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粉々の虹、出奔
望んだわけではなしに、理を超えてしまう。
妻の髪に白が目立つようになっても、おれの髪はつやめきを保って新鮮に黒いまま。
随分とお若いですね。
かけられる言葉はそやしから疑義へと転じ、山あいの町の風に、細く確かな操り糸として交じった。
妻の喀血は鮮やかで、それが頃合いだった。
少し、陽を浴びに。昼食を済ませると、妻は裏庭に回る。そのとき出ていくと決めていた。
今おれはこの家を置き去りにする。まばたきと呼ぶには長い、かりそめの黙想。そして、踏み出した。
ぱり、と大気にひびが入った。
罰。どこまでも墜ちてゆく恐怖に息を深く吸えば、あたたかに膨らむ外気は一本の亀裂からぱりぱりと砕け肺を刺す。
足を前に運ぶごとに、家を棄てれば棄てるほど透明なひびは走り、破片の一つひとつが初夏、浮き立つ予感に色づく陽射しを受け止め、視界のすべてが虹色に瞬いた。
突然の翳り。そして細雨。
あら。いってらっしゃい。
妻の手は薄く骨が浮いて、きっと病の影に冷えていた。
全身でかき分けるのが霧の雨なのか粉々の大気なのかわからないだけれども肺がこんなにこんなにざりざりと痛むのだから、
あら。お出かけですか。
すべやかな声で呼び止められる。白くなった髪を端正に結って、突然の雨に手を翳して。井戸端会議の帰りだろう、少し早い夏の野菜を提げている。嫁に行っても、子を産んでも、ひかりこぼれる笑い方は変わらない。
そのひかりが、粉々にめちゃくちゃに虹色におれの目を眩ませる。鍛冶屋へ嫁に行ってしまった、珊瑚色の似合うひと。
こわばった会釈をして、おれはもう息ができないすぐ死ぬと思って歩いて五十年が過ぎ百年が過ぎ、不義理に痛むこころを無くした。
すれすれで廃線を免れている鉄道。かもめが来るという海沿いの駅は、一応路線の名所であるはずだった。降りたのはおれ一人。次の電車は、一時間後。
「かもめは渡り鳥ですから。今の季節はいませんよ」
ホームにおっさんが立っている。ゴルフ用を普段も着ているのだろうか、元は白だったのがくすんだようなポロシャツ。目の前の海に語りかけているのかと思ったら、おれに話しているらしい。
改札のない無人駅。このおっさんは、自室で少しよれたポロシャツに着替えて、家から歩いて、古びた駅舎を抜けて、ホームに立っている。そのように想像するしかなかった。
おっさんは立っている。「かもめは渡り鳥ですから」。このセリフを言うために。
いやにまっすぐに立っている。水平線を見据えている。そうすることしか知らないみたいだ。
このおっさんに、家はあるのだろうか。
時折、自分以外の人間に、それぞれの生活があることを信じられなくなる。それぞれに、日々の食事のおいしかった微妙だった不味かったの感想が、眠れる夜と寝付けない夜そして朝には忘れる哀しい夢が、あるということを。
(そんな夜、肺がざりざりとジャリジャリと焼けた霧雨の出奔、そこに煌めいた乱反射の夢を見る)
おっさんは、家も生活も食事も寝床もなさそうだった。まっすぐに、置かれたようだった。RPGの村人が、説明のためだけに配される、そのようだった。
「ほら、そこに。一羽」
水平線から目を離して、線路の脇のかもめを指すのも、誰かがあつらえた台本に思えた。指先の黒ずんだ皮膚は、数十年の人生で厚く固くなったのではなく、ついさっき、よく乾いた木材から彫り出されたのかもしれなかった。
「たまに、渡らないのがいるんです。自分で選ぶのか、何も考えていないのか。気づいたらいなくなってます。死んでいるところは見ません」
返事はしなかった。きっと、運命の大いなる手が素朴に目鼻をつけた案内人なのだから。
駅舎の中は薄く陰り、外は初夏だった。海と山の狭間の町だから、青みを増してゆく木々の若い香りが海風に混じっている。
靴を置いて、そう広くはない砂浜に下りる。ざらつく足裏を、湿った砂に押しつける戯れ。深い足跡が残って、ひどく満足した。
存在の印を残す。でもすぐに風と波にさらわれて消える。都合がいい。そんな類の都合のよさを、おれは愛している。
波際で待っていたら、波はつま先にしか届かなかった。もう一歩踏み出して、待つ。海神の巨大な力の一端を、脆い人の身で待ってやる可笑しさ。
素足を波が洗う。あたたかな水が、空気を含んだやわらかさで肌を包みこみ、ほどけて離れ去る。
もう一度、波が肌を浸す。引いてゆく。砂粒が足の甲を撫で、さらわれてゆく。
人間は、波にさらわれる砂粒。
わかった。最後までなにもわからないんだ。
それをわからなかったから、おれは。
鼓動が速まる。耳奥の疾い脈が波音を掻き消す。おれの異常で尋常な身体は、駆ける心臓に追いつけなくなる、もうすぐ。
かもめはいま顔を上げ、海を目指す。見なくともわかる瞬間がある。
あのひとが珊瑚色に装うのは、おれと会う日だけだった。理由はわからなかった。訊かなかった。
理を超えた人間には会わなかった。気づかず遭遇していたかもしれない。わざわざ探さなかった。
おっさんはセリフを言うためだけに立っていた、なんて勝手な妄想で、尋ねれば理由を語ってくれたかもしれない。ただ興味が湧かなかった。
理を超えてしまったおれの、冷えびえと深い予感。そのとき、身体は残るのだろうかそれとも閃きほどの速さで砂にまで崩れるのだろうか、あるいは、ぱり、と亀裂が走って、瞬間の空白。
のち、止まらない崩壊の連鎖がおれを粉々に砕くのだろうか。
おっさんはまだいるだろうか。その瞬間を見るだろうか。帰って家族に話すだろうか。家はあるだろうか。家族はあるのだろうか。
まだいるだろうか。
いま、内側から弾けそうに脈を打つ身体で、ただひとつ確かめられること。未知を既知へと裏返す、最後の機会。
初夏の陽を吸い込んだプラットホームを、昭和を封じ込めしずかな駅舎を、振り返ることをしなかった。そのように選んだ。ひとつを選び取りたかった。選択という営みを、この身に抱きかかえて離したくなかった。寄せる波は、まだあたたかくやわらかい。
選んで選んでもまだ吐くほどに悩んで選んでそうして生きて、そうして答え合わせはない。わからないことはわからないまま。
あの日、あれがわざとだったのかも、わからないまま。
この得心を、おれの身体はずっと待っていた。
鳥が飛び立つ強さで、心臓がばさばさと打つ。
爪を剥がされたと思った、つぎに指先からばりりと皮膚を剥がれたと思った。
ああ、ちがう。それほどにここは冷たいよ。
指から凍てつく寒さがのぼり全身へ巡る。極限まで凍えると、灼けるように痛いのだった。
この先を知らないことが恐ろしい。凍りつく身体に怯える心さえ、じき蒸発する。浄土を描く人類の夢は、まっすぐな確かな直感に射抜かれればたちまち氷像となり砕け散る、うたかたの夢でしかなかった。
湿った砂はあたたかく、けれども予想を裏切って硬質に、おれの身体を受け止めた。狭い砂浜の波際の、ここがおれの棺なのだった。
グッバイ、ララバイ。
浄土より、きっと眠りが近い。
かもめは張り詰めた翼で風をとらえた。加速のための、強靭なはばたきを二度。地球の大気の一欠片を瞬間、所有する白き王として。
あ、わかった。
刹那、おれはおれの運命すべてを司る賢帝だった。
そしてすべてを忘れた。砂利の貼りついた唇が、ひどくかさついていた。
かもめは海風の上をすべりました。
とても心地よくて、かもめは羽ばたくのをやめました。
波のしぶきが、かもめの白くつやめいた腹を濡らしました。
かもめはしばし波をすべりました。それもひどく心地よいことでした。
かもめのからだは海に沈んでゆきました。
そのときかもめは、ひとえに、うれしかったからそうしたのでした。
グッバイ。
眠りのための歌を持たないかもめに、歌は必要ありませんでした。
はじめまして。織田泉(おりた・いずみ)です。
6年ほど短歌を詠んでいます。
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出力期間終了後、文字の読みづらい方を想定してnoteに全文を公開します。
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Twitterアカウント:@oritaizumi
2023年5月29日 発行
2023年6月11日 note公開