4月24日(土)
『重力の虹』下巻をやっと読み終えて次は同じくピンチョンの『メイスン&ディクスン』上巻 柴田元幸訳 新潮社を読む。
相変わらず隣がうるさい。毎度不思議なのは隣に人が集まる理由である。何ひとつ楽しいことなんてないのになぜか人んちに行きたがる人は結構いて、それは訪問というより冒険といった心持ちで、むしろ招き入れる方が何かと気をつかう。私としては、たとえば物書き系の有名人の本棚やフォローしている人の、たまにTwitterにあげる部屋の本の山の写真は好きで、読書家の友達がいないのでそういう部屋への訪問はおそらくテンションが上がるだろうが、さまざまな面での私の能力が他より段違いに低すぎて、そういった輪には一生入れてもらえそうにないのでそれは実現しない。たまによくわからないYouTuberやニュースのコメンテーターがわざわざ背景を本棚にして話していたりして、あるニュースのコメンテーターなんかは本棚の絵の描いた貼り紙を後ろに貼ってリモート出演していたが、ああいう場合は本がギッチリ詰まった本棚という記号によって、発言権を視聴者に暗に認めてもらおうとしているのかもしれない。大学時代にゼミをオンラインでやる際、教員から「君の部屋はてっきり本棚だらけかと思ったんだけどねぇ」と言われたことがある。私の部屋の、もうほとんどスペースが残っていない本棚や詰まれた本や漫画さ全部パソコンのある机の両サイドに置いてあるため、パソコンのカメラから部屋をまっすぐ映すと真後ろの白い壁しか見えないかたちになっている。これ見よがしに本棚を晒せるほどのスペースが私の部屋にはない。そもそも足の踏み場がなくなるので本を床に積みたくないのだが、家具屋なんかを見ていると本棚はお洒落なインテリアで小さな飾りつけとしか見られていないことがわかる。驚いたのが東浩紀が自室から配信するときに背景にしている本棚で、開閉式になっていて横に動かすと別の本棚が現れる仕組みになっていて、完全に部屋自体が本の収納用につくられている。ああいうのに幾多の人が憧れるのだろう。私もまたそうだった。
私の家は狭い。ここは本来は今の私のように引きこもるための空間ではない。どちらかというと労働者格納用倉庫、昼は外にいて夜に帰ってきて寝るだけの、最大限良く言っても私的木賃宿といった具合で、人が集まるスペースには当然適していないしこんなところを訪問しても何の冒険心も擽られないのは、アパートであるから隣の家だって同じだろうに、なぜか週末になると大量の若い男性が出たり入ったりするので、もう我慢ができない──と母に告げると口論になる。私が過敏になりすぎているらしい。
一度考えはじめたり気にしすぎたりするとそこから動けなくなるという要領の悪さで毎日グワーッと文章を書いている節があるのだが、本当に文章のうまい人はそうではなくある程度の軽やかさを含んだリズムで鋭い集中を一語一語に込めながら書いていることは、読めばわかるし、ちょっと真似してみようと試してみればその超人的な技巧が感覚としてわかってくる。あんなの無理。やはり私は自己満足が先にこなければ書けないし、窒息しそうになる。ここでそういった超人的な物書きが嫌われるのが、あいつらは心の余裕・生活の余裕があるからそういった高尚なマネができるのであって、私のような生活をしてみろ、週末になると玄関の前にヤンキーが屯して、息も絶え絶えで働く母の脛を齧らざるを得ないほど無能力で低学歴の就浪で、未来の展望はおろか過去の実績もない……といった、昨今のネット論壇が好む文化資本や知の格差の話のような怨み節を向けられやすいという理由だ。だが、実際にしょっちゅう心のなかでそういった怨み節を吐きまくっている私からすれば、そういった私たちの論理で責めても無駄で、超人的な人は私たちと同じような身体で同じ時代の同じ国にいて同じような格好で同じような生活をしているだけの宇宙人・異世界人みたいなものなのだ。そもそもいる世界が違う。いや、なにやら天命めいたもので、そもそもいるべき世界が違う。
この「べき」なんてものはもちろん実在しない。そういった論理から解放されるためにこそ人文学はあるべきだという考え方を私は捨てられないしあまり捨てるべきでもないと思うが、でもあるものはあってしまう。そしてその差別的な「べき」を全て解除(なんてできるわけがないが)してしまったら、楽しいことなんて何一つない、ただ平等で、ただ合理的でただ無機質で、ただ正しいだけの、ハーモニーの真っ白な世界が出来上がるだけだろう。この「ただ」をなるべく抑制するためにこそ立ち止まって「楽しさ」「合理性」「無機/有機」「正しさ」「調和」について考える自由が必要なのだ。
物事には複雑性が、要領のなさが必要であるといえる。踏みとどまること、踏みとどまること、踏みとどまること……
……と自分に言い聞かせても、我慢できないことはできない。隣の件に関してはいずれしかるべき対処をとる。それでも私はまだ迷っている。