年間、停滞をなにも経験しなかった。別に家が裕福だったわけでもなく、母子家庭で、サイコパスじみた祖父母にぬるく深く抑圧されながら生きてきたけれど、それでも躓くことはなかった。だが今、この現状におかれてみると、私は躓かないように足取りばかりを気にして、どんな道を歩んでいるかは考えていなかったことがわかる。途中で得たものは何もなかった。今の私の就活は、手ぶらで市場に来てしまって、仕方なく往来で乞食をやっているようなものだった。
『日本書紀』現代語訳 下巻を推古天皇まで読む。欽明天皇の部分は古代の複雑な朝鮮半島情勢+日本の中二病っぽいでしゃばりでよくわからなかったが、敏達天皇からは崇仏論争や皇位をめぐるごたごたなどでだいぶ読みやすくなる。
noteで面白い記事を探していくつか見つける。
寝る前に落語を聴く。立川談志『鼠穴』。久しぶりに聴いてみて思ったが、落語ってそうしょっちゅう聴くようなものでもないと思う。『鼠穴』は、談志が言っていた「兄の行動にはちゃんとした意図なんてなくて、全部なりゆき」という意見に同意する。その方が気持ち悪くて人間味がある。
偶然、5年前のすっぴんの高橋源一郎と中原昌也の回の後半を聴く。中原昌也は唸ったり吠えたりしていた。
次の日の朝に寝る。