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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(30)「28」助っ人、野手から投手の系譜へ】

(写真 左から、18代・投手の系譜を受け継ぐ菊地吏玖、2代・ベストナインの助っ人正捕手ルイス、4代・スピードボールが武器だったディサ、9代・日本一支えた正捕手村上公康、最長14年背負った園川一美)


(30)「28」助っ人、野手から投手の系譜へ

 毎日時代はルイス、大毎時代はディサと所属は短年ながら助っ人のイメージの強い背番号だった。一躍、背番号28を印象強くしたのは日本一の正捕手・村上公康。リーグ優勝、日本シリーズ制覇を決め、村田兆治と抱き合ったのは背番号28だった。
 一転して川崎時代には投手が継ぐ背番号となる。マウンド上の背番号28を印象づけたのは園川一美。オリオンズからマリーンズへと28番史上最長となる14年間背負った。その系譜は加藤康介、松永昂大、そして、菊地吏玖へと受け継がれている

----- 現在の背番号「28」 -----

 ★《18代》2023(R5)年~2024(R6)年・2年目 菊地 吏玖(きくち りく)(在籍2年目)

 【菊地 吏玖 背番号変遷】28(2)
 2022(R4)年のドラフト1位で専修大学から入団した菊地吏玖が背番号28を引き継いだ。
 即戦力と期待されたが、ルーキーイヤーの23(R5)年は二軍でスタート。その二軍で4月に左内腹斜筋損傷で離脱する。二軍復帰後は8月に一軍登録され、11日の西武15回戦(ZOZOマリンス)で初登板初先発。4回4失点(自責は1)で初黒星を喫する。一軍での登板は、この1試合に終わった。オフには台湾で行われた「2023アジアウインターベースボールリーグ」に出場。9試合に登板して4ホールド、防御率0.00で終えた。
 (23年シーズン終了時)
 <1試合、0勝1敗、防2.25、0S、0H、1先発、0完封、0奪三振>

----- オリオンズ&マリーンズ「28」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1952(S27)年・3年 白川 一(しらかわ はじめ) 外野手(在籍3年/コーチ在籍3年)

  1922(T11)年5月25日生(入団時31歳、再入団時32歳)、右投右打
  鹿児島・鹿児島商業学校−星野組−毎日(50〜53)
  毎日/大毎コーチ(55途中〜58)

 【白川 一 背番号変遷】28(3)、コーチ/51(1) ⇒ 62(2)
 球団創設時に西本幸雄、荒巻淳らとともに社会人・星野組から入団した白川一が初代背番号28を背負った。
 1年目の1950(S25)年はシーズン終盤になってようやく一軍に合流し、10月1日の大映19回戦(後楽園)に代走として初出場。以降も代走と守備固めとして登場。1年目は5試合に出場して3打席無安打だった。日本シリーズでもベンチ入りし3試合に出場、第1戦では盗塁を決めた。
 2年目の51(S26)年はハワイ遠征に加わらず、留守軍として開幕戦の4月5日の東急1回戦(後楽園)に1番左翼で自身初スタメン出場。無安打に終わったものの、翌6日の大映1回戦(後楽園)では初安打を記録した。ハワイ遠征組のレギュラーメンバー合流後も一軍に帯同し、メンバーの状態が上がるまで1番でスタメン出場する。その間に好調な打撃を見せる。しかし、徐々に状態を下げ、2割5分を超えていた打率も2割台前半まで下降する。一時は一軍を外れたものの、夏場には状態を取り戻し、代打としても出場した。最終的に2年目は52試合に出場し、打率.230、盗塁も10個を決めて終えた。
 52(S27)年も開幕からベンチ入りし、守備固め、代打、代走で出場、打撃が好調でスタメン出場も果たす。このシーズンは前年を上回る57試合に出場し、打率.348を記録したが、オフにはこのシーズン限りで引退した。

 ◆打撃成績 <114試合、打率.271、129打数35安打、0本塁打、10打点、16盗塁>
 ◇初出場<1950(S25)年10月1日・大映19回戦/R(後楽園)/代走/打席なし>
 ◇初打席<1950(S25)年10月29日・東急19回戦/R(後楽園)/途中左翼/1打0安>
 ◇初スタメン<1950(S25)年11月3日・南海20回戦/R(大阪)/2番右翼/1打0安>
 ◇初安打<1951(S26)年4月6日・大映1回戦/R(後楽園)/1番左翼/4打1安>
 ◇初打点<1951(S26)年4月8日・大映2回戦/R(後楽園)/1番左翼/適時二塁打/4打2安>


※1953(S28)年 空番


 ★《2代》1954(S29)年~1955(S30)年・2年 チャーリー ルイス 捕手(在籍2年)

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