見出し画像

◆読書日記.《中井正一『美学入門』》

※本稿は某SNSに2021年8月27日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 中井正一『美学入門』読了。

中井正一『美学入門』

 京都学派の美学研究者による独自の美学理論をまとめた一冊。

 著者は1900年、日本初の帝王切開で生まれた人だったそうだ。
 京大の哲学科出身で師は日本の美学研究の先駆者である深田康算。
 「中井美学」と呼ばれる独自の美学を生み出し、映画やスポーツ等をいち早く美学の分野で取り上げたという。

 ……とはいうものの、これはかなりキツイ読書であった。
 難しかった、のではない。
 あまりに不正確な情報が多すぎ、大雑把な情報が多すぎ、定義が曖昧過ぎ……という瑕疵が数多あって、いちいち確認作業に手間取ってしまったからだ。

 例えば、本書の第二部では「美学の歴史」を解説していくのだが、冒頭からいきなり「プラトンは、まず、芸術否定論者といってもさしつかえないのである。プラトンは、芸術家、ことに劇作家は、彼の理想の国からは、一切追放しなければならないと考えた。彼らは有害無益であるというのである」などと言ってくる。

 「え!プラトンってそんなこと言ってたか!?」と思って先日購入した弘文堂の『美学事典』(とっても役立ちます!)等でチェックしてみると、やっぱり、別にプラトンは芸術否定論者というわけでもない。

 確かに彼のイデア論では、芸術は美の理想たるイデアの写しでしかないと言ってはいる。
 だが、だからといってそんな全否定しているかのような論調でもない。
 プラトンは芸術を通して真理に近づいていき、それを通して見る者の精神に優れた調和をもたらしてくれると説いている。

 また中井は、プラトンが劇作家を「有害無益」等と言っていると述べているのだが、プラトンが芸術の諸形式の中で最も序列が劣るものは絵画だとしていた。プラトンは「見せかけの姿を写すだけの絵画」よりも演劇や彫刻、建築などは理想を典型として把握して、均斉と調和をもたらすとして、絵画よりも高く評価している。

 これを称してプラトンを「芸術否定論者」と断じてしまうのは、あまりに雑な捉え方ではなかろうか?

 著者は哲学科出身であるためか、本書でも芸術より圧倒的に哲学の話のほうが多い。

 しかし、それも各時代の哲学者の芸術論・美学論などを紹介するものではなくて、認識論とか時間論とかに論述が偏る癖がある。
 しかも、その哲学論議に関しても、引用してくる哲学者の理論については上のプラトンのように大雑把なものが多い。

 ニーチェの超人思想についてもどこか勘違いしてるし、ハイデガーの「通俗的時間/本質的時間」の内容も間違えている。フッサール理解も間違えてるし、フロイト理論も間違い。

 しじゅうそんな調子なので、自分の知らない知識が出てきたとしても、そう簡単に信用できない。

 また、著者の論述の仕方にはロジカルな思考ができていないのではないかと感じる事が多く、しばしば分類がMECE(モレなくズレなくダブリなし)になっていない。

 例えば「存在」についての分類で著者は「a:可能としての存在」「b:現実としての存在」「c:生物としての存在」……という三分類にして説明しているが、説明を読んでいるとどうにも「b」と「c」の領域が一部重なっているようにしか思えないのである。

 本書の冒頭でも、著者は「美しい」とはどういう事であるかという議論について「自然の中に感じる美しさ」「技術の中に感じる美しさ」「芸術の中に感じる美しさ」という三分類をしているが、これも「それですべての"美"を網羅してる?」と思ってしまう。

 ここでも説得力不足なのである。

 何よりこの著者のいけないのは、この人はおそらく正当な美術史の知識を有していないのではないかと言う記述が多くみられる点である。

 個々の美術作品に関して言及される事はほとんどなく、たまに例示される作品があったと思えばギャリコーの『エプソンの競馬』という「なぜあえてその作品を出したの?」といったものをあげたりする。

ギャリコーの『エプソンの競馬』

 20世紀初頭の、当時先端であった美術への無理解も強い。

 何よりダダについては「ダダは常にいやだいやだとわめきつづけた」や「ただなんでもかんでも『いやだ、いやだ』といっている感情の上に立って戦っているのである」「論理的な基礎のないただ単に『拒否の感情』」……というダダイズムに対する無理解さ。
 単なる「拒否の感情」でやってたら、ダダはあんなに挑発じみた事しないんじゃないですか? 代表的なダダイストのデュシャンがただただ「いやだ、いやだ」と言っていた人だと?
 どうもこの人は前衛芸術に関してはあまり理解がない様子。

 でも映画や技術についてはけっこう「無邪気」とさえ思えるほど絶賛を送る。

 では、本書のメインとも言えそうな分量を誇る哲学論議についてはバランスの取れた言及になっているかと言えば、必ずしもそうとも言えない。

 「美学の歴史」を説明する手順についても、古代の芸術観の説明にプラトンとアリストテレスを持ってくるのはいいとしても、その古代的芸術観の次に説明するのがいきなり近代的芸術観にジャンプしてしまう。
 しかもその「近代的芸術観」の代表例として言及されるのがオスカー・ワイルドである。もう、いろいろと偏っているとしか思えない。

 ただ、本書にも悪くない点がある。
 特に後半の『日本の美』についてはなかなか面白い議論を提示していて興味を引いた。

 著者は万葉集の「さやけさ」から始まり、日本の美の感覚を「さっぱりとした、きれいなもの、切実であるがゆえに、こころのかざりなく、ただすなおな、ただ何もないうつろ化と思われるほどの、深い緊張といったようなもの」といったものから説明する。
 そういった清らかな、軽みのある、さっぱりとした美意識が古今和歌集の「もののあわれ」にも、中世の「わび」や「すき」にも、江戸の「いき」にも息づいているというのである。

 そういった部分が日本の美にゴテゴテと装飾で埋め尽くすロココ調の美を「下世話」と感じさせる感性を作った、という論調は一理あるかもしれない(しかし、相変わらず日本の美を語るうえでも岡倉天心の名も柳宗悦の名も出てこないというのは、やはりどうかとも思ってしまう)。

 と言うわけでこの人は、そういった各論的な話で独自の真価を発揮する人なのではないかと思った。

 この中井正一という人は、芸術分野では映画やスポーツの「美」について、いち早く日本で論じ始めた人でもあったという。そういう先見の明はあった人だったのだろう。

 だが、上に見てきたように、この人は「美学」を網羅して論じる事のできるだけの基礎的な知識を有していないという点において問題があるし、そのロジックについても大雑把なのが欠点だ。
 各論についてはまた読んでもいいかと思うが、総論については、もう二度と読みたくないレベルであった。あー、疲れた。


いいなと思ったら応援しよう!