◆読書日記.《ハンス・ベルメール『イマージュの解剖学』――ベルメールの思想におけるエロティックなイマージュの原理》
※本稿は某SNSに2019年9月22日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
ハンス・ベルメール『イマージュの解剖学』読了。
本書は球体関節人形による少女人形を作ったシュルレアリストとして有名なベルメールの貴重な文章&作品集。
「人形のテーマのための回想」「球体関節についての覚書」「肉体的無意識の小解剖学あるいはイマージュの解剖学」の3つの文章を掲載している。
「人形のテーマのための回想」はベルメールの最初の人形写真集『人形(ディ・プッペ)』の序文として書かれたもの。
「球体関節についての覚書」もポール・エリュアールの詩を付した人形写真集『人形の遊び』のための序文となっている。
特に「肉体的無意識の小解剖学あるいはイマージュの解剖学」はベルメールの「人体哲学」を書いた貴重な文章で、その思想を語る場合は外すことのできない一文となっている。
その書き方は実に難解。その上、内容も奇怪千万で科学的にクールな文体で展開される「想像上の性的身体論」は異様な雰囲気を漂わせる。
本書はベルメールの文体が難渋すぎるのか、それとも訳し方がマズイのか、非常に意味の取りずらい文章が延々と続くが、とりあえず他でも読んだベルメール評やぼくなりに汲んだ内容も併せてベルメール的なエロスのイマージュを、ぼくの解剖台の上で腑分けしてみたいと思う。
< 1 >
消費社会は自然界にないものを出現させてきた。それによって人間の欲望も同時に開発してきたといってもよいだろう。
スマホがない時代には「スマホを触りたい」「スマホ依存症」といった欲望の形はなかったのだから、スマホを開発したと同時にスマホに関わるあらゆる欲望を喚起してきた。
資本主義社会があらゆる人間の欲望を喚起させる商品やサービスを開発をしてきたように、それに合わせて人間の欲望も「開発」されてきた。この欲望は機械のように、次から次へと新たな欲望にドッキングし、性能を増し、領域を拡大していく。
人間の欲望はもうすでに自然のそれではなくなっているのである。動物の本能に「スマホを触りたい」などというものがないように。
人間はすでに本能が壊れている。
オスは本来、メスの妊娠可能期以外の時期のメスに全く欲情しないし、メスのほうも本来は妊娠可能時期以外は発情することはない。
だが、人間は年中異性に対して欲情しているし、「メスの裸を見て欲情する」等と言う、視覚優位の奇妙な欲情の仕方をするのは人間くらいなものだ。
人間の性欲というものは動物的なそれではなく、人間的に歪められているものなのだ。
人間のオスは本来動物の持っている性本能が壊れているために、通常の「メスの妊娠可能時期」という条件では欲情しなくなっているのである。
人間はそのために様々な趣向を凝らして性欲を高めるための戦略を立ててきた。
「体を隠す」というのは明らかにその戦略の内の一つだろうし、よく言われているように「女性の化粧は、通常の女性に欲情しなくなった男性に、新たな欲情を起こさせる手段として起こったのではないか」という説もある。
つまり、人間の性欲は本来の生物の持っていた全く実質的な時期や条件などとは乖離し「複雑なイマージュの世界」へと変貌を遂げたのだ。
ベルメールの考える「イマージュの解剖学」はそういった、「生物の本能としての生殖」という実質を失って空中浮遊する「人間の性欲」におけるイマージュを解剖する試みなのである。
◆◆◆
ベルメールの「自我のイマージュ」は、人間の腕と足、胸と尻、口とセックスはイマージュ上で交換可能だと見る。
ベルメールのイマージュの解剖学は、物理的な身体の解剖学ではない。
人間が、自分の身体をイマージュの上でどう捉えているか、という事を解剖するのである。
例えばベルメールが主張しているような「腕と足がイマージュ上で交換可能」とは、どういう事だろうか?
簡単に言えばその相似性ともいえるし、もっとイマージュを混濁させれば「胴体から突き出る左右二本の外部触覚器官」という意味で交換可能ともいえる。
そう考えると、人体と言うのは不思議なシンメトリ構造をしているのではないだろうか、とベルメールは考えるのである。
ベルメールは臍の線で人体を上下シンメトリ構造として捉えることで、腕と足、胸と尻、口(あるいは脇の下)とセックスをそれぞれに対応する部位と考えたのだ。
改めて人体をこういう風に捉えると、人体とは不思議なシンメトリを構成していると気付くだろう。
足は腕の不浄なパロディのように見え、尻は胸の下品な模造物にように見えてしまう。
そう考えると、ベルメールが作った「下半身と下半身がくっついた、下半身のみのシンメトリ構造の人体」という構図が、なぜあれほど卑猥なものに見えてしまうかという謎の答えが仄見えて来る。
そこでは本来人の視線の位置にあるはずの顔がズボンの中に隠れてしまい、本来隠されなければならない「性の位置」が他人の目線に位置してしまうという逆転現象が起こっている。
少女は自分の性欲を否定するために、おのれの下半身を否定し、イマージュの中で切断する。プラトニックな愛に下半身はいらないのだ。
だが、「卑猥なもの」という意味でも使われる「下半身」のみの人体――ベルメールの作り出すその人体が、隠されるべきセックスをむき出しに強調し、隠されるべき排泄物を露出させてしまう。
本来人目に隠されているべき少女の下半身が、ベルメールのイマージュ上でむき出しになって晒されてしまっているのである。
ベルメールの少女人形が何故か卑猥に見えてしまう理由というのは、彼の想像する「イマージュの解剖学」が、少女の隠されるべき「性欲の身体」をむき出しにして人目に晒してしまうからなのだろう。
「少女だって性的に欲情する」という事実は、社会的には厳密にタブーになっている。
少女の欲情は禁止され、否定され「なかった事」であるかのように扱われる。周囲の大人が抑圧し、少女自身もそれを「なかった」かのように抑圧してしまう。
だが、ベルメールの少女人形に現れたイマージは、そのタブーを人目に晒してしまう。
少女や女性に押し付けられる「清らかであれ」「貞節であれ」という「聖女的なイマージュ」は女性の性欲を抑圧し、禁止し、それが女性的なヒステリー症、神経症の原因となっているという風に考えたのはフロイトだった。
シュルレアリスムという芸術形式がフロイト学説に影響されて「無意識」に焦点を当てたということを考えれば「人の隠された性的欲望のイマージュ」を暴きたてるベルメールは非常にシュルレアリスティックな芸術家だったのだ。
< 2 >
なぜ現代の日本人男性は、女性の乳房や女性器を「エロいもの」と見るのだろうか?
生物学的に考えれば「メスの乳房」は性的なものとは全く関係がない。生殖と関りがないので、そこに生物のエロティックな欲望が向くはずもないのである。
フロイト的に言えば、なぜ現代の日本人男性は、誰も彼も例外なく女性の胸に性的リビドーを固着させるのか?とでも言えるだろうか。
ぼくは「意図的に隠蔽されているもの」に、リビドーは固着するのではないかと考えている。
乳房も女性器も、男の子はみな大人から「見てはいけないもの」として禁忌にされる。
他人から意図的に秘密にされているものというのには、誰しも好奇心を湧かせられるが、男の子は遂にその好奇心を満足させる事ができなくなる。
リビドーの向かう対象が満足される事なく未処理に終わると、リビドーの対象はそこに固着する。
つまり、男性は満足に意味も説明してもらえず取り上げられた「女性のオッパイを見る権利」を充足させようと、子供の頃から大人になるまで「女性のオッパイ」に性的リビドーを固着させているのではないかと思うのだ。
文化的に裸に腰巻だけで暮らす民族など、普段から裸で女性も胸を露出している風習がある民俗などでは、女性の乳房を「エロイもの」だとする認識がない。
日本も江戸時代以前は庶民の女性は特に乳房を露出させる事に羞恥を感じている風ではなかったようで、江戸期の浮世絵などにはしばしば春画でない作品でも胸を露出している女性を描いたものがある。明らかに性的な目的で描かれた春画の中でさえ、女性の乳房は「性的なもの」として描写されてはいないのだ。
日本で女性が人前で肌を露出しなくなったのは明治期以降で、これについては中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか 「裸体」の日本近代史』(ちくま文庫)に詳しい。
このように男性が意図的に隠蔽されていないものに対しては性的リビドーを固着させることがないというのは、文化的に見ても正しいとは言えまいか?
◆◆◆
ぼく自身の狭い経験から言えば、男の子はだいたい幼稚園~小学校低学年辺りにはもう「女の子にはオチンチンがない」という事に、薄々気が付いている。
小さい頃から母親とお風呂に入る男の子もいたので、その時期にはもう気付いている事が多い。それについての男の子の感情は、フロイト的に言えばアンビヴァレンスなものがある。
「オチンチンがない女の子の存在」というのは、男の子にしてみれば「去勢不安」を連想させるものである場合と、「ぼくは"これ"持っているのに、女の子は持っていない」という、女性に対する男性の原初の「優越感」になる場合とがある。ぼく自身は前者の印象は全くないのだが、後者の印象ははっきり持っていたと記憶している。
だが、この優越感は大抵の同級生の男の子はみな持っていたように思う。
だが、この事実は自分の目で確かに確認してはいない不確実な優越感であり、「その情報」もはっきりと教えてくれる人がいないので、エロい意味では全くなく「女の子のアソコはいったいどうなっているの?」という好奇心は幼稚園の頃からあったと記憶している。
ぼくは最近、人が文化的に「男の子の服装」と「女の子の服装」といったようにハッキリと「服装の性差」を設けるようになった大本の原因がこういう所にあったのではないかと想像していて、その時期の男の子の性差に対する疑問を、女の子のアソコから「外見の違い」の方向に逸らしているという意味や機能があったのではないかと思うのだ。
子どもの男女は、同じ服装や髪形をしていると、外見からはっきりと性差が判断できない。
「男と女の違い」が分からない時、男児の持っている「性差への疑問」や「オチンチンの有無の疑問」といったものへの知的好奇心は、女性のアソコに向かう事になってしまう。
服装や髪型の男女差は、男児が女児の性器を確認したがる傾向から興味の視線を逸らせ、女性器の秘密を隠蔽する機能があるのではないか。
◆◆◆
「女性の裸体」……これは、西洋的な考え方では男性が見ることを禁じられた公然たる「秘密」である。
絵画や彫刻などで伝えられてはいるものの、その生の肢体を見ることができ、直に触れることができるのは、その女性を伴侶にすることができた男性のみである。
「女性の裸体」……これは、女性の愛を獲得する事が出来た男性のみに開かれる「隠された神秘」なのである。
男性にとってのこのタブーは「女性の愛」を獲得する事によってのみ、初めて解禁されるタブーであるが故に「愛」と結びつく。
「女性の愛=女性の裸体」という結び付き方をするがために「女性の裸体」は「性愛」化したのではないか。
愛される男性のみが独占できる特権という事で、「女性の裸体」は「性愛」というイマージュを獲得する事が出来た。
逆に言えば、「女性の裸体」がエロティックなものになるためには、それを文化的に隠蔽する必要があったのではないだろうか。
◆◆◆
さて、以上の材料から、エロティックなイマージュは「隠蔽されている所に発生する」――こういった公式が成り立つのではないだろうか。
ベルメールの少女人形におけるイマージュも、「隠蔽されたものの暴露」というスキャンダラスな場所に発生する。
上述した、少女の隠蔽された性欲を球体間接人形によって暴露しているように。
ベルメールの作品は人形にしても絵画作品にしても、女性の隠された「肉体」をその主なモティーフとしている。
「肉体」がモティーフであるからこそ、彼女らから衣服ははぎとられ、その「肉体」の様々な変容の操作がイマージュ上で行われるのである。
ベルメールによる「肉体の迷宮」は、イマージュ上で行われるスキャンダルだ。
なぜ、男性は女性の肉体にエロティックなものを感じるのか。その想像上の秘密に肉薄するために、ベルメールの作る作品に出てくる女性の肉体は様々に変容させられる。
なぜ「下半身だけの女性の肉体」にまで、エロティックさを感じさせられるのか?
なぜ、単なる球体の集合体のようなものにしか見えない――人間の女性には見えない――オブジェにまでエロティックを認識するのか?
更に言えば、女性の肉体は、どこまで変容させてもそのエロティックさを保つことができるのか? その限界――エロティックの臨界点はどこにあるのか?
ベルメールが執拗に女性の裸体を暴露する事によって暴露されるものとは、「男性の頭の中にあるエロティックなイマージュの原理」でもあったのだ。