映画「カランコエの花」(ネタバレなし)
「いくつもの思いやりが、ひとりの心に傷をつけた」
フライヤーの裏面に書かれた言葉である。
思いやりが人を傷つけるー。
フワフワとした生温かい思いやりは、
人々の間を転がり続けることによって、
差別や偏見という姿へと変化してしまうのだろうか。
まるでドキュメンタリー映画を見るかのように、
高校生の日常を切り取った「カランコエの花」
には、みずみずしい青春と思春期の残酷さが描かれていた。
39分の追体験は時間という感覚をも麻痺させた。
この刹那的な時間の中で、登場人物の心のヒダに寄り添うのを感じた。
何気ない言葉やしぐさが多感で制御のきかない高校生の内面を表しており、
それに触れるたびに、否応無しに胸に突き刺さる。
上映後に行われた舞台挨拶の監督の言葉にもあったように、
生々しいとも言えるほど、
一人一人の細かい表現が丁寧に描かれている。
アンテナの感度が上がった状態でもう一度見るとまた新たな見方でできるのかもしれないが、初見でも十分伝わってきた。
また、LGBTがテーマの作品であるが、
アイデンティティのラベリングがもたらす現代社会の生き辛さという問題を問いた映画だと感じた。
社会的マイノリティと呼ばれる人々を表すカテゴリーに加え、
独身、既婚、アラフォー、リケジョ、ハーフ、CEO、ニート・・・・
私たちは無意識のうちに様々な部類にカテゴライズされて生きている。
無論、その良し悪しについて問いたいわけではない。
そのアイデンティティのラベリングに誇りを持ち、
生きる人々もいるだろう。
しかし、いつから私達は「わたし」である、ということを宣言できなくなったのであろうか。
他人を自分とは違う「あなた」である、と認識できなくなってしまったのだろうか。
わたしは「わたし」。あなたは「あなた」。
その前提がない限り、思いやりのキャッチボールは、
いつの間にか豪速球で相手を打ち負かすことだけに快感を覚える
差別や偏見にすげ変わっていくのではないか。
わたしの思いやりは、相手が受け取れない豪速球になってないか?
球を投げる前に一呼吸し、そっと手渡せる人になりたい。
高校生の真っすぐで美しい瞳と、その瞳からこぼれ落ちる涙を思い出しながら心に刻んだ。
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