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◆読書日記.《ジョナサン・キャロル『蜂の巣にキス』》

※本稿は某SNSに2021年7月16日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 ダーク・ファンタジーの旗手・ジョナサン・キャロルの長編『蜂の巣にキス』読了。

ジョナサン・キャロル『蜂の巣にキス』

 キャロル・ファンとして聞き捨てならなかったのは、本作がキャロルお得意の超常現象的なギミックを一切封印して、完全に現実的で純正な"ミステリ"を書いた、という所だった。
 その事実は、面白くもあったが、同時に不安も感じた。


<あらすじ>

 主人公はスランプ状態に陥っているベストセラー作家のサム・ベイヤー。
 50年代という時代を少年期に過ごしたという事から、おそらくキャロル自身と同世代のキャラクターという事となる。

 サムは次回作に行き詰り、気分転換に少年時代を過ごしたクレインズ・ヴューを訪れることにする。

 サムは母校の高校のすぐ脇にある<スクラッピー食堂>に入った。そこは学生時代、何度も利用した店だったのだ。

 店のウエイトレスのドナは傍の高校に通う学生で、サムが料理を待っている間読むよう、クレインズ・ヴュー高校の年鑑を貸してくれた。

 そこでサムは、自分の起死回生のネタとなる名前を見つける事となる。
 彼がかつてあこがれていた女性と同姓同名の名前を見つけたのだ。
 聞くと、この子の伯母が、同姓同名だったようだ。

 その、伯母のほうが、サムのお目当ての人物だった。

 ポーリン・オストローヴァ。

 何故この名前を忘れていたのだろう?
 いつも飛び回っていて忙しなく、誰とでも寝て、その気になれば嫌というほど刺せる――<蜂の巣>と綽名された美女。

 「知ってます?この子の伯母さん、何があったか」
 「ドナ、死体を発見したのはぼくなんだ」

 起死回生の次回作のネタとしては、最高のものだった。

 ポーリン・オストローヴァ。

 高校の頃、水遊びに来ていた川に浮かんでいるポーリンの骸を発見したのは、サムだった。

 30年以上経った今、サムはこの事件のその後の顛末を調査し始めるのだった――というお話。


<感想>

 キャロルは寡作な作家だ。寡作ではあっても、2~3年に一作くらいは新作を出していたものだが、本作は前作の『天使の牙から』から四年を経てから出版された、キャロルにとっても久々の新作であった。
 案外、キャロル自身もこの作品の主人公のように、この頃スランプぎみだったのかもしれない。

 本書のミステリとしての構成は、過去起こった事件について当時の資料を調査したり関係者に話を聞いたりといった形で調査を進めていって、その事件が一体どのようなものだったのか、何が起こったのか、真相は何だったのか?……という「過去を再構成する」タイプのものだった。

 つまりはトマス・H・クックやロバート・ゴダードのタイプのミステリである。
 ゴダードは好きだが、ハッキリ言ってぼくはキャロルの作品に「ミステリ」なんか期待していない。
 だから、久々に読むキャロルが得意のファンタジーを封印してしまっているという事にガッカリしていた。――実際に読み始めるまでは。
 読み始めてから、その印象はすぐ変わった。

 明確にそれとわかる、キャロルの文体だ。巧い。

 情報量がうんと多いのにも関わらず、説明描写にならず、リーダビリティを損なわずにガンガン事件の背景が積み重なっていく。

 キャロルの文体を「ミステリ」という形で改めて読んでみて、この人は日本の作家で言うと井上夢人先生のような巧さがある作家なのだと分かった。

 キャラの会話の端々から、その人物の性格や、好きなものや、人生観や、好き嫌いが自然とわかってくる。

 キャラが話せば話すほど、動けば動くほど、その人物にどんどん血が通っていくのがわかる。

 「どこかで見たようなセリフ」や「いかにもフィクションのキャラクターが言いそうな事」を、キャロルのキャラは口にしない。

 文体の、このリズム感。
 独特の比喩。
 一人ひとりが、自分の人生観を持っていて、独自の趣味嗜好を持って生きてきた証が、言動にはっきりと表れている。

 ああ、キャロルだ。
 キャロルは、何を書かせてもやっぱりキャロルである事に変わりないのだ。

 そして、キャロルの個性というのは、文体だけの事ではない。

 本作を読んでいて、その正統派のミステリ仕掛けの物語を読んでいるにも関わらず「ああ、やっぱりキャロルだ」と思わせられたのは、ストーリーの持って行き方も、テーマも、いつものキャロルだったからだ。

 前半部分のドラマティックなラヴ・ロマンス。個性的なキャラたち。会話の端々に出てくる気の利いたエピグラム。

 そんな彼らの日常に、だんだんと不穏な影が差し始める。

 不気味な展開。

 「死んでほしくない」と思える魅力的なキャラが死に、シビアで衝撃的なラストへ向けてダダッと流れ込んでいく……。

 こういったキャロルの小説に特徴的な展開は、ミステリであっても同じであった。キャロルの作品で言うと『沈黙のあと』が最も似ているかもしれない。

 考えてみれば、キャロルの作品では、ほぼ必ず人が死んでいるように思う。「死」は、キャロル作品の重要なテーマだ。

 「死」とは何か? 人生とは何なのか?
 「死」は、いつもぼくらの大切な人たちを、何のためらいもなく突然さらっていってしまう。

 キャロル的に言うならば、「人生には、牙があるんだ」である。

「善人だろうが、道徳的だろうが……それが何になる?くそくらえ! 息のしかたが気に入らんってだけで、やっぱ殺されちまうんだ。これで少しはわかったろ。ヴェトナムでも見たし、ここでも見た。とうとう自分がやられた。ポーリンがどうなったか見てみろ!全然すじが通らんが、三十年前であれだ」
「おれの人生は順調だ。な、サム?と油断している所を、ガブッ!気づいた頃にはもう遅い」

 本作は、本格ミステリという「現実に起こる事以外の、超常現象的な事が起こるのは最大の禁忌である」と決められたリアリスティックなジャンルのルールをきちんと守っているからこそ、いつもの寓意的なキャロルよりも、なお一層シビアだ。

 人生の幸福や、自らの存在よりも大切にしている愛する人々というのは、常に傍にいる死神によってかっさらわれてしまう可能性を秘めている。

 本当に幸福な時期というのは、その事実を完全に忘れていられるような時間の事を言うのかもしれない。

 その人が死んだら、どうなるのだろう? 不幸は、いつその姿を現すのか?

「それでも学んだことは確かにあるんだ。何だと思う?お父さんのセメントでできた脳に入り込むことができたたった一つの教訓。一緒にいて、概ね満ち足りていられる相手は、ほんのわずかしか存在しない。そういう意味で相棒だと思える人を見つけたら、その時間のために闘え。ふたりの仲を守るために闘うんだよ」

 ――"それ"は、誰にもわからない。死神は、忘れた頃に突然現れる。

 どんな魅力的な人間であっても、どんな善人であっても、どんなに大切な人間であっても、容赦してくれる事はない。

 かと思えば、死神と肩を組んで歩いているようにしか見えない末期の人間が、意外とテリヤのようにしぶとかったりもする。

 人生にとって「死」とは何なのか?

 考えてみれば「愛と死のダーク・ファンタジー」を書き続けてきたキャロルにとって、ファンタジー以外で最も親和性のあるジャンルは、ミステリだったのかもしれない。
 人は何故殺すのか? 大切な人は、何故死ななければならなかったのか?
 常に「死」と付き合ってきたのが本格ミステリだった。

 この物語は、「キャロル的なテーマ」というのはキャロルの独壇場であったダーク・ファンタジーの中にだけ生きていられるものではなく、それが現実的な状況を与えられても成立するのだという事を証明した一作になっているのではないかと思う。

 本作は、確かに本格ミステリとしては凡庸であるかもしれないが、これは「本格ミステリ」として見るというよりかは、「ジョナサン・キャロル」というコンテクストの中に組み入れて考えるべきものだったのではなかろうか。

 父子の絆、愛する者との別れ、愛と死、人生の不思議。

 キャロルの筆致によって血の通わされた登場人物たちは、本気で生きているからこそ、突如目の前に現れた「死」に呆然とせざるを得ないのである。

「われわれは、パターンや理由、理解できる動機や怨恨を捜すことばかり時間をかけるが、そんなことしてもむだなんですよ。ただ"そうである"ものも世の中にはあるんです。その不条理がわれわれを怯えさせる。なおも探し続け、『理由がないわけがない!』と言い続ける。あいにく、いつもあるとは限りません」


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