◆読書日記.《瀬木慎一『名画修復―保存・復元が明かす絵画の本質』》
※本稿は某SNSに2021年4月30日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
瀬木慎一『名画修復―保存・復元が明かす絵画の本質』読了。
美術社会学で海外でも著名な美術評論家による、アートの裏側、美術作品の保存・修復の考え方と技法、その問題点に関して幅広く解説するライトな解説本。
「美術品修復技術」に関しての入り口としては非常に良くまとまっていて参考になる一冊!
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しかし、本書に出てくる知識については、ぼくはかなりの部分、大学時代に学校で学んだ事だった。
そのため本書では「ああ、そう言えば絵の具の"固着"と"定着"って違う言葉だったよな」とか「そう言えばこの"絵画が成立するための5つの材料"とかって授業で出てきたよなあ」とかいうのを懐かしく勉強し直す事ができた。
が、これは逆に言えばそれだけ学生時代に学んだ知識があまり定着していなかったというのも良く分かったという事でもあり、本当に一般の人にとって大学で学んだ事ってムダになる事多いよなぁと思った次第。
閑話休題。
という事で本書は美術作品の保存・修復に関する知識を幅広く紹介して優れた本である。
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本書の前半では、作家が絵画を作成するプロセスの中に「保存」の観点で無視できない問題点を紹介している。
これは意外に重要な部分なのだが、多くの美術ファンは知らない事だし、それどころか画家でさえあまり気にしていない、もしくは知らない、無関心、という人までいるくらいである。
例えば、一般的にはルネサンス絵画のように数百年前の絵画を見て、何となく「油絵というものは何百年も持つ美術品だ」という感覚を抱いている人も多い事だと思う。が、それは大間違いである。
言ってしまえば「油絵は常に変化や劣化を起こしていて、元の状態を維持するには継続的に多大な作業が必要」だという事だ。
もっと言えば、油絵は完成した瞬間から常に元々の状態から変化していっているものだとも言える。
何故か?一つには絵の具の問題がある。
「絵の具」は一体、何からできているか、と言う事を考えた事はおありだろうか。一言、絵の具や顔料と言っても世の中にはその素材は無数にあるのである。
大きく分ければ鉱物系の顔料や植物系の顔料、それから動物系、合成物の四種類が顔料として使われる。
これを大きく二つに分けるならば、合成顔料を含める無機顔料と有機顔料の二種類と言う事になる。
これらの顔料は、作られた色をそのままキャンバスに塗っている訳ではなく、当然他の様々な色と混色されて塗られて絵が描かれている。
こういった様々な素材から成っている顔料を混ぜ合わせると化学反応が起こるのは当然だろう。
このような事に無知な画家は、完成してから自分の絵ががたがたに変色してして台無しになってしまう事となる。「科学」なのだ。
例えば、鉄系を原料とした顔料などは様々に混ぜ合わせて使われるものだが、「絶対に鉄系の顔料と混ぜ合わせてはならない」とされる顔料も存在している。
赤系のヴィルミヨンや黄色系統のジョーヌ・ド・ナーブル、青系のヴィオレ・ド・コバルト等がそうだ。
「色」に無頓着な画家が、数年や数か月で大きく変色してしまうような絵を描いているようではいくら上手くとも一流とは言えない。
例えばフィンセント・ヴァン・ゴッホなどは、さすがに「色」に拘った画家だけあって、顔料の混合方法や長期にわたって色が保たれる手法などを熱心に研究していたそうである。
例えば、色は三原色を混合して使えばあらゆる色を作り出せるが、混ぜれば混ぜるほど、色というのは原色の鮮やかさを失ってしまう事となる。
西洋でも新古典主義時代あたりまでにはもう色を混合しすぎて画面が暗く暗くなってしまっていたのだが、その反動として現れたのが、絵に「明るさ」や「光」を求めた印象派だったとも言われている。
ポスト印象派のゴッホともなると、色を混ぜずにチューブから出した絵の具を直接塗るという方法で鮮麗な色合いを出していた。
ゴッホの絵を見ると、非常に感性的な表現なので一気呵成に描いているようにも見えるが、その絵画の処理は非常に繊細で、手間をかけていた。
ゴッホは、あの特徴的な厚塗りをしていたために生じる油を時々洗って抜き取るといった地道な作業もしていたのだ。
「まだ何回も冷水で洗わなければならないし、絵の具の盛り上げがそこの部分まで乾いた時に強いニスを塗れば、油が蒸発しても、黒の部分が汚れない」等と、ゴッホは『アルルの女』制作時に書き留めているのだという。
一流の画家というのは、自分の絵が後世にも伝えられる事を前提に作っているという事なのだろう。
本書では昭和の洋画家・岡鹿之助が渡仏した際、早速描いた作品が展覧会に入選したにも関わらず、展覧会を見に行って「自分の絵が、まったく絵になっていないこと」にショックを受けたというエピソードを紹介している。
彼は何故「絵になっていない」と感じたのだろうか?
本書の著者は岡の言葉を借りて、次のように表現している。「どんな優れたイマジュリー(画像)も適切な画材的、技術的処理なしにはパンチュール(絵画)にはなりえない、というのは真理である」。
岡鹿之助はこの後、顔料とは何か、キャンバスとは何かという点について独学せねばならなかったという。
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油絵具というのは、非常に長い年月をかけて、ゆっくりと乾いていくものである。
どれくらい長いかと言うと、美術館に飾られている油絵でも「まだ乾いていない」というものもあるくらいだ。
完成してから数年たった絵でも、厚塗りだったら表面の部分を押すと指紋が残るくらいには油分が残っている事も多い。
油絵は制作過程で、どの程度塗った絵の具を乾かすのか、という部分は非常に重要になってくる。
絵の具が乾ききっていない状態で他の色を塗ると混色が起こるし、まだ乾ききっていない内にニスを塗って色が滲んでしまう場合もある。
だから画家は油絵を必ずしも一気呵成に描いているのではなく、下地を塗って、乾かし、絵の具を盛って、乾かし――といったプロセスを踏んでいるのである。
こういった作業が必要だったからこそ、ルネサンス期などは一枚描くのに数年もかかっていたのである。
多作のピカソなどは、途中まで描いて乾かしている間、また別の絵を途中まで描き、それを乾かしている間にまた別の絵を描き始め……といったように同時並行的に何作も描いていたためにあれだけの絵を量産できていたのだという。
それくらい、油絵というのは完成品でも水分やら油分が残っているものなのだ。
これが数十年、数百年してカラカラに乾くとどうなるか。絵の具が縮んでいってヒビが入る。色ごとに反って画面から剥落するものも出てくる。
適切な保管方法を取っていないと、これは急速に起こってくる事となる。
ぼくは美術館などに行くと、しばしば油絵なんかは斜め下から覗き込むように見る事がある。
照明の当たり方によって、絵の表面の凹凸の具合が浮かび上がって分かり易いからだ。
これで画家の筆遣いのタッチの感じが分かるのだが、同時にどれくらいひび割れが起こっているかというのもわかる場合が多い。
皆様も、一度そうやって斜めから投げめてみる事をお勧めする。
ルネサンス絵画なんかだと、もう大抵の絵は表面が細かいヒビで覆われているのが分かる。
上手く修復して隙間を埋めているものや、保存状態が非常に良いものもたまに見かけるが、数百年経った絵画というのは、必ず何かしらの変化を被っているものだ。
先ほど言ったように絵の具の化学反応で変色する場合もあれば表面のニスが酸化して変色してしまう事もある。
大気中の成分によって変化してしまうものも多い。
本書を読んで初めて知ったのは、建築物のコンクリからはアルカリ性の物質が発生していて、これが油彩画や絹類には有害となるという事である。
コンクリから出る成分にはアンモニアが多く含まれており、これが完全に抜けるには50年はかかるのだそうだ。
西洋建築や近代建築に日本画を置いて保存するのは良くないと言われているのには、こういう理由があったのかもしれない。
学生時代、江戸東京博物館の作品収蔵庫を見学させてもらった事があるのだが、巨大な金庫のような鉄製の扉の内部は、床も壁も天井も、収納棚に至るまで全て木製だった事が印象に残っている。
今から思えば、あれもやはり近代建築のコンクリ等の建材が問題だったからなのかもしれない。
こういった収蔵庫は作品保存のために定期的に燻蒸や防カビ剤を使って作品をケアしなければならない。温度・湿度も適度に保たねばならない。
こういう事を頻繁に行っていても、逆に人の出入りが多くなるので、そういう人たちの服や体についた細菌や微生物や虫などが作品を害してしまう事まである。
それだけではない。
例えば、常に日の当たる所に本を置いておくと表紙が焼けて退色してしまう事があるが、そういった事は絵画にも起こる。
絵は、光に当てているだけでも色が変化してしまうのである。
ぼくが大学時代に授業で習った事でも非常に印象に残っている言葉に「美術品にとって"展示"と"保存"とは相反する考え方だ」というのがあったほどだ。
絵画を展示して人々が見るには、当然ながら光に当てなければならない。
だが、いくら照明を落としても、光が当たっていれば少しずつでも絵の色は変化しているのである。
いつまでも絵をそのままに保存するには、人に見せなければいい。だが「見てはいけない絵」等に、価値はない。矛盾だ。
上に「油絵は常に変化や劣化を起こしていて、元の状態を維持するには継続的に多大な作業が必要」と言ったのは、こういった事情が絡んでくるからなのである。
一枚の絵画を何十年も何百年もなるべく変化のないように保存・修復して受け継いでいくというのは、非常に大変な作業なのだ。
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本書の後半では、こういった絵画の事情を踏まえて、実際に損傷を被ってしまった美術作品の修復方法のあれこれと、実際に国内外で行われている修復事例を紹介している。
ここで取り上げられている問題の一つは、日々芸術作品というものは増えていっているが、その保存・修復の手間が間に合わないという点である。
特に厄介なのが日本である。
修復技術を持った職人が非常に少ない。
国も文化政策として、そこに力を入れていないという点も問題なのだろう。
国公立の美術館・博物館であっても、自力で修復ができる体制を保っている所は少なく、多くは民間の修復業者に外部委託して修復を行っているというのが現状である。
日本美術は幕末から明治期にかけて、海外に非常に多くの作品が流出してしまっているため、しばしば日本の修復家も日本美術を有する海外の美術館に修復依頼をされる事があるのだそうだが、何よりも人手が足りないという。
何しろ、この分野が日本で始まったのはつい最近、20世紀も末の頃であったという。
日本は芸術政策については欧米から何十年と遅れているのである。
国民の関心も薄いという事もあるだろう。
何しろ、アートの世界は展覧会のような表舞台が華やか過ぎて、裏にある非常に地道で地味な保全・修復作業の積み重ねという部分には注目が集まりにくいのだから。
アートの世界は「芸術的な感性」が表に出すぎて、裏にある「科学」の部分が見えなさすぎているのかもしれない。
「絵画は芸術であり、そうであるべきであるが、同時に、それと両立して科学でなければならないのが大前提である」というのは、本書における著者の中心的なテーゼだと言えるであろう。
本書は後半で、20世紀末に開発され始めた、美術を鑑定する様々な装置(X線マイクロアナライザー、光学顕微鏡、赤外線テレビ・赤外線カメラ、紫外線と赤外線による撮影など)について言及されているがそれらはまさしく「科学」である。
本書が何故「講談社ブルーバックス」という科学を扱う叢書形態で出版されているのか、それは芸術でほとんど語られる事がないにもかかわらず、決して欠かす事のできない重要な要素である「科学」に目を向けねばならない、という事を強調する狙いがあったからなのだろう。