◆読書日記.《田亀源五郎『弟の夫』1~3巻》
※本稿は某SNSに2021年3月14日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
世界的なゲイ・コミック・アーティスト田亀源五郎先生の長編マンガ『弟の夫』1~3巻(以下続刊)読みましたよ~♪
以前から気になっていたマンガなんですが、つい先日1冊百円セールでまとめてゲットしたので読んでみました。
まだ続巻があるらしいんですけどネ。NHKドラマにもなった田亀先生の代表作のひとつですね♪
<あらすじ>
折口弥一は娘の夏菜と二人暮らし。
その弥一の家にある日、疎遠にしていた双子の弟・涼二の夫と称するカナダ人・マイクが訪ねてくる。
涼二はカナダに渡航してそちらでマイクと結婚していたのだった。
そして、涼二はカナダで亡くなったために、双子の兄のもとを訪ねてきたのだという。
涼二がゲイである事は生前、弥一にだけはカミングアウトしていたので知っていた。
だが、涼二は10年前に家を出た後連絡が途絶えて何をしていたのか弥一は知らなかったのだ。
その涼二が結婚していただけでなく、相手が外人男性だとは……弥一はどう接していいのか戸惑っていた……というお話。
<感想>
何と言うか、学研の学習マンガのように丁寧な作りでけっこう意外。
特に所々で入るコラム「マイクのゲイカルチャー講座」がけっこう初耳の事が多くて驚く。
けっこう勉強になるんマンガじゃないだろうか。
そして主人公の弥一がセクシャルマイノリティの外人が突然義弟になって戸惑う心理がちゃんと書かれている。
これは教養小説なんだなあと思う。
弥一は、夏菜という娘を一人で育てていかなければならないという使命感から、差別意識や他人を軽蔑するような考えを否定しなければならないと思っていた。
だが、弥一はマイクと接していくうちに、自分が今まで「ゲイ」という存在に無意識的な差別的感情を働かせていた事に気づく。
作中、弥一が様々な事に思いとどまってはたと気づく場面がある。
彼が感じるもやもやは、ほとんど自分自身の差別意識に気付いた事に由来している。
涼二がガミングアウトした後、その事について話す事を避けてしまっていた事、マイクを家に泊める事に抵抗感があった事、マイクに自分の裸を見られる事に抵抗感を抱いた事、近所の人にマイクの事を紹介するときに思わず「弟の"友人"です」と嘘をついてしまった事……等々。
「ゲイ」というセクシャルマイノリティが突如として自分の身近な人物になってしまった事で初めて弥一は自分がそういったセクシャルマイノリティの人たちにどういった感情を抱いていたのかに気づいていくのだ。
弥一の中のもやもやは当初、文字通りハッキリとした形になり難い感情であったが、それがマイクと接していくうち「ゲイに対する抵抗感」であったというその正体に気づいていく。
自分の抵抗感に気づいた弥一は、今度は周囲の人間が「ゲイ」に対してどういった感情を抱いているのか気づくようになっていく。
「日本人には差別的な意識は縁遠い」等と主張する人がいる。
昨今、政治家や著名人などの中には女性に対する差別的発言をした事について問題視された際、「そんな気はなかった」と弁明する人物がいる。
差別をしてしまった人間にとって最もマズイのは、それを「差別」だと気づかない事なのではないか。
まずは「気付く」事が大事だ、と思う。次に、知って、理解しなければならない。
残念ながら、「無知」というのは差別感情と無関係ではないという事だ。
先日も、日テレの朝の情報番組でアイヌに対する差別的な表現を用いて笑いものにしたという事案があった。
これに対して日テレは「不適切な表現であった」と謝罪しているが、これは「不適切な表現」ではない。
「不適切」どころの表現ではなく、まず、明確に「差別発言だった」という事に「気付く」べきだ。この場合、「そんな気(差別的な意識)はなかった」という事自体が問題だったと気づくべきなのだ。
アイヌが今までどのような差別を受け、どのような扱いを受けてきたかが分かれば、それを軽々しく笑い飛ばしていいものかどうかわかるはずだろう。
無知もここまでくると「罪」なのである。
何が差別につながるのか?ちゃんと気づいて理解しなければ、それについて配慮する事などはできないのである。
「ゲイなんて、しょせん〇〇みたいな事してる連中なんでしょ?」「韓国人って裏では〇〇みたいな事してるくせに」等々、彼らの差別されてきた側の人たちのリアルを「知らない」からこそ、それを軽々しく笑い飛ばす事ができる。
『弟の夫』のコラムでも出てくるが、ナチス政権下のドイツではユダヤ人同様に、ゲイもホロコーストに収容された。
それは人数は明らかになっていないそうだが数万人にも及ぶと言われている。
現代でも、ゲイたちが「プライド・パレード」等を行うと暴力的な襲撃にあったり、公権力が妨害を行ってくる事まであるという。
世間からの目もあり、過酷な過去があっての、現在なのである。
例えば、兵庫県神戸市の小学校で起きた“教師間いじめ事件”も「いじめ」でなく「イジって遊んでいただけ」等という意識でいたのかもしれない。
「イジメだなんてとんでもない、あいつは周囲から"イジられ役"として愛されキャラだ」――と周囲は思っていても、イジられている当人は内心嫌がっていたり深く傷ついている場合もある。
子供達の間で発生するイジメについても、始めは「あいつからかって遊ぶと面白いから皆でやろうぜ」などと言って、イジメている感覚などなく、ずっと「遊び感覚」でいるという事も多いだろう。
「それは"遊び"ではない。"イジメ"だ」という事を、まずは気づいて、理解する努力が必要だ。
差別というものが何なのか理解しようとしないから、問題が露呈してから「そんな意識はなかった」等という無責任な発言が出てくる。
彼らはまず、意識しなければならないのだ。そのためには、知らなければならない。
弥一は、マイクというフィルターを通して世間を見る事によって、今までの自分の感情が「差別感情」である事に気が付き、そして、世間にそういった無理解が横行している事に気付くのである。
これは教養小説だ。この作品によって、弥一という主人公を通し、われわれも世間の差別意識を透かし見ているのである。
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