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◆読書日記.《麻耶雄嵩『メルカトル悪人狩り』》

※本稿は某SNSに2021年10月17日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 麻耶雄嵩の最新ミステリ短編集『メルカトル悪人狩り』読了。

『メルカトル悪人狩り』

 古くは1997年、最新のものは2021年に発表された掌編~短編を8編収録する。
 常に「本格推理とはどういう形式の文学なのか」というテーマを持つメタミステリを書き続けてきたのが特徴の著者だけあって本書もそのテーマを一徹に貫いている。

 そんな著者の代表的な"銘"探偵「メルカトル鮎」と、その助手で推理作家の美袋三条を主人公とした作品を集めた最新作。

 傲岸不遜、傍若無人、悪辣な皮肉屋、と濃すぎる性格の上に日常から常にシルクハットとタキシードを着て行動しているという奇人変人の類の探偵、それがメルカトル鮎だ。

 しかし、1990年代の短編からつい最近の作品まで、書かれた時期がバラバラなのに、よくもまあこれだけ何となく繋がりのあるように並べられたものだと思う。
 冒頭の一編「愛護精神」から「水曜日と金曜日が嫌い」~「不要不急」までの繋がりというのは一つの流れになっていて素晴らしい。

 特に「不要不急」なんかは「コロナ禍」を題材にし、「コロナ禍の渦中にあって推理小説の名探偵はどんな事を考えているのか?」といった事を探偵のメルカトル鮎が語っているのが面白い(しかし、だとしたら『翼ある闇』は現在よりもずっと未来に起こる事件なのか?という話にはなってしまうが)。

 著者の作品は一貫して本格ミステリという文学形式を問う事がテーマなのだが、本書もその例外ではない。

 今回は「名探偵」というこのリアリズムの観点から考えれば全くもって不自然な存在は一体何なのか?というテーマを、メルが様々な事件を通して不自然な言動をする事で自ら体現するという形で提示する。

 詳しく書くとネタバレになるが、例えば著者の初期のほうの作品には「本格推理の"お約束"と、現実との落差」の、そのギャップが強調される事で本格推理の形式性が問われる傾向のものが多かったが、近年のものは『神様ゲーム』以来の傾向なのか、ほとんど"ファンタジー"と言って良いような理外の、超自然的な要素が介入する作品が印象深い。

 ぼくは本書を読んですぐ山田正紀の『神曲法廷』を想起させられた。

 これは昔から推理小説の評論で取り上げられるテーマなのだが、推理小説の「名探偵」とは「神たる作者の代弁者」として特別な能力を持たされている存在で、その能力を考えるとしばしばリアルの存在から逸脱している、という問題である。
 本格推理という文学形式を成り立たせるには、しばしばこのような「神たる作者の代弁者」といった万能のキャラクターが存在しなければ成立しない。

 ――この「暗黙の了解」を、本作では露骨にメルカトル鮎というキャラクターが言及してくるからこそ、ほとんどミステリが「ファンタジー」と化してしまうのである。

 本格推理とは、事件の謎を論理的に解決するストーリーという性格からして、作品世界に発生する事象には、高度なリアリティが要求される(密室殺人のトリックが「魔法で鍵を閉めた」では推理小説は成立しないから、作品世界の現実性が厳密に守られなければならない)。
 ――だが、それに反して「名探偵」という推理小説に特有のキャラクターは、その存在自体が作品中の「リアリティ」に反して様々な「非現実的」な性格を帯びてしまうという問題があるのだ。

 何故、名探偵は常に「正しい手がかり」のみを正確に読み取る事ができるのか?(笠井潔『バイバイ、エンジェル』の冒頭にも出てきた議論だ)
 何故、名探偵は常に偶然不可解な殺人事件に出会ってしまうのか?(横溝正史の探偵、金田一耕助シリーズが続けられれば続けられるほど積み重なっていった問題だ)
 何故、名探偵は誰からも「正解」を読み取る事ができないはずの「犯罪者の内面」である所の「犯罪の動機」を正確に見抜く事ができるのか?

 その答えは?――名探偵が「神たる作者の代弁者」であるからに他ならない。

 だったら、名探偵の耳には時折「神たる作者の囁き」が聞こえてくるのではなかろうか……というアイデアが出て来るのが本書の一編「囁くもの」である。

 こういったリアリズムから乖離した「神たる作者」の存在が作品内に仄めかされる所が、山田正紀の『神曲法廷』の扱っているテーマと共通しているのである。

 このようなテーマが出て来るからこそ、麻耶雄嵩の本格推理は、単に事件の謎が解けただけで終わらない。謎が解けた後も、何かしらの「過剰」が残るのである。
 ぼくは、麻耶雄嵩の小説に存在するこの「過剰」が好きなのだ。

 更にこのテーマをラディカルに突き詰めて、大胆にも「名探偵」をまさに「神」と位置付けたのが『神様ゲーム』と本格ミステリ大賞を受賞した続編の『さよなら神様』であった。
 考えてみれば、何故か麻耶雄嵩は作品に「神」的な存在を入れてくる事が多い。

 「本格推理」という文学形式を考えれば、上述したようにいかにも「現実的には不自然」だと思わざるを得ないような「お約束」が幾つも存在している。
 それを一貫してメタフィクションのような形式で疑問に付すのが麻耶雄嵩であり、哲学によって評論的に説明を試みるのが笠井潔の矢吹駆シリーズだったのだろう。

 また、因みにメルカトルが出てくる作品はユーモアミステリとしての要素も無視できず、その面でもぼくはこのメルカトル・シリーズを愛している。本作では特に「水曜日と金曜日が嫌い」のオチが大好きで、いかにもメルらしい悪辣な一言に爆笑してしまった。麻耶雄嵩のこういう飄々とした所が好きなんだよなぁ。


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