◆読書日記.《アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』》
※本稿は某SNSに2022年4月13日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』読了。
世界的なベストセラー・ミステリ、シャーロック・ホームズの探偵譚の始まりを告げる第一作。最も有名な名探偵ホームズのデビュー長編である。
……と言っても、今までにホームズ譚を一度も読んでこなかったわけではない。
ぼくが小学生の頃にはポプラ社刊の少年少女向け『シャーロック・ホームズ』シリーズ、『アルセーヌ・ルパン』シリーズ、江戸川乱歩の『少年探偵団』シリーズといったものを貪り読んでいたので、一通りは読んでいるのである。
しかし、いかんせん30年ほど前の話。
あらすじはほとんど覚えていないし、何より子供向けの読み物だったので、一度改めて大人向けの読み物として読み返してみようと思ったわけである。
さてはて、ホームズ譚が大ヒット作となった理由は何か? その頃の推理小説はどういったものだったのか? 今回はそういった所を見ていきたい。
<あらすじ>
当時軍医としてインドに従軍していたジョン・H・ワトソンは第二次アフガン戦役で負傷し、腸チフスなども併発させて衰弱が著しく、本国イギリスに戻って静養する事となった。
軍からの支給金で生活をするも左程ぜいたくが出来る訳でもなく、節約のためにどこか安下宿に腰を落ち着けようと考えていた。
ちょうどその時、ワトソンと同じく安下宿を探して、できれば家賃を折半で共同生活をしてくれる人を探している人間がいると知人に教わったワトソン。早速その話に乗り、知人の仲介でその男に会う事となった。
男の名はシャーロック・ホームズ。彼はとびきりの「変わり者」であった。
日中は病院の化学研究室で様々な実験を行っているものの、医学研究性というわけではないし、系統だった医学課程を学んでいるわけでもない。
解剖学には精通しているが、医者というわけでもない。
ある知識については大学教授も驚かせるほどのものをもっているのに、政治や哲学にはからっきし無知ときている。
ワトソンはホームズとベーカー街にある下宿で共同生活を始める。
後日、ワトソンはホームズの本当の「職業」を知る事となる。
彼は警察や探偵が事件の捜査に行き詰った際に相談に乗り、捜査をちゃんとした軌道に乗せる「探偵コンサルタント」を自称していたのである。彼の知識は全てそのためにあったのだ。
ホームズはある日、スコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の敏腕刑事グレイグスン警部から相談を持ち掛けられる。
ロリストン・ガーデンズにある空き家で、アメリカ人旅行者の死体が発見されたのだ。この事件の捜査に協力してほしいとの事であった。
ホームズとワトソンは初タッグの事件に乗り出す……というお話。
<感想>
本書が書かれたのは1887年。日本で言うなら明治時代。イギリスはヴィクトリア朝時代。この時期のイギリスは絶頂期で世界に植民地を持ち、産業革命によって経済的な発展も成熟期を迎えていた時代。
予想した通り、この時期のイギリスはまだ「科学」に対する信頼感が厚い啓蒙主義の感覚が強かったようだ。「科学の光によって迷信の闇を照らし出す」のが啓蒙主義である。
宗教的な迷信を否定し、地動説を唱え、産業革命によって様々な恩恵が社会に広まっていった時期である。
まだ科学の力によれば未来は明るいと思われていた時代。ここにはまだ公害問題や世界大戦の暗い影は科学には及んでいない。
本書の冒頭でホームズは血液のヘモグロビンを検出できる薬品を発見したとして嬉々としてワトソンに説明する。
「去年、フランクフルトで、ジョン・ビショフ事件というのがありました。当時このテスト法が見つかってれば、この男なんか、確実に絞首刑になっていたでしょうね。ほかにも、ブラッドフォードのメイスンとか、悪名高いマラーとか、モンペリエのルフェーヴル、ニューオーリンズのサムスンなんて連中もいる。この方法が決め手になっただろうと思われる例なら、それこそいくらでも挙げてみせますよ」
――アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』より
ここでホームズは、科学の発展によって警察捜査も発展する事を示唆するのである。
また、本書の第二章のサブタイトルは「推理の科学」となっている。
この章はホームズの、ある種「探偵方法」が開示される章となっているのである。
「"たった一滴の水から"と、著者(※ホームズ)はつづける。"論理家は大西洋やナイアガラ瀑布の存在しうることを推論することができる。――それまでそれらを見た事もなく、それらについて聞いた事すらなくてもだ。同様に、人の一生もまた一連の大きな連鎖であり、その鎖の内のたった一個の環を示されるだけで、鎖全体の――その人間の生き方の――本質を知る事ができる。とはいえ、他のあらゆる学芸と同じく、この<推理と分析の科学>も、長く、忍耐強い研鑽を重ねて、初めて身につけられるものであり、生身の人間がその頂点を極めようとするのには、人生にはあまりにも短い」
――アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』より
――で、この<推理と分析の科学>をホームズは追及しているのだというのだ。その成果が、ホームズお得意の「人物のプロフィール当て」の推理というわけである。
ホームズはワトソンに初めて会った際、何も聞かずに「アフガニスタン帰りでしょう」とワトソンのプロフィールを当てて見せた。
ワトソンはその事について後日「だれかから聞いたのでしょう」といぶかしんだのだが、さにあらず。ホームズはこれを推理によって導き出したと答えるのである。
「いや、とんでもない。"わかった"のですよ。きみがアフガニスタン帰りだってことが。長年の修練のたまもので、ぼくの場合、一連の思考がそれこそ電光石火の速さで頭のなかを駆け抜ける。だから、途中の段階はほとんど意識しなくても、たちまち結論にたどりつけるんです」
――アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』より
これが彼が言う所の<推理と分析の科学>なのだ。
少々わき道に逸れるが、ここのくだりは笠井潔『バイバイ、エンジェル』の冒頭に出てきた矢吹駆が主張していた「推理小説の名探偵が行っている推理方法」の議論を思い起こさせるものがある。
探偵は「答えを最初から知っていたのだ」――という、あれである。
ここのくだりは、ホームズの推理法が笠井の念頭にあったのではなないかとも思う。
しかし、『緋色の研究』で重要だと思う点は、ホームズが物語の冒頭から、自らの捜査方法に重要な要素として「科学・論理・分析」を強調しているという点である。
近代社会は科学によって著しく発展を遂げた。それは、「探偵捜査」についても同様なのだ、とホームズが宣言してるようにも思われるのである。
これから科学が発展していけば、それまで迷宮入りになってしまった様々な怪事件も、みすみす犯人を捕り逃すことなく「確実に絞首刑になっていたでしょうね」と。
そういう科学に対する無邪気な希望というものが、このホームズという好奇心旺盛な人間の言動のそこここにあふれ出ているかのように見える。
現場の足跡の歩幅を測り、犯人が残した血文字の高さを測る事で、「計算」によって犯人の体格や身長を割り出すホームズ。
犯人の遺した煙草の灰から犯人の吸っていた煙草の銘柄を当てるホームズ。
これらの推理をワトソンに聞かせるホームズは、どこかその「科学的手法」の先進性を誇らしげに開陳しているかのようだ。
そして、そのホームズの方法をワトソンは嬉しそうに「素晴らしい」と褒める。
深夜のロンドンで起こった猟奇犯罪を「科学的捜査法」を用い、犯人の体格や行動を光の下にさらけ出すホームズという存在を頂くこの物語は、まさしく「科学の光によって迷信の闇を照らし出す」啓蒙主義的な英雄譚であったと思うのである。
本作は、前半はこのように後世にも全く典型的に残るようになる「事件-捜査-犯人逮捕」という、推理小説の定型ストーリーを踏襲しているが、後半になると、この犯人の「犯行動機」となったルーツとなる物語が、半ばメロドラマチックな冒険譚の装いで語られるのである。
本作は、このように前半の現在起きている猟奇事件の捜査譚と、後半の事件の発端となった過去のメロドラマチックな冒険譚、という構成になっているが、このような構成はしばしば「前時代的」であり古いという批判を受けてきたと「解題」の戸川安宣が解説している。確かに、本書の前半と後半では少々物語の毛色が違っている。
前半の主人公と、後半の主人公では、ある種の「ヒーロー像」としての方向性が全く違うのである。
前半のホームズ譚は、上述したように新しい啓蒙主義の時代の「科学と分析で事件を解決するヒーロー」であり、後半の主人公は「気力と勇気と体力によって事件を解決しようとするヒーロー」なのである。
後半の主人公が、身体と勇気を使って勝利をものにしようとする「古代から伝統的に受け継がれるフィジカルなヒーロー像」であるとすれば、ホームズは、頭脳と勇気を使って勝利をものにする「新しい啓蒙主義時代のヒーロー像」なのである。
後半の主人公の物語が「前時代的」というイメージと結びつくのは仕方ない事ではなかっただろうか?
いわば本書は前半に「新時代のヒーロー像」を提示し、後半に「伝統的な古き良きヒーロー像」を提示した物語だったと思うのである。
このギャップが、更にホームズの「勝利」に新たなる光輪を与える事となる。そう考えれば、本作のこのスタイルは、まさに新たな時代の幕開けを告げる英雄譚であった。
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