◆レビュー.《映画『ゲロッパ!』》
※本稿は某2019年6月10日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
井筒和幸監督の映画『ゲロッパ!』見ました~!
テレビにも良く出て来る井筒監督によるヤクザが主人公のスラップスティック・コメディ+人情劇といったところですかね。
「泣いて笑って踊れるジェットコースター・ムービィ」という宣伝文句がピッタリですな。
<あらすじ>
ヤクザの組長である羽原は、刑務所への収監を数日後に控えていた。
彼にはやり残したことが二つだけある。生き別れた娘・かおりにもう一度会う事、そして大ファンだったジェームズ・ブラウンの名古屋公演に行く事だった。
だが、もう時間がなくてそれらも叶わないだろうと諦め、組も解散することに決めていた。
弟分の金山は、刑務所に行く前にどうしても羽原の願いを叶えてやりたいと思っていた。
羽原の願いが叶えられれば、羽原も元気を取り戻して組の解散も思いとどまるかもしれない。
金山は組の若い衆に命令する。
「JB、さらってこいや」
……かくしてJBを巡って、親分の娘・かおりを巡って、大阪に一大騒動が始まる!
<感想>
まあ、粗筋を見ていても分かる通り、ストーリーも設定もベタベタのベタ。ギャグも関西のノリのコテコテな感じ。
そして、全編を通してソウルの帝王JBへのリスペクトとしての踊りを劇中に入れて来る盛りだくさんな感じ。
サービス精神は旺盛でいろんな「楽しめる要素」をガンガン詰め込んでますが、文学性も深みもありゃしない無茶苦茶チープな日本的エンターテイメント。
安っぽい感じが悪いとは言いません。
完全にエンターテイメントとして見れば、偽JB誘拐事件の件、かおりのお仕事奮闘記の件、羽原の娘捜索の件、内閣調査室の暗躍の件、といった複数の要素を並行して走らせながら、それらを最後に綺麗に一つに収斂させていく技術的な手腕はなかなか上手くて見ごたえがあると思えました。
そういう複数のエピソードを同時並行で見せながらも、観客のほうは混乱することもなく、ゴチャゴチャ感も出ずに、楽しく見る事が出来るのは、ひとえに井筒監督の技術的なレベルが高いからでしょうね。
特に最も盛り上がるシーンは西田敏行さんが偽JB芸人の代わりにステージに立って、JBのモノマネを演じ切るくだりでしたね。
もしかしたら井筒監督は、この映画で最も撮りたかったのはこのシーンだったのではないかと思います。娘・かおりを救い、偽JBをも救い、しかも大勢の観客を前にして大好きなJBを演じる。
この物語に出てきた多くの問題が、羽原組長のこの踊りひとつで救われるわけです。そういう、全てのトラブルの収斂点で、西田敏行がスポットライトを浴びて踊る。全てを救う、一踊り。
ジェームズ・ブラウンを知らない観客でも(かく言うぼくも知りませんでしたが…)このシーンの西田敏行は格好良いと思えるでしょう。
そして、その直後、この映画で最も泣けるシーンを入れ込んでくる。
つまり、畳みかけるように、複数の問題が一気に解決することで今までのモヤモヤが解消されるカタルシスを与えてる訳ですね。
しかし、その最も盛り上がったシーンの後から終幕まで、かなりダラダラと「締まらない後日譚」が続くのは、エンターテイメントとしてもちょっといただけません。ハリウッド的なエンターテイメントの法則で考えれば、最も盛り上がる山場が登場した後は、速やかに物語を終幕させることが理想と言われています。さもなくば、最も感動したシーンの印象がだんだんと薄らいでいってしまい、「蛇足」に思えてしまうからです。
しかも最終的なオチが、非現実的なものを飛び越えちゃってマンガ的な荒唐無稽に落ちてしまってるのが残念ですね。あれはちょっと鼻白んでしまいました。
しかし、現代の日本のように先の見えない長々しい不況に喘いでいる状況で、ヤクザを「人情の人たち」とする見せ方は、ちょっと通用しにくくなってきてはいないですかね。
金持ちから掠め取った金を弱い人たちのために使う「義賊」的な見せ方をする方法もなくはないでしょうが、この映画のように、「単にセコイ連中」としてのヤクザ像として、本作の主人公ら羽原組の連中を見せてしまっては、本作の大前提「刑務所行きの親分の願いを叶えたい」という脇役たちの動機に観客は共感を得られないのではないでしょうか?
誰かのために罪を犯して収監されるならともかく、一般的感覚からすると羽原組長のは単なる「ヤクザの自業自得」でしかないのではないでしょうか。
だから、いくら西田敏行の演技で「羽原組長が可哀そうだ」と思えたとしても、結局はヤクザが犯罪を犯してパクられただけでしかない。
ということで「同情できない連中の人情劇」という点が、ぼくの中では見ている間、ずっと心に引っかかっていた点でした。
景気が良い時には「セコイ連中もいるもんだな」と笑って済ませられるかもしれませんが、長々しい不景気で苦しい生活を強いられている庶民からしてみれば、この映画のヤクザたちのような、詐欺商売でシノギをしていたり、借金取りを騙して一千万円の借金をチャラにして喜んだり、という他人の不幸を気にしない主人公らの倫理観は、正直笑えません。
まず、冒頭のシーンからして、抗争相手のヤクザに対して躊躇なく拳銃を発砲しているのを見て、ちょっと引いてしまいました……しかも、これは自分の子供の前でやってる流血沙汰です。このシーンが印象的でしたので、ぼくなんかは「結局この人は自分の仲間の命以外はどうでもいいと思っている人なんだな」という印象を受けました。
つまり、この羽原組長が刑務所に入る事については、特に同情の余地のあることでもなく、羽原組の人々と同じように「羽原組長が可哀そうだ」という気持ちにはなれなかったわけです。
ラストのラストで出て来る「超法規的措置」というのも、彼らが世のため人のために働いて獲得できたようなものではなく、政治スキャンダルを強請りのタネにした「棚ボタ」の幸運でしかないので、観客としては登場人物らとその喜びを分かち合うことができない。
そんな事で釈放されて喜べるのでしょうか?
こんなことで組長のやった犯罪が帳消しになりました、バンザイ!となるのでしょうか?
ここは組長がちゃんとお勤めに行く事で、すっきりとカタを付けてほしかったです。
組長の刑務所行きが帳消しになってしまったことで、どこか「組長が可哀そう」というしんみり感までも帳消しにされてしまったような気がしました。「しんみりしてしまった自分はいったい何だったの?」と、思ってしまったわけです。
ということで、本作に出て来る登場人物は、どいつもこいつも立派な心性などこれぽっちも持っていない、セコイ連中ばかり、という点にガッカリ感を覚えました。
政治の連中も汚いが、セコイ幸運で大喜びする主人公側のヤクザ連中も、倫理的な優劣は大差ないように思えます。
この映画は、そういう風に「ヤクザも政治連中も同じ穴のムジナですよ」というメッセージでも込められているのでしょうか? いや、違いますね。それならば、ヤクザをあんな風に同情的に描いたり、羽原組長の「見せ場」をあれほど格好良く描いたり、ましてや組長の刑期がチャラになったことをあれほど幸福そうに描く、などという見せ方はしないからです。
ということで、本作は難しいことを考えずに没頭しさえすればたっぷりと楽しめるエンターテイメントだとは思いますが、ぼく的にはそういう倫理的な部分が気になって楽しみきることはできませんでした。
しかし、羽原組長が「悲壮感を持った生真面目な組長」だったとしたら、そもそもこの物語はコメディとして機能していなかったかもしれません(組長のセコさを面白がる部分もありましたので)。
ヤクザの「小物」で「セコイ連中」だと見せる事で、彼らの行動を笑い飛ばしてコメディ的に見せる事ができる。だがその反面「小物」で「セコイ連中」だからこそ、この主人公らの行動の動機や「お涙頂戴」的なシーンで、何も考えずに一緒になって「お涙」できるほど感情移入しきれない。同情してしんみりする気持ちも台無しになってしまう。
そういう部分が、本作の大きな矛盾点となっているのではないでしょうか。